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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

百姓一揆

   ・昭和六〇年までに確認されたものを掲げたが、村方騒動と思われるものは除外した。

  年 号      事     項
(一六〇〇)
慶長5・8  ○宇和郡松葉町の侍名主三瀬六兵衛らが、宇和郡の同志と軍事一揆を計画、事前に発覚して、藤堂高虎の大洲留守部隊に討伐される(宇和旧記)。
慶長10・6・25○風早郡忽那島小浜村で一ツ免騒動起こる(伊予百姓一揆)。
        ○水夫役の代償であった年貢一割軽減を廃止されて強訴、成功したが頭取の庄屋は死罪となった。
(一六一五)      
元和1    ○宇和郡約二〇か村の農民、宇和島藩の年貢増徴に反対し、八幡河原に集結。不成功(伊予百姓一揆)。
元和2・12  ○宇和島藩領宇和郡御荘組外海浦沖ノ島の漁民、逃散する(南宇和郡史)。
元和年間   ○宇和島藩領宇和郡坂戸村の農民、暴政を避けようと逃亡(福楽寺縁起)。
(一六二六)
寛永3・2  ○浮穴郡久万山大川・日ノ浦の農民、年貢過重のため知行主佃十成の排斥を要求して愁訴(古今見聞録)。
寛永6・1  ○蒲生忠知領内で、凶作と税の過重を訴える一揆がある(伊予百姓一揆)。
寛永7・8・2○久米郡片原・片平の農民、旱害のため減租を要求する(伊予百姓一揆)。
(一六四八)    
慶安1~承応2○風早郡小山田村の農民、地坪に際し庄屋に不正があると訴える(伊予百姓一揆)。
(一六五五)
明暦1    ○宇摩郡上山村役料の値下げ交渉で騒動あり、庄屋は対立する組頭七人を陣屋に訴える(下柏村庄屋年代雑記録)。
(一六六四)    
寛文4・11・28○新居郡西の川山・東の川山・中奥山・黒瀬山・前大保木山村の農民、諸運上の銀納を要求、中奥山村工藤治平ら処刑される(西条誌)。
寛文8・1・27○宇和島藩領宇和郡総川村の農民三六戸逃散する(東宇和郡沿革史)。
寛文9    ○今治藩領越智郡松尾村の農民、家老の暴政を藩主に直訴、頭取の庄屋・家族死罪となる(伊予百姓一揆)。
寛文11・3  ○宇和島藩領宇和郡、来・祝の森・川内村などの農民、八十島治右衛門の内ならし検地に反対し強訴する。不成功、七人死罪(伊予百姓一揆)。
(一六八六) 
貞享3・夏 ○松山藩領野間郡延喜村農民、凶作のため年貢減免を求めて越訴する(伊予史談八四号)。
(一六八八)   
元禄1・7  ○宇和島藩領宇和郡、多田・山田・山奥・野村組の農民、年貢の津出しをめぐって騒ぐ(東宇和郡沿革史)。
元禄3・7・12~13○宇和島藩領宇和郡山田村東分の農民四七人、庄屋・組頭の不正を訴える(東宇和郡沿革史)。
(一七〇七)  
宝永4    ○宇和島藩領内で、藩札通用禁止が布達されたため農民が騒ぐ(伊予百姓一揆)。
(一七一九)     
享保4    ○宇和島藩領宇和郡下灘浦の農民六二人、庄屋の非違を藩に訴える。不成功、頭取遠島(伊予百姓一揆)。
享保8・1・3○宇和島藩領宇和郡四郎谷村農民、飢饉の救済を求めて宇和島の目付宅に押しかける(伊予百姓一揆)。
享保17・7・16○松山藩領伊予郡の農民一〇〇人余り、袖乞と称して松山の町家へ押しかけ、米屋を打ちこわす(伊予百姓一揆)。
享保17    ○宇摩郡天領の農民、飢饉のため減租を嘆願する(伊予史談八四号)○・今城宇兵衛らの嘆願か
(一七四一)    
寛保1・3・7~11○松山藩領浮穴郡久万山一四か村の農民、年貢の減免・紙専売仕法改善を要求して強訴するため久米郡まで出る(久万山出訴一件覚書)。
寛保1・7・5~8・13○前項の一揆再発、大洲領へ逃散、参加二六か村に増加、菅生山大宝寺斉秀の調停で帰村、藩家老・代官遠島となる(久万山出訴一件覚書)。=久万山騒動
寛保2    ○大洲藩領浮穴郡北川毛・川登村など一六か村の農民、松山領二四か村と入会山論あり、庄屋二人死罪となる(伊予百姓一揆)。
(一七四五)     
延享2    ○松山藩領浮穴郡久万山の農民逃散する(小原村清家日記)。
延享4    ○大洲藩領喜多郡の農民、物納米桝計棒を繰棒とするよう愁訴。成功(伊予百姓一揆)。
(一七五〇)    
寛延3・1・16~28○大洲藩領浮穴郡小田町・二名・露峰・薄木・大瀬村などの農民一万八、〇〇〇人、凶作のため、特権商人の暴利停止・六か村庄屋の罷免を要求、内子河原に屯集する(寛延秘録)。=内ノ子騒動
寛延3・2  ○小松藩領周布郡北条村東方で徒党あり、僧侶の調停でおさまる(伊予百姓一揆)。
寛延3・11・1○吉田藩領宇和郡喜木津浦・広早浦の農民、庄屋の非違を訴える(伊予百姓一揆)。
(一七五三)     
宝暦3・12・10○西条藩領新居郡宇高・郷村など一六か村の農民三、九〇〇人、検見取による高免に反対、西条加茂河原に集まる(伊予百姓一揆)。
        ○郷村平兵衛ら斬首となるが、年貢増徴は徹回される。
(一七五四)     
宝暦4    ○宇和島藩領宇和郡多田組上松葉村など一二か村の農民騒擾あり、頭取が鹿島に遠島となる(伊予百姓一揆)。
宝暦5・8  ○宇和島藩領宇和郡山田村の農民、大庄屋の非違を訴える(伊予百姓一揆)。
宝暦5・12・27○宇和島藩領宇和郡多田組坂戸村など一二か村の農民、御下げ米の件につき坂戸村牛石へ屯集する(小原村清家日記)。
宝暦6・1・15○宇和島藩領宇和郡多田組一二か村の農民騒擾再発する。上松葉村庄屋横目役職取り上げ、頭取は流罪(小原村清家日記)。
宝暦6・9・6○今治藩領越智郡大島宮窪・余所国村の農民、山林下草採取の件につき強訴(今治拾遺)。
宝暦8・3・22○宇和島藩領宇和郡伊与地川村の農民、庄屋の非法を訴える(小原村清家日記)。
宝暦9・11  ○松山藩領周布郡久妙寺村農民、小松領へ逃散する(小松邑誌)。
宝暦10・1・18○今治藩領宇摩郡三島・中曽根・村松村農民、検地竿入れに反対して騒動を起こす(下柏村庄屋年代雑記録)。
宝暦11・8  ○宇和島藩領宇和郡三机浦で一揆起こる(小原村清家日記)。
宝暦11・10・19○宇和島藩領宇和郡田野々村で一揆あり、頭取遠島となる(宇和島御仕置帳)。
宝暦12・夏  ○重信川森松新堰をめぐる水騒動。大洲・新谷・松山・天領諸村のうち浮穴郡・伊予郡二四か村と浮穴郡四か村、合計二、八〇〇人乱闘(大洲旧記)。
(一七六九)     
明和6・3・23○宇和島藩領宇和郡白髭村の農民五〇人、連判して救助米の下付を要求する(宇和島御仕置帳)。
明和7・3・23○大洲藩領喜多郡蔵川村農民一六〇人、凶作のため年貢減免を要求して宇和島領へ逃散する(記録書抜)。
明和7・8・22○宇和島藩領宇和郡白髭・若山・日土村の農民、旱害に苦しんで箱訴を行い、この日裁決あり(宇和島御仕置帳)。
明和8・5・2○宇和島藩領宇和郡蔵村の農民、庄屋の非違を強訴する(宇和島御仕置帳)。
明和8・6・8○大洲・新谷藩領浮穴郡麻生村と、大洲藩領伊予郡八倉村、天領同郡南神崎村、松山領同郡出作村・徳丸村との間に水論がある(御替地古今集)。
        ○安永三年二月二三日裁決、下麻生村組頭兵右衛門死罪となる。
明和8・冬  ○宇和島藩領宇和郡下川村、庄屋と組頭の不和から騒動おこり、庄屋流罪(東宇和郡沿革史)。
(一七七三)    
安永2・9  ○天領越智郡宮ヶ崎村の農民、村役人の私欲を駕籠訴する。不成功、死罪(古事類苑)。
安永2・11・27○宇和島藩領宇和郡東山田村の農民箱訴の結果、阿下村へ所替えとなる(宇和島御仕置帳)。
安永6・6・12○宇和島藩領宇和郡御荘組城辺村などの農民、高持制の定免制に反対して徒党する(南宇和郡史)。
(一七八五)    
天明5・9・10○宇和島藩領宇和郡宮内村の農民、庄屋と対立し宇和島へ出訴を図る(小原村清家日記)。
天明6・11  ○松山藩領浮穴郡直瀬村で庄屋の非違をめぐって騒動起こる(伊予百姓一揆)。
天明6・12・2○今治藩領宇摩郡上山村など四か村、今治藩の梶・楮新運上に反対、一年後要求貫徹(下柏村庄屋年代雑記)。
天明7・3・27○松山藩領久米郡日瀬里・来住村の農民七〇人、飢饉で困窮し、大洲領宮下村まで逃散する(伊予百姓一揆)。
天明7    ○吉田藩領宇和郡三間郷三島神社神主土居式部、苛政に反対し一揆を企図する(伊予百姓一揆)。
天明8・3・6○宇和島藩領宇和郡富野川村農民七〇人、飢饉のため困窮して減租を要求して、隣村平野村に屯集する。成功、頭取二人は豊後追放(伊予百姓一揆)。
天明8・4・28○宇和島藩領宇和郡惣川村の農民一〇人、大洲領喜多郡五十崎古田村へ逃散、五月六日帰村(不鳴条異事頭書)。
        ○寛政二年一二月三日、二人遠島となる。
天明8・9・25○大洲藩領喜多郡大瀬村農民一三〇人、松山への逃散を企図する(伊予百姓一揆)。
天明8・9・27○宇和島藩領宇和郡遊子谷村農民七〇~八〇人、庄屋・組頭宅を破壊し、大洲藩領喜多郡宇和川村まで出る(伊予百姓一揆)。
        ○藩一五〇人余を動員して阻止。一〇月八日帰村。寛政二年一二月三日、二人流罪。
(一七八九)
寛政1・9・19~27○天領風早郡小浜村の農民、隣村大浦村と村境を争い、松山藩への越訴を計画する(小浜村御百姓共村出一件達書控)。
寛政1    ○大洲藩領喜多郡柳沢村の農民、飢饉により困窮し強訴を企画する(伊予百姓一揆)。
寛政3・7  ○今治藩領上柏村農民一三人、西条藩領大町村へ逃散、八月四日帰村する(下柏村庄屋年代雑記)。
寛政5・2・13~16○吉田藩領で吉田騒動起こり、領内ほぼ全域八三か村の農民九、六〇〇人、紙問屋の特権・藩吏の横暴に反対して強訴し宇和島藩領八幡河原に屯集する(吉田騒動記)。
        ○武左衛門一揆ともいう。成功したが、頭取は死罪となる。
(一七九三)
寛政5・2・13○宇和島藩領宇和郡伊延村の農民三〇人、組頭と山論、宇和島へ出訴のため卯之町まで出る(小原村清家日記)。
寛政6・10・4○宇和島藩領宇和郡郷内村の農民、強訴する(宇和島御仕置帳)。
        ○徒党した者のうち三人、庄屋の下人にされる。
寛政7・3・6~13○今治藩領宇摩郡上山村の農民一四六人、罷免された庄屋の再任に反対して阿波国大月村へ逃散する(蜂須賀家文書)。
寛政8・3  ○宇和島藩領宇和郡中津川村農民、組頭と争論、宇和島への強訴を企図する(小原村清家日記)。
        ○組頭は免職、頭取四人は入牢。
寛政9・8  ○宇和島藩領宇和郡白髭・松谷・富野川村の農民減租など一六か条の嘆願書を提出する(東宇和郡沿革史)。
寛政10・1・16~3・16○今治藩領宇摩郡馬立村の農民一三人、讃岐国大野原村へ逃散する(下柏村庄屋年代雑記)。
寛政10    ○宇和島藩領山奥組・野村組のうち一八か村の農民、吉田藩領への逃散を企画して田穂村まで出る(不鳴条異事頭書)。
寛政12・2・23○松山藩領野間郡波方村の農民、徒党をくみ、同郡九王村まで出る(伊予百姓一揆)。
(一八〇一)    
享和1・6  ○松山藩領風早郡上総村農民、今治藩領へ逃散する(伊予百姓一揆)。
享和3・3・5○宇和島藩領宇和郡高山浦の農民二五〇人、庄屋・組頭の非違を訴える(記録書抜)。
        ○五月一九日庄屋退役、頭取流罪。
(一八〇四)
文化1・3・27○松山藩領風早郡忽那島宮野村農民五〇人、小浜村にて騒ぐ(加藤家年譜)。
文化2・5  ○宇和島藩領宇和郡三崎浦の農民に不穏な動きあり(御歴代事記)。
文化3・11・6○宇和島藩領宇和郡御荘組緑村の農民、肥草刈を要求し、山奉行に対して騒動(城辺町誌)。
文化6・6  ○宇和島藩領宇和郡白髭・松谷・富野川村農民、寛政九年に続いて減租嘆願(東宇和郡沿革史)。
文化6・6  ○小松藩領周布郡千足山村より常住にある新寺打ちこわしの件届け出る(小松藩会所日記)。
        ○東予史談二五号に、西条藩領新居郡で打ちこわしありと記す。
文化7・9・20○松山藩預り所、天領新居郡種子川山村農民二〇人、小松藩領へ逃散する(小松藩会所日記)。
文化9    ○松山藩領久米郡志津川村農民、水論裁許に反対して騒ぐ(伊予百姓一揆)。
        ○頭取四人入牢。
文化10・2・24~25○宇和島藩領宇和郡岩木村の農民、庄屋の非違を糾すため、吉田藩領則村に逃散。一旦帰村したが七月二五日再発(宇和島御仕置帳)。
文化10・8・3○宇和島藩領宇和郡魚成村の農民、紙荷組の件につき騒ぐ(宇和島御仕置帳)。
文化10    ○大洲藩領喜多郡の農民、凶作のため減租を求めて強訴する(農民惑乱実記)。
文化12・10・18○松山藩領浮穴郡久万町村の農民、水論のもつれから逃散を企画し、大洲藩境まで出る(愛媛県農業史)。
文化13・11・28○大洲藩領喜多郡柚ノ木・北只・黒木村の農民、紙専売に反対して強訴を図るが未遂に終り、頭取死罪となる(伊予百姓一揆)。
文化14    ○天領宇摩郡小川山村と今治藩領三島村など四か村の間に山論起こる(御仕置例規集続類集)。
(一八一八)     
文政1・2  ○宇和島藩領宇和郡野村で不穏な情勢(緒方文書)。
文政1・5・17~18○天領宇摩郡の農民三〇〇人余り、困窮者への救銀と村役人の糾弾を要求して強訴する(川之江村大庄屋役用記)。
文政1・7・20○吉田藩領宇和郡俵津浦の農民一五〇人、大洲藩領へ逃散する(伊予百姓一揆)。
文政2・2・4○宇和島藩領宇和郡郷村の農民、強訴を企画するが未遂に終る(宇和島御仕置帳)。
文政3・3・24○松山藩領周布郡楠窪村の農民、難渋して逃散するが処罰される(田野村誌)。
文政3・11・19○吉田藩領宇和郡奥野川村の農民六〇人、庄屋の非違を訴えようとして阻止され、土佐領へ逃散を図る(兼松文書)。
文政4・1・末○前項の一揆再発、再び土佐領権谷へ逃散する(兼松文書)。
文政4・6  ○西条藩領宇摩郡上分村の農民、今治藩領下山村へ逃散、七月帰村する(下柏村庄屋年代雑記録)。
文政5    ○松山藩領野間郡波止浜塩田の浜子、今治藩札での賃金支払いに反対して、塩田地主・商家を襲う(加茂宮記録)。
        ○文政三年二月にも同様の行動あり。
文政6・6  ○松山藩領温泉郡の農民、旱魃で植付不能のため松山城下へ押しかける(伊予百姓一揆)。
文政8・1・20○今治藩領宇摩郡新宮・上山・馬立・新瀬川四か村の農民、差上米減免を嘆願する(下柏村庄屋年代雑記録)。
文政9・3・27~4○宇和島藩領宇和郡高瀬村の農民八三人、凶作と負担過重に加えて庄屋の横暴に苦しみ、大洲藩領柚ノ木村へ逃散する(宇和島御仕置帳)。
(一八二六)    
文政9・7・2○宇和島藩領宇和三か村の農民、蔵本へ屯集して騒ぐ(宇和島御仕置帳)。
文政9・7・3~5○宇和島藩領宇和郡御荘組城辺村など五か村の農民、櫨専売に反対して強訴する(記録書抜)。
文政10・6  ○今治藩領上柏村と天領三角寺村との間に争論がある(伊予百姓一揆)。
文政10・7・19○宇和島藩領宇和郡富野川村の農民一二○人、組頭の非違を糾弾するため、大洲領へ逃散する(伊予百姓一揆)。
        ○七月二一日帰村、一二月一九日三人遠島となる。
文政11・3・16○宇和島藩領宇和郡日土村の農民、庄屋の金子取り込みを強訴する(日土村百姓利右衛門手記)。
文政11・3・22○宇和島藩領宇和郡久枝・野田・永長・上松葉・下松葉村の農民、櫨山刈敷草入会の件で騒動を起こす(宇和島御仕置帳)。
文政11・4・12○大洲藩領喜多郡菅田村の農民一四〇人、強訴を企画して河原に屯集する(伊予百姓一揆)。
文政12・2・14○西条藩領新居郡の農民六〇〇人、米の騰貴により新居浜の米屋を襲う(小松藩会所日記)。
文政12・9  ○天領宇摩郡藤原村の農民、越訴する(川之江村大庄屋役用記)。
文政12・12  ○宇和島藩領宇和郡片川・次ヶ川村の農民、借財一〇か年据置の加判を庄屋に要求したが、拒否され、野村代官所への出訴を計画(伊予百姓一揆)。
(一八三〇)    
天保1・2・6○宇和島藩領宇和郡野村組下川村など二一か村の農民、過料銀納付の延期を要求して強訴(緒方文書)。
天保1・③・3○宇和島藩領宇和郡釜の川村など七か村の農民、借財一〇か年据置の加判を要求して騒ぐ(緒方文書)。
天保1・③・9○宇和島藩領宇和郡伊方浦の農民八〇〇人、庄屋の非違糾弾のため、大洲藩領へ逃散、庄屋罷免には成功するが、頭取死罪となる(伊予百姓一揆)。
天保1    ○松山藩領野間郡長坂村の農民、山林の所有について庄屋と争う(伊予百姓一揆)。
天保8・2  ○吉田藩領宇和郡大内村の農民、庄屋の田植役徴発に反対して屯集する(伊予史談一四六号)。
天保8・3・14○大洲藩領喜多郡田所・柳沢村の農民、減租を求めて強訴する(大洲獄門控)。
天保年間   ○松山藩領風早郡宮野村の農民、飢饉で困窮し、逃散する(伊予百姓一揆)。
天保年間   ○宇和島藩領宇和郡の農民、重課・庄屋の横暴に対し強訴する(伊予百姓一揆)。
(一八四七)    
弘化4    ○吉田藩領宇和郡小松・窪・延川村の農民、庄屋の非違を糾弾するため越訴(伊予史談一四六号)。
弘化4    ○吉田藩領宇和郡立間村の農民、暴政に反対する不穏な行動あり(伊予百姓一揆)。
弘化年間   ○松山藩領温泉郡の農民、役人の暴政に反抗して松山新立口に屯集する(伊予百姓一揆)。
(一八四八)
嘉永1・2  ○吉田藩領宇和郡中間村の農民、小頭役の横暴を庄屋が見遁しているのに不満を持ち神社に屯集する(伊予史談一四六号)。
嘉永2・8・16○宇和島藩領宇和郡久枝村の農民、徒党して納蔵へ屯集し、庄屋へ三か条の要求書を提出する(本多家文書)。
嘉永3・春  ○宇和島藩領宇和郡四郎谷村の農民、困窮して騒動を起こす(緒方文書)。
嘉永3    ○松山藩領浮穴郡西明神村の農民、庄屋の非違を直訴する(愛媛県農業史)。
嘉永6・8  ○天領宇摩郡余木村の農民、願いの筋があるとして騒ぐ(川之江村大庄屋役用記)。
(一八五四)     
安政1・9・23○宇和島藩領宇和郡下泊浦の農民、強訴を企画して三間を通り出訴するが、未遂に終わる(布喜川摂津庄屋文書)。
安政3・1・7○宇和島藩領宇和郡郷村農民、強訴を企画するが未遂に終わる(本多家文書)。
安政3・1  ○吉田藩領宇和郡兼近村の農民、組頭役料の減額・村役人の交替を要求して騒ぐ(伊予史談一四六号)。
        ○この事件、天保一〇年にも崩芽あり、再発。
安政3・2・4○宇和島藩領宇和郡川之内村の農民、五反田村に屯集して強訴しようとしたが、卯之町において阻止される(本多家文書)。
安政4・8  ○宇和島藩領宇和郡松溪関村など四か村の農民、大豆上納相場について庄屋の非違を強訴する(野村代官所記録)。
安政4・12・11○小松藩領周布郡北川村の農民二三人、拝借米につき不穏の動きあり(小松藩会所日記)。
安政6・2  ○今治藩領越智郡大島田之浦村の農民五〇人、強訴を企画するが未遂(愛媛県農業史)。
(一八六〇)    
万延1・2  ○吉田藩領宇和郡小倉村の農民、横目役の任命人選に不満を持ち越訴する(伊予史談一四六号)。
万延1・2  ○吉田藩領宇和郡俵津浦の農民、庄屋・組頭の横暴を糾弾する(東宇和郡沿革史)。
        ○慶応元年二月再発。
(一八六二)
文久2    ○大洲藩領喜多郡小藪村の農民、櫨特権問屋の一手買い上げに反対して、大谷村の問屋沖野屋を襲う(南予遺香)。
        ○文久三年夏・元治元年春にも再発する。
文久2    ○松山藩領周布郡吉田村の農民、田野村庄屋による大明神池の築造に反対し、徒党をくみ庄屋に迫る(田野村誌)。
(一八六四)     
元治1・1・15○天領宇摩郡下分村ほかの農民、平田銅山の試掘に反対する(川之江村大庄屋役用記)。
(一八六六)     
慶応2・5・14○天領宇摩郡別子銅山の抗夫、飯米の廉売と賃上げを要求して、川之江代官所へ直訴する(垂裕明鑑)。
慶応2・7・13○大洲藩領喜多郡大瀬村など一四町村の農民三、〇〇〇人、物価騰貴に苦しみ、商人の暴利に反対して大瀬村・五十崎・内子町の商店を打ちこわす(伊予百姓一揆)。
慶応2    ○西条藩領新居郡千町山村の農民、藩の山林濫伐を憤り騒ぐ(伊予百姓一揆)。
慶応3・8  ○松山藩預所桑村郡桑村など一二か村、凶作に苦しみ、減租を要求して強訴する(国分叢書)。
幕末頃    ○宇和島藩領宇和郡川之内村の農民六〇人、下松葉村まで押しかけて騒ぐ(愛媛県農業史)。
幕末頃    ○松山藩領で検地に反対する強訴がある(伊予百姓一揆)。


  ( 都 市 騒 擾 )

(一七六九)
明和6・10・27~11・25○松山藩、城下町の町人が借米返済方法に不満があり騒動を起こす(松山大年寄役所記録)。
(一七八七)
天明7・5・15○吉田藩、陣屋町で米仲買人二〇〇人が魚棚町の米屋をおそう(吉田藩昔語)。
天明7・6・11○宇和島藩、城下町で米仲買人宅打ちこわされる(伊予百姓一揆)。
(一八五七)     
安政4・10  ○吉田藩、陣屋町で藩士の少年と町人の若者乱闘する、亥子騒動(吉田藩昔語)。