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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

松山藩

藩主の任免に関する事項、参勤交代記事は略す。

  年 代      事      項
(一六三五)
寛永12・7・28○伊勢桑名城主松平定行、四万石を加えられて一五万石となり、伊予松山に移される。入部は九月六(七)日、領地目録受け取りは九月一七日(久松氏系譜・予松御代鑑)。
寛永12・9・25~26○松平定行、城下町を馬で巡視する。当時の家臣の屋敷の過半は杉皮ぶき・藁ぶきであった(垂憲録拾遺)。
寛永12・12・29○松平定行、越智郡大山祇神社に毎年米二〇俵を寄進する(大山祇神社文書)。
寛永13・4  ○松平定行、三代将軍家光の日光社参に際し、江戸城を警衛する(松山叢談二上)。
寛永13    ○道後温泉囲できる(津田家記)。
寛永14・11  ○島原の乱鎮圧軍応援のため、者頭片岡新右衛門正信・使番黒田将監吉辰・徒目付中村勘兵衛久重らを派遣する(高浜実記)。
寛永14・11  ○風早郡津和地村の東の出崎へ燈籠を設置して、航海の安全をはかる。この地をのち燈籠ヶ鼻と呼ぶ(垂憲録拾遺)。
寛永15・11・18○松山城へ常備米として一万石を詰め置くようにとの幕府の奉書出される(松山藩旧聞録)。
寛永16・3・11○松平定行、船の出入についての掟書を桑村郡河原津村庄屋に渡す(愛媛県編年史六)。
寛永16・3  ○松山藩、御用米蔵を建てる(亀廓城秘記)。
        ○幕府より御城米一万石貯蔵を命じられたため建築、費用三五貫は幕府が支出、普請は大坂町人が請負。
寛永16・7・13○松山城天守櫓多門塀石垣などの普請許可される(松藩旧聞録)。
寒水16・8・16○焼失した江戸城本丸修復の手伝いを命じられる(松山年譜)。
寛永19    ○松山城の天守閣、従来五層であったものを三層に改築(垂憲録拾遺)。
        ○「松山藩旧聞録」には、当春より松山御本丸御普請始る、とある。
寛永20・5・15○松平定行、幕領宇摩郡・周布郡のうち一万八、九四三石余の地を預かる(予松御代鑑)。
(一六四四)
正保1・1・18○松平定行、異国船取り扱いのため長崎出向を命じられる(松山叢談二)。
正保2・5  ○幕府巡見使、溝口伊勢守・川勝丹後守・牧野織部、松山を通過する(松山年譜)。
正保4・7・4○長崎にポルトガル船が来航したため、松平定行松山を出発して長崎に向かう(垂憲録)。
(一六四九)
慶安2・2・5○大地震のため松山城石垣二〇間、塀三〇間余崩壊する(垂憲録拾遺)。
慶安3・8  ○松平定行、阿沼美神社を再建する(阿沼美神社棟札写)。
慶安3    ○松平定行、和気郡祝谷村に常信寺を建立する(祝谷山由緒書)。
慶安4・7・18○幕府、前三河国刈屋城主松平定政を兄松平定行に預ける(厳有院殿御実紀)。
(一六五二)
承応1・12・16○一五万石軍役を定める。騎馬二七〇・旗三〇・弓九〇・鉄砲五二〇・長柄五〇(本藩譜)。
(一六五五)    
明暦1・6・28○松山藩、農民に対し三六か条の触書を布告する(松山政法編拾遺)。
明暦3・1・18○江戸上屋敷類焼する(本藩譜)。
明暦4・6・16○松山領内にキリスト教徒二三名あり、内一人は侍と記録される(契利斯督記)。
明暦4・8  ○松山藩領伊予郡松前村漁民と、大洲藩領伊予郡米湊村漁民、漁場争論を起こして乱闘する。この年の末、土佐藩主山内忠義の調停により和議が成立する(北藤録・垂憲録)。
(一六六一)
寛文1・10・12○三津縄手に松・杉一、三〇〇本余を植える(垂憲録)。
寛文1・10  ○松山藩、木綿座など七座を公認する(手鑑)。
寛文2・12・4○城下町のうち木屋町より出火、類焼一四軒(本藩譜)。
寛文2・12・18○松山城下町の火消区域を定める(松山政法編集一)。
寛文3・3・1○松山の刀工三好国輝、和泉大瑑に任ぜられる(三好国輝家文書)。
寛文3・4・13○松平定長、四代将軍家綱の日光社参に際し江戸城警衛を命じられる(松山叢談四)。
寛文3・6・27○松山久万町出火、一三六軒焼失(松山年譜)。
        ○「本藩譜」万治三年六月二七日付にて同一文言の記事あり、また「本藩譜」には万治三年一一月二七日付で二〇二軒焼失の記事あり、年代の真偽不詳のため一応寛文三年に入れる。
寛文3・10・27○松山城、太鼓櫓より下尾谷門三の門脇の渡塀二五間崩落(本藩譜)。
寛文3・11  ○松山藩、三津浜魚問屋の売買に隠し言葉を作らせる(垂憲録拾遺)。
寛文3・12・5○松平定行、安芸広島よりカキ七〇俵を取り寄せ
       所々へ放流させる(本藩譜)。
寛文4・5・17○周布郡吉田村新田普請完成(松山叢談四)。
寛文4・10・29○火消番規定制定される。足軽頭・歩行頭・中間頭などに当番日を定めて、配下の者を統率させる(松山政法編集)。
寛文5・2・23○松平定長、江戸城西丸普請助役を命じられる(増田家記)。
(一六六五) 
寛文5・4  ○釣島牧へはじめて牡馬三匹・牝馬六匹を放つ(増田家記)。
寛文5・12  ○松山藩古未進米高一九万八、五七〇俵余の納入を免除する(垂憲録)。
        ○この日付「本藩譜」では寛文六年一二月二六日とするが、『愛媛県編年史六』にしたがい、寛文五年の項にて扱う。
寛文6・5  ○松山藩、町年寄中に作法を示す(松山政法編集)。
寛文6・7・4○松山洪水(垂憲録拾遺)。年代は『愛媛県編年史六』による。
寛文6・8  ○幕府の命により、松山藩預り所のうち宇摩郡北野村など三か村七二二石余を一柳直照に引き渡す(松山叢談四・西条誌一七)。
寛文6・11・7○不作のため酒造を制限し、新規の酒屋を停止する(松山政法編集)。
寛文7・6・1○幕府巡見使、藤堂庄兵衛・川口源兵衛・堀八郎右衛門、松山に入る(松山年譜)。
        ○これより先、伊予国の海岸を西海巡見使が通過、日程は四月晦日より五月一三日までであった。
寛文8・2・1○江戸大火、松山藩江戸上屋敷類焼する(松山年譜)。
寛文8・10・22○松山藤原町より出火一〇八軒焼失(松山叢談四)。
寛文9・5・11○松平定長、道後湯月八幡宮に社領二〇〇石を寄進する(本藩譜)。
寛文10・3・7○預かり地のうち、宇摩郡で六か村・周布郡で一か村、石高四、六二八石の地を西条藩主松平頼純へ引き渡す(松山叢談四)。
寛文10・5・5○浮穴郡上野村、藩有竹林に牛馬を放したり、竹を伐ったりしない旨の誓約書を出す(愛媛県編年史七)。
寛文11    ○大洲領替地山争論あり、今後は松山領伊予郡より、大洲領伊予郡へ無札で入り込み、草刈りをすることが許可される(本藩譜)。
(一六七三)    
延宝1・6・27○石手川の堤防決壊、城下町浸水激しく、西堀端付近では堀の土手に畳を運んで避難する。その後延宝二年五月五日大普請所に高瀬舟の準備が命じられる(垂憲録拾遺)。
延宝3・3・3○飢饉のため困窮者多く、救済のため小栗市場に小屋を設け、川普請を実施する。河原非人の始めという(垂憲録拾遺)。
延宝3・8・2○伊予郡で稲穂を盗刈りする者あり、両手の指二本を切り札の辻へさらす(垂憲録拾遺)。
延宝4・4・17○将軍の紅葉山参詣に際し、松山藩辻固めを命じられる。四月二四日の増上寺参詣の際も同様(本藩譜)。
延宝4・6・11○松山洪水(松山叢談五)。
延宝5・1・3○松山藩、大坂蔵屋敷法度を定める(松山政法編集)。
延宝5・6・13○松山藩、宇摩郡のうち三七か村一万三、五九一石余の地の預かりを免じられ、七月一四日幕府代官三田次郎右衛門へ引き渡す(松山叢談五)。
延宝5・10・27○松山城下町の地図が作成される(松山市役所旧蔵松山町内切図)。
延宝6・7・18○大風雨のため城下町で八〇三戸、郷村で一、五九四戸破損する(厳有院殿御実紀)。
        ○「津田家記」には、破損民家一、七九三軒とある。
延宝7・2・9○松山藩奉行高内又七親昌、領内諸郡に新令二五条を出し、春免実施について徹底をはかる(菅菊太郎氏旧蔵文書・岩城村教育委員会所蔵文書)。
延宝8・6・1○道後温泉の入浴規定を定める。一之湯は侍、二之湯は女、三之湯は雑人(増田文書)。
延宝8・8  ○久万山村々の庄屋、連判して夫米・小物成の免除を願い出る(曽根八千代蔵、入野村庄屋文書)。
(一六八一)    
天和1・4  ○巡見使駒井次郎左衛門・小田切喜兵衛・水野小左衛門ら松山に入る(松山叢談五)。
天和1・5・9○領内にキリシタンの制札を立てるよう布告される(垂憲録拾遺)。
天和1・6  ○幕府、越後国高田城主松平光長の所領を没収して、光長を松山城主松平定直に預ける(常憲院殿御実紀)。
天和1・10・15○松山藩、諸頭に対し養子に関する規定を出す(垂憲録拾遺)。
天和2・10・2○松山城下町で出火した場合、町人を消火活動に参加させるべく処置を定める(垂憲録拾遺)。
天和2・12・7○桑村郡石延村で地坪が実施される(桑村郡石延村田畑地坪水帳)。
天和3・1・11○野間郡波止浜塩田築造に着手する。三月九日汐留、八月七日初の製造塩藩主に献上(高浜家記)。
(一六八五)     
貞享2・12・4○大地震、道後温泉湧出停止し、松山城も石垣など崩壊する(津田家記)。
貞享3・③・15○大山祇神社へ社領として新田分を五〇石寄進する(三島大祝家譜資料)。
        ○「本藩譜」には貞享三年閏三月七日とある。『松山叢談五』に貞享二年閏二月七日とあるのは誤りであろう。
貞享4・9・7○松平定直、三の丸へ居館を建設中であったが、落成したので引き移る(松山叢談五)。
貞享4・12・24○松平定直、黄檗宗千秋寺へ和気郡の内で新田五○石を寄進する(千秋寺記)。
貞享4    ○松山藩、周布郡中山越を改修し、桜木八、二四○本を植える。代官矢野五郎右衛門源太の名により矢野桜と呼ぶ(周桑郡記録・予陽郡郷俚諺集)。
        ○「古実談」に、寛文七年矢野五郎右衛門が桜木二千本を植えた、とある。
(一六八八)    
元禄1・10  ○松平定直、道後宝厳寺へ田地二〇石を寄進する(草庵日誌)。
元禄2・3・7○松山藩、質地の年貢は質取主から納付するように命じる(松山政法編集)。
元禄3・1  ○松山城下町に消防組織ができる(松山町鑑)。
元禄4・8・18○松山藩、奉行、側役などの役料を定める。奉行役料は一〇〇俵、側役役料は二〇俵(本藩譜)。
元禄4    ○松山城下町、七一町の人口を調査する。総人口一万九、一七二人、うち奉公に出ている者二、五六八人(松山町鑑)。
元禄6    ○松山藩、生類憐れみ令発布により鹿座を廃止する(松山手鑑)。
元禄7・1・15○松山藩、城下町の借家を調査する。総合計二、九七八軒のうち三三三軒は明借家(諸事頭書控)。
元禄7・6・14○松山町方の宗門帳が提出される。総人口二万六六人、うち奉公人一、七三〇人(諸事頭書控)。
元禄7・9・23○松平定直、江戸城西丸普請助役を命じられる(常憲院殿御実紀)。
        ○「増田家記」によれば入用金一万六、七一九両・銀一二匁五分、「三田村秘事録」一万七、五一二両とある。
元禄8・2・8○江戸大火、六万七、四五〇軒焼失、この時松山藩三田中屋敷類焼する(増田家記)。
元禄8・7・4○松山藩、三津浜洲崎の川口改修を許可される(垂憲録拾遺)。
        ○「三田村秘事録」には元禄八年三月一五日とあり。
元禄9・11・19○浮穴郡久万町大火一九〇軒焼失(松山叢談五)。
元禄11・1・26○浮穴郡で仰西渠を開鑿した山之内仰西没する(法然寺過去帳)。
元禄13・6・22○松山藩、幕命によって国絵図を提出する(松山叢談五)。
元禄13・3・7○遊行上人松山へ来着、同月三〇日三の丸にて藩主定直と対面、四月三日松山を出発する。この時参詣する者九万四、二四一人、散銭四貫八四○目七分四厘(御先祖由来記・本藩譜)。
元禄14・4・17○松山長町出火し、西風強く大火となり一三六軒類焼する(本藩譜)。
元禄14・5・15○幕府の命により、領内の八〇才以上の人数を差し出す。男二八八人・女二七〇人、合計五五八人(本藩譜)。
        ○提出日「松山年譜」では一七日とする。
元禄15・2・11○江戸大火、二本榎屋敷類焼する(本藩譜)。
元禄15・5・21○松山藩、諸郡村々に盲人救助米を出すことを命じる(座頭瞽女勧物米請書之覚)。
元禄15・7・28○松山大風、松山城天守閣の鯱落ちる。潰家は侍屋敷二三軒・町家二〇軒・百姓家二、三八九軒、死者は一六人を出した(垂憲録拾遺)。
元禄15・⑧・18○新組三〇〇人を召し抱える。一か年一人に一二俵宛を支給する(増田家記)。
元禄15・11・26○秋の大風で被害を受けた諸郡へ救助米を支出する。周布・桑村郡へは七〇〇俵ずつ、野間・風早郡へは五〇〇俵ずつ、久万山へは五〇〇俵、伊予郡へは三、〇〇〇俵を配布(垂憲録拾遺)。
元禄15・12・15○松平定直、赤穂浪士大石主税ら一〇名を三田中屋敷に預かる(常憲院殿御実紀)。
元禄16・2・4○松平定直預かりの大石主税ら一〇名、切腹する(常憲院殿御実紀)。
元禄16・11・18○松山藩江戸三田中屋敷類焼する(松山叢談五)。
(一七〇四)
宝永1・8・23○領内大風雨、損米三万三、八八八石、潰家一、二〇〇軒(松山叢談五)。
        ○「本藩譜」には元禄一六年とする。
宝永1・10・18○信州善光寺方丈松山大林寺へ来る。翌一九日より二五日までの参詣人一二万六、二六二人、寄銀二九貫八〇〇目余(御先祖由来記)。
宝永1・12・25○松山藩、幕府から銀札発行の許可を得る(津田家記)。
        ○通用期間は六か年とされる。銀札発行のはじめ。
        ○「松山年譜」によれば、宝永二年六月七日より領内銭札通用を許さる、と記す。
宝永2・6  ○松山藩、銀札通用を始め、同五年まで続く(三田村秘事録)。
        ○「松山編年覚」によれば、壱分より壱匁までは白杜、五匁札は黄札、拾匁札は赤札。
宝永3・3・2○銀札のにせ札が発見されたため、銀札の通用を停止して別札に引き替える(六日より)方針を発表、一〇匁札・一匁札については六月一五日より改判を加えて通用させることとする(慶蔵むかし噺)。
宝永4・8・19○大風雨、損毛二万一七九石(津田家記)。
宝永4・10・4○大地震、道後温泉湧出停止する(垂憲録)。
        ○「垂憲録拾遺」によれば、再入湯許可は宝永五年四月一日とある。
宝永4・10・13○幕府、藩札の通用を布達の日より五〇日以内に停止せよと命令する(常憲院殿御実紀)。
        ○「慶蔵むかし噺」によれば、松山藩においては、一〇月二六日に通達発令一二月一六日より通用停止、但し遠方の者については宝永五年春までの引き替えで良い旨を通達、とある。
宝永4    ○松山城下の町年寄、年頭御礼を復活し、その順を定める(松山手鑑)。
(一七〇八)
宝永5・1・17○銀札の引き替えを月末で停止すると布達する(諸事頭書控)。
宝永5・①・7○幕府、諸国村々に対し高一〇〇石につき二両を上納するよう命じる。松山藩では三、〇〇〇両を藩が代納し、その後百姓から徴収する(常憲院殿御実紀・御先祖由来記)。
宝永5・3  ○松山藩、御城米一、五〇〇俵を大坂へ回送する(松山手鑑・諸事頭書控)。
宝永5・4・21○松山領内の煎茶の売買を松山・久万山の茶仲間のみに許可する(諸事頭書控)。
宝永5・10・11○松山藩、材木商人の願いによって鑑札のない者の商売を禁じる(諸事頭書控)。
宝永5・11・27○三津浜大火、三六〇軒余を焼失する(諸事頭書控)。
宝永6・3  ○松山藩、酒運上を免除する(松山手鑑)。
宝永6・4・12○松平定直、幕府から前将軍綱吉の霊廟普請の助役を命じられる(文昭院殿御実紀)。
宝永7・5・24○幕府巡見使、宮崎七郎右衛門・筧新太郎・堀八郎右衛門、松山領へ入る(本藩譜)。
宝永7・8・13○松山藩、幕府の紅葉山普請などへの出費多く、本年より正徳四年までの五年間、知行取・切米取ともに一割六分の減俸を行う(増田家記)。
        ○「本藩譜」に、御引米の始なり、とある。
宝永8・2・26○浮穴郡久万町村大火、一九六軒を焼失する(増田家記)。
        ○「垂憲録拾遺」には、一六〇軒焼失とある。
宝永8・2・28○温泉郡味酒村より出火、二二〇軒余を焼失する(松山編年記)。
        ○「本藩譜」には二二四軒とも三四一軒ともあり軒数不詳。
(一七一三)     
正徳3・2・5○松山城下代官町より出火、三三三軒焼失する(津田家記)。
正徳3・5・2○松山藩儒、大高坂芝山没する(松山叢談五)。
正徳3・5  ○松山藩、領内に対し石手川瀬掘人足を町方二万人、郷方一万人徴収する(温泉郡御用日記)。
正徳3・12・17○もと松山阿沼美神社祠官、大山為起没する(松山叢談五)。
正徳5・12・13○松山藩、従来町奉行管轄であった寺社統制のために寺社奉行を置く(手鑑)。
(一七一六)
享保1・②・18○松山城下杉谷より出火し、武家・町家一八九軒を焼失する。世に安東(藤)火事という(津田家記)。
        ○「松山編年記」に火元安藤孫兵衛とある。
享保2・3・5○豊前国中津城引き渡しのため幕吏出張し、松山藩主松平定直・宇和島藩主伊達宗贇に乗船用務を命じる(松山府要)。
享保2・4・13○幕府巡見使、津田外記・駒井求馬・大久保源右衛門、松山領に入る(御先祖由来記)。
享保2    ○石手川筋浚えのため新規に普請組一五〇人を召し抱える(本藩譜)。
享保3・4  ○松山藩、町家の武家に対する礼式を申し渡す(予
       陽老諺集)。
享保3・5・9○松山藩、道後温泉囲養生湯の入浴規定を公布する(松山政法編集)。
享保4・3  ○松山藩、幕命により抜荷調査をする(明神佐五右衛門御用日記)。
享保5・2  ○石手川瀬掘人夫一万五、〇〇〇人を領内に割り当てる(松山手鑑)。
享保5・10・24○松平定直、二男定章に一万石を分知したい旨を願い出る。一二月一一日幕府より許可される(松山叢談五・有徳院殿御実紀)。
享保5・12・25○和気郡三津大工町より出火、一八〇軒を焼失する(本藩譜)。
        ○「松山編年記」に同月二三日、五六軒焼失との記事あり。
享保6・3・15○和気郡三津浜の大市始まる(味酒神社年代記)。
享保6・6・12○松山藩領越智郡登畑村と今治藩領越智郡国分村との間に水論がおこる(今治拾遺)。
享保6・7・23○松山藩、幕府勘定所へ領内の田畑面積を報告する。田は一万三、二〇三町余、畑は五、〇五四町余、新田は九七四町余、新畑は三三五町余(本藩譜)。
享保6・⑦・15○石手川洪水により、三万五、〇六五石余の損毛、八八九軒の家屋流失、七二人の死者を出す。同月二一日復旧のため城下町へ一万五、〇〇〇人、三津町へ五、〇〇〇人の出夫を命じ、家中からも一〇〇石につき一〇人の人夫を出させる(本藩譜・垂憲録・松山政法編集)。
享保6・⑦  ○松山藩、宇摩・新居・伊予三郡のうち一万一、〇〇〇石の幕府領を預かる(増田家記)。
        ○「垂憲録拾遺」に引き渡しは九月一日とある。
享保7・3・27○松山藩、藩士に対し女子の出生も男子と同様に届け出るように命じる(松山政法編集)。
享保7・6・23~24○暴風雨のため、領内の被害甚大、流家三〇七軒、潰家一、一七一軒、死者八八人、川成砂入などの田畑三、二六二町余(御先祖由来記)。
享保7・7・3○幕府の命により、当年より享保一五年まで一万石について一〇〇石を上米する。これにより参勤在府期間半減となる(本藩譜・有徳院殿御実紀)。
享保7・7・5○領内に楮を植えさせる(明神佐五右衛門御用日記)。
(一七二三)    
享保8・1・20○松山藩、和気郡三津浜富場所の請元を入札によってきめる(相良永代録)。
享保8・2・20○松山藩、石手川普請の着手につき心得方を指令する(松山政法編集)。
享保8・5・15○松山藩、西条浪人大川文蔵を河川修復普請のため召し抱える(本藩譜)。
        ○「増田家記」には一二月一六日とある。
享保8・12・6○浮穴郡窪野・久谷両村を、里分から久万山分に所属替させる(浮穴郡二五か村手鑑)。
享保9・9・7○松山領松前浜と大洲領郡中浜の入会について、万治元年の先格が再確認され、他所網の入漁は許されないこととなる。(松前浜村庄屋日記)。
享保9    ○この年旱魃の被害が多い。七〇年来の旱魃との口碑あり(松山編年記)。
享保11・3  ○三津浜町問屋、松山町方が生綿・竹木などの商売を独占しようとしたのに対し、町奉行所に願い出てこれを中止させる(相良永代録)。
享保11・11・15○倹約令を出す。家中には減俸を布達し、町方より借用の五年賦銀は返済を延期し、本年は利子のみの支払いとする(松山政法編集)。
享保11・12  ○松山藩、質入れについての心得を布達する(相良永代録)。
享保12・4・7○松山城外堀土居の竹が枯れたので、松に植え替えたい旨願い出、九月一九日竹藪を取り除き松を植樹する(本藩譜)。
享保12・5・27○松山藩、借家についての規則を定める(松山手鑑)。
享保12・6・7○越智与八郎大三島へ帰参、大祝職に復帰する(増田家記)。
享保12・6  ○松山新田藩松平定章、駿府城番を命じられ、松山より足軽・中間六〇人を派遣することとなる(御先祖由来記)。
享保12・10・15○松山藩、翌年四月に実施される将軍吉宗の日光社参の警衛を命じられ、入用銀を郷町に割り当てる(相良永代録)。
享保13・3・25○松山藩、領内より石手川瀬掘人足を徴収する。越智郡からは七〇〇人を出す(朝倉武田文書・松山手鑑)。
享保13・5  ○松山藩、石手川洪水時における町方の水防場所を割り付ける(松山手鑑)。
享保14・4  ○松山藩、諸物価の引き下げを命じる(遠山日記)。
享保14・9・14○領内暴風雨による被害が大きい(味酒社年代記)。
享保14・9・21○松山藩、財政困難のため領内に倹約を命じ、郷町より御用金を借用する(遠山日記)。
享保14・⑨・18○松山藩、藩士の減俸率を増加し、知行取り二〇〇石以上の者は六割引きとする(遠山日記)。
享保15・7・28○幕府が六月四日に藩札の通用を解禁したので、本年より一五年間の銀札通用を届け出る(本藩譜)。
享保15・10・21○松山藩、藩士に本年の引き米を中止すると布達する(松山政法編集)。
        ○減俸は享保一六年より復活する。
享保17・5・26○松山城の御用米一万石のうち三、〇〇〇石を宗対馬守に渡すよう命じられ、七月に渡す(本藩譜)。
享保17・⑤・10○雨天続き、諸河川増水し、この日から久米郡和泉村では石手川増水のため対岸との交通が途絶、温泉郡畑寺村大洲原池が決壊する(西岡家記)。
享保17・7・1○諸郡とも稲虫(うんか)の害発生し、道後八幡宮にて祈禱、続いて諸郡でも虫祈禱を実施する(西岡家記)。
        ○以下同様の記事多数あるも略す。
享保17・7・13○松山藩、他所米買い入れについて三津町に指示を与える(相良永代録)。
享保17・7・20○松山藩、領内不作のため藩士に人数扶持を行う(増田家記・遠山日記)。
享保17・8・5○松山藩の買い入れ米一、〇〇〇俵、尾道より三津に着く(相良永代録)。
享保17・8・11○諸郡難渋者のため、銀札一匁につき米五合の割合で廉売を実施する(西岡家記)。
        ○八月一日の相場は銀札一匁につき米二合八勺であった。
享保17・9・23○伊予郡筒井村農民作兵衛餓死する(監察所記録)。
享保17・9・24○松山藩、藩士救済のため銀札を給与する(遠山日記)。
享保17・10・7○松山藩、幕府から飢人救済のため今治へ差し回しの米を買い入れる(遠山日記)。
享保17・11・8○松山藩(一万二、〇〇〇両)・松山新田藩(二、〇○○両)への貸付金、翌九日に渡されることが決定する(虫付損毛留書)。
享保17・12・7○幕吏井戸平左衛門、御用米改めのため松山へ来る(増田家記)。
享保17・12・19○松山藩主松平定英、領内から餓死者を多く出したため幕府から差し控えを命じられる(松山政法編集・有徳院殿御実紀)。
享保17・12  ○松山藩、餓死人五、七〇五人と報告する。伊予国の餓死人は享保一八年一月までで五、八一八人となる(虫付損毛留書)。
(一七三三)    
享保18・1・5○松山藩目付山内久元ら、藩命により飢饉の被害状況を調査する(西岡家記)。
享保18・1・25○幕府より御用米七、〇〇〇石のうち六、三〇〇石を大坂に回米し大坂城代に渡すよう指令あり、家老奥平弾正・勘定奉行新村七太夫・目付三浦正左衛門上京する(西岡家記)。
享保18・1  ○諸郡へ救済のため、塩・味噌・あらめ・薪などを支給する(西岡家記)。
享保18・1  ○松山藩、奉公人・寺社・町方に対し昨年の屋敷年貢を免除すると布達する(相良永代録)。
享保18・5・1○松山藩、本年の年貢を軽減する(越智久栄氏所蔵文書)。
享保18・9・5○松山藩、飢饉に際して適切な処罰を執らなかったとして、家老奥平貞継・久松庄右衛門らを処罰する(山内家記)。
享保18・11・11○松山藩、寺社奉行を廃し、町奉行管轄に復する(松山手鑑)。
享保18・12・16○河合理兵衛・吉田忠八屋敷を召し上げ、郡会所とする(本藩譜)。
享保18・12・27○諸郡の代官を廃し、郡奉行五人が兼務することとなり、各々へ役料四〇俵を支給する(本藩譜・増田家記)。
享保18    ○松山藩、札の辻に目安箱を設ける(松山政法編集)。
享保18    ○松山藩、湯之町の芝居・湯女を許可する(味酒神社年代記)。
享保19・1・25○道後御茶屋・丹原御茶屋を売却する(増田家記)。
享保19・2・4○和気郡三津町の富商売許可される、大富は月三回と規定される(相良永代録)。
享保19・3・4○「燕居偶筆」の著者、松山藩儒者大月履斎没する(千秋寺大月履斎墓碑銘)。
享保19・5  ○松山藩、山奉行を郡奉行の支配とする(北条高橋文書)。
享保19・10  ○三津問屋、入津する生綿へ口銭を課するため、入船が減少するとして、綿歩(生綿一斤につき一銭)の免除を嘆願する(相良永代録)。
享保20    ○松山藩、年貢率を減じた代償として差上米を要求する(浮穴郡二五か村手鑑)。
(一七三八)
元文3・5・17○駄賃規定される。三津浜まで四〇文、堀江・松前まで五二文、古町小回一俵に付五文、外側まで二七文(松山手鑑)。
元文4・8・5○暴風雨、損毛一万四、○六五石余あり(増田家記)。
元文5・6・1○松山藩、郷町より出銀させ、藩士のうち希望者に月一割五分の利子で貸し付ける(松山政法編集)。
元文5    ○松山藩、領境・郡境・一里塚を石標に改める(松府古士談)。
        ○「垂憲録拾遺」には、寛保元年三月とある。
(一七四一)     
寛保1・3・7~11○浮穴郡久万山農民、紙方新法により困窮倍加し強訴をはかり久米村まで出る(久万山出訴一件覚書)。
寛保1・7・5~8・13○浮穴郡久万山農民、再び村出をはかり、奉行久松庄右衛門の説得にもかかわらず大洲領まで逃散したが、久万町村菅生山大宝寺住職斉秀の説諭により帰村する(増田家記・常羊亭坐右録)。
寛保1・7・22○領内の風雨による損毛一万四、〇八三石余と報告したが、その後不熟増加し、合計六万四、五六九石余の損毛となる(本藩譜)。
寛保1・7・27○松山藩、領内の酒造家などに課していた運上を免除する(松山叢談七)。
寛保1・8・15○松山藩、家老奥平久兵衛貞国らを、久万山騒動の元凶として処罰する(垂憲録拾遺)。
寛保1・12  ○松山藩、道後温泉入浴規定を改定し布達する(松山政法編集)。
寛保2・2・1○松山藩、藩士に対し救米を給付する。知行高一〇〇石につき三俵の割合(松山政法編集)。
(一七四四)     
延享1・8・10○暴風雨により二万六、五〇〇石余の損毛となる(増田家記)。
延享1    ○松山藩、享保一八年以来の年貢減免措置をやめ旧に復する(浮穴郡二五か村手鑑)。
延享2・8  ○松山藩、元文三年に規定した駄賃を改定し、一割五分の増加を認める(松山手鑑)。
延享3・2・3○石手川の瀬掘人足三、〇〇〇人を徴集(松山手鑑)。
(一七四九)
寛延2・2・20○松山藩、知行高一〇〇石について三俵の救助米を藩士に支給する(松山政法編集)。
寛延3・4・3○石手川の瀬掘人足五、〇〇〇人を徴集(松山手鑑)。
寛延3・12・16○松山藩、本年の旱魃による損毛高が四万二、〇五九石であった旨を幕府に報告する(松山年譜)。
(一七五二)    
宝暦2・10・19○松山藩、領内で托鉢僧が奈良興福寺再建のための勧進を認める(松山藩郡奉行所日記)。
        ○同月二九日には城下町で京都法輪寺の勧進が行われている。
宝暦3・8・5○松山城の御用米残高六六二石五斗であったが、幕府の詰め戻しにより一万石に復する(本藩譜)。
(一七五三)     
宝暦3・10・23○松山藩、藩士の困窮を救済するため、借用銀の半額を立て替える(松山政法編集)。
宝暦4・5・4○松山藩、倹約令を出す(松山政法編集)。
宝暦5・8・1○正徳元年に甘藷を伊予に持ち帰り、伝播させた功労者下見吉十郎没す(芋地蔵墓碑銘・下見吉十郎宿報謝帳)。
宝暦5    ○松山領浮穴郡森松村と大洲領浮穴郡麻生村との間に水論がおこる(大洲旧記)。
宝暦6・4・9○風早郡佐古村農民、松山城下に出て困窮を訴える(松山藩郡奉行所日記)。
宝暦6・4・10○松平定喬、箆刀役を命じられ、領内から箆刀竹を求める(松山藩郡奉行所日記)。
宝暦6・4・25○松山藩、重信川流域伊予郡諸村の川筋普請出来方改について、通達を出す(松山藩郡奉行所日記)。
宝暦7・7・26○大風、一二月一一日この年の損毛高三万一、八五四石余と幕府に報告する(増田家記・松山年譜)。
宝暦10・1・23○松山藩、米穀の価格が下落したので、城下町の商人に対し諸物価の引き下げを命じる(松山藩裁許状)。
宝暦10・4・3○松山藩、領内の米相場を定める。平均三四匁三分余(松山藩裁許状)。
宝暦10・10・4○松山藩、領内農民から借米する(松山藩郡奉行所日記)。
        ○元米八、〇〇〇俵、利米一、二八〇俵
宝暦10・10・16○松山藩、米商売の不正を禁じ、条目を公布する(松山藩裁許状)。
宝暦11・2・1○松山藩、倹約のため藩士の使用人の減員を命じる(松山政法編集)。
宝暦11・4・18○幕府巡見使、大河内善兵衛・市岡左膳・遠山織部、松山城下町に着く(松山叢談七)。
宝暦12・夏  ○松山領浮穴郡森松村など二四か村と同郡大洲領・新谷領麻生村など四か村との間に水論がおこる(大洲旧記一一麻生村)宝暦13・10  ○松山藩、御仕法心得を布告する(松山藩未歳御仕法御書付)。
宝暦13・11・19○松山藩、藩札通用の規定を公布する(松山政法編集)。
(一七六五)   
明和2・5・16○松山藩、数寄屋橋より日比谷門までの堀浚えの手伝いを命じられる(松山叢談九)。
明和2・7・25○松山藩、桑村・越智二郡のうち一万石を上地する(松山政法編集)。
        ○「増田家記」によれば、受取役人来松は二二日、代官竹垣庄蔵の管轄になるとある。七月二五日は引き渡し終了の日である。
明和4・2・17○松山藩、一〇匁・五匁の新銀札を作り、旧銀札と引き替えるための規定を布告する(松山政法編集)。
明和4・7・7○松山藩、家中に対し一〇〇石について銀札二五〇目の割合で貸し付けを行う(松山政法編集)。
明和4・12・5○松山藩、財政困難のため来年七月から三か年間家中人数扶持を申し渡す(松山政法編集)。
        ○これまでの人数扶持実施は、享保一七年・元文二年一二月~三年一〇月・明和二年七月~三年六月の三回であった。
明和5・3・17○和気郡祝谷村常信寺山内に東照宮が勧請され、同年四月常信寺において徳川家康一五〇回忌法要を実施する(松山叢談九)。
明和5・3・24○松山藩、人数扶持期間中の倹約について規定をつくる(松山政法編集)。
明和5・7・24○松山藩、今年から差上銀を領内に命じる。その内訳は郷中より一万五、〇〇〇俵、町方よりは銀一二○貫ずつ五か年間継続とする(松山大年寄役所記録)。
明和5・8・14○松山藩、紙方仕法を定め、領内で産出する紙はすべて藩が買い上げることにする(松山大年寄役所記録)。
明和5・10・11○松山城下大火、二〇〇軒余を焼く(松山大年寄役所記録)。
明和6・7・29○松山藩、町方役所以外の機織り取り引きを禁じる(松山大年寄役所記録)。
明和6・10・27○松山城下町人、郡方の農民に対して貸し付けた銀米の返済方法についての藩令を不服として、営業停止などの手段で反抗する(松山大年寄役所記録)。
明和6・12・25○松山藩、郷町間の取り引きの不正をいましめる(松山大年寄役所記録)。
明和7・2・17○周布郡山方七か村農民騒擾、代官らの説諭でおさまる(松山大年寄役所記録)。
明和7・5・1○松山藩、先年上地した償いとして、諸村における新田を表高に編入し一五万石に復するよう朱印状を賜わる(松山政法編集・松山藩勘定所記録)。
明和7・7・1○松山藩、商売の便をはかり金融を講ずる(松山大年寄役所記録)。
明和7・12・26○松山城下町大火、九五〇軒余を焼く(増田家記)。
明和8・6  ○松山領伊予郡神崎出作村・徳丸村と大洲領・幕領諸村との間に水論が起こる(加藤家年譜)。
明和8・11・19○松山藩、当地米下落のため、家中暮渡し分を瀬戸内売米の値段で銭札渡しにすると布達(松山政法編集)。
(一七七二)   
安永1・12・22○松山の俳人、河端五雲没する(河端家記)。
安永2・10・10○松山藩、知行・切米・諸渡米について規定し、手形には今後裏判が必要であると布達する(松山政法編集)。
安永3・2・23○備中代官所で取り調べ中の大洲領と松山領との水論が裁決され、下麻生村組頭など処罰される(御替地古今集)。
安永4・9  ○松山城下町人三宅勘十郎ら、家質場所設立を許される(三宅家記)。
安永4    ○和気郡三津浜に塩浜出来、三津元締片山三郎右衛門に管理させる(本藩譜)。
安永5・8・7○松山藩五か年間増駄賃を許す(松山手鑑)。
        ○三津まで五四文、堀江まで七三文、松前まで一四一文、古町まで一四文、外側口まで一〇文。
安永6・4・15○松山藩、伊予郡筒井村に義農作兵衛の碑を建てる(三田村秘事録)。
        ○碑建立のため伊予郡二四か村より三六三人七分の人足を出す。碑銘は丹波南陵作。
安永6    ○松山藩瓦株仲間結成(五三株)、うち野間郡浜村に二六株あり(菊間町誌)。
安永9・9  ○松山円光寺の僧明月、扶桑樹伝を著す(扶桑樹伝序)。
(一七八一)     
天明1・5・13○野間郡波止浜、米津留の免除を願い出て許される(慶蔵むかし噺)。
天明3・8・11○洪水のため伊予郡下高柳村で重信川土手一〇〇間余決壊する(増田家記)。
天明3・12・14○松山藩、藩士に対し門松は枝松を用いるようにと命じる(松山政法編集)。
天明3・12・24○松山藩、本年の大雨による損毛を二万四、九三○石余と幕府に届け出る(松山叢談一〇)。
天明4・1・1○松山城天守閣、雷火のため焼夫する(増田家記)。
天明4①1・7○松山河原町より出火、一〇〇余軒を焼く(本藩譜)。
天明4・2  ○松山城下町の町勢調査が実施される。本家数一、八六八軒、借屋数二、三八三軒(松山町鑑)。
天明4・8・15○松山藩、宝暦四年に続いて倹約令を出す(松山政法編集)。
天明4・12・17○松山竹之鼻町より出火一〇〇余軒を焼く(松山叢談一〇)。
天明5・12・20○領内の旱魃による損毛局一万六、四二八石と幕府に届け出る(本藩譜)。
天明6・11  ○浮穴郡直瀬村百姓の訴訟一件について取り調べが行われる(本藩譜)。
        ○事件の解決は一二月五日。
天明7・2  ○土佐国農民、松山領久万山大宝寺に逃散してくる(松山叢談一〇)。
天明7・3・27○久米郡日瀬里・来住村農民、大洲領宮ノ下村に逃散する(松山叢談一〇)。
天明7・4  ○松山城下の町人ら、商売不振をなげき、郷方商人を城下町に移住させるよう願い出る(唐人町役人記録)。
天明8    ○松山藩、人参座元を廃して自由に作らせる(慶蔵むかし噺)。
(一七八九)    
寛政1・1・4○松山藩、禁裏御所普請の割当金七七二両二歩を納める(松山叢談一〇)。
寛政1・4・14○幕府巡見使、池田雅次郎・諏訪七左衛門・細井隼人、松山に着く(増田家記)。
寛政1・6  ○松山城下町の新立に永久橋が架けられる(増田家記)。
寛政1・9・15○松山藩、幕府より一万石につき五〇石の囲籾を命じられ、明年より五か年の間貯穀を実施することとなる(増田家記)。
寛政2・2・15○松山藩、藩士の困窮を救うため、表御別銀および家中貯銀の中から、高一〇〇石について五〇○目の割合で貸し付けを実施する(松山叢談一○)。
寛政2・12・20○松山藩、天明六年よりの倹約令にもかかわらず財政が好転しないため、更に五か年の倹約を続行すると布達(松山政法編拾遺)。
寛政2・12・23○松山領の旱魃による被害を七万四、五〇八石と報告する(松山叢談一〇)。
寛政2    ○松山藩、領内郷町などの店に対して取り扱い品目制限を布達する(和田茂樹氏所蔵文書)。
寛政4・7・26○松山領大風雨、一二月一二日損毛高を五万二、六〇九石余と報告する(増田家記)。
寛政4    ○町方で使用する馬四四疋、宝永六年の八一疋より大巾に減少する(松山手鑑)。
寛政5・2・7○松山藩、幕命によって異国船漂流に際しての警備体制を整え、幕府に報告する(増田家記)。
寛政5・5・22○松山藩、幕府より松山生姜一〇貫目を毎年献上するよう命じられる(増田家記)。
寛政9・3  ○綿実問屋がこれまで納めていた運上銀を、今後は町奉行所用銀として徴収するように改める(松山町鑑)。
寛政9・7・6○信州善光寺如来、大林寺へ来る。七日より一六日までの参詣者は一六万六四三人、賽銭は四六○両(増田家記)。
(一七九八)
寛政10・3・1○松山藩、参勤帰城の時の送迎の規定を改め、一部藩士は途中送迎とする(松山叢談一〇)。
寛政10・5  ○松山藩、町奉行を古町・外側に二分する(松山手鑑)。
寛政10・12・23○松山藩、山田五郎兵衛一件に関係した家老菅五郎左衛門らを処罰する(増田家記)。
寛政11・10・15○松山藩、藩士に対し高一〇〇石について銭札五○○目の割合で貸し付ける(増田家記)。
寛政11・10・24○松山領内の損毛高を六万七、〇一五石と報告する(増田家記)。
寛政12・2・22○松山領野間郡波方村農民の逃散を波止浜庄屋らが説得して帰村させる(慶蔵むかし噺)。
(一八〇一)    
享和1・6・13○松山藩、藩士の末期養子について規制し、五〇歳以上の者については受理しない旨布達する(増田家記)。
享和3・①・19○松山藩の借財四五万俵に達し、七月より文化三年六月までの間、五割渡しとする(本藩譜)。
享和3・3・25○松山藩、享和二年五月一八日の雨で崩壊した石垣の修理願を提出する(松山叢談一〇)。
享和3・8・9○桑村郡壬生川村で農家一〇九軒を焼失する(増田家記)。
(一八〇四)     
文化1・3・27○風早郡宮野村農民、大洲領小浜村に逃散する(加藤家年譜)。
文化1・8・29○領内風雨による破損多し、一二月一五日損毛高を三万五、〇五八石余と報告する(増田家記)。
文化1・10  ○伊予郡松前浜で築港工事はじまる(増田家記)。
文化1・12・20○幕府より囲籾を命じられる。松山藩囲籾割当高一万五、〇〇〇俵(松山叢談一一)。
文化2・6・23○松山藩、幕府より東海道筋河川の修理を命じられる。入用金一万八、五二四両余(増田家記)。
文化2・10・23○松山藩、東海道筋河川修理のため囲籾困難と嘆願し、同月二七日囲籾に及ばすとの回答を得る(本藩譜)。
文化3・12・22○本年夏の旱魃による損毛高を一万三、四三二石と届け出る(本藩譜)。
文化4・1・11○越智郡岡村の農家一一三軒を焼失する(増田家記)。
文化5・1・14○昨年夏の降雨による損毛を一万四、五九三石余と報告する(本藩譜)。
文化5・3  ○久万町村で農家一〇二軒を焼く(増田家記)。
文化5・7・20○幕領預り年限を五か年延長する旨通達がある(増田家記)。
文化5・8  ○伊能忠敬、領内を測量する(伊能忠敬測量日記)。
文化6・5・8○松山藩、絞油不足のため、菜種綿実の作付けを増加するよう通達する(増田家記)。
文化6・12・9○松山藩、藩士救済のため高一〇〇石につき、銭札三〇〇目を給与する(定通公時代公文集)。
文化6・12・22○夏の旱魃による損毛を七万六、三五八石余と届ける(増田家記)。
文化7・2・5○松山藩、昨年の旱魃の被害が大きかったため、囲籾を使用することを願い出る(松山叢談一二)。
文化8    ○温泉郡北吉田浜手新田を開墾する(草庵日誌)。
文化10・9・23○松山藩、幕領越智・桑村両郡を引き続き預かる(増田家記)。
文化10・11・25○松山藩、藩士に二〇年賦で銭札を貸し付ける。高一〇〇石の場合、銭札二貫目、利息は六歩と定める(増田家記)。
文化11・8・14○松山藩、経書講釈の日を定め、諸役人に聴聞を命じる(増田家記)。
文化11・8・21○松山の俳人、栗田樗堂没する(栗田家系譜)。
文化11・12・26○夏以来の旱魃による損毛高を四万六、一〇七石余と報告する(増田家記)。
文化12・12・22○松山藩、明年より豊凶に応じ俸禄の渡し方を増減すると布達する(定通公時代公文集)。
文化13・12・12○松山藩町奉行、儒学者の宇佐美淡斎没する(宇佐美淡斎碑文)。

文化14・2・12○昨年の損毛局を一万三、六一八石余と報告する(松山叢談一二)。
文化14・12・1○本年の損毛局を二万一、一六○石余と報告する(松山叢談一二)。
文化14    ○松山城下立花口に岩国の算盤橋を模した堯音橋が出来る(松山叢談一二)。
(一八一八)    
文政1・3・20○松山藩、通用米手形について心得方を示し、手形に判鑑を添えるよう布達する(定通公時代公文集)。
文政2・10・14○松山藩、日光廟修理を命じられたため、領内から銀米を調達する(定通公時代公文集)。
文政2・12・4○松山藩、米価が下落して米手形が処分できないので知行、扶持米、切米を札渡しとする(定通公時代公文集)。
文政3・1  ○松山町方貯銀のうち一、〇〇〇両を町奉行所に預ける(松山町鑑)。
文政3・3・5○浮穴郡久万町村で一五五軒を焼失する(増田家記)。
文政3・4・17○松山城天守閣再建のため普請奉行を任命する(松山叢談一二)。
文政4・12・20○松山藩、町方へ藩債として永久銭札の差し出しを求め、銭札一〇貫目に対し年八俵の米を永久に与えることとする(御触状控帳)。
(一八二三)
文政5・6・30○松山藩、町人に対し大三島新地の富くじなどに行くことを禁じる(御触状控帳)。
文政5・8・7○松山藩儒杉山熊台没する(欽慕録)。
文政6・9・12○松山藩、享保以来の凶作とされる旱魃のため、一一月より家中人数扶持を布達する(増田家記)。
文政6・12・19○当年の損毛高を一一万六、二五八石余と報告する(松山叢談一二)。
文政6    ○松山藩、浮穴郡久万山諸村に救米を給する(永代日記)。
文政6    ○領内各地で旱魃のため水論がある(草庵日誌・浮穴郡二五か村手鑑)。
文政7・⑧・1○松山藩、財政立て直しの具体策を作成し、郷町へ御用銀米などを命じる(定通公時代公文集)。
文政8・2・27○浮穴郡久万町村で大火があり、町家を残らず焼失する。これ以後瓦葺が許可される(永代日記・増田家記)。
文政8・6・3○松山地方大雨洪水のため石手川堤防切れ、出合付近の被害甚大となる(増田家記)。
文政8・11・27○水損による被害を四万一、四二一石と報告する(本藩譜)。
文政9・3  ○松山藩、浮穴郡久万山に楮苗一、〇〇〇本につき植付入用として銭札二〇目ずつを与え、紙役所に手配させる(永代日記)。
文政9・4・5○重信川出水のため、出合渡船が転覆して売魚婦二五人溺死する(増田家記)。
文政9・5・21○石手川洪水、流死人八〇人余を出す(増田家記)。
文政10・1・19○昨年の水損を五万五、九七八石余と報告する(松山叢談一二)。
文政10・⑥・13○浮穴郡久万町村と菅生村との間に天満川関についての水論があり役人が出張する(永代日記)。
文政10・8・10○松平定通、文武修練所を一か所に設けることを命じる(増田家記)。
文政10・12・26○本年の損毛を四万六、四四四石余と報告する(松山叢談一二)。
文政11・1・30○松山藩、文武修練所を設け、明教館と命名し、規定を作る(松山叢談一二)。
文政11・10・12○松山城下、藤原弓の町に火災があり二一一軒を焼く(松山叢談一二)。
文政11・10  ○松山藩、文政七年以来禁止していた篠巻売買を門屋八郎右衛門らに許可する(御触状控帳)。
文政11・11・22○本年の損毛高を五万三、七二九石余と報告する(松山叢談一二)。
文政12・12・7○松山藩、讃岐国のうち幕領五、三八〇石余の地を預けられる(松山叢談一二)。
文政12・12・9○本年の損毛高を二万八、二三八石余と報告する(松山叢談一二)。
(一八三〇)     
天保1・2・14○松山藩、郡方の差上米皆済を賞して歌舞伎などの興行を許す(定通公時代公文集)。
天保1・5  ○松山藩、許可なくおかげ参りに行くことを禁じる(御触状控帳)。
天保1・6  ○松山藩、追放人に対して焼印を施す(松山叢談一二)。
天保1・12・29○本年の損毛高を二万一、九三〇石余と報告する(松山叢談一二)。
天保2・9・15○松山藩、軍制を旧に復する(松山叢談一二)。
天保2・11・5○松平定通、三津で砲術を行わせる(松山叢談一二)。
天保2・11  ○松山藩、町方がみだりに苗字を名乗ることを禁じる(御触状控帳)。
天保2・12・1○夏の大風雨損毛高を一万六、〇二四石余と報告する(松山叢談一二)。
天保3・3  ○宗門小改、領内の人口一七万五、七二七人あり(松山叢談一二)。
天保3・5・23○松山藩、幕府より三万両の上納金を命じられる(松山叢談一二)。
天保3・9・19○松山藩、家中郷方へは出米を、町方へは出銀を命じる(定通公時代公文集)。
天保3・12・13○本年の損毛高を一万六、〇二七石余と報告する(松山叢談一二)。
天保4・1・20○松山藩、家中一五歳以下の者に養正舎で学ぶように命じる(定通公時代公文集)。
天保4・2・22○松山藩出身、幕府翻訳方の青地林宗没する(事実文編)。
天保4・12・7○本年の損毛高を一万三、三九一石余と報告する(松山叢談一二)。
天保5・2・15○松山藩、預所讃岐国那珂郡榎井村、金比羅町の農民の乱暴取り締まりのため役人を派遣する(松山叢談一二)。
天保5・2  ○松山藩、質屋以外の質商売を厳禁する(御触状控帳)。
天保5・10・2○松山藩、昨年・一昨年の町方出銀高のうち半分を返済すると申し渡す(御触状控帳)。
天保5・10・5○松山藩明教館教授高橋復斎没する(松山叢談一二)。
天保7・11・28○本年の損毛高を三万一、八九九石と報告する(池内家記)。
(一八三七)
天保8・2・19○大塩の乱起こり、大阪城代の依頼によって松山藩からも兵員を出す(松山叢談一三)。
天保9・4・21○松山藩、江戸城西丸再建のため三万両の上納金を命じられる(松山叢談一三)。
天保9・5・4○幕府巡見使、平岩七之助・片桐靭負・三枝平左衛門、松山領に入る(松山叢談一三)。
天保9・10・14○松山城天守閣作事場焼失する(松山叢談一三)。
天保9・12・18○松山藩、領内産の綿糸の他所売りを禁じる(御触状控帳)。
天保9・12・19○本年の損毛高を二万一九〇石と報告する(松山叢談一三)。
天保10・1  ○松山藩、讃岐国幕領那珂郡と小豆島の預かりを免じられる(松山叢談一三)。
天保10・6・19○松山藩、町方より出銀の残額を本年返済すると申し渡す(御触状控帳)。
天保10・8・3○松山城下東雲神社に町方より石壇が寄進されたため、この日より六日間石引踊りでにぎわう(松山叢談一三)。
天保10・12・16○松山藩、物価高騰のため商人に高利を貧らぬように厳達する(御触状控帳)。
天保10・12・29○本年の損毛高を三万三、五三六石と報告する(池内家記)。
天保11・12・13○松山藩、商人に久万山産の紙の領外売却を禁じる(御触状控帳)。
天保12・1・21○駿府府中への国替の内意あり、辞退して了承される(松山叢談一三)。
天保12・①・9○松山藩、米価が下落したにもかかわらず諸物価が高騰したため、重ねて商人を戒める(御触状控帳)。
天保12・12・9○松山藩、紺屋以外の者が、かせ糸を染めて売ることを禁じる(松山御触書)。
天保12・12・15○松山藩、藩士に対し一〇〇石について銭札一貫目を一〇年賦で貸し付ける(松山叢談一三)。
天保13・7・7○土佐国農民約三〇〇人、松山領浮穴郡久万山菅生村大宝寺へ逃散してきたため、役人を派遣する(松山叢談一三)。
天保13・7・29○松山藩、郷町で買い入れた反古はすべて紙役所で買い上げる旨を申し渡す(御触状控帳)。
天保13・9・8○松山藩、質物の歩下げを行わせる(御触状控帳)。
天保13・9・14○久米郡東石井・星ノ岡・北土居三か村の出作分を越智郡とする(久米郡村々覚書)。
        ○『松山叢談一三』には九月一六日とある。
天保13・12  ○松山藩、銀札の発行高を四、八六六貫八八〇目と報告する(日本財政経済史料)。
天保13    ○松山領浮穴郡里方一〇か村と窪野村との間に入会山論争がある(浮穴郡二五か村手鑑)。
天保14・1・29○松山藩、幕府の命により、質物の利息を一歩以下とするように命じる(御触状控帳)。
天保14・6・5○松山藩、商品には値段札を明示するように命じる(御触状控帳)。
天保14・7・8○松山藩、預所の年期を向こう三か年とする旨、幕府から達せられる(松山叢談一三)。
天保14・12・23○越智郡岡村大火一六七軒を焼失する(松山年譜)。
(一八四四)    
弘化1・5・12○松山藩、江戸城本丸改築費のうちへ三万両を上納したい旨届け出る(松山叢談一三)。
弘化1・6・1○幕府へ三万両を上納するため、家中・郷町へ出米銀を命じる(松山叢談一三)。
        ○但し、上納金は幕府の指示により七、五〇〇両に減額され、予定されていた人数扶持も中止となり七割渡しとなった。
弘化1・7・12○松山藩、煉油屋などの自由営業を許可する(御触状控帳)。
弘化2・2・21○松山藩、大年寄らに立本舎で聴講するよう督促する(御触状控帳)。
弘化2・6・20○松山藩、町方の川狩・猪狩を禁止する(御触状控帳)。
弘化2・12・16○松山藩預所、再び無年期預かりとなる(池内家記)。
弘化3・4・2○松山藩、異国船渡来の時出動すべき年番の心得を示す(武知家記・御触状控帳)。
弘化3・5  ○松山藩、和気郡興居島の漂流者亥之助を長崎で受け取る(各土記聞序)。
弘化3・7~嘉永5・12○松山藩、人数扶持を実施する(松城要輯)。
            ○これまでで最も長期にわたる人数扶持である。
弘化3・9・12○松山藩心学者、田中一如没する(松山叢談一二)。
(一八四八)
嘉永1・4・18○松山藩、城普請役夫として道後五郡村々から農民六〇〇人を徴発する(申歳温泉郡湯山村諸御用日記)。
嘉永1・5・22○松山藩、煉油屋など一四種の新規営業を禁じる(御触状控帳)。
嘉永2・8・15○松山藩、町方難渋者一、一三一人に対し一人当たり六匁八分七厘を与える(諸事頭書控)。
嘉永2・11・10○松山藩、仲買人の願いにより正手形商場所一か所を新設する(御触状控帳)。
嘉永3・3・5○松山城天守閣上棟式挙行される(久米郡樋口村円通寺覚書)。
嘉永4・11・11○松山藩、高機縞の粗製濫造を戒める(御触状控帳)。
(一八五二)
嘉永5・4・4○松山藩、江戸上屋敷改築のため差上米を命じる(御触状控帳)。
(一八五四)     
安政1・1・13○アメリカのペリー浦賀再来のため、松山藩は武蔵国大森村近辺の警備を命じられ、同一九日家老菅良弼六〇〇人を率いて出張する(松山年譜)。
安政1・2・8○松山城天守閣が落成したので家中に祝儀として吸物・酒を振舞う(武知家記)。
安政1・11・5~7○大地震あり、松山城石垣・塀をはじめ家中の屋敷、郷町の家屋・土蔵など二、六〇〇軒余が全半壊する。道後温泉も翌年二月末まで湧出停止する(池内家記)。
安政2・12・29○松山藩、京都御所造営御用を命じられる。出金高二万四、九五八両余(池内家記)。
安政3・4・12○松山藩、高機縞座をつくる(御触状控帳)。
安政3・5・23○松山藩、明年中は人数扶持を実施すると通達する(池内家記)。
安政4・4・28○松山藩、異国船渡来の節、武蔵国神奈川辺の警備を命じられる(池内家記)。
安政4・8・25○大地震あり、家中へ高一〇〇石につき五俵ずつ支給する(池内家記)。
安政4・10・17○松山藩、高機縞取捌吟味役を置く(御触状控帳)。
安政5・5・1○西洋流砲隊調練場を法竜寺東手裏地に設ける(武知家記)。
安政5・9  ○コレラ流行し、予防法・治療法など通達される(塩屋記録)。
安政6・4・26○松山藩、高機縞の職人らの他領出稼ぎを禁じる(御触状控帳)。
安政6・7~ ○昨年に続いてコレラ流行する(武知家記)。
安政6・12・27○松山藩、江戸城本丸普請・神奈川砲台建設費など出費莫大のため、家中には翌年七月からの人数扶持を、郷町へは出銀米を命じる(池内家記・御触状控帳)。
        ○「池内家記」に、普請上納金一万両を命じられた旨記載あり。郷方出米割当は四万俵、町方出銀は銭札三〇四貫目、三津浜出銀は一六貫目。
(一八六〇)     
万延1・6・15○松山藩、米価高騰のため家中に対し一〇〇石につき銭札四〇〇目を貸し付ける(山内家記)。
万延1・7・28○松山藩、旅商人の営業を禁止する(御触状控帳)。
万延1・10・9○松山藩主松平勝成、神奈川砲台築造の功を賞される(昭徳院殿御実紀)。
(一八六一)    
文久1・7・23○ロシア船、和気郡三津浜に来て、吉田浜から高浜沖にかけて測量する(世上見聞録)。
文久2・4・27○越智郡岡村大火、一五〇軒を焼く(関前村教育委員会所蔵文書)。
文久3・1  ○松山藩、領内庄屋に砲術修行を命じる(温泉郡湯之山村諸御用記)。また鉄砲所持者、取り扱い習熟者についても調査する(異国船渡来一条御沙汰覚書)。
文久3・2  ○松山藩、銭札一貫目以上を献じた者に瓦葺を許す(温泉郡湯之山村諸御用記)。
文久3・3・20○禁裏守護のため、一〇万石以上の大名は、一万石につき一人ずつ強勇の士を出すよう命じられる(池内家記)。
文久3・5・27○松平勝成、藩士に攘夷国策に添って防御に努めるよう申し渡す(池内家記)。
文久3・5  ○松山藩、軍費調達のため領内に差上米を命じる(近藤林兵衛是正略歴)。
文久3・9・23○松山藩、城下入口に関門、町内には柵門を設けて警戒を厳しくする(温泉郡湯之山村諸御用記)。
        ○「池内家記」では、10月とする。
(一八六四)     
元治1・2・19○松平勝成、在京中四月より六月までの間、京都警備を命じられる(池内家記)。
        ○六月二七日、長州藩士伏見に入り込み、松山藩三条通り紙屋川辺固めを命じられる。
元治1・7・16○長州藩士の入京により、家老奥平弾正貞操、兵を率いて京に到着する(松山叢談一四)。
元治1・7・23○幕府より長州追討を命じられる(池内家記)。
元治1・11・11~13○松山藩勢、長州追討のため、一・二の手は一一日、前備は一二日、旗本備・後備は一三日に出兵する(池内家記)。
          ○長州の毛利敬親父子伏罪のため、一時攻撃を停止するよう指令があり、ついで一二月二七日征長総督より諸軍へ帰陣命令が出された。
(一八六五)
慶応1・4・25○長州再征が布達され、昨年通り先鉾を伺い出、受理される(池内家記)。
慶応1・8  ○松山藩、長州再征の軍備調達のため領内に銀米献納を命じる(近藤林兵衛是正略歴)。
慶応1・11・7○幕府、征長軍の部署を定め、松山藩上ノ関口討手一の手となる(池内家記・今治拾遺)。
慶応2・5・29○征長軍一の手出陣、六月二日新製二番大隊出陣、四日二の手、五日松平定昭旗本出陣、六日新製一番大隊中軍先鉾、七日旗本遊軍御部屋備付属出陣する(池内家記)。
慶応2・6・16○松山藩兵、屋代島で防長兵と戦う(池内家記)。
慶応2・7・1○松山藩、武蔵国神奈川辺の警備を免じられ、八月二九日神奈川砲台・大砲玉薬陣屋などを幕府に献納する(池内家記)。
慶応2・7・15○松山藩、防長兵の侵入に備えて転陣する。辻村沢村へ御部屋備、江戸村のち余戸村へ旗本遊軍、三津村ヘ一の手・二の手、山西村へ二番大隊、久万村ヘ一番大隊(池内家記)。
(一八六六)    
慶応2・7・25○松山藩、来る一一月からの人数扶持を予告するが、一二月二〇日物価高騰による家中の困窮を配慮して慶応三年七月から五割渡しとする旨通達する(池内家記)。
慶応2・9・4○征長軍の引き揚げを開始する(池内家記)。
慶応2・9・14○松山藩学明教館前教授日下伯巌、没する(松山府学前教授日下陶渓先生之墓碑銘)。
慶応3・2・25○松山藩、領民が富興行などに参加することを禁じる(温泉郡湯之山村御用日記)。
慶応3・9・23○松平定昭、老中職を命じられ、同年一〇月一九日辞職する(池内家記)。
(一八六八)    
明治1・1・3○松山藩、摂津国梅田村の警備を命じられる。同日鳥羽・伏見の戦い始まる(池内家記)。
明治1・1・6○前藩主松平勝成、朝廷に対し、京都警衛のため自ら上京したい旨を願い出る(池内家記)。
明治1・1・10○朝廷、松平定昭の官位をけずり、屋敷を没収する(復古記)。
明治1・1・11○朝廷、土佐藩に対し松山藩追討を命じる(復古記)。
明治1・1・20○松山藩、朝廷に対し恭順の意を示す嘆願書を提出する(松山叢談一四)。
明治1・1・25○松平勝成・定昭、恭順の意を表し常信寺に立ちのく(松山叢談一四)。
明治1・1・27○土佐藩兵、松山に入り城地を接収する(復古外記)。
        ○同月二九日長州藩兵ついで福山藩、松山城下に入る。
明治1・2・15○朝廷、松山藩の城地・預かり所の支配を土佐藩に命じる(復古記)。
明治1・5・13○朝廷、松平定昭に蟄居を命じ、勝成を藩主に復し、軍備一五万両の献納を命じて、土佐藩の守衛を解く(復古記)。
明治1・7・6○松山藩主、朝廷の命により松平姓を改め、旧姓の久松に復する(松山叢談一四)。
明治2・6・18○松平勝成、松山藩知事となる(松山叢談一四)。
明治4・1・14○松平定昭、松山藩知事となる(松山叢談一五)。
明治4・7・14○松平定昭、藩知事を免じられ、松山藩は松山県と改称される(松山叢談一五)。