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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 文明開化の諸相

 文明開化と県民の動向

 明治新政府による政治・経済・社会・文化など諸方面にわたる積極的な開化政策は、西洋文明を手本とした風俗習慣、生活様式、衣食住などの改善をも民衆に要求した。殊に改善の基礎となる「四民平等」を実現するために、政府は明治四年以降、散髪脱刀の自由、平民の乗馬許可、華士族との婚姻の自由、えた非人の廃称、苗字の許可など数々の布告を発布してその浸透を図った。しかし、政府が意図した生活様式や衣食住などの改善に関しては、政府関係機関や東京・大阪・横浜・神戸などの一部階層に浸透したにとどまり、国民の大部分を占める地方都市や農村の民衆には一朝一夕に及ばなかったのが実態であった。地方都市や農村においては、依然として新風俗の導入を拒む村落共同体の伝統が根強く残り、政府や県の急激な改善要求に対して抵抗する者もあった。明治四年の旧大洲藩領を中心として発生した農民一揆(大洲騒動)や旧松山藩領の久万山地方から久米・浮穴両郡に波及した久万山騒動も政府や県の急激な開化政策に起因する側面があった。大洲騒動では、種痘や戸籍調査が「人に毒を植えて殺すため」だとか「戸籍調査は生血を採って西洋人に売るため」などの流言が農民の不安を募らせ、久万山騒動でも「太政官は外人に牛や人間を渡し生血を提供する」ために戸籍を調査するのたという流言蜚語(ひご)が農民を恐慌状態に陥れた。政府や県はこのような地方の民衆の動向に対して、多くの禁令や規則を布達するとともに、民間の「開化問答」や「違式詿違(かいい)図解全」などの庶民向けの啓蒙的出版物を利用して説得につとめる必要があった。
 まず、石鐡県では、明治四年八月九日の太政官布告「散髪制服略服脱刀共勝手タル事、但シ礼服ノ節ハ帯刀致スヘキ事」を受けて、文明開化の象徴的事象である廃刀と断髪について県民に布達した。廃刀に関しては、同五年五月に旧松山県士族妻女に対して認めていた往来での帯剣を禁止する(資近代1 五一)とともに、一一月二五日には県下全域にわたって特別の例外を除き事実上の廃刀を実施する旨布告した(資近代1 五七)。断髪に関しても、同五年一一月二五日の布令(資近代1 五七~五八)により、文明開化時代の国民として旧習を改め速やかに断髪を行うよう布達したが、内容の誤解から男子に限定されていた断髪を婦女子が行うようになり県当局を慌てさせた。そこで県は二日後の一一月二七日、婦人の斬髪を禁止する旨の布令を出して(資近代1 五八)、婦人断髪の波及を抑制したので長髪を切る女性も少なくなった。廃刀と断髪に関する当時の事情については、内藤素行の『鳴雪自叙伝』に次のように紹介されている。

 其頃東京では段々と脱刀とか散髪とか云う事が始まって、後には廃刀令と云ふのも出たが、また最初は随意にやりたい者がやったので、其事が藩地へも知れたから、私は同僚の二三と共に直に散髪になった。刀の方は其頃の事とて少し、用心もせねばならぬから一刀丈けを帯ぶる事にした。此一刀も東京あたりで其頃流行したもので、これ迄の大小の、大よりも少し短かくて、其飾りは、奢ったものは純金にし、次は純銀にした。……

違式詿違条例と風俗の改善

 政府や県は男女混浴や立ち小便などある程度の強制力を発動して、改めさせねばならない悪習を改善するために、「違式詿違(いしきかいい)条例」及び「地方違式詿違条例」(現在の軽犯罪法に該当)を制定し、その徹底を図ろうとした。違式詿違条例は明治五年一一月八日東京府に、地方違式詿違条例は同六年七月一九日東京府以外の府県に公布されたものであるが、後者は各府県の開化状況に応じて罪目の加除が認められた。神山県では明治六年四月一日に、違式詿違条例に準拠した条例を布達し、管内の風俗の改善を図ろうとした。これは地方違式詿違条例が公布されるより三か月も前のことであった。僻村や島しょを多くかかえる神山県としてはいち早く開化の実効をあげたいという意図が働いていたのであろうが、「漸次習慣ヲ改良」しなければ直ちに施行することが困難である罪目も数多くあったようである。施行が困難であるとされた主な条目は、「男女入込ノ湯ヲ渡世スル者」、「裸体又ハ袒裼(たんせき)シ或ハ股脛ヲ露ハシ醜体ヲナス者」、「下掃除ノ者蓋ナキ糞桶ヲ以テ搬送スル者」、「店先ニ於テ往来ニ向ヒ幼稚ニ大小便セシムル者」などであった。
 明治六年七月、「地方違式詿違条例」が公布されると、各府県では実態に即した条例づくりが一斉に行われた。愛媛県においても、同八年一月二五日に全文二九か条からなる「違式詿違条例」が制定された(資近代1 三八〇~三八一)が、条数が極めて少なく、また違式と詿違の区分も明確でないので、県内一般に公布されたものかどうかは疑問である。愛媛県における違式詿違条例が本格的法規として整備され、県下全域にわたって統一的に施行されたのは明治九年八月一九日の全面改正以降のことであろうと考えられる(資近代1 四〇六~四〇八。これは違式罪目三四か条・詿違罪目四六か条から成っており、県が独自に加えた罪目は違式罪目の第二条(闘牛に関する罪目)、第二四条(賭博に関する罪目)、第三四条(官庁への遅参及び不参に関する罪目)と詿違罪目の第八条(河豚(ふぐ)・腐敗の食物・病死牛の肉類を食すことに関する罪目)、第二四条(軽業等の諸業により交通を妨害することに関する罪目)、第四四条(乞食に金銭食物を与えることに関する罪目)など地域特有の旧習の改善をねらった罪目が主であった。この条例制定の目的は、いうまでもなく新時代にふさわしい風俗を強制力によって県民の間に定着させようとするものであった。愛媛県において特に重点的に取り上げられた風俗の改善点は、男女混浴と性風俗の問題、裸体での往来や立ち小便の問題、乞食・浮浪者の問題などであった。
 男女混浴と性風俗の退廃については、県当局は早くからその改善のために種々の布達を発し県民の説得に努めたが、男女混浴の風習は県下各地の銭湯や農村の共同風呂で一般化しており一朝一夕に改善できる問題ではなかった。神山県において制定した違式詿違条例の中でも男女混浴については「漸次習慣ヲ改良」して施行すべき罪目としており、また、明治六年八月四日の愛媛県布達においても、松山町・西条町・小松町・今治町・道後湯月町・三津町・新谷町・吉田新町・大洲町・宇和島町に限定して男女混浴を禁じる(資近代1 二三〇)など、改善に苦慮している様子がうかがえる。また、放埓(ほうらつ)な男女交際による性風俗の退廃も県当局の頭を悩ませる問題であった。地方においては、未婚の男女が寝泊まりする「泊家」の風習や「よばい」などの悪習が一般化しており、男女の性道徳は開化時代にふさわしくない不健全な状況であった。神山県では、明治五年九月に不健全な男女交際を抑制するための布達を出し(資近代1 一一四)、開化時代にふさわしい男女交際を行うよう説諭するとともに、明治一〇年八月には不健全な男女交際の原因となる盆踊りについても制限を加え(資近代1 六三一~六三二)、性道徳の健全化に努めようとしている。
 裸体での往来や立ち小便に関する問題も、県が早急に解決せねばならない問題であった。裸体での往来及び婦人の戸外での袒裼や放尿など日常一般的に行われている旧習については、男女混浴の問題などと同様に根気強く教化していく必要があった。石鐡県では、明治五年七月二八日にこれらに関する布達を出し、戸長を通じて住民を教化するよう命じた(資近代1 五三)。明治九年八月の違詿罪目の中にも裸体での往来や戸外での大小便について禁じているが、これに違反する者が跡を絶たない状況で「第十三大区温泉郡(某)村住職教導職(某)は過る廿一日松山魚町辺通行の節遂に禁を犯して便所外へ構はず小便を垂れ流したのを巡回の査公に見咎(とが)められし」といった新聞記事も散見する(「海南新聞」明治一一・一・二九付)。

 種痘の普及と病院の設立

 明治新政府は医学の分野においても早急な近代化が必要であると考えて、西洋医学を範とする医事衛生行政の推進を図ろうとした。明治五年には文部省内に医務課(その後医務局に昇格、同八年内務省に移管衛生局となる)を設置し、西洋医学の普及を指導させた。明治七年には東京・大阪・京都の三府に対し「医制」を公布し、近代的な医事衛生確立のための基本方針を示した。政府が当初最も力を入れた医事衛生行政は、種痘の普及・伝染病予防・近代的病院の設立の三点であった。
 愛媛県においても政府のこのような方針を受けて、明治九年一月に県庁内に衛生科(同一二年衛生課に昇格)を設置し、同年六月には各大区に医務取締を、各小区に医務調査係を配置して県下の医事衛生の近代化を推進した。特に、愛媛権令岩村高俊が明治九年・一〇年に専門家を招集して開催した愛媛県医事会議では、愛媛県の抱える医事衛生上の問題点が提起され、今後の医事衛生に関する方向づけがなされた点で注目できる。明治九年の医事会議においては、(1)西洋医・折衷医・漢方医への免状授与方法、(2)薬価基準の設定、(3)医師相互による医学研究などの問題が討議され、明治一〇年の会議においては、(1)種痘の普及方法、(2)乳母の適否に関する試験方法、(3)悪病の防疫対策、(4)有志による病院設立の問題、(5)山村島しょへの医師配置など先進諸府県に比肩する相当進んだ問題が討議された。このうち種痘の普及状況と病院・医学校の設立状況を取り上げ、愛媛における医事衛生の開化状況をみると次のようである。
 古代より疱瘡(ほうそう)(天然痘)の流行は多くの死者を出し民衆を苦しめた。愛媛県においても、江戸時代に十数回、明治に入っても二年、一一年、一二年、一四年、一五年、三〇年、三八年、四一年と流行し多くの患者と死者を出した。疱瘡の予防法としては、古くは人痘を接種する方法が行われていたが、副作用も多く効率が悪かったので、幕末には長崎で行われていた牛痘接種法が地方に浸透していった。愛媛県においては、宇和島藩が嘉永五年(一八五二)に種痘所を設置し、希望者に牛痘を接種したのが本格的な種痘の始まりであるが、その後、松山藩・新谷藩でも実施された。明治新政府の成立後、政府は種痘の重要性を痛感し、明治三年四月、太政官より「種痘方規則」を公布、地方での牛痘接種を奨励した。しかし、地方では牛痘を接種すれば牛になるとか、毒を植えて殺すものだなどの流言蜚語(ひご)を生み、大洲騒動や久万騒動における混乱の一因となった。明治七年一〇月、政府は「種痘規則」を公布し、種痘は免許医が実施すること、種痘は生後七〇日より満一年までの幼児に実施することなどを規定したが、地方では種痘の意義が十分理解されず思うようには普及しなかった。
 愛媛県では同八年二月、「種痘仮規則」と「種痘告諭」を布達し(資近代1 三六六~三六八)、種痘の意義を県民に説くとともに各所に種痘所を設置してその普及を図ったが、僻村や島しょ部への普及は接種料が五銭必要なこともあって徹底しなかった。その後、明治九年に政府が判定した「天然痘予防規則」の強制接種の方針をうけて、同一一年四月には「種痘所及ビ支所規則」を通達し、各大区に種痘所、辺地には支所を設けて末端への普及を図った。やがて、一一年末から一二年にかけての天然痘の大流行(患者数二三〇名、死者九四名)により、次第に種痘に対する理解も浸透し、この年の接種者は県下で一〇万人を越えることとなった。その後、一四年(患者数三四二名)及び一五年(患者数八九二名)の二か年にわたる未曽有の大流行により、愛媛県は「種痘所及ビ支所規則」を廃し、新たに「種痘普及法」を布達、新生児への接種の徹底による未接種児の一掃を図ろうとした(資近代2 二三八~二三九)。さらに明治一六年には、県下各医師団に対して種痘の強制執行を行うよう命じたので、県下の接種者は急激に増加し発症率、死亡率ともに年々低下していった。
 西洋医学を基礎におく病院や医学校の設立は、医事衛生面における民衆開化の重要な指標として政府や府県が特に力を入れた施策であった。政府は東京、大阪、長崎などの病院・医学校を管理するとともに、新潟、金沢、福井、名古屋、京都、岡山、佐賀などに府県の管轄する病院や医学校が設立された。愛媛における最初の病院・医学校は、明治四年、宇和島県が旧藩時代の日新館を継承して設立した宇和島病院日新館であった。この病院・医学校は後に神山県の所管となったが、明治五年一〇月には私立宇和島病院として再出発することになった。神山県はこの病院設立にあたって、県内に「病院設置並諸規則」を布達して利用を勧めた(資近代1 一一七)。これによると、当時の病院は看護人もなく、食料・夜具は持参、自炊という状況であった。県立宇和島病院が設立された年の一二月、松山西堀端に私立会社病院回春舎が設立され広く庶民の治療を行ったようであるが、同七年には資金難のため閉鎖された。
 これに代わって同年七月、松山には県立松山病院が創立された。この病院は、仮病舎を二番町一番屋敷に置き、翌八年三月に小唐人町に移転し松山病院収養館となった。松山病院収養館は、患者の治療のみにとどまらず、医師の養成や県下の医事衛生推進の指導機関としての役割を担った。次いで明治八年八月には私立の八幡浜病院普済館、同一〇年三月には南宇和郡平城に浩然病院以済館が設立されたが、西洋医術を行う医師や病院はまだまだ少なく、明治一〇年のコレラの大流行に対応することができなかった。当時の権令岩村高俊は、西洋医や病院の不足を痛感して同年一一月一〇日、区戸長・医務取締・医務調査掛に対して「西洋医術拡張のため医員へ諭達」を布達し、病院の設立と西洋医の育成の急務を訴えた(資近代1 六一一~六一二)。この結果、同一二年に公立西条病院収成館、同一五年三月には今治に公立天牅(てんゆう)館、同年一一月には川之江に公立済寿館及びその支院、同一六年には収成館支院が、また私立病院も大洲、内子、北宇和、三島、別子などに続々と設立され、明治一六年末までに県下の病院数は支院も含め一六となった。

 愛媛新聞の創刊

 政府は、民衆の開化と政府の施策を末端に周知させるために新聞・雑誌を利用することが最大の効果をあげる手段と考えていた。わが国最初の日刊邦字新聞である「横浜毎日新聞」(明治三年刊)も、その後発刊された「東京日々新聞」「日新真事誌」などもこのような風潮を背景に発刊された新聞であった。やがて、自由民権運動が開始され国論が二分されると、これら新聞の中には反政府の立場をとるものも現れ、逆に弾圧されることになった。本県において最初に発刊された「愛媛新聞」(「海南新聞」)の立場もこのような中央の状勢をよく反映していた。
 明治九年九月一一日、権令岩村高俊や愛媛英学所長草間時福らの後援を受け、出版社共耕分社々員大森順三郎によって創刊された「愛媛新聞」は、その性格上「当県録事ヲモ申付」ける御用新聞として出発した(資近代1 四二四)。この新聞は、県大属天野御民を編集顧問、山本盛信を編集長兼印刷長におき、探訪記者三人、印刷人五人、配達人三人の陣容で経営されており、紙面は県布達類を中心に論説や事件記事、米相場、投書などで構成されてした。県の「各大小区会所扱所中小学ニ於テモ心用ノ儀ニ付キ成ルヘク購求展覧候様致スヘシ、尚一般人民ニオイテモ一層奮励展覧致様」というような全面的後援をうけたにもかかわらず、民衆の新聞に対する関心が低く発行部数が伸びなかった。やがて「愛媛新聞」は経営難に陥り、明治一〇年四月には経営権が松山出淵町の旧家木村庸に移った。木村庸は「愛媛新聞」を「海南新聞」に改題して日刊紙として再出発させるとともに、新聞の内容や体裁を一新して完全な民間新聞とした。その主旨は、明治一〇年四月二五日発行の第七〇号紙上に次のように掲載された。
  
 愛媛新聞の儀幸に諸君の扶持を荷ひ社運日増に赴き既に第六九号を発兌せり兼て体裁を改め一枚摺となし日々配達云々報告せし趣も御坐候此般印刷機械等も夫々整備に付き第七一号より諸般左の通り改正し題号を「海南新聞」となし「西河通徹」を編輯(へんしゅう)長に任じ更に社説の一欄を加え精々探訪に尽力し猶看客の厚意に酬(むく)ゆるあらんとす……

 宇和島士族で慶応義塾出身の西河通徹を編集長に迎え、西南戦争への特派記者の派遣による観戦記事やコレラ流行時における社会事業的施策など新しい試みを導入した「海南新聞」も経営難を脱することができず休刊の危機に追い込まれた。
 この窮状を見たかつての編集者山本盛信は、「海南新聞」を民権団体「公共社」の機関紙とするべく斡旋に奔走した。その結果、明治一一年九月に「公共社」への移譲が決定し、自由民権運動の有力な言論機関に変身した。編集長西河通徹、編集員梶原虎三郎・石井乙吉、記者高木明暉、印刷人山本盛信らによって発行された「海南新聞」は、自由民権の啓蒙思想の紹介や政府・県の施策に対する論説を逐一掲載するなど、県民の政治的開化に大きな役割を果たした。また、県下各所に売捌(うりさばき)所を設置して購読奨励を積極的に行ったので、明治一二年には発行部数が一四万三、四〇〇部にも達し経営的にも軌道にのった。しかし、明治一二年末ころからの政府や県の新聞紙取り締まりに対する方針が厳しくなってくると、「海南新聞」も罰金処分や発行停止処分をしばしばうけることとなり、またもや経営難に陥ることとなった。そこで、この危機を乗り切るために「海南新聞」を公共社から切り離し、株式会社として独立させる案が公共社出版局長井手正光から提案され、公共社総会でこれが承認された。井手は藤野政高・小林信近・白川福儀・世良藤蔵らの名士や資産家二一名を設立発起人として「海南新聞発行規則」を作成して、一株一〇円の株式を一万円を目標に公募した。明治一五年一〇月に始まった「海南新聞社」創設の事業は三か月を費やし、六、三〇〇円余の資本をもとに同一六年二月創業を開始した。新社長には小林信近が就任し、新しい組織で新しい体裁の新聞が発行されることになった。明治一六年三月二五日からは紙面にはじめて連載小説が登場し、同一七年七月一三日からは総振り仮名つきの紙面となり読者層が拡大していった。

 浦上信徒の配流とキリスト教の動向

 明治新政府は、慶応四年(一八六八)三月、「切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事」「邪宗門之儀ハ固ク禁止候事」との高札を掲げ、旧幕時代の禁教方針を踏襲してキリスト教徒を弾圧した。まず、政府は慶応四年五月、長崎浦上の切支丹指導者一一四名を検挙して長州藩・津和野藩・福山藩へ配流投獄した。次いで明治二年一〇月には、棄教しない浦上信徒とその家族約四、〇〇〇名を逮捕し、伊予・土佐・阿波・讃岐など二一藩に配流した。松山藩への配流者は八六名(戸主一四名、婦女子七二名)で、明治二年一二月から翌年一月にかけて送りとどけられ三津口の「ときえ」という牢獄に収容された。松山藩は当初、信徒に対して政府の指示どおり改宗の説諭を行ったが、改宗する者がないため一か月程で説得を中止した。その後、諸外国の抗議等で信徒に対する待遇が改善され、牢獄生活から衣山(きぬやま)の草葺(くさぶき)長屋での収容生活に切り換えられた。明治六年、禁教の高札が撤去されキリスト教が黙認されると、彼ら信徒たちは放免され浦上に送還された。松山に配流された八六名の信徒のうち、殉教した者は赤痢などで死亡した八名であった。
 切支丹信徒に対する松山藩の取り扱いの状況については、学校係兼異教徒取締係であった内藤鳴雪がその自叙伝の中で次のように述べている。

 我松山藩へも三十人計りの信徒を預かって居た。然るに或る時朝廷からの御沙汰に中野外務権大丞が其藩へ出張するとの事で、間もなく其一行が到着したが、其用向きは、兼て預けてある切支丹信徒の事であった。然るに、藩では、曽ては厳刑に処せらるゝ位な者だから、凡てを獄屋へ入れ、男女を区別してあった。因て其事を答へると、左様に過酷に扱ってはならぬと云はれ、尚説諭方等の事も聞かれたが、実の処藩ではそんな事も余りにせないで、特別の掛員さへ設けてなかった。……そこで、先づ中野権大丞を案内して、獄屋に於て切支丹信徒の状態を見せた。此獄屋は城下外れの三津口に在って、矢張り厳重な格子造りに成って居たが、錠前を開けると、権大丞一行が先づ這入(はいい)って行く、そこで私等も這入ったが、獄屋は私には始めての事だから、頗(すこぶ)る汚らはしく思った。殊に此信徒には、他の囚人よりは寛大にして少しの煮炊なども許して居たから、其火気が充ちて居るので、一層臭気も甚だしかった。中野権大丞は、それ等を見分した後、今後斯様な所へ置く事はならぬ、又一家の男女を分ち置くと云ふ事も悪いから、それを改めよとの事であった。因てこれ等の信徒を置く為に、城下外れでお築山と云ふ方面に卒の下等に属するお仲間と云ふ者を置いてあった棟割長屋があったのを他へ移して、其所へ信徒を住はして、一家は一戸宛同居させて、夫婦も子供も団欒(だんらん)させる事になった。……

 明治六年に禁令が解かれキリスト教の布教が解禁されると、多くの外国人宣教師や日本人牧師が来県し、松山や今治での伝道活動が活発となった。明治一二年九月には、アメリカ人伝道師アッキンソンらの努力によって、愛媛県最初のプロテスタント教会である今治教会が創立された。今治教会は、松山・北条・小松・西条・大島・伯方島などへの積極的な布教活動を行い学生など多くの青年層を教化した。やがて、同一七年五月には西条教会、翌一八年一月には松山第一基督教会、小松教会などが続々と設立され、キリスト教思想が序々に県民の間に浸透していった。松山第一基督教会が設立された翌年九月には、キリスト教主義に立つ女子教育機関である松山女学校が設立され、同二四年一月には勤労青少年を対象とした普通夜学会(松山夜学校)が創立された。一方、カトリックやハリスト正教会の布教活動も行われたが、プロテスタントに比べ県民への浸透度は低かった。
 このようなキリスト教の県内への急速な浸透に対し、松山・小松など県内の各地域で、教会や信徒に対する伝統的な感情的嫌悪から数々の妨害活動が行われた。一部有識者を除く県民の大多数は、まだまだキリスト教を理解するだけの精神的開化状況でなく、前代からの厳しい禁教政策や新政府の急激な欧化政策に対する反発からこのような妨害事件が発生したものと考えられる。