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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 新谷藩の成立

 新谷藩分知紛争

 新谷藩は寛永一九年(一六四二)大洲藩主加藤泰興が、弟直泰に所領六万石のうち一万石を内分したことによって成立した。しかしこの内分については、藩主家内のきびしい対立紛争があり、かなりの紆余曲折を経て、ようやく成立するに至ったものである。

 ことの起こりは、初代大洲藩主加藤貞泰が、元和九年(一六二三)五月死去した後、七月上洛中の三代将軍家光は、その長子五郎八泰興を、伏見の城に召して、貞泰の遺領六万石の内五万石を継いで大洲の城主とし、内一万石を弟大蔵直泰に分かたしめたことからである(大猷院殿御実紀巻一・北藤録巻之十)。「温故集巻之二」によると。
                            
 元和九年大峰院(貞泰)君御逝去の節、円明院(泰興)公十二(三)歳、要関院(直泰)君九歳に成らせられ、法眼院(貞泰室、泰興・直泰母)六万石を三万石ずつ御両君へ配分成らさるべき思召であったが、大橋作右衛門(家老、二千石)殿が同心しない旨を申し上げたので、それなら御分知然るべしと仰出された。ところがこれまた作右衛門殿は同心しなかったが、法眼院様が思召の通りにならないのなら覚悟もあるとの御意であったので、この上は已むを得ないとして、知行で五千石、侍の禄で五千石内分遊ばさる旨を申し上げ、そのように定まった。

とある。これによると表面的には内分は円滑に運ばれそうであったが、裏面には紛争の種がはらまれていた。時期はわからないが、次のような貞泰の遺言に基づいて作成されたという内分定書が法眼院から提出されて、紛争の口火が切られた。「北藤録巻之十四」によると、

       覚
 一、六万石のうち一万石を、大蔵(直泰)が十五歳になった時分けて遣す。ただし五千石は家臣で、五千石は蔵米で渡す。
 一、御普請役・御陣役などすべて幕府の公役は、五郎八(泰興)が負担する。
 一、大蔵が背いて別格になれば、右の一万石を返却する。
     元和九年閏八月三日                                 加藤五郎八
                                               同 大 蔵

 この内分定書の履行を迫る法眼院・直泰方に対して、これを信用せず拒否する泰興方との間に、激しい紛争がおこった。寛永一一年将軍家光による朱印改めがあり、直泰は好機到来とばかり、泰興に対し分知を要求したが、拒否された。寛永一六年になって、分知問題を調停する「御扱衆」として、加藤家親族の代表小出大和守・竹中左京・小出大隅守・関兵部大輔・市場下総守の五家が選ばれ、この人々の間で審議を重ね、調停案をまとめ、泰興・直泰両者に強く意見して合意を得た。「北藤録巻之十四」に記された条項は次のようであった。

 一、六万石のうち一万石織部(直泰)と御朱印の内書をされるよう老中へ出羽守(泰興)からお願いする。
 一、御陣・御普請役などの公役は、六万石のうちでまかなう。
 一、出羽守宛の幕府の御触状などがある場合には、織部の名も加筆するよう老中へ願う。
 一、出羽守の下奉行が幕府へ召し出された場合、織部の下奉行も同様に出すよう申し定める。
 一、その他の件については、織部が一万石の大名なみに扱われるようにする。

 この年六月御扱衆は、直泰に右の条項をしたためさせ、「右の趣申し定め候通り相違あるまじく候」として署名花押しか取扱衆宛の文書を作らせた。この取扱衆はこの文書を幕府老中酒井忠勝・松平信綱に内見を願い、一応内諾を得て、その旨この文書に裏書して、取扱衆の署名花押のうえ泰興に回付した。これで長かった紛争もようやく解決した。

 新谷領の成立

 調停案の頭書にもられていた朱印状の内分内書の件も、寛文四年四月五日付けの四代将軍家綱から下附された朱印状から実現した。すなわち「寛文印知集」によると、

  伊予国(郡名村数略)都合六万石目録在別紙の事、内壱万石加藤織部正進退すべし、残り五万石充行訖んぬ、全て領知すべき者也、仍件の如し
       加藤出羽守とのへ

とあり、目録の最後尾の箇所に、

    (中略)
  都合六万石
   但 喜多郡之内拾三箇村 浮穴郡之内七箇村
     伊予郡之内四箇村
     高合壱万石     加藤織部正拝領之

と記された。この朱印状記載の形式は明らかに内分であって、泰興の知行高は格式六万石であるが、実質は五万石にとどまり、直泰は一万石を内分され、大名として取り扱われることとなった。

 新谷陣屋の建設

 大洲加藤家の部屋住みの身分であった直泰は、内分についての紛争が解決し、内分ながら一万石を拝領し、大名として認められることとなった寛永一八年(一六四一)、はじめて大洲へ国入をしたが、在所もなく屋敷もなかった。そこで大洲城下中島にあった家老職三〇〇石佃助九郎の屋敷に仮寓して、佃助九郎・加藤治右衛門・平田助右衛門ら三家老の輔弼により、大洲藩士から選抜された新家臣たちに面接したり、前年から手がけていた知行予定の郷村を取得する用意をした。在所を大洲城下の北東八キロメートルにある喜多郡新谷と定め、上新谷村のうち白山の麓の地(現在の新谷小学校付近)に、大久保川の付け替えをして、陣屋・家中屋敷の縄張りを命じた。こうした企画を完了し建設に着手した寛永一九年四月、直泰は大名として初めて江戸へ参府した。その間家臣らは新谷屋敷の建設を進め、秋には大洲城下から新谷への引っ越しを完了した。新谷陣屋の成立である。
 新谷藩陣屋町は、北端の陣屋から南に伸びる道路に沿って武家屋敷、続いて町人屋敷が配置されている。武家屋敷は三一軒、町人屋敷は上の町・中の町・下の町・町裏・古町などから成り、寛政八年(一七九六)には七六軒の町家があった。
 陣屋に近接する部分には、家老屋敷・練兵場・会所・紙役所などが配置され、天明三年(一七八三)に創設された藩校求道軒は、武家屋敷
町の西端部に置かれている。
 陣屋の建築物は、ほとんど現存していないが、現在新谷小学校の敷地内北隅に麟鳳閣と庭園がある。慶応四年(一八六八)に建築された麟鳳閣は、幕末の転変著しい政情に対処するための迎賓館として、また藩政評議所として使用された。廃藩置県後は新谷県庁として使用されたが、現在地に移築されて小学校の施設として利用されている(昭和三六年三月県有形文化財に指定)。

図2-43 新谷陣屋町略図

図2-43 新谷陣屋町略図