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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 養蚕業・製紙業の勃興

 養蚕業の伝習

 「伊予糸」の名で良質として知られる県下の蚕糸業は、明治初年から士族授産事業として再出発し、急成長した新興産業である。在来の自給的養蚕業も、南予の各藩ではかなり普及しており、その技術の伝統の上に立っている。生糸は開港後の輸出品の七~八割、明治初年でも五割を占め、全国的に生産が急増する中で、粗製となり価格が下落した。品質向上と統一は国際的要望でもあり、先進地からの技術伝習が、当時最大の社会問題であった旧士族の救済対策と結合したわけである。
 蚕糸技術の伝習はまず群馬・岡山などにフランスなど先進国の技術が入り、愛媛など後進県が先進県に習う形で行われた。明治初年には旧藩旧県による模索段階があり、その事業は廃藩によって旧士族に引き継がれた。五、六年ごろからは旧士族たちの全生活を賭けた伝習が試みられるが、まだ好成績とはいえなかった。国益との見地から石鐡県では明治五年八月、「養蚕規則」により飼立や繭の取揚法・糸引法の指導、桑苗の安価譲渡などを布告した。これに応じて松山の豪商藤岡勘左衛門・仲田傳之□(長に公)(でんのじょう)らは温泉郡立花村に桑園一町三反を開き、旧士族片山信兼・伴信為らも同郡持田(もちだ)村に桑園一町五反を開き、二万七、〇〇〇本を植栽した。また白石孝之らは「松山養蚕会舎」を設立した。
 石鐡県ではついで明治六年二月、「松山興産会社」を通じて桑苗五、〇〇〇株を無料配布した(資近代1 六一)。しかしこうした努力にもかかわらず、明治九年ごろまでの起業者は三九名、飼蚕町村は六六か町村で、県下町村数の六%にすぎない(「伊予蚕業沿革史」)。当時の製糸は、一口取りの非能率な座繰(ざぐり)器械を使用し、糸引きは家族労働によった。

 授産事業

 明治九年、県庁に勧業課が新設されて蚕業の推進運動は急に活発化した。各先進地から技術者が相次いで招かれ、伝習派遣の規模も大きくなった。器械製糸も始まり糸業の創立者も増えて明治一〇年だけで一一件あり、富商や豪農の経営もあって産業としてようやく定着をみせた。また明治一四年に農商務省から約五万二、〇〇〇円(内一万円は貸下済)の貸下金を得て、県の授産事業も活発化した(資近代2 四四九)。旧士族五〇名以上の結社による起業の申告により、無利子で資金が貸与されるため、旧士族の半数以上が県庁へ申請した。新しく養蚕を開始した町村は、明治九年末では一四〇か町村で、県下町村の三〇%、二五年末では九〇%となり、この間の普及の勢いを示している(「伊予蚕業沿革史」)。
 明治一三、四年ごろに宇和島・卯之町・大洲・松山などに養蚕伝習所が設置され、同一五年には南予全域を会員とした「第三農区養蚕製糸改良会」、同一八年五月、松山に「伊予蚕業協会」が組織されて、蚕業の改良や拡大がより強化された。県でも明治一五年度産から繭・生糸の審査を始め、同一九年一月には農商務省令を受けて町村単位の蚕業組合設立を指示した。同年三月には温泉郡持田村に「県立松山養蚕伝習所」(四、〇〇〇坪)を開設し、同二一年三月から桑苗の供給と、二〇名ずつの伝習を開始した。同二〇年二月に「蚕業検査規則」、同二一年に「蚕糸業取締規則」が布告された(資社会経済上 三二六~三二九)。この期の明治二〇年三月、山梨県から来任の藤村紫朗知事は、在任一年であったが、養蚕巡回教師制度、養蚕振興や改良に関する度々の告諭、桑苗五〇万本の無償配布など特に蚕業に力を注いだので″蚕業知事″の名がある。愛媛の授産事業や養蚕振興事業は、この二〇年前後にほぼ基礎固めを終了したといえる。明治一〇年代では生糸や繭の生産は横ばいで、桑園も百町歩未満であり、器械製糸工場もほとんど数名の零細経営であったが、二二、三年ごろの数字は、その後の飛躍的発展を十分に窺(うかが)わせるものがある(表1―64~66)。

表1-63 養蚕製糸伝習関係年表

表1-63 養蚕製糸伝習関係年表


表1-64 愛媛県の繭・生糸の生産

表1-64 愛媛県の繭・生糸の生産


表1-65 郡市別桑園面積

表1-65 郡市別桑園面積


表1-66 郡別製糸(座繰器械)起業者数

表1-66 郡別製糸(座繰器械)起業者数