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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 農民騒動

 明治維新期の農民騒動

 明治維新以降、新政府の実施した各方面の大改革は、社会に大きい不安と動揺とを引き起こした。ことに幕藩体制のもとで貧困にあえいでいた農民層は、政府の急進的な文明開化の政策に失望したばかりでなく、戸口の調査、種痘の実施などにかえって反感を持ち、ついに各地に農民騒動を起こすに至った。
 明治三年に野村・松柏(まつかや)・宇和・津島の各騒動(以上宇和島藩領)と、三間(みま)騒動(吉田藩領)が勃発した。翌四年には、明確に新政の打倒を叫んだ反動的闘争と考えられる農民一揆が頻発した。旧大洲藩領に起こった大洲・郡中・臼杵(うすき)の各騒動をはじめとして、旧松山藩領における久万(くま)山・久米(くめ)騒動はその著名な例である。それらのうち、規模が大きく、かつその影響が甚大であったのは、野村・三間・大洲及び久万山・久米騒動であった。次にこれらの五騒動について叙述することにし、他の騒動についてはすべて割愛した。

 野村騒動〈勃発の原因〉

 宇和島藩領は南予の山岳の重畳した地域を占め、海岸地帯においても平坦部のないリアス式の特異な地勢を形成している。これらの自然的条件の制約によって、同藩は常に農業の低生産性と零細性とに苦闘しなければならなかった。明治二年雨天が多く、米・大豆などが凶作であったので、農民たちは事情を藩庁に訴えて、その代納を嘆願した。
 幕末期から明治初期にわたり、物価の騰貴に悩まされた彼らにとって、この凶作は意外に大きい打撃となった。翌三年になり、農民のなかには貧困のために納税に苦悩するものが多く、藩庁に対して年貢の減免を要求した。さらに彼らの生活を窮乏させたのは、この地方の重要な物産であり、かつ慶応三年(一八六七)以降同藩の専売品である櫨(はぜ)の実(木蝋の原料)の価値が下落したことであった。これに対して、庄屋の権力は藩の保護を受けて強大となり、高利貸しとして資本家化するものが多かった。そのほかに、庄屋が農民たちに課した夫役の負担が過重であったため、平素から村役人に対し憤まんの情を抱いていた。
 この騒動の直接原因となったのは、農民らが櫨の実の買い上げについて、窪野(のち土居村)・魚成村の蠟屋に値上げを要求して、紛糾を生じたことに始まる。大豆納付の期限が来たにもかかわらず、農民たちは困窮の末、櫨の実の買い上げ価額の引き上げによって生じる余剰金を充てることに期待した。この機に乗じて、三月一九日に山奥郷(現城川町域と野村町の一部)の中通川村の鶴太郎、川津南村の和田治らに率いられた農民たちが藩庁に強訴しようとした。彼らは近隣の土居・古市村(現城川町古市)の者を誘い、農具を持って窪野村山姥に集合し、鉄砲を撃ち鳴らして沿道の村落に参加を求めながら、野村にある民政局に向かった。
 いっぽう野村でも、農民たちが同地の吉田屋久吾に櫨の実の買い入れについて、不当な措置があったとして、不穏な雰囲気にあった。二二日の朝までに山奥郷一一か村の農民をはじめとして、翌日には野村郷の農民が、さらにその翌日、宇和郷・城下組・川原淵組のものも集合したので、同藩領二七三か村のうち七三か村が参加したことになる。その領域は城下町の宇和島以北のほとんど全域―三崎半島を除く―にわたり総数七、四五二人であった。

 〈嘆願書の提出〉

 野村の大庄屋緒方惟貞(これさだ)は、農民に対して嘆願書を藩庁に提出するよう説諭した。また農民に食糧として白米四俵・味噌桶・酒樽などを分配したので、彼らは近隣に野宿する有り様であった。
 藩庁では事態の重大なのに驚き、大参事告森周蔵を派遣して、彼らと折衝のすえ嘆願書を提出させた。この嘆願書は山奥・野村・宇和・川原淵の各郷と、城下組とからそれぞれ出されたが、その内容はほぼ同じであった。これら農民の要求事項を総合すると、(1)大豆銀納を免除するか、納付の期限を延長する、(2)庄屋が自分の田地の耕作に農民を使役して田植えをさせることをやめる、(3)物成が皆済されないうちに、庄屋が作徳米を酒造業者に売り渡すことをやめる、(4)村役人のなかに、商売に手を出し、また仲買人となって利益を追求する者がいるのをやめさせる、(5)藩の租税に関する帳簿を年行事(農民側の利益を守る村役)に一か年に二度見せることなどであった(農民騒動 歎願書記録)。
 藩庁は協議の結果、裁許状を作って緒方に渡したので、緒方はこれを各村の組頭に伝達した。その内容は各地区によって相違したが、ここでは野村郷に関するものを記述しておこう。(1)大豆銀納については四分を免除し、未納分については月割で納付する、(2)庄屋が作徳米を酒造業者に売り渡すのを停止させる、(3)村役人が商売をすることについては、中央政府の指令に従う、(4)帳面を年行事に提示することによって、農民が安堵するならば希望に従うなどの回答であった。

 〈川原淵東組農民の蜂起)

 この時、新たに川原淵(かわらぶち)東組の農民たちが農具・鉄砲を携えて押し寄せた。緒方はこの地区の村役人・農民代表者を集め、要求書を提出するよう説得した。やがて作成された要求書のうち、豊岡村・広見村の分の中には、前者のそれと異なるものがあるので、その一部を摘記しておこう。(1)農民のなかには貧窮の結果、田畑を他村の者へ売却したが、これらを藩庁が買い上げ、元金で旧所有者に払い下げる、(2)明治元年に御用金を課せられた時、農民たちは米を売り払って金銭に替え上納した。その後米価が騰貴し、貨幣価値が下落したため、庄屋は金銭を返却し改めて米穀で納付させ、差益を得ようとしたことについて、一旦上納した金銭を農民は受け取らない、(3)庶政一新により藩吏は減石となったにかかわらず、庄屋のみ無役地を独占して富裕な生活を営み、農民の怨嵯(えんさ)の的となっている、現在の庄屋職を全部罷免して、農民の入札で選出するようにするなどの項目があった。
 これらの要求に対する藩庁の回答は、抽象的でその結果を明確に把握することができない。山奥・野村の両郷に関する騒動が解決する曙光が見えていた時であったから、藩庁例は具体的な内容を口頭で答えたのかも知れない。要するに、大豆銀納の四分免除、櫨の実の買い入れ価格の値上げの承認を根本原則としたものであった。

 〈騒動の解決〉

 四月三日に、元執政の桜田亀六と農民との会見があって、ようやく騒動は解決した。緒方は櫨の実について将来の再紛争を避けるために、蠟座関係の商人を呼んで談合を行った。それによると、農民側の要望をいれて、櫨の実一○貫目につき二〇目を値上げし、支払いはその月中にすべきことを商人たちと約束したので、農民側も満足してそれぞれ帰村した。四日に藩吏・藩兵は宇和島に引き掲げた。
 五月一日に藩庁は鶴太郎・和田治をはじめ各村の指導者を逮捕して、取り調べを開始した。翌日従来の庄屋をやめ、村務を組頭・横目・年行事らの協議による運営に任せることとした。これは同藩領内の青石郷方面の農民の間に動揺が激しくなり、松柏(まつかや)・津島の両騒動が起こる懸念があったためであろう。この影響は隣接した吉田藩の農民にも大きい刺激を与え、大規模な三間騒動を起こす結果となった。

 三間騒動〈勃発の原因〉

 吉田藩領内の村落は、宇和島藩のそれに比較すると、生産資源などに恵まれたところがあった。しかし、宇和島藩と同様に、吉田藩は常に農業の低生産性と零細性とに苦悩していた。明治二年には雨天が多く、米・大豆などが凶作であった。そのうえ、幕末期から明治初期にわたり、物価の騰貴に悩まされ、彼らの生活に甚大な打撃を与えた。
 次に考えられる素囚は、同藩の保護を受けた庄屋の権勢が強大となり、高利貸し資本家となるものが多かったことである。また庄屋の農民らに課した夫役が負担過重であったため、平素から村役人に対して憤まんの情を抱いていた。さらに重要な産物である櫨の実の価額が、慶応三年以降下落した。ことに櫨の実を生活資源の一つとしていた山間部の農民にとって、彼らの生活をますます窮乏に陥れる結果となった。
 さらに、この騒勤の直接原因となったのは、隣接する宇和島藩で起こった野村騒動であった。実にこの騒動は前記の騒動に参加した農民の強烈な刺激と、勧誘とによるものであったといえる。

 〈山奥筋農民の蜂起〉

 吉田藩領は西は宇和海から、東は土佐国境に至るまで帯状のように広がり、これに接する両側の地域はすべて宇和島藩領であった。この吉田藩領を地形上から見ると、吉田を中心とした沿海の村落、三間盆地内の村落―三間内という、吉野川に沿う村落―川筋という、土佐国に接する山岳地帯の村落―山奥筋という、の四地域に大別される。
 まず四月一日に、山奥筋の高野子村(現城川町高野子)の農民が蜂起し、隣接の諸村の農民を勧誘して小倉村(現広見町小倉)に進出した。藩庁は三間地区に民政局を仮設し、大森権大参事が現地に到着した。ところが、小倉村では七〇〇人の農民が結集して鉄砲・竹槍を持って庄屋宅を襲撃する有り様で、手の施しようもなかった。彼らが内深田村(現広見町内深田)から出目(いずめ)村(現広見町出目)へ向かう様子であったから、大森は藩の予備兵・軽卒を是房(これふさ)村(現三間町是能(これよし))から曽根村(現三間町曽根)に出動して待機させた。三日に藩庁では事の重大なのに驚き、飯淵大参事・今橋少参事らを曽根村に派遣した(吉田藩政庁日記)。
 いっぽう農民らは清延駄場に結集したところ、彼らの間で紛糾が生じた。それは川筋の農民が山奥筋の凶暴な行動を嫌悪して反対したことであった。また三間内の農民が川筋の人々に同調した。そこで、山奥筋の農民は一揆の分裂するのを恐れた結果、冷静な行動をとるように誓った。四日に彼らは宮野下村(現三間町宮野下)に移ったが、三間地区の農民も合流したので、その総勢は五〇〇~六○○余人に達した(吉田藩政庁日記)。藩庁は曽根村に民政局を仮設して、彼らに対応する態勢を整えた。六日に宇和島領の野村騒動が解決して、農民が全部帰村したとの報道が伝えられた。しかしこの地域では、相変わらず藩庁と農民とが対抗したままの状態が続いた。

 〈嘆願書に対する回答〉

 九日に藩庁は紛争を積極的に解決する決意をし、彼らに嘆願書を出すよう勧誘した。そこで彼らは嘆願書を認めたが、その内容は三四か条にわたる広範なものであった。藩庁では慎重に審議を重ねた結果、郷六豊香権大参事が各村から三人ずつの代表者を宮野下村三島神社に集め、要望事項について回答した。
 その内容は多岐にわたっているので、藩側で承認したものと、考慮を約束したものとを掲げておこう。前者に属するものでは、(1)上納米は京枡で四斗量りきり、(2)溜牢米の廃止、(3)不作の場合の検見、(4)農繁期における諸役掛物の廃止、(5)元種子米の貸し出しは無利息、(6)地方夫を廃して雇とする、(7)一か村に一役人を置くことを原則とし、村民の入札で選ぶ、(8)納蔵米の廃止、(9)網代は廻り網代とするなどであった。後者に属するものでは(1)賃炭は吉田まで一俵につき米六合、(2)池床米・溝床米の廃止、(3)庄屋野役一升五合米の廃止、(4)貸下金の高利を引き下げて七朱とするなどであった(吉田藩政庁日記)。
 このように農民側の要求が全面的に容認されたわけではなかったが、藩庁側の妥協的な態度に農民側は納得したらしく、帰村することになった。ところが、翌日に山奥筋一〇か村の農民はこれに反対し、他の村人を抑留して藩側との約束事項を覆そうとした。それは彼らが帰村後に現在の庄屋の指示を受けることを喜ばず、横目に代勤を命ずるよう要求していたが、藩庁がこれを拒否し、彼らは更に野役の廃止を強要した。藩庁は、民政局から改めて沙汰するまで野役を停止する旨を回答した。その結果、彼らは一応了承したらしく帰村したので、藩庁側も兵員を吉田に引き揚げた。

 〈紛争の再燃と藩の処断〉

 これでこの騒動も落着したと思われたが、帰村した農民の中には、村役人が不正に年貢を徴収しているとして、米穀の返却を強要し、出訴をもって脅迫する有り様であった。藩庁では、最も抵抗の強かった山奥筋に兵員を派遣し、また各地の首謀者を探索した。翌年二月に一揆の首諜者の処罰が公表され、高野子村の二名は絞首刑、同村及び鶴間浦・日向谷(ひゅうがい)村・上鍵山村の六一名は禁錮刑をうけ、庄屋一四名、組頭二二名、横目一二名が隠居あるいは禁足を命じられた(吉田藩日記)。この間における吉田藩庁の態度を見ると、村役人層と農民層との間に介在した問題を、積極的に打開しようとする熱意も識見もなかったから、解決へ努力すればするほど、農民層から遊離する存在となり、武力による威圧に鎮静への道を求めなければならなかった。

 大洲騒動〈勃発の原因〉

 大洲藩は寛延三年(一七五〇)以降、高率の課税、専売制の強行などによって、財政面の危機を回避してきた。農民にとって年貢の米納以外に、小物成として綿・麻・雑穀などの雑税が課せられ、馬糧のための葉豆、屋根葺替えのための茅などを納付しなければならなかった。同藩は幕末期における財政困難の結果、多額の藩札を乱発したため、その価値は暴落し、札一貫目(匁)一両であったものが八貫目一両に暴落した。この経済界の混乱による社会不安と人心の動揺は、維新期を通じて増々激しくなった。
 さらに明治四年七月の廃藩置県の際に、政府は同藩の借財を引き継いだが、同藩の藩札の価値が下落していたために、一三日の公定相場によって、三貫五〇〇目を一両とした。これを隣藩の宇和島藩のそれに比較すると、七五〇目が一両として算定されたから、大洲藩との差異は著しく、紙幣の暴落が同藩領に及ぼした打撃は大きかった。この経済問題が、ひいては県民に不平不満を起こす要因となった。
 大洲県が誕生し、藩知事に代わって山本尚徳が大参事となって県政を執った。山本は文明開化の進歩的な方針を県政に採り入れようとした。しかし、彼の施政は旧藩士全体の賛同を得ることができなかったばかりでなく、かえって反感を持つ同志を糾合させ、尚徳に対抗する保守派を構成する結果となった。ここに同県内では革新派と守旧派との軋轢(あつれき)が表面化し、守旧派は革新派の山本の施政に反感を抱いていた。こうした政治的背景の中で守旧派の士族たちは、この騒動の発展過程において、農民を教唆することとなった。
 また藩兵の解放がなされたにもかかわらず、軍馬・馬糧の徴発が行われたことも、農民の間にいろいろの疑惑を招いた。さらに彼らを動揺させたのは、種痘の実施を強制したことであった。これに関する誤った噂のために、農民の間で種痘が嫌悪され、いっそう社会不安をかきたたせることになった(大洲騒動日記)。

 〈農民の大洲若宮河原屯集〉

 明治四年八月八日に、まず喜多郡手成(現大洲市手成)・戒ノ川(現長浜町戒川)両村の農民が鉄砲・竹槍などで身をかためて蜂起し、肱川口沿いに大洲へ向かった。彼らは隣接する米津・加屋両村の農民に参加を強要し、応じない時は家屋を引き倒すと脅迫した。彼らが八多喜村に押し寄せた時には、相当の人数となっていた。県庁では、この騒動に驚き、官吏を派遣して説得しようとしたが、夜になったので、その実態の把握が困難になってしまった。
 手成・戒ノ川の農民らは、五郎村まで進出したが、城下町の模様が不明なため、前進するのを躊躇(ちゅうちょ)したようであった。そこへ保守派の士族らは、五郎村に赴いて農民の指導者に会い、目的を貫徹するには若宮河原に屯集して、気勢を挙げるよう力説した。彼らは決意して移動をはじめ、九日の夕刻までに河原を占拠した。彼らは堤防の竹木を伐採し、町内から苫(とま)・莚(むしろ)などを購入して小屋を建て、野宿の準備をした。
 さらに手成・戒ノ川両村と方角を異にする五十崎・内ノ子・小田地区の農民も、これらに呼応して続々と若宮河原に集合して大集団となった。この時の農民の総数は『大洲藩紀』によると、およそ四万人に及んだという。県側の説得に対して農民の結束は堅く、解決の端緒を見出すことはできなかった。そこで一二日に各村役人に命じて、農民側の要望事項を提出するよう勧誘させた。
 やがて菅田・宇津・大竹・森山・成能・蔵川・久保・長谷(以上現大洲市内)・大谷・奈良野・弦巻・中居谷・宇和川・茗荷谷(以上現肱川町内)・宿間(現五十崎町天神)などの一五か村から嘆願書が提出された。この騒動に参加した農村は、大洲県の各地域にわたっていて、わずかに忽那島(風早郡)の農民が参加しなかっただけであった。
 この時の嘆願書の内容を見ると、一一か条あるが、とくに(1)旧藩知事の大洲在住を希望、(2)財政困難から五貫匁の銀札を発行し、財界を混乱させたにもかかわらず、神楽山に総社を建てる計画の不合理性、(3)大参事に加藤玄内、小参事に加藤右一郎を任命し、他官吏を罷免、(4)士族に従来の俸禄を支給し士族の帰農を停止して、農民が安心して農業に出精できるようにする、(5)大豆の銀納は大阪相場によらず、地相場に従う、(6)蘭法医を国外に追放し、種痘は庶民の自由とする、(7)産物役所を廃止し、木竹・木炭の運上を免除するなどが主要なものとして挙げられる。県庁側では、これらに対し協議がなされたが、山本尚徳ら強硬論者は烏合の衆に過ぎない農民を、砲撃によって解散させるべきであると主張した。保守派はこれに反対し、かえって一揆の拡大について山本の責任を追求した。旧藩知事も、事件を穏便に解決しようとしたので、強硬論は破れた。
 一五日に、旧藩知事は河原に赴き、苦衷を述べて帰村するよう力説した。その夜、山本尚徳は一揆勃発の責任をとって自殺した。翌朝、県は農民らに尚徳の自殺した経緯を述べて、解散するよう勧誘した。農民側もこれに応じて帰村することに決し、順次その途についた。
 この時、県と農民側との間に、どのような交渉が協議・決定されたかは分からない。しかし二八日に、県の民事懸から農民の要望に対し、「御触」すなわち回答書が発表されているのを見ると、農民もあらかじめ条件を内示され、これを了解して解散に踏みきったのであろうと考えられる。県の回答の主々ものを挙げると、(1)種貸の利米及び豆元の返済はこれに応ずる、(2)大豆銀納は地相場によって算定する、(3)産物会所を廃止し、雑穀・蠟・櫨実などは運上を掌蠟社に支払えば、他県への移出を認める、(4)本竹・諸産物も運上を出津番所へ支払えば移出を自由とする、(5)種痘は各自の自由に任せるなどであった。
 これらの条項については、農民側の要望が全面的に承認されたが、県側は(1)小物成の銀納は従前のとおり、(2)米・大豆・楮・紙などの他県移出を認めない、(3)利率は昨年決定したものによるとの強硬な方針を堅持したので、彼らの希望は無視される結果となった。
 藩政期に紛争を繰り返し、ようやくこのたびの騒動によって実現した要求事項の存在すること、県側が鎮圧に対してほとんど無策で、わずかに旧藩の名声に頼ったこと、大参事の死によって、革新派が表面から姿を消し、県側が後退したことを考え合わすと、この騒動は大きい意義を持っていたといい得る。またこの騒動が契機となって、同県内に郡中騒動及び臼杵騒動が起こっていることにも留意すべきであろう。

 久万山・久米騒動〈勃発の原因〉

 この騒動の要因は、維新政府のとった「文明開化」の革新政策が、保守的な浮穴郡久万山地方の農民に容易に理解されないばかりでなく、かえっていろいろの誤解を招き、反感をさえ持たれるようになったことであった。久万地域は交通不便で、平野部と隔絶しているために、中央との接触がはなはだ薄かった。時勢の進運を感得できなかった農民らは、政府の新政策が強硬に実施されるに当たって、恐怖をすら覚えるようになった。松山藩では、政府の方針に従って神仏の分離が行われ、天明年間以後に設けられた社祠を付近の神社に合祠し、さらに淫祠を取り除く令を出し、村吏に命じて堂宇を焼き払わせた。これは神社崇拝の農民に非常に大きな衝撃を与え、その破壊をキリスト教に改宗させるための準備であると盲信させるに至った(松山藩紀)。
 さらに明治四年七月一四日に廃藩置県が断行され、今まで存続した松山藩が解消し、久松定昭は藩知事をやめて東京に居住することになった。この日新たに松山県が誕生し、大参事の菅良弼が政務を担当した。文明開化の政策に反感を抱いていた彼らは、環境の激変を怖れるのあまり、定昭の留任を強訴することになった。このような農民騒動は、幕末期の混乱、維新による権力の交替と動揺、世相の不安定によって各地に頻発した。
 浮穴郡日浦村(現美川村日野浦)の庄屋山之内金十郎の三男才十郎は、藩知事の留任を要求しようとして、西谷・柳井川・久主村(現柳谷村)の各村に働きかけ、八月一四日に蜂起した。この騒動に参加した農民は竹槍・鉄砲を用意して各家に呼びかけ、強訴に参加しない場合は家を焼き払うと威嚇した。さらに付近の村落へも勧誘の手を伸ばしたので、下坂(しもばん)地区(久万山南部)の一〇か村のものが合流した。さらに北坂(きたばん)(久万山北部)でも東山村(現美川村東川)をはじめ八か村の農民が、それに応じて立ち上がり、ともに久万町村に向かった。彼らは一旦同村の法然寺に屯集したが、その数は三、〇〇〇余人に達したという。翌一五日に畑之川村(現久万町畑野川)の者も参加し、一行は翌日夜になって松山へ出訴することとなり、鬨(とき)の声をあげて松山街道に向かい、翌朝三坂峠を下って久谷村に出た。一行は旧藩知事久松定昭の親書を持った県吏に出会ったが、その制止にも従わなかった。彼らは順路の森松村に出ると、兵士に阻止されることを恐れ、方向を転じて上通りから高井村に入り、西林寺に入って宿泊の準備をするものもあった(伊豫百姓一揆20)。定昭は旧家老の水野氏を遣わして、解散するよう説得させた。彼らはこれに応じず、先頭は久米郡鷹子村の日尾八幡神社に達し、付近の民家・社寺に宿泊した。いっぽう松山県庁では、彼らを鷹ノ子付近で阻止することになり、兵士をこの地に集結させた。

 〈久米郡農民の暴動〉

 ここで注意すべきは、この久万山騒動を好機として、久米郡久米・平井・北吉井地区の農民が蜂起したことであった。その一因は久万地域の農民を、松山県が武力によって阻止しようとしたため、隣接した地域一帯の人心が動揺し、不穏な雰囲気に包まれていたのによる。
 またこの地区の農民は、封建時代に長く村落の実権を握っていた庄屋・組頭ら村役人を快く思わず、両者間に対立があったようである。農民たちの中で、新政府の革新政策を理解せず、不平不満を抱いていた者があったことは、久万山地区と変わっていなかった。さらに久万農民騒動の強烈な刺激を受けて、志津川・西岡(現重信町)・北梅本・南梅本・水泥(みどろ)・苅屋・平井谷・小屋峠・畑中・窪田・高井(現松山市)などの村落でも、農民が立ち上がって暴動化した。
 彼らは久米にあった租税課出張所を襲って建物・記録類を焼却し、窪田村の庄屋(大庄屋)・組頭宅に放火したのち、さらに高井村の庄屋宅を焼き払った。この時、他の村でも庄屋・組頭の家屋が襲撃を受け、保管している帳簿類・家財などを破壊した。やがて彼らは来住(きし)村(現松山市来住町)の軍(いくさ)ヶ森(もり)若宮社の南畑に集まり、野宿したようである(窪田村南分詫状)。

 〈武力による鎮圧〉

 県は騒勤の暴動化するのを見て、武力によって解散させることになった。一八日に、鷹子村庄屋宅に本拠を置いて、攻撃に着手した。この時、砲撃の最も激しかったのは、日尾八幡神社付近であって、農民のなかに傷つく者も多かった。
 このために、久万地区の農民を監視するため出張していた庄屋らも被害を受けた。一揆に参加した農民の所持した鉄砲・竹槍・刀剣類は、兵士の手によって没収され、竹槍は日尾神社・浄土寺の境内で焼却された。その他のものは当局の手によって松山に送られた。県は鎮圧に成功したので、翌一九日に各村の頭取を呼び出し、嘆願の内容を聴取した上、各村に引き取らせた(松山県紀)。二〇日に県では、庄屋・組頭の家屋の被害状況を、坪数および隣家の戸・障子に至るまで綿密に調査した。県はその補償策を協議の結果、被害を受けた家人らに対し米一〇〇俵を与えた。
 帰村ののち数日を過ぎて、県は久万地区の庄屋・長百姓らを松山藩邸に召集し、奥平貞幹・公庄八郎平らの立ち会いのもとに、定昭から直接に「徒党ガマシキ義ハ、何程然ルベキ箇条ニテモ、御取上ゲ相成ラ」ないのであるから、平静になるよう説諭した。また県は各村に官吏を派遣して、首謀者の探索をした。逮捕されたもののうち、審議の上、軽罪のものは帰村を許されたが、放火などに関係ある重罪人はそのまま人牢させられた。最後まで残された者は、四〇~五○人に及んだようである(松山県紀)。