データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)
六 農村の支配
郷村の行政組織
第二代藩主加藤泰興の代に、喜多郡の内八三か村、浮穴郡の内五五か村、伊予郡の内一七か村、風早郡の内六か村、摂津国武庫郡の内二か村、都合六万石の領地が確定したが、総数一六三におよぶ村を、藩当局はどのように支配したであろうか。
まず郡奉行五名が全領内を分担して管理し、その属僚として、郡代二名、代官五名、山方二名をはじめ、郷手代・郷目付・下目付などの諸役人が配置されていた。
大洲藩では、郷村の行政区分を郡別にせず、次の四区分とした。
1 郡 内 喜多郡・浮穴郡で元和三年以来の藩領
2 御替地 伊予郡・浮穴郡で寛永一二年以来の藩領
3 忽那島 風早郡
4 摂津領 武庫郡
このうち全領の主幹部にあたる郡内地域では、城下を中心として地形の関係から、交通・通信・連絡上の便宜の得やすい「筋」とよぶ次の五つの行政地域に分けて、各筋に郷代官を置いて行政に当たらせた。
(1)田渡筋二二か村
(2)南筋二二か村
(3)浜手筋二二か村
(4)内山筋一九か村
(5)小田筋二〇か村
この郷村の行政組織(以下郷政組織と略称する)は、第一〇代藩主泰済時代、表二-55のように四筋四代官支配に改められた。
御替地(郡中)地域は、全体を一区として取り扱い、便宜上次表のように山辺と里辺に二分して、それぞれ郷代官が支配した。
村役人
以上述べた郷政組織の下におかれ、郡奉行平代官の指揮を受けて、一村の管理に当たる村役人がいた。大洲藩各村では、庄屋が村政を運営していた。
庄屋の多くは、郷村の土豪とか地侍などの系譜をもった有力者の中から藩が任命した村の長で、貢租割宛・納入などの徴税を本命とする村政を統轄し、そのための農業生産についての諸施設の整備・技術指導にあたり、村民生活一般について取り締まり監督を行った。藩初は二~三か村兼帯庄屋が多かったが、やがて一村一庄屋体制が完成する。藩初にみられた大庄屋は、中期以降目付庄屋に代わったが、それも名目に終わった。庄屋は、藩から役務に対して給米を支給され、年貢減免の優遇も受けた。それ故庄屋には富農が多かったが、中には家運が傾いて「庄屋支配」という藩や村方による家計管理にあうこともあり、破産して庄屋株を売却させられる場合もあり、株を買って他町村から入庄屋となった者もあった。
庄屋を補佐する組頭は、村内の有力百姓が庄屋の推挙によって藩から任命されるもので、五人頭の上に立ち、預かりの組々の締まりをつけ、百姓達が法度に背かぬよう五人頭心得に注意しながら惣百姓を育てる。
五人頭は、近隣五軒の家で相互監察・相互扶助・共同責任体制によって結ばれた五人組の頭であり、庄屋によって組内から一名任命された。
貢 租
大洲藩の貢租には、各村の本田畑に賦課される本租とその付加租および雑租があった。
田方の本租を定米といい、粒納めが原則であったが、二分方は買入米上納も許された。畑方の本租を定豆といい、大豆の粒納めが原則であったが、一部銀納を定められていた。村によっては畑租として、定胡麻を納めるところもあった。これら本租の付加租として、本租一石に付き三升(郡中地域は一石に付き二升)の口米・口豆と一石に付き一升(郡中地域は一石に付き四合)の目払が賦課された。
雑租(小物成)・掛り物には、次のようなものがあった。
①胡麻 高百石に付四斗八升納入 ②苧・綿・茶 村高に関係なく、綿畑・茶畑・桑畑の免租の代わりに納入する ③漆 高百石に付斤目五〇匁納入 ④渋 高百石に付二升七合納入 ⑤ 大束 百石に付五石納入、水主役・伝馬役を勤める村は出さない ⑥蕨縄 高百石に付一〇把納入 ⑦鍛冶炭 百石に付五石納入 ⑧竹役 竹切り出しに高百石に付二〇人づつの課役が命じられる ⑨四歩一歩 村高百石に付米六合納入 ⑩水主役 海沿いの村方の課役で、高百石に付九人の割合である。
村高に対して賦課された貢租高との比率つまり租率(ふつう免という)をみると、前述したように元禄初期ころでは「免は五ツから八ツまで平均して六ツ二、三分」であったようだ(『土芥寇讎記』)。約一世紀後の寛政元年(一七八九)の『御巡見御案内ニ付手鑑』によって大洲城下町を中心とする諸村の免をあげると、表二-57のようであった。
つぎに収税法を享保元年(一七一六)六月、従来の検見取から定免制へ切り換えて藩財政の安定を図ったことは前述した。ところで検見取の場合、作柄を検査したうえ、その作柄に応じて租税賦課ができたが、定免制の場合には予定された租税賦課が凶作不作などの発生により減額されることがあった。それには「不作願」を出して、「不作改」を請願しなければならなかった。大洲藩では、田高一〇〇石に付き不足高四〇石になると不作願が提出できることになっていた。願書が提出されると、郡奉行の属僚中見方が田毎の作柄を見回ったうえ、中程度の作柄とみられる場所で一歩の坪刈りを行い、不作改を入念に行った結果、減免方を決定する運びとなっていた。
定免法実施期間は、時に二か年のこともあったが、通例三か年間であって、三年毎に免替えが行われた。
農民統制
年頁生産を本命とさせられた村落で働く農民の生活は、年貢生産に必要な限度に限定される。天和三年(一六八三)四月、前年公布の公儀触をうけて、大洲郡奉行から藩内各村庄屋組頭惣百姓に宛て、農民の心得べき条々を次のように布達された。
1 耕作や諸役などを粗略にする百姓があれば、庄屋・組頭・五人組として代官まで訴え出よ。無縁無職の者は、庄屋・組頭で吟味して代官へ断り、村に置いてはならない。
2 諸役人ならびに給人はもちろん小役掛りの者に至るまで、贈物を堅く停止する。またそれらの者が非儀の過役など申しかけるか、給人が役儀がましいことを申し付けたら断れ、承知しなければ代官に申し出よ。庄屋組頭が私慾で、百姓に無理をいうときは、百姓方より申し出よ。
3 年貢割付の際は、小百姓まで呼びよせ、持高・物成・諸入用などくわしく詮議したうえ、割帳を作り、惣百姓どもに印形させ、後日の出入りがない様にせよ。
4 田畑売買の節、庄屋組頭相談のうえ、互に売券の証文を取替し、以来出入りがないようにせよ。
5 百姓達の借銀・借米は、庄屋・組頭の世話で借りてやる場合は、持高を調査したうえ、過分でないようにせよ。調査不充分で、借銀が返せなくなり、惣村中の負担となった場合、庄屋の過失となる。
6 往来の旅人、一宿のほかその村に逗留するなら、やむを得ぬ理由があれば二・三泊まではよろしい。それ以上は代官に届出て差図をうけよ。
7 他村から来て居住する者については、その前住所へ照会し、障りがない者は、宗門紛れなしとの証文を寺から取って居住させよ。
8 庄屋百姓が新しく家を普請する場合、過分の作事をしてはならない。たとえ座敷向であっても、書院床をつけ杉丸太・杉板等を用いてはならぬ。婚礼も奢りがましいことはしてはならない。神事はその村内だけで行え。たとえ他村に縁者親類があっても往来して失費がかかることが無いようにせよ。 (西岡家文書)
この農民心得箇条書の条々は、後代々繰り返しあるいはこれを敷衍したり、微細な面にわたった「御書付」・「被仰出」・「村々へ申渡し」・「諸事御法度」として、度々公布され、とくに天明~文化・文政年間、財政再建に努めた第一〇代藩主加藤泰済の代には頻発された。
これら諸法令は、刑法関係規則(抜売買・抜参り・出奔・賭博・窃盗・殺傷)のほかは、(1)衣服・髪飾・履物・傘の規制 (2)婚礼・葬礼の分限厳守 (3)祭礼・仏事・宮篭の節の簡素化 (4)参宮・順拝の節の諸注意 (5)村芝居の制約 (6)音信贈答の簡素化 (7)御家中・御家人への礼儀遵守など、多岐にわたって農民生活を統制する内容を盛り込んであった。
なおこれら法令のうち、寛政六年(一七九四)閏一一月、大洲・新谷両藩同文をもって各村へ布達された「申渡覚」は、農民の衣生活の統制を中心にしたものであるが、「第七節 新谷藩」に記した。
和紙の生産と専売制
藩内の各郷村は、貢租である米・豆を中心とする農業生産に努力したが、時代の推移とともに米・豆以外にさまざまな農作物が盛んに生産されるようになった。その内多大な藩益をもたらした和紙についてみよう。
寛永初期ごろ五十崎郷平岡村の岡崎治郎左衛門によって始められた大洲藩御用紙漉と、元禄ごろ五十崎郷古田の宗昌禅定門によって始められた民間紙漉の二つの系統の紙漉が発展して、宝暦一二年(一七六二)には表二-58にみられるように、内山地域を中心に郡内一円わたって各村落で盛んとなった。
かねて和紙の生産と販売が、藩益をもたらすことに留意していた藩は、宝暦七年夏、紙荷を大坂の大洲藩蔵屋敷に回送するよう指令し、翌八年二月には、郡奉行から大坂向けの上り紙荷を増すよう督励するとともに、瀬戸内への紙荷積み出しを一切禁止した。この年八月には、紙漉の原料である楮の出津を停止し、抜紙の禁止を布令した(「玉井家文書」)。
宝暦一〇年七月になると、藩当局はまず楮紙の買上場を生産・流通の面から考慮して、次の各地に設置し役係を常駐させた(やがて買上場の名称が紙役所・楮役所に変更される)。
紙役所……大洲・内ノ子・中山 楮役所……五十崎・寺村・北平
同時に抜紙防止のため、紙荷輸送のルートを指定し、通切手の発行、見取役による紙荷の監視検閲を厳重にし、紙目付を置いて昼夜巡羅させ、川下げ・徒歩持ちの紙荷の夜間輸送を厳禁した。また同年一一月には、郡奉行通達で楮および半紙・塵紙・白保は、残らず藩買い上げとすることとして、藩による紙専売制は確立した。なお宝暦一二年一〇月抜紙取り締まりについて厳達した(「玉井家文書」)。
しかし専売制の維持管理に当たっては、民業として建前を前面に押し出して、紙役所での紙の買い上げなどの事務は、輪番制で庄屋二名ずつに当たらせた。従来大洲紙の売捌きは、藩が郡内の生産地から買い上げた紙荷を、大洲藩の大坂蔵屋敷へ回送し、大坂の問屋商人へ売り込んでいたものを、宝暦一二年一一月から紙支配大洲領庄屋二一人と大坂指定問屋三人との間で契約取引とすることに改め、積登せ予定紙荷を引き当てに大坂問屋より代銀を為替送金させ、それを紙漉の元入銀として運用することとした。宝暦一三年三月には、新谷藩の紙も大洲方で引き受けることとなり、大坂指定問屋は一〇〇貫目にも及ぶ為替銀を送金するようになった。
その後毎年紙取引による利益金が生じ、文化一〇年(一八一三)四月には積もって一万一、〇〇〇両の貯金となった。藩当局は藩不時の軍用金・非常用金として、家老役場で厳重に保管したが、嘉永二年(一八四九)になると、紙方益銀は総額三万九、〇〇〇両にも達している(「一村家文書))。
農産諸統制
まず寛保期ごろから栽培しはじめ天保期領内一円に普及した櫨についてみると、大洲藩は安永六年(一七七七)八月立木改めを実施し、改め替えを五年に一回とし、登録唐櫨一本につき銀札一歩の運上を課した。櫨を原料とした蝋の出津については、七五斤入り一丸について銀札七匁の口銭を課し、抜荷を厳重に取り締まった。なお文政~文久期に内ノ子で発明された晒蝋の生産販売は、盛況を呈し大洲半紙とならぶ名声を博するようになった。
慶応元年(一八六五)九月財政収入の増加をもくろんだ大洲藩は、新たに「産物方」を置いて城下の産物役所で、藩内生産物の移出について取り扱いを開始した。従来の出津規定を改正して、品目により異なっていた運上を、一率地方での買い取り代銀の一パーセントを徴収することにし、同時に従来無届移出を許されていた物品もすべて願い出に改めた。なお徒歩荷についても、見積もり値段銀一〇〇目以上であれば、一匁の運上が賦課された(「中島町役場文書」)(のち蝋・櫨・藍・煙草以外の徒歩荷は無運上となる)。
慶応元年三月藩に茶買込座を置き、翌二年七月には領内産の茶を藩が買い切ることとし、茶の商人への売り渡しは許したが、領外移出は厳禁した(「平岡村庄屋文書」)。
凶荒備蓄制度
寛政元年(一七八九)九月、高一万石に付き五〇石の囲穀の幕令にそって、藩当局は領内各村に対し、貢租の中から精製して別個に納入することを命じ、五加年間で一、二五〇石を貯穀し、天保七年(一八三六)までは変化なく藩庫に貯えられた。
天保の大飢饉が起こった天保七年一一月、大洲藩は寛政度囲米一、二五〇石の売り払いを幕府に出願した。理由は「藩財政の推移」の項で述べたように、公役・凶作風水害などによる支出に充てるためであった。囲米は翌天保八年から三か年で詰め戻すことを条件にしていた。しかし天保九年の風水虫害のため、一か年延期したものの寛政度の貯米に復帰した。
天保一二年にも石高一万石に付き一〇〇石の割合で、五年間の囲穀せよとの幕令に従って、大洲藩は領内各村に対し村高に応じて「預籾」として村々で貯蓄を命じ、弘化二年(一八四五)には総貯米二、五〇〇石を完了した。以後大洲藩の貯米は、寛政・天保両度分合わせて三、七五〇石となった(「江戸御留守居役用日記」)。
幕命による囲穀は、一応達成したものの、凶荒対策にはなお不安があった。郡奉行・代官らの献策によって、藩民納得のうえ自発的に村々自身にも貯穀させることとした。以下替地―郡中―を中心として成立した主な凶荒備蓄についてみよう。
寛政五年(一七九三)九月、替地各村に村高一石に付き一升程度の出米を勧奨し、寛政九年に合計一三〇石二斗余りの貯米ができた。これを「癸丑一升高掛貯」(小貯)とよんで、難渋者の救済にあてた(「玉井家文書」)。
藩当局は、「一升高掛貯」の成立に続いて、寛政七年五月領内の庄屋を召集して、郡奉行から村高一石に付き一斗の高掛貯を三か年間で完成するように命じた。この際村々出米に対して、二割の藩補助の足し米が加えられた(伊予市役所文書)。
これら大貯・小貯の村貯えは、代官支配のもとに庄屋代表数人が「貯え方」の年行司として管理し利殖をはかった。別に替地三町からの五〇石を預かり米として加えた。
庄屋支配援助資本として、文化四年大洲藩は元立救米を給付し、領内各筋替地の行政区画ごとに管理するよう布達し、替地では「郷約米」と名付けられた四〇〇石の貯蓄ができたが、農民相互扶助の色彩を濃くし、替地一円の銀米融通に役立った((宮内家文書」)。
文政三年(一八二〇)一〇月、預け籾制度の発足とともに村内裕福者に分限に応じて「自分貯」を命じた。のち貯えのうち五分の一は、粟・稗・麦等の雑穀に切り替えるよう指示した((大洲手鑑」)。
天保五年(一八三四)九月には、前述したように凶年手当貯米のため、五か年間高一石に対し一斗の高掛米麦の上納を命じた。この貯蓄米麦は売却して銀札に替え、村方への貸し付けに便する一方、粟・稗等の雑穀を購入して貯穀量の増加を図った。
以上凶荒備蓄制度のあらましを述べたが、もともと藩当局の凶荒対策から寛政期以降出発した貯穀制であったが、藩当局の指導により領民に自主的な郷村貯穀制が考案され、藩はこれに自治的な経営権を与えて、領民の相互扶助と利殖の体制を確立することに成功した。