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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

小松藩

○藩主の任免・参勤交代など略す○出典を明記していないものは、すべて「会所日記」である

(一六三六)
寛永13・11・24○一柳直頼、父直盛の遺領のうち一万石を与えられる(寛政重修諸家譜)。
寛永15・1  ○一柳直頼、周布郡新屋敷を開墾して小松と改称する(一柳氏家譜・小松藩紀)。
(一七二八) 
寛永19    ○大飢饉(新居郡誌)。
享保13・3・28○周布郡今在家村新田竿入。
享保14・5・14○町郷中へ諸色値段引き下げ布達される。
享保14    ○当年不作、本途物成三、七〇三石余。
        ○享保一二年四、五〇一石余、同一三年四、三六二石余、同一五年四、二七三石余。
享保17・10  ○虫付損毛につき、畑方本途物成四〇七石余、田方は皆無である旨を幕府に報告(虫付損毛留書)。
享保17・12  ○小松領内の飢人四、八四一人、幕府より購入の米五〇〇石を救済に当てる(虫付損毛留書)。
享保18・7・16○一柳頼邦大飢饉による飢餓の解消を幕府に報告(虫付損毛留書)。
(一七三七)     
元文2・12  ○紺屋彦左衛門、領分中紺屋頭に任命され上下を許される。
(一七四一)    
寛保1・11・23○今在家村喜八郎、広江川張切網願を出す。
寛保3・6・24○小松藩会所、月六日の休日はじまる。
(一七五二)
宝暦2・1・24○宝暦新田汐留。
宝暦3    ○新居郡大生院村・上島山村・半田村三か村山出入争論あり。
宝暦8・7・14○周布郡今在家村へ、同郡北条村農民六〇~七〇人入り込み馬草を刈り紛争あり。
宝暦9・11・10○松山領周布郡久妙寺村農民、小松領へ逃散する。
宝暦12・8・5○宝暦新田鍬下年季終了し、年貢を納入する。
(一七六八)
明和5・12・16○小松藩、俸禄を改定し、御小人小頭切米五石を四石に減額する。
明和8・10・3○松山領の農民二〇〇人余、西之川原へ来る。
明和8・12・23○小松藩、家中困窮のため一〇〇石につき一〇〇目の割合で救済する。
(一七七三)     
安永2・3・21○周布郡北条村の塩浜、新田となり、農民・町人へ配分する。
安永6・5・29○町方より石鈇山道標建立出願、許可する。
安永8・2・11○北条新田塩浜跡竿入。
安永8・10・27○今在家村に疫癘病人多く、救済のため広東人参を与える。
安永9・3・14○北条新田庄屋組頭に不埓の行為あり、役儀取り上げ、本村東西年番にて当分村政を担当させる。
安永9・11・29○領内の桶屋増作料を取り、調査の上罰金を申し渡す。
安永9・12・10○周布郡大頭村にて火災あり、二九軒焼失。
(一七八一)
天明1・6・26○周布郡広江村組頭、役米算用に食い違いあり、庄屋も処罰される。
天明2・8・23○小松藩領内の洪水被害状況を幕府に報告する。
天明3・3・5○北条新田入川跡竿入のため、代官出張する。
天明8・7・24○洪水のため今在家村水没し、救済のため同二八日神野祐左衛門破損所を見分する。
(一七八九)     
寛政1・⑥・2○旱魃のため植付不能となった田地面積を調査。
寛政2・1・2○新屋敷村大火。
寛政3・1・11○周布郡吉田村農民七〇~八〇人村出する。
寛政3・7・11○吉田村水論一件につき、竹花堅蔵以下見分のため出郷する。
寛政3・12・27○西町より出火し、本家二一軒、納屋一一軒焼失。
寛政5・3・6○吉田村水論一件につき、庄屋代久米安五郎・組頭伊助松山へ出訴する(小松領吉田村と松山領吉田村の水論)。
寛政5・12・18○桑村郡庄屋(村名不詳)源助、小松領周布郡千足山銅山試掘出願の件につき、倉敷代官所手代より小松藩へ照会あり。
寛政6・3・29○小松領吉田村より松山領吉田村へ助水を昨年より停止している件につき相談。同年一〇月二五日、江戸松平隠岐守屋敷にて稲川八右衛門と対談する。寛政一一年五月一五日両藩で和談成立、二二日農民へ通達。
寛政6・9・28○小松藩士佐伯甚太夫、江戸で修行した火術を披露する。
(一八〇一)    
享和1・8・20○領内大洪水、北条村北新田・大頭村六反地池など被害箇所多し。
享和2・6・17○小松藩竹の門外に学問所(培達校のも養成館)を設置する。この年、近藤篤山を教授として招請。
享和2・6・17○小松藩、領内周布郡大頭村と松山領同郡明穂村(赤尾村)との境界争論について関係者を呼び和談を勧告する。
享和2・7・21○小松藩の楮方・紙方、収益の算定をする。
享和2・8・22○小松領内の村々洪水の被害を報告する。
(一八〇五)
文化2・9・27○小松領の村々、川除普請勘定書を提出する。
文化5・8  ○幕府天文方測量役人伊能忠敬ら、小松領を測量する。
        ○関係記事八月一七日~一一月二九日にあり。
文化7・6・20○一柳頼親駿府加番を命じられ、領内に五分(五㌫)の増税を布達する。
文化7・9・20○松山藩預所新居郡種川山村農民逃散し、小松領へ出る。
文化9・4・20○銅山師泉屋の代理石見屋善兵衛、輝安鉱開発願書を提出する。
文化11・10・21○泉屋吉左衛門、輝安鉱購入を申し出る。
文化11・12・18○小松藩、輝安鉱を江戸で販売する。
文化14・3(4)・9○小松藩、石見国より楮二、〇〇〇貫を購入する。
(一八一八)
文政1・9・8○小松藩、輝安鉱六、〇〇〇貫目を担保として、大坂商人より、銀三〇〇貫目を借用する。
文政1・12  ○小松藩、松山藩より一、〇〇〇両を借用する。
文政3・2・2○小松藩、領内の困窮者に米を廉売する。
        ○米二俵につき一〇〇目の相場で払い下げると通達、四日、町年寄に三〇石交付する。
文政6・6・7○領内旱魃に苦しみ、小松藩香園寺に雨乞読経を依頼する。
文政6・7・22○周布郡農民群集し、大頭村で三軒・小松町で一軒を打ちこわす。
文政6・7・28○小松藩、これまで豆腐一〇丁二匁のところ、三匁に値上げすることを許可。
文政6・12・25○領内の紺屋、染料金の値上げを申請する。
文政8・4・12○小松藩、領内で産出の砂糖を大坂で販売する。
文政11・5・7○小松藩、石見国より楮七、〇〇〇貫を購入する。
文政11・8・21○小松藩、国産奉書紙を抵当として紙問屋から銀六〇貫を借用する。
文政11・8・23○小松藩、石見銀山師へ輝安鉱を売る。
文政11・11・12○小松藩、周布郡北条村の農民騒擾を裁定し、主謀者二人を村外転居処分とする。
(一八三〇)    
天保1・2・28○小松藩、輝安鉱精錬の歩一運上を受け取る。
天保4・11・1~○小松藩、米価高騰による町方の困窮を救うため米三〇石を放出して廉売させる。
天保5・3・30○小松藩領内の人口、一万四、二七二人。
天保5・8・5○小松藩領新居郡四か村の銭通用を統一し、銀一匁につき六〇文と規定する。
天保5・8・6○旱魃後の暴風雨・洪水により被害多し。
(一八五二)
嘉永5・5・12○小松藩、高島流六貫目玉の大砲を鋳造する。
嘉永5・8・7○小松町富屋常七、銭札場掛りに任命される。
嘉永5・10・9○御山方会所新規普請竣工、関係者出勤。
嘉永5・12・23○当秋豊熟のため、知行四ツ成、一〇〇石以上は本知渡しとなる。
(一八五四)    
安政1・1・13○大旱魃のため回領を延期する。
安政1・11・5○大地震、町村とも潰家あり。町方商業活動一一日になって再開される。
安政1・12・10○小松藩、大地震のため居屋敷が大破した足軽に対し社倉米を貸し付ける。
安政1・12・11○小松町田野屋武助、奥砂新開へ薬草試植。
安政4・1・6○小松藩、銭札場融通手当のため、大坂丹波屋芳兵衛より銀七五貫目を借用する。
安政4・5・17○大坂丹波屋より、小松藩国産紙の改善を要求して来たため、萩生紙の増産を決定、萩生村恒右衛門に紙方掛りを命じる。
安政4・⑤・19○小松藩、西条絹屋の斡旋により丹波国から養蚕指導者男女各一名を雇い入れる。
(一八五七)
安政4・8・25○大地震。
安政5・4・5○宗門大改、領内の総人口一万四、二三五人。
安政5・6・11○小松藩、藩士池原利三郎ら五人に対し、長崎近辺までの航海修業を許可する。
安政5・9・24○小松町河口屋薬店のコロンボと称する薬、流行病の妙薬のため他所売を差し留める。
安政6・9・5○領内にコレラ流行し、新屋敷村・妙口村に病死者が多い。
        ○新屋敷二一、広江二、今在家二、北条五、吉田四、妙口一二、大頭三、北川八、上島山一、小松町一五、合計七三人。