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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 吉田藩の成立と伊達宗純入部

 吉田藩三万石の成立

 明暦三年(一六五七)七月、宇和島藩主伊達秀宗が隠居し、三男宗利が家督を相続したが、その際所領を分割して三万石を五男宗純に与えた。宗純は居館を古田の地に定め、陣屋町を建設した。吉田藩三万石の誕生である。
 初代藩主宗純は、寛永一三年(一六三六)五月一日、宇和島初代藩主伊達秀宗の五男として生まれた。母は側室吉井氏である。承応二年(一六五三)、四代将軍家綱に拝謁し、明暦元年従五位下に叙せられ、宮内少輔に任ぜられた。宗純には兄が四人あったが、長兄宗実は病弱で(正保元年没)、次兄宗時も若くして没し(承応二年没)、三男宗利が宇和島藩を継いだ。四男宗臣は江戸に生まれ、桑折宗頼の養子となり、宇和島藩家老(六、〇〇〇石)として、また和歌・連歌・俳諧をたしなみ、俳諧では『大海集』を編んだことで知られる。宗純は宗臣(寛永一一年一二月生まれ)よりも二歳年少であったにもかかわらず、三万石を分知されたのであるから、宗臣としては心穏やかならざるものがあったであろう。宗純への三万石分知の可否については、裏面において幾多の確執を生じ、結局は宗純付きの家老宮崎八郎兵衛(宗純死去に際し殉死した人物)が、仙台伊達家の実力者伊達兵部宗勝に頼ることによって実現する。すなわち兵部宗勝が仙台藩主伊達忠宗を動かし、幕閣の井伊直孝を分知賛成派に引き入れたのであった(津村寿夫『宇和島藩経済史』)。

 陣屋町の建設

 宗純が陣屋建設地に定めた吉田の地は、宇和郡立間尻浦(現吉田町)付近の湿地帯で、葭が群生していたと伝えられている。この地帯は、宗純の入部以前からすでに新田開発が小規模ながらも実施されており、「郡鑑」に沖村の内吉田新田分・立間尻浦の内御新田(塩田)と記される土地があり、それぞれ物成米四八石八斗、四石八斗余が納入された旨を記している。陣屋及び陣屋町が建設されたのは、この新田部
分に続く地域であった。万治元年(一六五八)一月、宗純は、国安什太夫(四〇〇石)を総奉行、家中埋立奉行に田中徳右衛門・日野孫右衛門・真柳勘兵衛を、町人町埋立奉行に津田十郎左衛門・玉置勘左衛門、横堀奉行に松宮吉兵衛を任命して土地造成に着手した(吉田町誌)。
 工事は、立間尻浦に河口を有する立間川・河内川の三角洲を利用して干拓が進められ、陣屋・家中町・町人町の境界は人工河川を開削することによって明確になった。陣屋町と家中町の間は、立間川を分岐させて、石城山沿いに約五〇〇㍍の国安川を作って河内川に接続した。この国安川は陣屋の濠としての役割をも果たすよう設計されていた。家中町と町人町の間は、立間川を下流でほぼ直角に曲げて西流させて、河内川に合流するようにした。この新規に開削した部分を横堀と呼び、現在もその一部が当時の姿をとどめている。
 土地造成終了と同時に陣屋・家中町の家屋建築が開始され、宇和島藩領からも人足を調達して建設は急速に進んだ。伊達家文書「秀宗公御代前より元禄十四年迄御記録抜書」の万治元年一二月の条に、吉田新地普請有り、夏冬までの内残らず引き移る、と記しているところからも全力をあげて陣屋町建設に当たった様子が知られる。
 前述の吉田新田の部分は石城山南麓に当たり、最も早く造成作業が進められた部分で、「郡鑑」では竿高一七〇石七斗二升八合と見え、ここに藩主の居館と政庁が建設された。「郡鑑」に、今は御在館になる、と加筆されている。また立間尻浦の新田は、今は御町になる、とあり、新規に造成された陣屋町に吸収されたことが窺える。

 伊達宗純入部

 万治二年(一六五九)七月二九日、伊達宗純は初めて封地吉田に入った。万治元年一月より陣屋町の建設が開始されていたとはいえ、想像以上の迅速さで陣屋建築が進んでいたことを窺わせる。陣屋の建築の縄張りは尾川孫左衛門(一、〇〇〇石)が担当し、主要な建物は、御書院―戸田藤(左)右衛門(四〇〇石)、御広間―甲斐織部(五〇〇石)、御台所―尾田喜兵衛(知行高不詳)のように重臣達がそれぞれ分担して工事を監督した。建築資材の調達は、宇和島城下の鋸町で製材して吉田に送ったと伝え、宇和島領内からの加勢夫をも動員し、彼らに破格の飯米(二升)を与えて工事を急がせた(吉田町誌)。
 宗純は、入部に先立ち、万治二年四月酒井宮内大輔忠勝の娘をめとり、六月一三日領地に赴くことを許された。宗純の入部によって、吉田藩が名実共に独り歩きを始めたのである。
 陣屋は下図のように石城山を背にし、西・南は河内川、東は国安川によって家中町と区画されている。また内部は藩主の居館と政庁が一体となっており、東側中央部分に御用場・御目付所・書役部屋・会所などが集中し、それを南北から挾むような形で広間・書院及び台所があった。

 吉田藩の領域

 明暦三年(一六五七)宗純が秀宗より分知された時の三万石の地は、旧宇和島領を南北に分断する東西に細長い帯状の地域であり、このほかに数か所の飛地があった。現在の行政区画では、西宇和郡三瓶町の半分強・東宇和郡明浜町の過半・同郡城川町の一部・北宇和郡吉田町(奥浦・南君浦を除く)・同郡三間町・同郡広見町の半分強・同郡日吉村・同郡松野町(半分強のち半分弱)である。
 吉田藩と宇和島藩は、分藩直後より境界をめぐる争論があり、長く両藩は反目した。特に万治元年(明暦四年)(一六五八)に発生した目黒山境界をめぐる紛争(伊達家文書「御記録抜書」)は、寛文四年(一六六四)農民が江戸へ直訴する大事件となり、同五年幕府の調停によってやっと落着した。
 この間、寛文二年宇和島藩領との替地が実施され、吉田藩側が強く要望していた海辺の村を得ることができた。この時、宇和島藩へ渡した村は、次郎丸の中之川村・延野々村・永野市村・近永村・影平村(朝立浦の一部)の五か村一、五六二石九斗四升六合であった。一方古田藩が得たのは、喜木津浦・広早浦(以上現西宇和郡保内町)・上泊浦・川名津浦(以上現八幡浜市)・南君浦(現北宇和郡吉田町)・北灘浦(北宇和郡津島町)・蔣渕浦・下波浦(以上宇和島市)の八か村一、六六四石四斗二升一合であった。
 この替地によって、分知当初三万石に満たなかった吉田藩は、三万石を名実共に獲得したわけである。

図2-57 吉田陣屋御殿間取図(簡野道明先生記念吉田町立図書館所蔵絵図により作成)

図2-57 吉田陣屋御殿間取図(簡野道明先生記念吉田町立図書館所蔵絵図により作成)


図2-58 吉田陣屋(簡野道明先生記念吉田町立図書館所蔵絵図により作成)

図2-58 吉田陣屋(簡野道明先生記念吉田町立図書館所蔵絵図により作成)


表2-86 吉田藩分知当時の村と本高

表2-86 吉田藩分知当時の村と本高


図二-59 吉田藩主系譜

図二-59 吉田藩主系譜