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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 財政改革

 文政七年(一八二四)九月に三三歳で襲封した宇和島藩七代藩主伊達宗紀(号春山)が、藩主としてはじめて国元に入部したのは翌文政八年五月二六日のことであった。宗紀は宇和島に入るや、すでに心の中に用意されていた諸改革を次々に実行し始めた。それは宇和島藩の逼迫した財政をなんとか建て直そうとの強い意志から出たものであったかにみえる。窮乏した財政を再建するには、窮乏原因を改め、豊かにするための方策を見いだすことが課題になる。ここでは、まず財政を窮乏させた原因は何か、その解決策は具体的にいかなるものか、さらに財政を豊かにする方策とはどういうものか、という伊達宗紀藩主時代のいわゆる「文政改革」を中心にその具体像を示すことにする。

 財政窮乏の原因

 藩財政は、経常的な収入(この当時では在方の米・麦・大豆の物成と浦方の水産物(俵物)上納、また山方からの上納物などのほかに後で詳述する紙・蝋からの収益など)とそれに見合った経常的な支出が概ね釣り合うように見積もられている。しかるに、天災(地震や度々見舞われた洪水)や吉凶、特に公務(御手伝普請などの公儀役)などの「不時の物入」=臨時出費がある節は、経常的な収入によって賄うことができず、やむなく大坂などの商人たちから借財をしてしのいできたが、それらが「段々相嵩」り、ついには借財の累積(藩債)を招いたのである。
 臨時出費による財政窮乏原因のほか、もう一つの原因が存在したとみられている。財政方の要路小波軍平によれば、文政一二年(一八二九)に至る二〇か年の間、毎年毎年、発行した銀札(藩札=領内向けに藩の発行した紙幣)の正銀(現銀)引き換えに伴い、銀二〇〇~三〇〇貫匁の不足が続き、その不足は藩の収納物(米・紙・蝋・俵物など)で補填してきたという。
 小波軍平の意見では、銀札の通用高は銀三、〇〇〇貫匁が限度であり、例えば文政一一年の場合で、「世上通用銀札高(二、〇〇〇貫匁)・楮櫨実代貸当年青蝋代とも(三、〇〇〇貫匁)・諸役所入用(二〇〇貫匁)」の合計五、二○○貫匁の出札があり、三、〇〇〇貫匁以上の発行は出し過ぎ(「過札」)となり、藩の毎年の経済力では保証できない。つまり、正銀に兌換できない「空札」と同様で、その分が最終的には正銀二〇〇~三〇〇貫匁(金にしておよそ三、〇〇〇~五、〇〇〇両)不足となる。この一〇年間でも、正銀二、〇〇〇貫匁=銀札四、〇〇〇貫匁の過札となる。しかもこの過札は、藩内の人々、上から下々に至るまでのおごりを生むものとなる。藩札量が多くなり、商品流通が頻繁になれば、消費が多くなる傾向は避け難い。それが封建経済の下ではおごりとして受け取られた。過札分だけ余分の消費はおごりという悪影響を生む前に、他国産品が藩内に移入する度に、その分の正銀が流出し、藩内過札分の借財を積み重ねる結果になったのである。銀札発行に伴う毎年の過札分の不足は、結局はこれも大坂商人に依存することでしのいでいったのである(「大坂御内用紙面類」)。
 したがって、文政の藩政改革は、①累積した大坂商人に対する借財(藩債)をどう解決するか。②毎年の恒常的な銀札発行(過札)に伴う赤字分を構造的にどう解決するか。③長年の過札の結果生じたおごりをいかに改めるか。④財政赤字の補填をしてきた中心的財源である紙・蝋の生産・集荷態勢をいかに確立するか。という諸課題を持つことになり、その各々について具体的に検討するのが本節の課題ともなる。

厳略令

 領内の奢侈を防ぎ、倹約をするためにも、厳略を命じたのが、最初の改革内容であった。文政八年(一八二五)一一月一七日、藩主は番方組頭々・目付・各役々に「内証向差迫候付、厳敷省略」を命じた。組頭へは家中の者の「質素節倹ニ相基き御奉公相怠らざる様心懸候儀」を申し渡した。目付には「古風を取り失い、柔弱軽薄に押移」っている家中に「廉恥之志を取り失わず、それぞれ分限を相弁え、行作正敷、風俗質素に相基候」ように命じた。各役々へは、役所役人中の「心意気の弛みより御費も少ながらざる事候間………心を尽し御倹約筋之義取り計らい申すべし」と命じられ、さらに来春は格段に取縮の義が仰せ出されると付け加えられている(「記録書抜」)。
 文政九年正月一七日、これより以後五か年間の厳略が命じられ、このことは公儀へも届けられ、格別のこととして家中知行の五割用立(借知)のほか以下のごとく、質素簡略のための具体的な指示がなされた。正月二二日に、「他所出一切差留」として、年限中、宇和島から他所に出向くことを一切禁じた。また、「参勤御供の厳略」として、年限中の参勤の節、御貸人を用いない事と、供の者は江戸着府の翌日に国元に向けて出立することが命じられた。同じく、「筆墨紙の節約」・「御下向の節は大坂御乗船の事」などが命じられた。二月二二日には、風俗矯正の意味合いから、「離縁の取り締まりを厳にす」・「役人は定刻に出勤の事」・「風俗の取り締まり」として男女の別を正しくすることが命じられている。さらに、七月二日には「五か年重き御用立仰せ付けられ」、質素節倹の旨が再度命じられ、「何卒困窮之内にも、上下共々に艱苦を相尽し、遠からざる内、少々相甘え候様成されたきとの御趣意」が下達された(「御厳略ニ付追々被仰出候趣抜書覚」)。
 藩主からの厳略の命を受けて、例えば家老の桜田氏は家内用に、一層細かな五か年間の省略箇条を定めて徹底させている。親類中の吉凶進物の儀については親子兄弟伯父叔母だけとする、来客は断るべきだが兄弟が疎遠になっては困るので、ひな祭り・庭弁天祭りの二回は肴二種の限りで付き合ってよい、諸用のため日雇いを入れるのはできるだけ減らすこと、など細部にわたって規定されている(「省略箇條申渡覚」)。

 藩債整理

 窮乏した藩財政は、主に大坂商人からの借銀によってしのぎ、その負債がまた金利となって負債を増やすという状況が続いていたが、文政五~六年の藩債はおよそ銀一万一、〇三〇貫匁ほど(金にして約二〇万両に近い)にも上っていた。このうち銀六、〇〇〇貫匁余りは、加嶋屋一軒からの借銀であったが、宇和島藩は文政六年、この加嶋屋からの借財を「無差引」=帳消しにしたのであった。それでもなお、文政六~七年には銀四、四三〇貫匁ほどの借銀があり、このうち、二、一一〇貫匁ほどは払い切ったことで、残りの借銀は文政八年当時においては二、六〇〇貫匁ほどになっていた。
 しかるに、文政一一年段階では、文政一〇年の公儀御手伝普請でばく大な用立てとなり、この年の借銀高は、合計で銀一万貫匁に届く状態となっていた。この借銀をいかに解消すべきか。藩の要路の一人中井九郎左衛門は文政一一年八月、次の意見を提出した。すなわち、藩財政の窮乏がここまで及んでは、もはや大坂の借銀を帳消し(「無差引」)にするほかない。しかし、そうすれば大坂商人に対する藩の信頼は失われ、今後、大坂商人の財源に依存することができなくなる。となると、不時非常の出費、例えば突然の幕府からの命令による出費に際して、たちまち窮することになる。そもそも大坂借金を一方的に帳消しにするといっても、「宮様銀」(門跡や親王家の名目金貸し付け)からの借銀(債務)は幕府によって裁判・裁許となって債権が守られるであろう。また、借銀の担保になっている屋敷も明け渡すことになるかも知れない。以上の不安が付きまとう。しかも、宇和島藩の産物は大坂の蔵元商人と密接な取り引き関係をもっており、先年(文政六年)大坂の加嶋屋の借銀を帳消しにした際はそれがただ一家のことであったが、今回は宇和島藩と関係する大坂中の商人の借銀帳消しであるゆえ、この一方的な藩債整理によって商人たちの憤りを買い、ひいては以後の蔵物扱いがなされず、納屋売りになり、そうなれば商品の値段は引き下げられ、利益が薄くなるため、いずれ負債を帳消しにした金額に相当することになろう。この先、幾年も際限なく大坂蔵元の助力なしで独立していかねばならず、万一の時は、今日までの流弊以下の状態を招くことにもなろう。右の事態を想定する時、一方的な藩債の「無差引」は冒険であり、藩は薄氷を踏む思いをするに違いない、と中井九郎左衛門は述べている。
 現実的な損得を勘案する者のほかに、借銀帳消しに道徳的に不賛同の意見もあった。例えば、大坂商人にはこれまでも恩借にあずかっており、その「恩義を顧みず国家を立行き候と申すは、誠に天に対し候ても相成るべき義にこれ無き」と述べ、担当の宇和島藩大坂役人(留守居など)は身の置き所もなく、切腹して申し訳を相立てるほかなく、何とか、恩借の分、無利子元銀だけでも返済して欲しいと訴える者もあった(「大坂御内用紙面類」)。
 だが、藩の重役は負債の「無差引」=帳消しを決断した。これから起こるかも知れない数々の不安の中で、決意を持って断行した。文政一一年の秋から内意を伝え、文政一二年(一八二九)に藩の主旨を商人たちに了承させた。この当時の藩の不安は、文政一二年一〇月八日、藩主によって大頭・旗本頭へ申し渡した文面によく表れている。

 御内證向御難渋、打続き高歩之御用立仰付られ、御家中難渋之義これある処、去々年(文政十)御手伝仰せを蒙らせ、又々莫大之御用立相掛り、差向御公務ハ済ませられ候え共、元来、極々御難渋、大坂御取引成さるる道これ無く、止むをえず無理なる御掛合にも相至り候へば、此後ハ御借財ハ一切相整いまじくに付、御独立の御手当これなくては相済まざる処、遠からざる内、又々御公務等も仰せを蒙らるべく、仍てこの御覚悟これなくては相成らず候へば、此上厳しき御省略遊ばされ候思召し御座成され候。一統におゐても、積年御用立、難渋至極之義ハ御辛通遊ばされ候。何卒御用立御用捨成し下されたき旨、重々思召し候えども、いかんとも御心底に相任させられず候。さりながら極々難渋の次第、御承知遊せられ、至て無理なる御差繰を以て、百石に付き米七俵ツ、割合を以て、御救米成下され、聊之義候共厚き思召之処恐察致し、是までとても銘々省略相尽しいかが体にも難渋いたし御奉公取続け相勤むべく候、

大坂の藩債を帳消しにしたことで、これから先、もはや借財はできず、したがって公儀御用がいつあろうとも、独立で対処する覚悟が説かれ、引き続きの厳略と、家中からの借り上げが命じられた(「御歴代事記」)。

 銀札三分一切下げ

 藩財政窮乏の打開策として、大坂の藩債を帳消しにするという強行手段のほかに、藩は、構造的な窮乏原因である銀札の過札を解消するために、文政一二年、「世上通用銀札、此節重々御吟味ヲ以て、三歩一に御切下け」を厳命した。領内通用の銀札量を三分二引き上げることで、銀札量を三分一にしようと試みたのである。もっとも、藩は三分二を引き上げるといっても、その所持者の名前と銀札高を帳面に記し、それを藩が借り上げるという形式を採った。後年、財政が好転した時には返弁するという含みを持たせるためでもあった。藩は「返済の目当てこれなく候とも、是非とも御借上」との建て前をあくまで示したのは、領民に対して藩があまりにも「不義」であるという認識を持ったことと、市郷において騒動が発生するのを恐れたからであった。領民から銀札を、返す当てもなく借り上げるのであるから、藩は、大坂商人の借銀を帳消しにしたのと同様、本来藩が正銀と引き換えるべき領内発行銀札の三分二を帳消しにしようとの無理な企てであるから、市郷で騒立が起こるかも知れないと藩が警戒をしたのも当然であった。しかし、領民の多くは、すでに銀札に不信を抱いており、人手(「質屋・酒屋の類」)に渡していて、騒動には至らなかった模様である(「大坂御内用紙面類」)。
 こうして、文政一一~一二年を中心にした、宇和島藩の財政再建策は、大坂商人と領民に多大な犠牲を強いて進められたが、まず文政一三年には一段落の区切りをつけた様子である。すなわち、同年五月一八日に、藩主は、大坂に居る武田仁右衛門に対し、三六石八斗四升の加増を伝え、去々年(文政一一)に上坂を命じて以来、藩債整理のために「容易ならざる掛合向行届き、かれこれ心配出精の義」まことに満足であると、賞賛したのであった(「御歴代事記」)。さらに、文政九年以来の五か年の厳略期限は、文政一三年限りで明けることになるのだが、文政一三年(一八三〇)六月二六日、藩主は明年より「諸役所其他、以前へ相復され候旨」を命じて、厳略の停止を命じた。ただし、これまで家中より五割の借知を続けてきた分については、これを三割の御用立としてさらに五年間延長することが命じられた(「御歴代事記」)。
 さらに下って、天保一四年(一八四三)五月一二日には、御内証御難渋も「近年他国御借財御払道も相付候」と藩財政の好転により、天明年中(一七八一~八九)以来の領内からの借用銀の返済を藩は通達している(「御歴代事記」)。
 ところで、財政窮乏の原因とその解決策についてはこれまで述べてきた通りだが、財政赤字の補填をしてきた中心的財源(文政四年から七か年平均の大坂登せ正銀高が一、六八一貫匁)の紙と蝋の生産・集荷態勢はどのように確立運用されたのか、その実態を次にみることにしよう。