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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 愛媛県の誕生

 「愛媛」の名称

 明治六年二月二〇日付で、新しく愛媛県が生まれた。『愛媛県紀』に「明治六年二月二十日伊予ノ国ノ内石鐡県神山県ヲ廃シ愛媛県ヲ置カル、同日元神山県参事江本康直、権参事大久保親彦、七等出仕西園寺公成更ニ本県ニ転任」とある。
 「えひめ」という名称は和銅五年(七一二)太安万侶が編纂した『古事記』の伊耶那岐(いざなぎ)、伊耶那美(いざなみ)二神の「国生み」の条に早くも出てくる。二神は大八洲(おおやしま)国の生成にあたって、まず淡路島(淡道之穂之狭別島(あはじのほのさわりのしま))を生み、「次に伊予之ニ名の嶋を生みたまひき、この嶋は身一つにして面(おも)四つあり、面ごとに名あり、かれ、伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟(あは)の国を大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ」とある。ここで「伊予の二名の島」とは四国島全体を指している。四国島は体は一つだが、顔が四つある、伊予・讃岐・阿波・土佐という四つの顔である、その顔ごとに名前がついている、として伊予を「えひめ」(女神)、讃岐を「いいよりひこ」(男神)、阿波を「おおげつひめ」(女神)、土佐を「たけよりわけ」(男神)と呼んでいる。これは古代の人々が土地には神霊が宿るものと考えた信仰であろう。また「ひめ」が女性をさすのに対して「ひこ」は男性、「わけ」も古代の氏の地方官吏を指すので男性であろう。
 本居宣長は『古事記伝』で、伊予の二名島とは阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を総べた名である、この島は横に見ると北から讃岐の飯依比古と伊予の愛比売の男女神が並び、また阿波の大宜都比売と土佐の建依別の男女神が並んで二並びになっており、縦に見ると東から讃岐の飯依比古と阿波の大宜都比売、伊予の愛比売と土佐の建依別と男女神が二並びになっている、このように縦から見ても横から見ても男女神が二並びになっているので「伊予のふたならびの島」という意味であろうという。
 古事記・日本書紀では二神の国生みの順序などについても若干の違いがあるが、四国島を「伊予の二名の島」(記)、「伊予の二名の洲(しま)」(紀)と呼ぶことに変りはない。「二名の島」についての宣長説は理解出来るが、これに「伊予の」と冠したのは何故であろうか。これは恐らく瀬戸内海の航行が盛んになり、四国島が都方面に向かう船人の注目をひき、まず最初に位置する伊予地方は船人との交渉も多く、従って彼らの知識も豊富になって、四国といえば伊予が強く印象づけられたことによるのではないかと考えられる。
 『古事記』によると大八洲の説明は四国・九州が詳しく、他の六島は簡略で、佐渡・壱岐についてはその神の名さえも書かれていない。これは七世紀前後に瀬戸内海周辺の開化がすすみ、大和地方人のこの地方についての知識も豊富になり、四国島は海上から眺めて四面あるとか、山川のたたずまいなど、地形の大要を心得ていたことによるのであろう。男女神の配列についてもそうした基礎知識が感じられる。
 「いよ」は地名であり、「えひめ」はその地の神の名であるから、「えひめ」は「いよ」の別名ともいえる。「えひめ」はその意味するところ「うるわしい女神」である。これを伊予国の新県名に採って「愛媛」としたのは極めて自然であった。万葉の歌人柿本人麻呂は四国の島山の美しさを、「神の御面(みおも)と継ぎて来し」と歌ったが、「愛媛」の文字は、まことに歌聖の讃美に応えるごとく、至妙というの外ない。試みに「愛比売」を「愛姫」とされていたとすれば思い半ばに過ぎるであろう。
 県名を定めるに当たって、どのような審議がなされたのか何の記録も今日に残らないが、明治二年に今治の半井梧庵(なからいごあん)が五巻の伊予国地誌を刊行してこれに『愛媛面影(えひめのおもかげ)』と名づけたことが新県名に大きく関係すると見られる。著者はその序文に、「古事記に此島は身ひとつにして面四つあり、かれ伊予国を愛比売といふことあるによりて、やがて巻の名におほせつるなりけり」と記している。「愛比売」に「愛媛」の文字を当てたのはこの書物の名が最初であった。新県名が決められる四年前に出されたこの不朽の名著『愛媛面影』の書名が審議され、採択されたものと考えられる。

 江木参事の就任

 愛媛県設置にともない、政府は主脳となる参事・権参事・七等出仕らはそれぞれ旧神山県から横すべりさせ、旧石鐡県の主脳は免官とした。これは石鐡県の本山参事の治績に見るべきものがなかったことによるのであろう。
 愛媛県参事に転じた江木康直の履歴を見ると、彼は山口県士族、通称を清次郎といい、明治五年一月宇和島県権参事、七月神山県参事、六年二月愛媛県参事となっている。はじめ愛媛県には令・権令は置かれず、参事が最高長官であったので、江木は初代の愛媛県知事に当たる。
 明治六年三月二二日に江木参事は、権参事大久保親彦らを帯同して宇和島から松山に着任して旧石鐡県七等出仕山本速夫・同小林信近らから旧県の事務引継を受け、翌二三日に愛媛県庁を堀之内三の丸旧石鐡県庁あと(現在県警察本部の西側付近)に開いた。建物は石鐡県庁舎のものを、そのまま修繕を加えて使用することにし、修繕費約七〇〇円を要している。同時に宇和島に支庁を置いて、神山県の事務引継及びその区域内の事務を扱わせた。支庁は五月末に出張所に改められるが、一○月末日に新居郡西条にも出張所を置いて事務の円滑を図ることにした。

 篠山と沖の島問題

 古来、土佐藩と宇和島藩の接する篠山(ささやま)(一〇六五メートル)と、その南方洋上の沖の島(おきのしま)では境界紛争が絶えなかった。土佐の古歌に「篠(ささ)、矢筈(やはず)、正木川分(わけ)、松尾坂、もくづ、浜中、あしはおりのり」とあるが、これは篠山山頂から沖の島東海岸を見通した線で両国を分けていたものとして、この線上の地名を綴ったものという。篠山には両国の信仰中心である篠山権現が祭られており、所属問題は住民の関心事であった。たまたま明治五年、高知県から排仏毀釈に関連して篠山権現を神社とし、高知県に登録するとの交渉があったので、この問題が再燃した。
 篠山の帰属問題については万治二年(一六五九)に両国人民が争って幕府へ訴訟に及んだ。このとき幕吏は、従来伊予領だった西小川平を土佐へ、土佐領東小川平を伊予に渡したり、姑息な処置をとったため境界が定まらず篠山は両国の共有地になっていたので、この機会に両県官立ち合いの上、境界を正すことにした。よって明治六年一〇月二八日に高知県権令岩崎長武と愛媛県権参事大久保親彦は現地に赴き、一、伊予国宇和郡と土佐国幡多郡の間に屹立する篠山の頂に石標を建てて、東は山吹峰、西は一ノ王子を見通して、その分水嶺を両国の境とする、一、篠山神社は従来土佐国において造修繕をしてきたが、神社は伊予国に属すことになったため、今後、神社は土佐国とは係わりないものとする、頂上にある矢筈の池は土佐国に属す、一、万治二年の境界論争の時、伊予の西小川平の地を土佐領に土佐の東小川平を伊予領としたが、今回これらの地は元に戻し境界を確立すると取り決めた。さらに石標の文字を次のように刻むようにした。

石標左ノ通、
 南 伊予国 境
 北 土佐国 境
 紀元二千五百三十三年第十月
  高知県権令 岩崎 長武
  愛媛県権参事大久保親彦 立合建之
        (「篠山境界変更記」愛媛県立図書館蔵)

 高知県宿毛市の西南太平洋上に位置する沖の島諸島は、その中心となる沖の島(面積一〇・五二平方キロメートル、周囲三三キロメートル)、鵜来(うぐる)島(面積一・三二平方キロメートル、周囲六キロメートル)と無人島の姫島・裸(はだか)島・二並(ふたなみ)島・三ノ瀬(さんのせ)島・水島などの小島しょからなり、現在すべて宿毛市沖の島町に属する。沖の島の地形は中央部に標高四〇三・八メートルの妹背(いもせ)山がそびえ、南部と東部の海岸は断崖と急傾斜をなし、東部の谷尻・玉柄と西南の弘瀬浦の三集落のみが江戸時代に土佐国高知藩領であった。西部の北に母島(もしま)浦・久保浦・古矢野(こやの)浦の三集落があるが、この沖の島の中心三集落と鵜来島以下の小島しょは江戸時代以来、宇和島藩領で、伊予国宇和郡に含まれていた。
 沖の島は江戸中期に宇和郡津島郷岩松の沢近氏が一族を連れて集団移民し、母島浦にいて代々庄屋役を勤めた。沖の島の西北約七キロメートルの鵜来島は宇和島藩の流刑(るけい)地であった。
 宇和島藩の施政中に沖の島の島民から支配地のうち沖の島は地方(じかた)より十里余も離れた孤島波高の場所で、旧来流罪の者を置き、当今は准流の者を置く所でさしたる作付けも出来かね、税法も立たず、専ら漁事を家業として生活致し来る所、今度開墾取り調べのため掛り役人を差し向け島中を調査するに、新田畑に成る見込みもあり、諸方より拓地を希望している体で、別に障碍もないので、准流徒役の者共と島民共同で開作させたところ、もとより貧島のため自力に及び難く、差向き役所より藩札百貫目、金にして百四十二両三歩一朱と永銭四十五文を出して開拓させたい、高入については作付け出来の上、追々届け出ることにしたい、といった開懇の申し出があり、藩はこれを許可し、明治四年六月にこのことを民部省に伺い出た。
 これに対し同年九月二五目の大蔵省の指令には、沖の島開墾の儀はよいが、准流徒役の者と島民が共同で開作するとの儀は官私の別相分らぬ故、その方法及び反別、鍬下年季、経費仕訳など詳細に取り調べて伺い出よとの事であったので、翌明治五年二月、宇和島県は大蔵省に詳細な伺い書を提出している。それによると、徒刑の者を沖の島に移し島民に混じて開墾させたい主意は、近来徒刑の者共地方にてはさしたる仕役もなく彼方には開墾という目的もあるのでこの地へ移して仕役をさせたいとし、開墾地五八町余を明治二年に島民に割渡し、鍬下五か年とし、六か年目に検地の上、反別を取り調べ地味に応じ税法を立てて上納させるとか、准流徒刑者の取り締まりに掛り役員を八名備えるとか、徒刑者雇い入れの賃銭・賄い、徒刑者の収容、満刑後の処遇などを箇条書きで記してある。
 しかしこのことは達成されずして終わった。明治六年一〇月三〇日の愛媛県伺によると、

 南海沖ノ島ハ周囲五里計ノ小島ニテ伊予土佐二国ニ跨(またが)リ、高知県及ヒ当県ニテ界断管轄致シ従前ヨリ無税地ニ有之候処、向後貢税徴セラレ候ニ付、是迄ノ通両県分轄候テハ貢税取立ハ勿論、其他不便利ノ廉少ナカラサル様奉存候、且当県庁ヨリハ陸路三十七里、海上十里、殊ニ嶮難ノ場所ニテ秋冬ノ際ハ通船モ甚タ自由ナラス、高知県下ヨリハ陸地ヲ距ル僅ニ三里余、格別難所ト申ス程ニモ無之候間、右鳥并ニ附属ノ鵜来島姫島トモ当明治六年ヨリ全ク高知県ノ管轄地ニ仰付ラレ候様仕リ度、同県協議ノ上此段奉伺候也、

とある。この時点では交通の不便な難所であること、従来無税地であったものが徴税されることになり、ことに両県分轄という治政上の煩わしさを思い、執着なしに手離したと見られる文面である。これに対し愛媛県宛の明治七年七月七日付太政官達書には、「其県管轄伊予国沖ノ島鵜来島姫島、自今高知県管轄仰付ラレ条、同県へ引渡ス可ク、此旨相達シ候事」とあり、さらに明治九年二月二五日、太政官第二十一号御布告に、「高知県管下伊予国宇和郡沖ノ島鵜来島ノ儀、土佐国幡多郡へ編入候条、此旨布告催事」とあり、沖の島は愛媛県から離れた(沖島沿革記「愛媛県紀」資近代1 二四一~二四五)。現在これら諸島を含む周辺海域に足摺宇和海国立公園の一画をなしている。

図1-1 発足時の愛媛県庁

図1-1 発足時の愛媛県庁


図1-2 沖の島

図1-2 沖の島