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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 藩領の確定

 大洲・松山両藩領の交換

 貞泰から泰興にかけての藩領をみると、「北藤録」に記された寛永一一年(一六三四)八月四日付三代将軍家光から泰興に宛てた朱印状(「北藤録」巻一四別集泰興之部)によると、

喜多郡浮穴郡の内  四万五千石
風早郡の内     八千石
桑村郡の内     六千四百石
摂津国武庫郡の内  六百石
 都合 六万石

とある。この領地分布をみると石高六万石のうち四分の三に当たる四万五、〇〇〇石は、藩領の基幹部ともいうべき喜多郡とその北辺に連なる浮穴郡に分布しているが、その四分の一に当たる一万五、〇〇〇石は、いわゆる飛地をなして松山藩領である風早・桑村両郡の内に分布し、僅少の六〇〇石は、米子在城時代からの遠隔飛地領であった。このように分散し、他藩領を経由せねば到達できない領地が、全藩領の四分の一を占めていることは、藩政運営上ゆゆしい欠陥であり、可及的速やかに改訂さるべきものであった。泰興は、いち早く飛地領の整理統合を企図し、機会を窺っていた。
 泰興は寛永四年(一六二七)松山城主加藤嘉明の会津転封後、松山城在番を約半年勤めた(加藤家年譜上泰興)のに続いて、寛永一一年松山城主蒲生忠知の急死による同家断絶に当たって、再度松山城在番を仰せ付けられ、備中成羽三万五、〇〇〇石藩主山崎甲斐守家治・丹波福知山四万五、七〇〇石藩主稲葉淡路守紀通とともに約一か年近く勤仕した(大猷院殿御実紀二六)。その間泰興は、幕命により松山城請け取りに来松した上使松平出雲守勝隆・使番川勝丹波守広綱・跡部民部良保・曽根源左衛門吉次らと親交を結び意志を疎通し合い、替地が円滑に推進するよう下地づくりに努めた。なお松平・川勝は巡見使として前年伊予を回国し、この地域については境目まで熟知していたし、特に川勝丹波守と大洲藩家老大橋作右衛門とは、旧知の間柄でもあったので相互の話し合い連絡には一層好都合であった。「温故集二」にはその間の事情を次のように記している。

 一、其頃風早郡は大洲御領であったが御手遠にて物ごと不便であった。米湊は松山御領であったのを風早と引き替えて貰いたいと、大橋作右衛門(大洲藩家老)殿川勝丹波守(幕府目付)君へ御内談されたところ、丹波君仰られるには、たいへん安いことである、米湊にても又は久万郡にても御望次第替地にしてよろしい、と仰せられたから、作右衛門殿、円明院公(泰興)御前で、風早郡でも久万郡でも米湊でも御勝手次第松山分と御替地されてよろしいとのことであった、其内久万は所務宜敷米湊は干田所である、両所の内何れにされるかと御伺されたので、円明院公仰には山分も宜しいけれど、島国のことなれば浦揖子触のため旁米湊がよかろうと仰せられたので……

とあり、幕吏の了解のもとに大洲藩の意図通りに事が運ばれる機運が醸成されていたことが窺われる。
 松山城在番中の泰興は、寛永一一年自領の桑村郡六、四〇〇石と風早郡の内とを以て松山領伊予郡の内(一万四〇〇石余)・浮穴郡の内と領地交換することを願い出て、願の通り許可された(北藤録巻之一〇 泰興公・泰義公之伝)。替地は江戸において絵図の上で、事務的に行われ、翌寛永一二年夏までに現地の処理も終わり、在番・替地・引き継ぎなどの事務処理を完了した川勝丹波守が、江戸へ戻り将軍に復命したのは一一月のことであった(大猷院殿御実紀巻二八)。
 領地の交換は次のようであった。
 なおこの替地により新たに大洲領となった伊予郡・浮穴郡の地域と、新たに松山領となった風早郡の諸村は、「御替地」と呼ばれるようになり、その呼称は近代に入っても使用された。大洲領の御替地は、文化一四年(一八一七)以降「郡中」と呼び替えるよう藩命が出され、以来この地名は現在に至るまで使用されている。  
 以上述べたように松山領との替地によって、大洲藩領は確定し、領域の大部分が一つにまとまって、藩政上大きな便宜を得ることとなった。しかし替地から七年後の寛永一九年には、大洲藩は新しく内分された新谷藩に、石高一万石の分知を余儀なくされたが、詳細は「新谷藩」の章で説明しよう。確定した大洲・新谷藩領は、寛文四年(一六六四)四月五日付将軍家綱から泰興に与えられた朱印状(寛文印知集一三)によってその全貌をうかがうことができる。

 伊予国喜多郡之内八拾三箇村。浮穴郡之内五拾五箇村、伊予郡之内拾七箇村、風早郡之内六箇村、摂津国武庫郡之内貳箇村、都合六万石 目録在別紙 事内壱万石加藤織部(直泰)正可進退之残五万石充行之訖、全可領知者也、仍如件
   寛文四年四月五日 御朱印      
    加藤(泰興)出羽守とのへ

 この朱印状の中に、新谷一万石の内分の内書があることは注意すべきことであろう。以下朱印状の次に記された「目録」によって両藩領
を地図にうつしてみよう。
           
 藩領交換に伴う大洲・松山両藩間の紛争

 大洲・松山両藩間の替地という行政区画の変更は、関係地域に居住している藩民の生活と諸権益に少なからぬ影響を与えた。昨日は同じ領内に生活し、諸権益を享受してきた藩民が、今日は替地によって他藩民となって権益行使を阻害される事態に追い込まれた。替地に当たって、幕府の上使松平出雲守・曽根源左衛門から、「山川諸事先規の通り」という申し渡しがなされていたが、いったん藩領が決定すると、新しい行政区画によって先規が破られ、そのため領民間に紛争が起こる。その著しいものに海上漁業権に関する網代紛争及び入会山に関する紛争がある。

 御替地網代紛争
  
 まず御替地網代紛争について「北藤録一〇・一四」・「松山叢談二下」・「松前浜村庄屋旧記」など諸史料からみてみよう。松山領松前浜村の漁民は、替地以前つまり同藩領であったころからの慣行として、米湊沖の網代に出漁していた。ところが替地以後、大洲領替地沿岸諸村漁民達は、網代も領分違いになったと主張して、松前浜村漁民との間に紛争が起こった。約三〇年間こぜり合い程度ですんでいたが、万治元年(一六五八)八月、松前漁民が石や棒を用意した船団で、米湊沖に出漁したことから、替地漁民との間に大乱闘が起こり、大洲藩漁民一名が死亡するという事態に発展した。替地代官は、松山藩側が船軍をしかけてきたと即断し、その由を大洲藩側に通報した。これを聴いた大洲藩主泰興は、大いに怒り松山藩主松平定行のもとに抗議の使者を送るいっぽう、米湊村へ藩士の出勤を命じ、松山領境で威嚇のため大砲を撃たせるなど一時は緊迫した事態となった。しかし相手は松山藩士でなく、漁民であったことから一応おさまった。大洲藩では改めて、松前浜村の庄屋を城下に召喚して、替地海面での出漁を厳禁する旨申し渡したため、松山藩を刺激し再び両藩の関係は悪化した。
 両藩紛争を調停されたいとの幕命を受けた土佐藩主山内忠義は、両藩主・両藩家老に対し、使者ならびに書簡をもって鋭意説得につとめ、一二月次のような条件で調停が成立し、紛争は解決した。
 (1)大洲領米湊網代・松山領松前網代をともに両藩漁民の入会漁場とし、自由に漁猟して差し支えない。
 (2)大洲藩主父子は、重信川境まで松山領内で鷹狩をしてよろしい。
 (3)大洲領民は、重信川を材木流しに使用してよろしい。
 協定の成立によって、大洲・松山両藩間の対立緊張は体面を損なうことなく解消し、両領漁民間の紛争は一応おさまったものの、根絶することなく以後享保九年(一七二四)にも起こり、幕末・明治に及んでいる。

 入会山紛争

 「玉井家文書」・「下三谷宮内家文書」・「松山叢談四」などの諸史料により大洲・松山両藩の入会山紛争についてみよう。替地に当たって、松山領のまま残った伊予・温泉各郡の郷村のうち、村内に柴山・茅山がない村々は、従来通り同一領内にあった砥部山(浮穴郡)・大平山(伊予郡)・三秋山(伊予郡)を入会山として、燃料・葺草・飼草・刈敷を得ていた。しかし替地によって上記入会山はほとんど大洲領に編入されたので、紛争の種がまかれたことになった。寛永一二年(一六三五)九月替地の際、幕府上使松平出雲守と曽根源左衛門は、大洲領入会山に入る松山領村々に、柴札(札料一枚銀一匁)・割木札(札料一枚銀一匁五分)の証文を提出させ、確認の裏書をした。松山領農民は、これに基づいて発行された札を入山の際持参するが、飼草・刈敷採取の場合は、一切無札で入山ができた。
 ところが承応末から明暦初めにかけて、前記証文の主旨に反し大洲藩では、無札の松山領農民が刈敷・飼草の刈り取りに入山することを差し留め始めたが、大きな紛争にはならなかった。寛文一一年(一六七一)三月、大洲藩御替地代官は、自領入会山を利用する松山領各村に対し、柴札を一枚六匁とする値上げを通告すると同時に無札での刈敷・飼草採取入山を禁止した。驚いた松山領農民は先規違反として抗議し、大洲・松山両代官所間の交渉となったが、大洲藩の要求は寛永証文の主旨に照らして不都合であるとして退けられた。
 入会山紛争は、その後寛保二年(一七四二)、砥部庄一六か村と松山藩二四か村との間で勃発し、互いに暴力に訴え砥部騒動と呼ばれた。天明三年(一七八三)にも大洲藩が山札改を厳重にしたことから紛争が起こり、怒った松山領農民は大挙して大洲藩の山々に乱入して、入会山以外の山々まで無法に伐り荒らした。両藩奉行間の折衝の結果、寛永の旧法通りにすることで落着した。

 替地水論

 水田耕作を農業の中心としている我が国農村にとって、用水についての紛争―水論というものは、宿命的なものであった。たとえ同一領内の村々であっても、大小の水論が勃発するのが通例であって、それが領地を異にする村々の場合、水論は激化する傾向があった。
 重信川流域野津合泉の下に、八瀬という大石堰があり、ここから用水を引いて八瀬水とよんだ。ここから上麻生村(大洲領)・下麻生村(新谷領)の用水を取る古樋井手と南神崎村(宮ノ下村・上野村、大洲領―正徳三年より天領となる―)・徳丸村(松山領)・出作村(松山領)・八倉村(大洲領)の用水を取る一之井手があり、この二つの用水路は並行していた。替地以前、この用水路を利用する関係村落は、すべて松山領であったから、水論は起こっていたものの、そんなに激しくはなかった。しかし替地後、松山領・大洲領に分かれさらに大洲領の一部が天領となり領地関係が錯そうするようになると、水論は一段と激化するに至った。
 水論は、元禄一六年(一七〇三)・享保九年(一七二四)などに起こったが、宝暦以後旱魃ごとに水論は頻繁となり激化した。
 宝暦五年(一七五五)夏の大旱魃で、松山領の森松村は、上の二つの井関の上手に新関をつくり、八瀬水を引水した。このため用水がなくなった大洲・新谷領の上・下麻生村民は怒って新関を崩そうとして、松山・大洲両領の農民二〇〇余人が、対立乱闘し麻生村民が勝った。宝暦一一年夏には、天領の宮ノ下・上野村民が、松山領の徳丸・出作村民と申し合わせたうえ、古樋井手を切り落として大洲・新谷領の上下麻生村民に大損害を与えたが、怒った麻生方は直ちに古樋井手を復旧、三〇〇余人の農民が対立抗争した。翌宝暦一二年の夏、森松村がまた新関を構え、これを守る松山領浮穴郡二四か村民二、〇〇〇余人と新関のため用水が欠乏した大洲・新谷領上・下麻生村らの農民八〇〇余人が立ち上がり、森松勢を退けた。
 明和八年(一七七一)は大旱魃で、六月八日八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作の各村民七〇〇余人が、古樋井手を切り落としたため、これを防ごうとする大洲・新谷領上・下麻生村民と矢取川で乱闘となった。この乱闘の中で、天領民の二人が死亡した。大洲藩が幕府へ届けを出したため、翌九年二月幕府は各村の庄屋・組頭・百姓代など三〇八名の関係者を、天領を管轄する倉敷代官所陣屋に召喚した。この吟味は長引き、発議者と自首した下麻生村兵右衛門が死罪、その他は垂追放・村追放・科料などの判決が出たのは、安永三年(一七七四)のことであった。
 松山領との替地、新谷領への分割を経て、寛永末年ころまでには大洲領は確定したが、その後些少の変更がないわけではなかった。正徳三年(一七一三)伊予郡南神崎村一、五〇〇石を御料所として幕府へ上地を余儀なくされた。ことの起こりは次のようである。第二代藩主泰興隠居の際、新田一、五〇〇石の分知を許された次男泰堅が、元禄四年(一六九一)大坂西町奉行に任命されたが、同八年在職中職務を怠り、部下の統督不十分という理由で免職され、領地を没収された。そのため大洲藩としては、藩領の伊予郡南神崎村のうち一、五〇〇石を上地することとし、正徳三年(一七一三)七月幕府勘定所へ上納した。この御料所は、享保六年(一七二一)閏七月松山藩預所となっていたが、各藩の領地が交錯して行政上の不便があり、麻生水論(明和八年=一七七一―勃発)のような紛争が起こったので、上知した御料所の村替えを幾度か願い出て、ついに安永九年(一七八〇)四月認可され、御料所は忽那嶋大浦(一部)・小浜・粟井の三か村と飛地領摂津国武庫郡池尻村・南野村となり、またこれを大洲藩預所とすることとなった。なお文化一〇年(一八一三)一二月これらの預所を私領同様に扱うこと、および年貢定免・銀納を許された。伊予郡南神崎村は、元通り大洲藩領へ復帰することとなった。
 ちなみに表二-50に記した村名のうち、次のように村名変更、村名の文字変更かされた村があった。いずれも天保九年(一八三八)七月幕府から認可されている(江戸御留守居役用日記)。

表二-46 大洲領となった旧松山領伊予郡

表二-46 大洲領となった旧松山領伊予郡


表二-47 大洲領となった旧松山領浮穴郡

表二-47 大洲領となった旧松山領浮穴郡


表二-48 松山領となった旧大洲領桑村郡

表二-48 松山領となった旧大洲領桑村郡


表二-49 松山領となった旧大洲領風早郡

表二-49 松山領となった旧大洲領風早郡


図2-37 大洲・新谷藩領図

図2-37 大洲・新谷藩領図


表2-50 大洲領諸村(寛文4年)

表2-50 大洲領諸村(寛文4年)


図2-38 水論のあった矢取川付近(国土地理院5万分の1地形図、松山南部使用)

図2-38 水論のあった矢取川付近(国土地理院5万分の1地形図、松山南部使用)


表2-51 村名変更(天保9年)

表2-51 村名変更(天保9年)