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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 秩禄処分と士族反抗

 愛媛県士族の秩禄処分

 明治二年六月、新政府は版籍奉還に伴い現石高一〇分の一を家禄とし一門以下一般の武士に至るまですべて士族と称すべきことを指示した。これに基づき、伊予八藩は表1―17のように禄制改革を行い、士族の家禄削減に努めた。
 明治四年七月の廃藩置県以後、政府は士族の解体を急速に進めた。全国の華士族への家禄支給は国家財政の大きな負担となっていた。政府は明治六年一二月家禄税を賦課し実質的に家禄を削減するとともに、家禄奉還制度を定めて奉還希望者に家禄六年分の現金と年利八分の秩禄公債を下付しようとした。愛媛県内の士族は、明治七年一~六月に旧大洲藩士族の多くが奉還を申請したのを最初に明治七年中に三、一一九人がこれに応じた。
 明治七年「旧大洲金禄奉還人名簿」によると、大洲藩士一、二四四人中六一一人が家禄を奉還しており、その内訳は二三石六二人中一五人、二〇石八九人中二七人、一七石一一六人中二六人、一一石一一三人中二七人、一〇石四八人中一九人、九石一九五人中六三人、五石五斗二〇人中九人、五石六〇一人中四二五人であった。五石以下の微禄士族(旧卒族)の返還が圧倒的に多かった。家禄奉還願いの理由は「田畑等買ヒ入レ農業相営ミ活計等相立テ度キ見込ミ」とか、「資本金拝受仕リ候ハヽ、商業相営ミ往々生産相立テ」とかいった帰農のための耕地購入や商売のための資金繰りを名目にしたものがほとんどであった。これを集計すると、農業が七〇%、商業が一八%であるが、鍛冶職・大工・左官などに生計を求める者も三二人おり、長浜の船方関係下士二九人は海運業を営む資金に充てようとしていた。また三人の医者のうち、鎌田亮庵(一七石)は借財返却と医業資金に、宇田利三郎(一二石)は医術勉励の学資金に、井上新吉(九石)は薬物器機と書籍購入資金として家禄奉還・一時金支給を求めていた。上士では、大洲騒動で自刃した山本尚徳の息子山本尚健が「資本金下賜候上者漸次耕地相求メ農事営業ノ見込ニ付此段願候也」として二三石のうち一〇石の還金を申請している。二三石~九石の上・中士は家禄の全部を奉還するのではなく、半分の返還を願い出る者が多く、政府の秩禄処分促進に対する士族の疑心がうかがえる。また下井小太郎・力石八十綱・石丸弘陽ら当時県官に任用されていた士族が返還に応じている。この時期松山の小林信近・檜垣伸・土屋正蒙、宇和島の竹場好明・告森良、今治の石原信文らも家禄を奉還しており、政府の方針に率先して従おうとする県吏の立場が見られる。
 愛媛県内の士族は、表1―18に示しているように七~九年の三年間に六、一二七人がこれに応じた。この奉還人員は、県内家禄支給士族の五四%に達し、全国平均二四%をはるかにしのぐものであった。家禄奉還が本県で多かったのは、伊予八藩のほとんどが小藩で微禄の者が多かった上に諸藩が藩債と称する借り上げで家禄を減じたこと、廃藩による藩兵解体や目まぐるしい県の統廃合の過程で官職を免ぜられ給禄を失ったことなどに原因があり、わずかな家禄での生活を強いられた士族の困窮が共通の背景となっていた。この段階で、県内の士族階級はすでに自壊現象を起こしていたといえよう。
 全国的には予想したほど家禄奉還が進まなかったので、政府は明治九年八月五日、「金禄公債証書発行条例」を公布して国債を与える代わりに華士族の家禄支給を打ち切った。愛媛県は、同一一年九月六日から金禄公債証書を交付した。その発行高及び支給人員は表1―18のとおりである。このうち、乙号と明記しているものは元額一、〇〇〇円~一〇〇円の者に与えられる六分利付公債であり、家禄元高の七~一一年に相当する。金禄公債の全国発行状況は、発行額一億七、三八四万四、五九五円、交付人員三一万三、五一七人、平均一人五五四円、愛媛県は、発行額四七六万四、七五〇円(うち伊予国二七七万四、九六〇円)、交付人員九、四八六人(うち伊予国五、〇九六人)、平均一人五〇二円(うち伊予国五四五円)であった。なお、金禄公債は五年間据え置き、六年目より抽籤で元金を償還し、三〇年目に全部償還するものであった。
 金禄公債の交付による家禄の撤廃は、士族収入の減少をもたらした。例えば、松山藩士族の上士は二〇石七斗取りで、金禄に換算すると一〇二円七銭八厘であったが、公債の利息は六八円程度であり、収入の三四%を減じたことになる。さらに明治一〇年来のインフレによって米価が騰貴し、金禄改定時(明治八~九年)の標準価格四円九三銭をはるかに超え、明治一三年には九円八七銭とその二倍に達した。この結果、松山藩上士士族の一三年時実収入は金禄改定時の三分の一になった。
 こうして、従前にも増して困窮の度合いを強めた士族は、最大の生活資本である金禄公債を手放さねばならなかった。表1―18に示している明治一六年における公債保有人員は他府県への携行者を交付人員より除外して算定した場合、乙号五三・三%、丙号三七・七%であり、交付された明治一一年九月から一六年二月までの五年半に乙号で約半数、丙号では六割以上が公債を売却したことになる。さらに、保有者中には質入れしている者も相当数あると考えられるから、実質保有数は一層低い割合になろう。これを明治七年以来の交付人員一万一、二二三人に対する保有者数の割合に広めると、県内士族のうち公債保有者は一七%程度である。
 ところで、表1―19によれば、明治七年以来の家禄奉還者総数の約半数が大小の差はあれ耕地を保有していることが知られる。彼らの保有する地価の平均は一五三円七七銭、地租納付は一円九八銭になり、この中には旧藩主など地租一〇〇円以上を納める大地主も含まれていた。殖産授産面では養蚕製糸業が注目され、旧吉田藩士族遠山矩道・松山藩士族池内信嘉らが先覚者として活躍した。これら有志の努力で、県当局も明治一〇年ごろから養蚕製糸を中心とする授産対策を開始した。また、明治一二年以後政府の資金貸し付けが開始されると、旧卒族を主体とする各藩士族団の貸し付け申請が相次いだ。そのほとんどは養蚕・杵蚕(さくさん)や製糸業のための授産金であったが、旧西条や小松藩士は製紙業、旧今治藩士有志は白木綿(しろもめん)機織業と製糖、旧大洲・新谷藩士の一部は製茶・養魚を営むとして授産金貸し下げを出願した。明治一三年八月松山士族小野山義大らは紅茶製造資金一万円を受けて久万山に紅茶園・製造場を設営したが、製茶価格の低落でたちまち経営難に陥った。同一八年一二月旧松山藩卒族山内清平らは小林信近の勧めで松山・三津浜間の鉄道敷設のための資金八、一七八円の貸し下げを申請して同二〇年一月農商務省の認可を受けて授産資金を貸与されたが、実際には鉄道敷設計画には投資しなかった。「士族の商法」の名のとおり、授産事業に従事した県内士族のほとんどは企業に失敗し、担保の金禄公債も失って没落していった。

 旧松山藩の卒族処分事件

 明治二年一二月政府は旧足軽以下の軽輩の階層を卒族としたが、同五年一月に卒族の株を廃して士族と平民に編入する措置をとった。卒族の株はわずか二年余の短期間しか存在しなかったが、この時期の卒族処分と身分補償が各藩で異なっていたので、後年まで卒族問題をめぐって紛糾する県が少なくなかった。
 松山藩の卒は二、〇〇〇余名を数え、上卒・中卒・下卒・船卒・隷卒の五種類に分けられていた。ところが、明治三年一〇月一六日に至り士・卒の常務を解き給禄を改正するのに際して卒二、四二八人を廃し、賦与金を与えて一同を解雇することにした。賦与金は、卒各自の株高に応じて五年賦で分与されることにしていたが、卒族の中には窮迫して生計手段のない者も現れてきたので、翌四年七月一八日、農商就業の目的ある者は割賦金を一時渡しにすると布達して同年一二月出願者四一二人に一時金を付与、その他の者には賦与金の半分を支給した。こうした処置を、大蔵省に届け出たところ廃藩後の臨時支出はその都度伺いを経て処分するよう達せられたので、同五年一月二八日、松山県大参事鈴木重遠・菅良弼以下六人の幹部は恐縮して、進退伺いを提出した。
 明治五年九月、大蔵省は石鐡県に、旧松山県官の処分は不問にするが、廃卒処分の件は廃藩置県の後、伺いを経ず県の専断で取り計らったのであるからすべて元の禄高に復旧せよと指令、すでに支給済みの賦与金は返納の方法を設け、世襲卒は士族に、一代抱えは平民籍に編入の方向で取り調べ伺い出るよう命じた。石鐡県は同六年二月世襲卒一、三八七人の履歴書を作成して大蔵省に進達、八月二九日一、二三六人の士族編入が認められた。船卒・隷卒は別途に取り調べ同五年一〇月石鐡県から処置方を伺い出たのに対し、主務省から船卒は旧藩処分済みの者であるので復旧する必要はない、隷卒は廃止のままでよいとの指令があった。これらの両卒は納得せず愛媛県開庁以後しばしば苦情を陳べ立てたので、県当局は旧藩処分の実況を調査したところ、両卒は上中下卒と同時に解放処分したものであって、藩制中の取り扱いにやや差異があるが、世襲の卒族に相違ないと断定、旧石鐡県の取り調べに疎漏があったとして同七年二月上中下卒同様の処分をするよう上申したところ、七月三日船卒・隷卒一、〇五三人の士族編入が認められた(資近代1 一五九~一六五)(資近代2 四五〇~四五一)。
 こうして松山藩の各種卒族は士族に編入されたが、旧松山藩が解放に際して支給した賦与金の返納方法については、愛媛県の伺いに対し大蔵省は明治七年六月二八日付で、いずれも旧藩の原籍に戻したので、これまで下げ渡しておいた賦与米金と藩庁が引き受け消却した私債を返納させよと指令した(資近代2 一六四)。そこで、県は明治三年から七年までの旧卒族家禄を計算、すでに下げ渡した賦与金を差し引いて余剰ある者は家禄残金を渡し、家禄が賦与金よりも不足する者には同八年一月末日までに上納すべき旨を連絡した。過半の元卒は返納に応じたが、数十名は期限を過ぎても返却しなかったので、同八年四月四日皆納できない理由を答えるよう不納者に達し家禄を差し押さえた。
 賦与米金未返納者のうち西尾直衛らは明治八、九年に数回にわたり家禄下げ渡しを県庁に嘆願した。明治九年一一月一八日の願いでは、旧松山藩には慶安年中から株高と称して足軽各組が一八〇俵あて積み立て、藩庁に預け置く慣習があり、卒族一同の解放に際しその株高から私債を引きとった残余を賦与金と称して明治一〇年から五か年割賦与すべき処分を受けることになったが、賦与金とは「株金ニテ私債ヲ控除シタル残額ヲ下渡サレタルヲ指示セラレタルモノ」であり、「其下付米金ハ、各自ノ預ケ金ニテ官ヨリ別段給与セラレタルモノニ非ス」、それならば「其預ケ金ハ各自ノ私金ニシテ、其金中ニテ私債ヲ控除シ其過剰ヲ下付セラレタルナラハ、当然得ヘキ者ヲ受取タル義ニシテ決シテ返還スヘキ米金ニ非ス」と主張、また私債は卒族解放処分の際、株金賦与額の内から控除したのであるから、以後は旧藩の負債となり旧卒の私債は消却している、自分たちにとっては債主に対する義務はすでに解除しているのであるから、家禄を差し押さえられる理由はない、至急明治三年から九年にいたるまでの家禄を下げ渡していただきたい、ほぼ七年間士族唯一の財産である家禄を差し押さえられ窮迫至極につき下げ渡されたいと繰り返し訴えた。
 県は一二月二日付でこれを却下、あくまで賦与金の返還を指示した。明治一〇年一月一八日、西尾直衛と児島佐太郎・坂和幾太郎の三名は大阪上等裁判所に愛媛県権令岩村高俊を被告とする「家禄下付延滞ノ訴」を起こした。これに対し県は九等属益森英亮が岩村に代わって答弁書を進達、七月六日裁判所は裁決を下した。判決は、「畢竟(ひっきょう)卒族廃止ニ付官庁ニ於テ特ニ賦与金ノ名義ヲ以テ之カ処分ヲナセシモノナレハ、復旧士族ニ編入シ廃止年ニ立戻リ家禄下付相成ル上ハ曩(さき)ニ下付セラレタル金額ヲ原告ニ於テ返還ナスヘキハ当然ナリ」と原告の訴えは「採用シ難シ」とした(資近代1 四四五~四五二)。
 旧卒族有志による訴訟は敗北したが、明治一五年には大蔵省に直願した。県当局も明治一七年に至り「一時ノ償還ハ実際至難ノ事情アリ、其申立全ク謂レナキニアラス」として、表面上一時金払いの形を取って一割を値引き、実際には一〇年賦で支払わせることにして大蔵省に申請、認可された。私債処分については、明治一〇年一二月松山城下の区長の斡旋で借主は借金の六割に当たる金額を弁償することで示談した。
 こうして旧松山藩の卒族処分事件はようやく落着したかにみえたが、明治二〇年一月旧卒族有志が県庁に家禄違算の損害及び積立米下げ渡し並びに私債処分換えにかかる損害補償の請願書を提出した。彼らのいう「家禄違算」とは、旧藩では納(おさめ)枡といって京枡に比ベ一割方多量を算する唱(となえ)枡を用いて収出するを慣例としていたにもかかわらず、明治七年の禄高取り調べ進達の際は京枡で計算したので家禄高が一割減ずるとの主張であった。この問題は、従来の卒族の訴えを再び繰り返したものであった。この請願を県当局は却下したが、後日再び提出されることが予想されるとして、同二〇年五月県知事交代時の「県政事務引継書」に″旧藩卒族処分″の一項を設けて参考に供した(資近代2 四四九~四五三)。
 旧大洲藩卒も松山藩卒同様の事件を訴えた。つまり世襲卒を士族に編入するに際し、四一八人の旧卒は従前召し抱えの時、株米と唱えて一五石以内を旧藩に収めていた積立米を年賦割で下付された。その後、愛媛県はこれは旧大洲県の専決処分であるとして松山藩卒の例に照らして下付米の返納を求めた。大洲藩卒はこれに不服を唱え明治一二年一〇月大洲区裁判所に出訴、県庁の達しを拒むべき理由なしとの判決を下したが、控訴する動きを示した。県当局は年賦割の返納で妥協を試み、これが松山藩卒一〇か年賦割返納の前例となった。また今治藩は松山藩に倣って明治三年九月卒を独断で解放したが、同七年八月に至り愛媛県は世襲卒を士族に編入して永世禄を給し、一代卒は平民籍に編入して終身禄を給し準卒はあえて不問にしていたところ、一代卒三二八人・準卒一二六人は士族編入を嘆願してやまなかった。県当局も事情を調査して明治九年一月内務卿に上申したが、一〇月「禄制改正ニ付、総テ現今ノ処置ヲ以テ定度トシ如何ノ事実之レ有リ共一切採用致サス」と聴許されなかった。更に県は同一三年一月復族一点にしぼって出願したところ、同一六年に至り四〇〇余名のうち六〇名のみ士族編入が許され他は認められなかった(資近代1 七〇一~七〇二)(資近代2 四五三)。

 明治一〇年国事犯事件

 明治一〇年二月二二日午前一一時、鹿児島に挙兵した西郷軍が熊本城を包囲したころ、内子警察分署の前を帯刀して通行する志士風の人物を巡査が目撃した。尋問すると、山口県士族松岡信太郎と名乗り高知県宿毛の医者を尋ねて帰路の途中と申し立てたが、言語あいまいであったので刀を取り上げて大洲警察署に拘引した。取り調べ追及したところ、大洲・吉田・宇和島藩士族有志の陰謀事件を自供した。松岡は実は山口県熊毛郡下田布施村の平民で、高知県士族寺邨(てらむら)小次郎と偽名して武田豊城・飯渕貞幹(いいぶちさだもと)・鈴村譲ら大洲・吉田・宇和島の憂国の士族を歴訪、国事を談するに託して数名に面会し金銭物品などを詐取していた。松岡は高知の激派士族大石圓の同志との触れ込みで武田らに弁舌巧みに近づいたが、やがて武田豊城は一、二回面談するうちに真の有志者でないことを知り、あえて志を語らずにこれを遠ざけた。飯渕貞幹は松岡に面会したけれども、軽率であったので以後病と称して面会しなかった。ひとり鈴村譲のみ、薩摩が挙兵するので九州に赴く旨を述べる松岡に共鳴して、共に事を果たす目的で同行を約したのであった。
 松岡信太郎は、この地の有志は蓄積した多数の武器弾薬をもって鹿児島と同盟蜂起して出向する約束である由を自供した。大洲警察署長九等警部力石八十綱は、かつて大洲有志士族の結社「集義社」の仲間であった武田豊城らの挙動を警戒していたものの、事の重大さに驚愕(きょうがく)して愛媛県第四課(警察課)に急報した。権令岩村高俊は警察の総力をあげて事件の取り締まり糾明を指示、本部から第四課課長三等警部武藤正休を隊長に二五名の巡査が大洲に急行した。
 二三日午後から松岡の供述をもとに早速検挙に取り掛かった。まず大洲党の首謀者と目される武田豊城が午後二時逮捕され、ついで上月正郁・築山弘毅、二四日向井儀則・武田弥年らが拘引、二五日武田豊城と並ぶ首謀者永田元一郎が捕縛(ほばく)された。二三日、等外一等出仕三好幾次は、この事件の煽動者山口藩志士冨永有隣の潜伏先と見られる宇和郡奥野川村辺を探偵のため出張、さらに高知県に赴いた。大洲署長力石八十綱と等外一等出仕野本忠篤は巡査二名を伴って吉田・宇和島に向かった。二四日午前一時、宇和島警察署の八等警部横山政輔は巡査一〇名を引率して飯渕貞幹を吉田分署に拘引、待っていた野本・力石らと鈴村譲拘引のことを議して宇和島に共に至り、巡査三名をして午前五時鈴村を拘引させた。飯渕・鈴村を宇和島に止めておくことは諸般の情勢から懸念があるので、この夜一〇時ひそかに本所へ逓送すべく大洲へ護送した。この二四日午前六時、松岡信太郎は二人の巡査に護られて本庁へ向かい夜半に郡中に至り、翌二五日午前九時松山の本庁に着いた。この日午前六時武田豊城は本庁に逓送されるべく大洲を出発、午後九時には、上甲震吉・本城正恒・神山政勝ら宇和島の容疑者が大洲に引き渡された。吉田・宇和島党の総帥上甲振洋は、中風症の篤いゆえをもって逮捕を免れた。振洋が野中重遠に託した鈴村譲あての書簡に、「僕幸中風、故未及囚、亦夫之幸也、天下一変、可在近、県吏之奔走可笑可憎、草々止筆」と記している。二五日以後も逮捕拘引が続き、二六日八幡浜の野中重遠、二七日大洲の谷山正名・渡辺八尋・土居小次郎が拘引され、加藤赳は大洲署に自訴書を持参した。これが他の同志が自首するきっかけとなり、翌二八日、滝野重敬・杉江安忠・中村三綱・小林資典の四名が、それぞれ時間を異にして自訴書を提出した。それぞれ拘引者取り調べの過程で、大洲中村蓑島正隆方に連判状があるとの情報を得て家宅捜索したが見当たらなかった。逮捕者は次々と松山の本庁に護送され、県庁内の警察拘留所に収監され、逐次取り調べを受けた。
 以上の一味同心者の逮捕拘引の様子は愛媛県警察本部所蔵文書「西南騒擾」収録の「臨時出張日誌」によった。取り調べの過程での武田豊城らの口供書一括写しは、国立公文書館の「太政類典」第二編第三五一巻に筆写保存されている。これらの口供書で大洲と吉田宇和島両藩士族有志による国事犯事件の動機と経過を概観すると以下のようである。
 幕末・維新の際、微禄ながらも大洲藩勤王派の一翼をになった武田豊城は、明治七年陶不窳次郎(すえふゆじろう)らの集義社に同志として加わった。しかし陶らが集義社を土佐の立志社と通ずる民権結社に発展させようとしたことから、「民権自由ノ説ハ、其極点ニ達スルトキハ陛下ヲ蔑視シ、朝憲ヲ紊乱スルニ至ルヘシ」(政党沿革誌)と考える武田豊城・永田元一郎と相いれぬ対立を生み、集義社の団結は解除するに至った。武田・永田は、集義社の仲間であった築山弘毅・渡辺八尋をはじめ上月正郁・加藤赳・石河頼一・瀧野重敬・杉江安忠・谷山正名・小林資典・本多誠・土居小次郎・向井儀則・簑島正隆・橋村廣連・稲垣干雄・宇都宮登・得能通虎・中村三綱らと同志的結合を生み、時々集会して国事を談ずるようになった。武田らは「維新以来政治風俗洋洲ニ傚(ならう)ヨリ、往々共和ノ政体ヲ唱フル者アリト聞ク、然ルトキハ皇威不振廟堂ノ基礎頽廃セン」(武田豊城告発書 永田元一郎告発書)ことを悲憤し君主独裁の政治に復すべきことを希望した。しかし自分らが政府に建議しても採用されることはないと無力感に襲われていたところ、明治六年征韓の議が起こり、島津久光の建言などもあって内閣分裂の勢いにあることを伝聞、この機に臨んで傍観する時ではないとして、永田らは上京して志を政府に建言しようと主張した。この際、兵威をもって妨害された場合応戦する武器を必要とするということで銃器の収集と弾薬製造にとりかかった。明治九年二、三月にかけて、永田と渡辺八尋は高知県に赴いてかねて交流していた大石圓・島村庄司らと面談、上月正郁は山口の玉木文之進を訪ね、向井儀則は鹿児島に行って桐野利秋に面談した。三者は、それぞれ時機を待って政体を挽回する見込みありとの感触を得た。
 吉田・宇和島藩の憂国の士は、大洲藩の兵志よりも早い機会に上甲振洋(礼三)・飯渕貞幹を中心に強い同志の絆を結んでいた。明治四年五月、上甲振洋が宇和島藩学教頭の職を辞して八幡浜に帰り、私塾謹教堂を開いた。振洋五五歳であった。この年、吉田藩大参事の職にあった飯渕貞幹が往訪し、詩を詠じ合って交親、振洋を師と仰ぐに至った。明治五年には春以来入塾者が多かった。門人で後に国事犯事件に関係する者を挙げると、野中重遠・本城政恒・鈴村譲・飯渕貞正・鈴村敬正(貞正弟)・萩野廣吉・得能通虎(大洲藩士)などがいた。振洋は志士の間で知られていたから、これらの人々の出入りが多かった。この年の夏には土佐の志士小笠原和平が薩摩に赴き帰路振洋宅に立ち寄った。翌六年一月土佐の大石圓・島村四郎が伊予を訪れ、その足で薩摩に行った。そこで情報を交換した後、東京に行って事を図ることになった。振洋自身も五月に土佐に行き、さらに京都に歩を伸ばして西郷隆盛と親交のあつい陽明学者春日潜庵を訪ね、滞在一か月、共に時世を慨して方策を議した。
 当時、明治三年一月に起こった長州諸隊脱隊騒動の首謀の一人富永有隣が土佐に逃れて潜伏、この明治六年には旧吉田領宇和郡奥野川村(現北宇和郡松野町内)の里正伊東助六の家に河部八百吉の偽名で潜んでいた。有隣はひそかに飯渕貞幹を招いて土佐と宇和島・吉田の志士結盟を説いたところ、飯渕は共鳴してこれの推進を約した。一〇月、富永・飯渕の斡旋で、志士らは八幡浜に密会した。集まる者、土佐からは猪石栄太郎・新谷階造、伊予側は上甲振洋・飯渕貞幹・本城政恒・鈴村譲らであった。時世を論じ積弊革正の運動を協議、京都の春日潜庵を通して鹿児島の西郷との気脈を強めようということになった。上甲振洋がその役目を引き受けて貞幹を伴って京都に上り春日と会見、つぶさに心中を吐露して盟約した。明治七年一月、振洋は京都で多くの成果を収め八幡浜に帰り横町宅に入った。二月一六日の朝、振洋は二階から火鉢を持って降りようとして階段で卒倒、中風で病床に横たわる身となった。精神は衰えなかったが、行動的な活動は断念せねばならなかった。
 この年一月征韓論を覆(くつが)えした岩倉具視が土佐士族に襲撃され、二月には江藤新平を首領とした佐賀の乱が勃発した。四月台湾出兵があり、五月左大臣島津久光が意見書を提出して兵制改革などを要求した。この機に乗じて反政府行動の計画を練るべく、土佐志士らは上甲振洋に上京を促した。六月になって振洋は飯渕貞幹・本城政恒を東京に上らせた。飯渕・本城は高知で士佐藩志士の動静の情報を得た後上京、東京で大石圓・久万啓吉・安岡権三らと久光建言のことを挙成貫徹して国体を一定しようと盟約して、この秋には伊予に戻った。
 明治八年五月二五日、上甲振洋の命を受け、宇和島の鈴村譲と吉田の鈴村敬成(飯渕貞幹弟)は郷里を出発して東京に向かった。東京での土佐志士との会合が目的であったが、鈴村譲は「乞誅除姦臣之義」と題する建白書を草して懐にしての上京であった。東京では諸方有志と奔走を続けたが、ついに建白の機会を捕えることはできず、八月一〇日には帰郷して振洋に復命した。この間、飯渕貞幹は、土佐同志の催促によって弾薬およそ三、〇〇〇発、元込銃二〇挺を収集密造するとともに、ひろく同志を募って国府寺信敏・井上定國・藤田慎一・宮川充美・萩野廣吉・久徳重愛・土居卍・田中定度・河野通治・薬師寺定治・出科貞吾・阿形正俊ら十数名と結盟した。この年の冬、大洲の永田元一郎・築山弘毅らが飯渕を訪ねて同志として結合することを申し入れ、確約しないうちに武田豊城・渡辺八尋らと出会って国事を論ずるようになった。こうして武田豊城党と飯渕貞幹党が結びついた。奸臣(かんしん)の誅除を乞う建白の志を捨てきれない鈴村譲は一一月二九日出郷して再び上京、東京では薩摩の人内田政風に面会して所見を求めたが、内田は政府部内に征韓の議が起こったので帰国して方向を定めたいという。鈴村は建言の時未だ来らずと判断して東京で越年した。
 明治九年一、二月のころ、武田一党から弾薬・雷管それぞれ約二、〇〇〇発を飯渕貞幹宅へ送りつけた。武田らはこれを八箱に詰めて駄馬につけ、馬引一人、付き添い一人をもって吉田へ送り込んだ。飯渕は応接して受け取り、人足部屋の長持の中に密蔵した。東京で奔走していた鈴村譲は、志士が次々捕縛されるに至って、東京での建言に尽力する道も絶えたと判断して、三月上旬に帰郷した。上甲振洋に近情を逐一報告したところ、振洋は「今後は武器をもって争う道が残されているだけだ。自分は病を養う身、もう尽す力がない、汝これを勉めよ」(振洋先生年譜)と武力闘争への決意を固めて鈴村に力添えを頼んだ。この趣旨を奉じて、鈴村は三月中旬出郷して大洲の向井磯則と同道で鹿児島に赴いた。内田政風らの同志に会して方向を尋ねたが、彼らに所論はなく、転じて桐野利秋を訪ねたけれども確答を得られないままに失望して熊本に回り、五月中旬に帰郷した。この後飯渕と往来したが、飯渕らの土佐派への内応が過ぎるとして「議論協(あ)ハス」意志の疏通に欠くようになった。
 大洲の武田豊城一党は、この年の一月旧藩主加藤侯の家政世話係森本真吾らを訪ねて洋銃借り受けを強要した。心配した加藤泰秋は、陶不窳次郎に説得を命じた。二月帰郷した陶は、かつて集義社の同志であった武田・永田に会って「其ノ挙動ノ常ナラサル」を説諭した。旧藩公の意向に触れ、武田とその同志はやむなく表向き離散の姿をとったが、陰では密会して謀議を続けた。三月ごろ土佐の大石圓、長州の玉木文之進、薩摩の桐野利秋と面談、四月八日には武田ら一五名が連判して、「治乱興衰ニ拘ス、皇天上帝ニ誓ヒ、丹誠卜奮義トヲ以テ、皇基ヲ保護セン事ヲ敢テ誓フ」と皇基保護の盟約をしたため、決意を新たにした。
 この年三月の廃刀令と八月の秩禄処分は旧士族の不満と怒りを呼び、一〇月に至って熊本の神風連が決起した。これに呼応して筑前秋月の不平士族が蜂起、萩では前原一誠が立った。翌一〇年早々、政府の挑発で鹿児島が風雲急を告げた。武田豊城は二月檄文を旧藩士に配って軍資金調達を求めはじめた。機は熟したかに見えた。こうした時、高知県士族寺邨小次郎と名乗る人物が大石圓の伝令として武田・飯渕・鈴村らを訪ねまわるようになった。
 西郷の挙兵に呼応すべく準備を進めた武田・飯渕両党の隠密謀議は、この寺邨小次郎、実は山口県平民松岡信太郎の拘引と自供で、あえなく露見瓦解する羽目になった。当局は、二月二二日武田豊城の逮捕を最初に飯渕貞幹・鈴村譲・永田元一郎らの首謀者とその同志を拘引した。まず追及したのが、一味が多数の銃器弾薬を密蔵している件であった。飯渕貞幹の告白で立間村飯渕宅に弾薬隠匿(いんとく)の事実を突きとめたので、二四日吉田分署から巡査一〇名を派遣したところ、嫡子貞正は「恐縮謹慎ノ体」で庭先に埋めた莚(むしろ)包み一つを差し出した。これは二箱でわずか四〇〇発、指揮に当たった等外二等出仕大森成美は、松岡信太郎告曰の「弾薬四干輸送」は誤りではないかと警部武藤正休に書信した。しかし大洲の拘引者数名の自白で弾薬・雷管各二、〇〇〇発を飯渕方に持ち込んだことは明らかであったので、貞正および貞幹の弟鈴村敬成を追及したところ、先に差し出したのは貞幹自身の所蔵品で、大洲から送られた弾薬は人足部屋長持の中に貯蔵してあったのを父貞幹が拘引された翌日庭の土中に隠匿したことを自供した。大森らは、二六、二七日の二度にわたり庭を発掘させて弾薬・雷管が詰め込まれた箱を八個引き上げた。銃器については、武田一党が貸与を強要していた加藤家所有の洋銃五〇挺の寄付申し出をはじめ、武田一党の銃器を相次いで没収した。
 武田豊城は、二五日午前六時二人の巡査に護られて大洲を出発、内子分署で昼食を取りこの日は郡中に宿泊した。松山には二六日朝着いて、直ちに拘留所に入った。飯渕貞幹は二四日の未明自宅で逮捕されていったん宇和島に連行され、同日早暁拘引された鈴村譲と共に唐丸篭に乗せられ、新谷・郡中に泊まって二七日朝松山に着いた。鈴村譲の『幽囚記』は、「二十五日午前二時、轎(かご)二、街道寂莫(せきばく)、鈴村前、飯渕後、外縄を掛け、護衛七人、法華津嶺より三人減、将に五更、残月明滅して、寒風猛裂、轎吹き倒されんばかり、鳥坂(とさか)を過ぎて外縄を外し、大洲の同志の目を避く、正午、大洲署着、訊問、肱川を徒歩渡りし、新谷宿、行程十二里、二十六日、犬寄(いぬよせ)を越え、白暮、郡中旅店着、行程十里、上甲の護送を知る、二十七日、行程三里、八時頃県庁、午後二時訊問(じんもん)、八時頃拘留所」と、松山護送の有り様を述べている。
 国事犯事件未決囚の獄中生活は、武田豊城の囚中日記『花加多満』で知ることができる。県庁内拘留所、町宿、藤原獄舎としばしば移動させられるうちに、五月中旬尋問もようやく一段落して、豊城は五月一六日警察署で口供書に押印、六月二二日には松山裁判所で口供書に押印させられた。
 明治一一年一月判決、武田豊城は永田元一郎と共に除族の上懲役五年の刑であった。武田党大洲藩士族の上月正郁・築山弘毅・谷山正名・土居小次郎は懲役三年、上月らと同列にあった渡辺八尋は同一〇年八月牢死していた。橋村廣連・杉江安忠・小林資典・本多誠・稲垣干雄・加藤赳・瀧野重敬は懲役二年、得能通虎一年半、石川頼一一年、中村三綱・宇都宮登・加藤良顕禁獄五〇日と、それぞれ刑を申し渡された。飯渕貞幹は除族の上懲役五年、飯渕の謀議に協同した吉田藩士族のうち、国府寺信敏懲役二年半、井上定國・久徳重愛・藤田慎一各二年、土居卍・薬師寺定治・宮川充美・萩野廣吉・田中貞度・出科貞吾・阿形正俊・河野通治一年半の刑であった。貞幹の子貞正は父の陰謀に従ったとして士族を剥奪、途中で離脱した松下勝利・尾田重馬は禁獄三〇日、富永有隣をかくまい飯渕貞幹との間を仲介した奥野川村平民伊藤勇とその伯父で父野川村平民芝白米は一年の刑であった。上甲振洋の意を受けて奔走した鈴村譲は懲役二年、振洋の子上甲震吉は本城政恒と共に一年、野中重遠は除族の刑を受けた。この事件発覚のきっかけとなった松岡信太郎は懲役七〇日を宣せられたが、すでに滞獄一七〇余日に及ぶとして直ちに放免された。
 中風の故をもって獄を免れた上甲振洋は明治一一年九月六一歳で没した。鈴村・本城・飯渕らは尊敬する師振洋に類が及ぶのを恐れて振洋と事件との関係についての真相は口を閉じた。後、大正一三年鈴村譲は『振洋先生年譜』を著して振洋のかかわりを明らかにした。鈴村は、出獄して宇和島に帰り私塾「明達書院」を開き、一六年ごろ松山に出て「海南書院」を開設したりしたが、後年台湾に渡り台湾神社主典・台南神社宮司などを歴任、昭和二年宇和島に帰り、同五年九月七七歳で死亡した。飯渕貞幹は出獄後、鈴村の「海南書院」を手伝い、ほどなく郷里立間村に閑居した。明治二五年宇和島に私立中学校明倫館が設立されると乞われて教鞭をとり、同三五年七月六九歳で病没した。武田豊城は出獄後獄中記を叙述するうちに明治一九年四月五三歳で死去した。獄中の歌に、「君が世の民安かれと思ひ入る、ひとやに月の影ぞとひ来る」とある。

 松山藩士族の安積・北海道開拓移住

 士族の窮迫を救済するため、明治一二年以後事業資金を貸し付け、また北海道・東北原野の開墾移住を進めるなどして、士族授産の道を開こうとした。北海道の屯田兵制度と並んで福島県安積(あさか)の開拓入植は士族授産開拓事業の代表事例として知られている。
 明治一二年一〇月、猪苗代湖(いなわしろこ)から安積原野に灌漑用水を引く疏水工事が政府の直営事業として開始、一五年八月に完成した。安積疏水開さく事業で水利が開けることが確定すると、政府・福島県の勧誘に応じて全国各地から士族とその家族が移住してきた。その第一陣は、明治一一年一一月郡山に着いた九州久留米の旧藩士であった。その後、鳥取・岡山・高知・松山の関西諸藩士族が移住した。また近隣の棚倉・二本松・米沢諸藩からの入植者もあった。各藩士族の入植場所と移住戸数を示すと、「入植図」と表1―20のようになる。これによると一番多く入植したのは久留米藩の一五六戸であり、高知・鳥取の順となっており、松山藩は一七戸にとどまっている。
 愛媛県が旧松山藩士族富田義貫の一家ほか四九戸の安積開拓移住を福島県に照会したのは明治一四年七月であった。これより四か月前の同年三月、愛媛県は旧松山藩士族授産のため綿布織(伊予縞)資金借用を政府に願い出た伺い書の中で、「恩賜ノ金品モ免債ノ為メニ償ヒ或ハ農商ニ帰スルモ其労働ト術策ニ達セス、若干ノ金員ヲ消費シ或ハ固守禄券ノ利子ニ頼テ一家数口養フニ苦ミ且ツ近年物価日ヲ逐テ騰貴シ窮彌(いよいよ)窮シ候」と旧松山藩士族の窮状を訴えている。同藩士層の中下士層は明治一六年までに四五%が公債を売却していた。
 愛媛県は、五〇戸・一八四人の姓名を記した「福島県岩代(いわしろ)国安積郡牛庭ヶ原開墾地移住志願者家族姓名年齢簿」を付して、受け入れの確約と共に一戸に付き五反歩ずつの貸与と旅費・貸与金の具体的内容についての問い合わせをした。八月に届いた福島県の回答では、開墾移住の官費補助も残り少なくなったので、一〇~一五戸位にしてほしいこと、水田五反歩の貸し渡しは確答しがたいが三反歩位までは可能であること、旅費は大人一日六〇銭・小児三〇銭を支給すること、貸与金は移住の後でなければ支払わないので移住人員が確定すれば愛媛県庁で繰り替えてほしいことなどが記されていた。福島県が最大限一五戸の受け入れを指定してきたので五〇戸の集団移住は不可能となり、改めて移住者が選択された。その結果、岡村冨則・室崎久遠・山本正・平井久一・仙波養賢・光本忠彌・村上彌太郎・和久脩・森勇蔵・光能正方・金子計本・山口忠信・山本銀二郎らの一五戸が実際に移住することになり、惣代人岡村冨則・室崎久遠から明治一四年一二月二二日付で愛媛県に「移住開墾ノ儀ニ付上申書」が提出された。
 上申書には、一五戸の移住人員が確定したので移住開墾を許可されるものと推察する、来年三月中旬までには彼の地に参着して開墾地所での植付け耕作に取り掛かれば自然開墾の手順も早く万端都合がよいので、速やかに福島県に照会の上移住許可指令を願いたいと要望した。さらに御貸し下げ金などもおろそかにせず社員一同なるたけ節倹をとげ積金なども非常の天災あるいは一家疾病などの防ぎに備え置き、それぞれ勉励すれば年を経ず開墾所が熟地になれば、いつかは国益の万分の一をもお報いしたいと一同ともに決心いたしておりますと覚悟のほどを披瀝(ひれき)している。移住者はそれぞれ個別に「福島県開墾所移住願」を「身元書」に添えて提出した。移住者のうち、和久脩・光本忠彌・山本正の身元書を見ると以下のようであった。
 和久脩(四二歳)は、妻イク(三六歳)・長男豊(一二歳)・二男俊之(三歳)の家族構成で、公債証書・田畑・宅地・家・土蔵などの資産皆無、職業雑業、安政二年旧松山藩足軽に召し抱えられ、慶応三年江戸常詰となり、明治元年江戸を引き払い奥方の供で帰国、同三年徒士・士族の称号を得、同六年戸長補、同一二年地租改正係雇を拝命、同一三年雇免といった履歴であった。光本忠彌(三六歳)は、妻ツル(三二歳)・長女モト(一〇歳)・二女タカ(八歳)・三女トラエ(三歳)の家族構成で、公債証書・田畑・宅地・家・土蔵皆無、職業雑業、安政六年旧松山藩足軽に召し抱えられ、明治六年士族に編入された。山本正(一六歳)は、山岡家に養子縁組した父與一郎(四四歳)・母トク(三一歳)・妹(二歳)と共に久米郡北久米村に住み、公債証書・田畑・宅地・家・土蔵皆無、職業雑業、父輿一郎は旧松山藩持筒組、明治二年卒、同六年士族に編入されていたが、正は同九年父から跡目を相続した。この二、三の例で判明するように金禄公債を売却し、土地・家屋などの資産もなく、定職を持たない人々が新天地を求めて安積に移住入植しようとしたのである。
 こうして一五戸が移住を決意したものの、移住の段階になると種々の事情で移住を取り止める者があり、移住人差し換え願いが再三福島県に提出された。山口忠信・金子計本外二名の代わりに新しい移住者となったのは、小山宇太次(三八歳)・政就(三五歳)・亀太郎(三一歳)・政則(二六歳)の四兄弟であった。兄弟のうち、政就は、文久三年旧松山藩の卒に召し抱えられ、慶応二年足軽に昇格、明治四年兵卒となり同五年大阪府鎮台詰、同六年士族に編入され同七年熊本鎮台詰に転勤、同八年台湾に出兵、同一〇年には西南の役に従軍し、同一三年従軍記章と慰労金一五円さらに久松家から慰労金三円を賜っている。政就は妻ナツ(三二歳)・長女エイ(一〇歳)の家族構成で、久保町の家には弟政則・妹トヨが同居、公債証書・田畑は無であったが抱家を持ち、そこに兄宇太次一家が住んでいた。亀太郎は温泉郡南八坂町に住んでおり、田畑・宅地・家屋・土蔵はないが、公債証書五〇円を所持、職業雑業で、慶応二年旧松山藩卒に召し抱えられ、明治一二年士族に編入された。
 明治一五年三月二一日、室崎久遠(家族五名)・和久脩(家族三名)・村上彌太郎・平井久一(家族四名)・山本正(家族一名)・山本銀二郎(家族一名)・森丑太郎(家族三名)・光本忠彌(家族四名)・仙波義賢(家族四名)の九戸・三四名が本県を出発した。松山から福島県庁まで里程三一九里余、一人一日一〇里単位で金三〇銭あて、合計三二六円四〇銭の旅費を愛媛県庁から繰り替え支給されての旅立ちであった。三津浜から神戸経由、横浜までの船旅を続け、横浜から東京へ、東京見物して奥州路に入り、安積郡郡山に止宿したのが四月八日であった。一行は四月一〇日に福島県開拓課にあてて到着届を提出した(資近代2 四八~五二)。森勇蔵・丑太郎一家は一行より遅れて郡山に到着したので一三日に届け出、和久脩一家は旧松山藩関係者に挨拶などの目的で東京にしばらく滞在して郡山入りしたため到着届は七月二六日となっている。小山四兄弟のうち、宇太次(家族六名)と亀太郎は五月一一日に松山を出発、五月三〇日に郡山到着届を提出した。政就(家族二名)と政則は東京で和久脩と出合い同道して郡山に入り、七月二七日に到着届を出した。
 ところが、七月に至り、室崎久遠と共に開拓入植士族団の惣代人を務めていた岡村冨則が光能正方と連名で「無餘義事故差起リ何分移住難致」として移住取り消しを願い出た。愛媛県は岡村らに代わる関家蔵五郎・五百木甚平の移住願を福島県令三島通庸(みちつね)に送付したが、関家・五百木もほどなく辞退、一一月、これに代わる加藤政義(小出宇太次の二男で加藤家に養子入籍)と山岡與一郎(山本正の父で山岡家に養子縁組)の移住願を、「今更不都合ト存候得共情実亦不得止次第有之」「実ニ再三ノ変更ニテ甚タ不都合ニハ候得共何卒御詮議ノ上願意御採用相成候ハヽ両人ノ幸福ニ有之」と恐縮しながら福島県に依頼した。山岡與一郎(四六歳)は養父(四八歳)、養母(五〇歳)、妻(三三歳)を伴って明治一六年三月一〇日本県を出発、同日二六日郡山到着届を出した。加藤政義(一〇歳)は明治一七年一月二一日に到着届を出している。
 ともかく一五戸・五〇人余が安積原野に入植すべく郡山に移住した(表1―21)。明治一五年一一月には旧松山藩主久松定謨(さだこと)から七五〇円の開墾援助金が福島県勧業課を通じて贈られた。支給内訳は、室崎久遠一三〇円、和久脩一四〇円、平井久一・山本正・村上彌太郎・山本銀二郎・仙波義賢・光本忠彌各四〇円、森丑太郎と小山四兄弟各五〇円となっている。室崎・和久の両名への支給金額が多いのは惣代人の立場での開墾共有金が含まれていたからであり、和久脩は、この恵与金で開墾者共有の苗代見込田二反五畝(九五円)と個人用として農馬牡一頭(四五円)を購入した。
 開拓団は安積郡牛庭原に入植して開墾を始めた。やがて、森丑太郎が老齢な父母が寒冷の厳しい生活に耐えられないと安積原野を去って弟庄平のみが原野に留まった。また山本銀二郎も同地を離れ、残された山本コト(一七歳)が彌惣次と称する人物と結婚している。去る人もあれば、新しく仲間に加わる人もいた。明治一六年二月四日東京在住の元松山藩卒大川鋳之介、翌一七年一月七日には元同藩江戸常詰で帝国農科大学種芸試験場に奉職していた田中利助が和久脩の熱心な勧誘に応じて移住してきた。さらに松山藩出身で当時開成山農学校の農場主任をしていた飯田定一も牛庭原に移住して指導に当たった。
 飯田・田中を指南役として、開拓地は明治一七年には収穫が可能になったが、反別一斗五、六升位しか水稲の成績は挙がらなかった。そこで翌一八年から直播(じかま)きを試み馬骨粉肥料を施したところ、かなりの効果を挙げて反別七~九斗収穫するようになった。直播稲作のほかに桑を植えて養蚕を行ったり瓜・西瓜の栽培で副収入を得ようとした。しかし繭代金は手間賃にしかならず、瓜・西瓜の栽培も天候不順から損をしたり商人に買いたたかれたりして十分な収入は得られなかった。
 明治二〇年代に入ると、他地域の入植士族の中には開拓地を去る者も多くなったが、牛庭原の松山士族は同心協力して農業改良に努め、蔬菜(そさい)栽培は他に比を見なかった。しかし経営は赤字続きで、勧業銀行から低利貸与を受けた。その負債金は次第に膨張、返済能力がないため、やむなく地元地主から高利の融資を受けて銀行の返済に充てた。この綱渡り生活に拍車をかけたのは明治三五年の暴風と同三七、八年の凶作であり、多くの者が土地を抵当として取り上げられ、自小作か小作人に転落した。移住者の世話役であった室崎久遠は一家を連れて開拓地を離れ、小山政則も帰郷した。
 残った一三人の開拓者と家族は労苦を忍び生活の困窮に耐えた。八〇年の星霜を経過した昭和三六年一〇月、一三人の子孫は旧松山藩主の孫久松定武愛媛県知事に揮毫(きごう)を依頼して牛庭原移住記念碑の建立を計画、移住開拓の父祖一五人の名を刻んで三島神社境内に建立した。
 旧松山藩士族では、幕末に家老を務めた水野侶三郎忠広の孫水野忠恭や津田金四郎政布の長男津田泰政らが屯田兵として北海道に入植している。水野ら二一戸の士族は家族を同伴しこの戸籍に入らない一八人を合わせて明治二五年七月一日松山を出発して函館に着き、海と陸に分かれて八月一五日に東旭川に入った。この年北海道に渡った屯田兵は京都・愛媛・香川・大分・岐阜・富山・青森・秋田の一府七県で四〇〇戸が入植した。開拓地では、わずかの兵器と農具が給され、食料は三か年間一人一日玄米七合五勺と若干の塩菜料が下付され、土地は初め一町五反歩が渡され、これの開墾を終わると三町五反歩が支給された。入植した水野忠恭は身体強健でなかったので、のち上川支庁に勤務、土地は弟の忠温が継いで開拓を続けた。入植五年後、忠恭・忠温の父忠良が北海道に渡ってきた。忠良は明治三二年道庁から選ばれて永山・東旭川・当麻三か村の戸長・村長を勤めた。
 屯田兵の服役年限は初め永世服役で子孫代々世襲であったが、明治二三年兵制が改革されて現役三年・予備役四年・後備役一三年の二〇年間となった。採用条件は年齢一七歳~二五歳であり、農業労働に従事しうる家族二人あることを必要とした。明治二四年度募集屯田兵からは入植資格に平民も含むことにした。この結果、同二五年以降宇摩地方を中心に個別にあるいは集団で愛媛県人が北海道に移住した。明治三六年屯田兵制度の廃止までに本県からの入植は二九八戸・二、七〇三人に及んだという(三宅杣雄「屯田兵と北海道移住者たち」)。

表1-17 伊予八藩の禄制改革 1

表1-17 伊予八藩の禄制改革 1


表1-17 伊予八藩の禄制改革 2

表1-17 伊予八藩の禄制改革 2


表1-18 秩禄・金禄公債年度別交付状況並びに保有高

表1-18 秩禄・金禄公債年度別交付状況並びに保有高


表1-19 明治15・16年における有産無産士族

表1-19 明治15・16年における有産無産士族


図1-8 各藩士族の安積原野入植図

図1-8 各藩士族の安積原野入植図


表1-20 安積原野入植士族と戸数

表1-20 安積原野入植士族と戸数


表1-21 安積牛庭原開墾地移住家族

表1-21 安積牛庭原開墾地移住家族