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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

七 一〇万石「高直し」と享保の蝗害

 「高直し」の論理

 宗利は、元禄六年(一六九三)、隠居して宗贇に跡を譲り、宝永五年(一七〇八)宇和島で死去した。七五歳。法号は賢山紹徳天梁院。秀宗と同じ等覚寺に葬られた。宗贇は、仙台の伊達綱宗の三男であるが、家督を継いで早々の元禄九年に、一〇万石の「高直し」を幕府から認められた。一〇万石と七万石では大名としての格が違うので、当時の幕府の実力者柳沢吉保などに運動したのである。大名の格の差は、基本的にはその石高によっており、それは江戸城に登城した際の幕府の扱い、参勤交代の行列の人数、将軍への献上品の数量などによって表現されたが、人間のあり方が身分によって決定されると信じていた当時の人々にとっては、こうした待遇の差は、現在では想像もつかないほどに大事なことだったのである。宇和島伊達家の場合は、高分けで七万石になってからも、幕府との待遇関係は大むね秀宗時代の先例が維持されており、恒例の儀式や音信贈答については、ほぼ一〇万石の扱いを受けていた。しかし、先例のないものについては、現在の石高相当の扱いが予想され、ここから秀宗以来の本来の格が崩れることが憂慮されたのであった。こうした大名の格を決める石高は、田畑一枚一枚を計る検地によって決定されたと一般には考えられている。しかし大名の石高は、実際は検地の結果を集計したものではなく、領地の何年間かの年貢の平均から逆算して机上で算出された場合が多かった。これからすれば伊達家の場合は、当時の年貢約四万石(表二-79を参照)と、これも当時の常識的な年貢率四公六民から計算すれば、一〇万石でけっしておかしくない。このような理屈で藩は「高直し」を願い出て、幕府もこれを認めたのであった。
 しかし、一旦幕府に一〇万石と認定されると、以後はその軍役は一〇万石で賦課されることになる。もちろん当時は戦争への動員はあり得ないことであったが、御手伝い普請は一〇万石を基準として勤めることになり、藩財政にとっては負担が増す。領民にとっては、一〇万石になったからといって年貢が増えるわけではなかったが、御手伝いの負担増は所詮は下に転嫁されて来るのは目に見えたことであった。実際、願い出にあたっては藩内にもこうしたことを心配する声もあったが、果たして宝永元年(一七〇四)には江戸湯島聖堂の造営を、享保四年(一七一九)には江戸赤坂溜池御堀浚いを命じられ、家臣も領民もその負担に苦しむことになった。
 湯島聖堂の御手伝いの三年後の宝永四年には、大きな災害が宇和地方を襲った。まず八月一九日に九州・四国・中国を襲った台風で領内は、流失田畑二万石余、潰家二、二六七軒という大被害を受けた。続いて九月四日、全国的な大地震(宝永地震という)で、領内沿海部は高潮に襲われた。流失田畑約七、〇〇〇石、死者一二人、潰家無数。宇和島では山際に避難し野宿する町民も多かった。前々からの「御不勝手」(財政事情悪化)に加えてこの被害に、この時在宇していた宗贇は厳しい倹約令を施行したが、幕府もこの窮状を認め、宗贇の江戸参勤を一年延期させている。隣の大洲加藤家や土佐山内家には、この処置はなく、宇和島の被害がとくに大きかったことが察せられる。
 宗贇は、正徳元年(一七一一)、宇和島で死去し(四七歳、法名天山紹光太玄院、墓は等覚寺)、村年が跡を継いだが、この前後から領内では災害の被害が目立つようになる。領内が全般的に疲弊して被害の復旧が後手後手になったためであろうか。そして享保一七年(一七三二)、西日本一帯をまきこんだ蝗害による大飢饉で、領内には悲惨な状況が現出した。

 享保の蝗害と半知借り上げ

 享保の蝗害は全国の餓死者約一万二、〇〇〇人という大飢饉をもたらしたが、宇和島藩ではその以前から連年大風雨に痛めつけられていたという事情があった。飢饉に関連して享保一七年に藩から幕府に提出された届によれば、享保一二年の年貢は二万九、三八九石、同一三年三万一、四一五石、同一四年二万四、八七四石、同一五年三万一、二五八石、同一六年三万五三七石、以上五か年の平均は、二万九、四九五石であり、藩の平均的な年貢の約七割(表二-79を参照)に過ぎなかった。つまり五年つづけて田畑の三割程度が被害を受けていたのである。これが天災によるものばかりでないことは、隣の大洲藩(六万石)の同じ五か年間の平均が三万七、五八七石であったことからも明らかであろう。一〇万石の年貢が六万石の年貢をはるかに下回るところに、領内全般の疲弊が示されている。そこに蝗害が襲ったのである。幕府への届では、宇和島藩のこの年被害は九万一、〇五七石、じつに九〇㌫を越す減収である。幕府も事態を重視し各大名に領内の状況を報告させ、それに応じて金と米を貸し与えた。宇和島藩では、当面の食糧にこと欠く「飢え人」は五万六、九八〇人と報告されており、実に領民の六七パーセントに相当している(表二-66を参照)。この救済のため、藩は手持ちの米・麦などを放出した他に、幕府からも金一万両と米一、五一六石(数字が半端なのは、幕府が一括して放出したのを各藩で配分したため)を借りうけている。
 翌一八年、村年は家臣団に対し知行の半分を返上させる、いわゆる「半知借り上げ」を断行した。このような手段は、これまでにもしばしば取られていたが、今回は藩政改革の出発点としての意味を持つものであった。しかし村年は翌々二〇年の五月、江戸から宇和島へ帰る途中、播磨国加古川(現加古川市)で病没し(三五歳、法名宗山紹澤泰雲院、墓は等覚寺)、課題は一三歳の村候に引き継がれることになった。

 五代村候の藩政改革

 村候は、寛保三年(一七四三)にはじめて宇和島に入部し、ただちに二五か条の法令を家臣団に対して発布した。内容は、文武の奨励や倹約の励行などで、とくに目あたらしいものではなかったが、家臣団の気持ちを引き締め、延享二年(一七四五)の倹約令、年貢未進の引き捨てなどともに、藩政の立て直しの出発点となるものであった。
 これより先、藩内では鬮持制の廃止の是非が農政担当者の間で論議されていたが、部分的な試行を経て、寛保三年に全領で鬮持制が廃止され、高持制が施行された。これは百姓の所持地の移動を自由にすることで、庄屋などの大百姓に土地を集めて豪農化する展望を与えるものであり、以後に実施された藩の殖産興業の基礎となる政策であった。
 殖産興業の中心となる対象は木蝋と紙で、延享二年、藩は宮内村(現保内町)庄屋都築与左衛門を晒蝋・青蠟・櫨実世話人に任命して保内組を中心に唐櫨の栽培を奨励し、宝暦四年(一七五四)には、宇和島の商人三人に命じて晒蠟座を結成させ、木蠟の仕入れと販売を独占させた。紙については、同七年に泉貨紙の自由売買を禁じ、藩の専売とし、さらに同一四年には半紙の製造を奨励している(なお、詳細については下巻を参照されたい)。
 こうした積極策が実って立ち直りを見せた藩財政の上に、村候は文武の奨励にも努力し、延享二年に家臣の藤好本蔵(南阜)を京都に派遣し古義堂の伊藤蘭偶に学ばせ、また蘭偶門下の安藤陽州を召し抱え、さらに寛延元年(一七四八)この二人を教授として宇和島に藩校内徳館を開いた。
 以上のような治績により、村候は「三百諸侯屈指の英主」と称せられ、寛政四年(一七九二)に幕府から「政事に心を用うるの厚きこと」を賞されて馬一匹を与えられた。また官も左少将に昇り、同六年江戸で没した(法名楽山紹静知止院、墓は等覚寺)。しかし、高持制の採用と殖産興業は農民の階層分化と豪農の形成を必然化し、天明の大飢饉(一七八三)を経てふたたび領内の状況は悪化し、村候の晩年には、豪農である庄屋を相手どった村方騒動が領内各地で頻発した。こうした事態からの脱却は、六代村壽を経て、七代宗紀によって計られることになる。