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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 公共社の活動

一 公共社の活動

 大洲集義社の設立

 明治七年一月、政府に民撰議院設立建白書を提出した板垣退助は、四月片岡健吉・林有造ら同志と郷里土佐に立志社を結成、自由民権運動を開始した。隣りに位置する本県はその影響下に置かれた。高知を訪れた有志は、板垣らの思想に触れ、政治結社を組織して民権運動を目指した。
 明治七年春、旧大洲藩士陶不窳(ふゆ)次郎は単身高知に入って民情を視察し、板垣とも面会してその情熱に感銘した。郷里大洲に帰った陶は、力石八十綱・中村恕一郎・山下氏潜・武田豊城・永田元一郎・三生邁・築山弘毅・渡辺八尋ら同志の賛同を得て集義(議)社と称する政治結社を組織した。彼らはしきりに民権自由の説を唱え、土佐の立志社と気脈を通じた。
 同年八月台湾出兵問題に関する対清談判が始まると、同月一五日土佐立志社は、林有造を総代に、征台に際し義勇兵を組織して国難打開を図ろうとの意思を表明して「寸志兵編制願之事」を政府に提出した。集義社もこれに呼応して、清国との交渉が決裂すれば身をもって国に殉ずる行動方針を決定、征討軍参加の請願を行った。また翌八年集義社は民権政社の全国組織愛国社に加盟、二月二二日の創立総会に陶を代表委員として派遣した。
 集義社が自由民権団体としての性格を明らかにしてくると、社の内部で思想上の対立が表面化した。武田豊城・永田元一郎らは、「民権自由の説はその極点に違するときは天皇陛下を蔑視し朝憲を紊乱(びんらん)することになる」と、言論でもって漸進的に国政の改革を図ろうとする陶らを批判、土佐の大石圓・小笠原和平らと意気投合して士族蜂起の実力行動を主張するようになった。この間、陶は政府の参議に復帰した板垣退助の勧誘で元老院議官として東京に在り、集義社は、明治九年陶の留守中に永田らの策動で解散した。やがて元老院を辞して帰郷した陶は、永田・武田らの挙動が平常でないことを説諭したが効果がなかった。同志結合の望みを絶たれた陶は、岩村権令の招きに応じて山下氏潜・力石八十綱らと共に県官に任用され、警部となって武田らを取り締まる側に立った(資近代2 五七一~五七二)。

 公共社の結成と組織

 松山には、明治八年旧松山藩士小林信近・長屋忠明らの発企によって同心社が組織された。この結社は、愛国公党に加入していた長屋忠明が地方政社を組織すべく東京から帰り、かつて版籍奉還時、共に少参事を務めていた小林信近を説いて結成したようであった。小林は、当時、松山郊外東部に茶園を経営し湊町で紙店を開き正覚寺で養蚕を試みるなど士族授産のための種々の事業を行っており、松山士族の中心的存在であった。同心社には小林の影響で松山藩士族が集まり、数回の会合を重ねて民撰議院設立の可否その他公共上の討論を続けた。しかしこの結社は、特定の主義主張を持たず士族の親睦団体の域を出なかったから、土佐立志社と連携して愛国社への加盟を図ろうとする長屋の意図が社員一般の保守的気質と合わなくなり、活動は次第に低調、日ならずして解散した。長屋はその後も同社の再興につき小林らを勧誘したが、明治九年七月牛行社を設立して製紙・製靴などの授産事業を通じて士族の団結を図ろうとする小林との間に意識のずれが生じ、目的を達成することができなかった。
 明治一〇年の春、西南戦争が起こると、ひそかに時機の到来を待っていた長屋忠明は、旅装を整えて高知に入り土佐士族の挙動に注目した。そこで長屋が目撃したものは、西南戦争に動揺することなく活動を続ける立志社の強固な組織と社員の熱意であった。感奮した長屋は数日を経て松山に帰り、再び同心社復活を企てたが旧社員の無気力にはばまれてならず、「青年有為ノ士」に同志を求めた。
 七月一七日、長屋忠明宅に有志数名が集まって政社結成のための準備会がもたれた。会合した者は、宮本積徳(二七歳)・村井信大(三二歳)・松下信光(二七歳)・井手正光(一九歳)らであった。席上、「単ニ政治上ノ事ノミナラス、工業ニ勧業ニ教育ニ、総テ世ヲ益スルヲ以テ目的トスル」政社を組織することにして公共社と名付けることに一致した(資近代2 五七二~五七三)。この公共社の主要人物の一人として活躍する井手正光は、後年その『逐年随録』の中で当時を回顧しながら、「吾輩同志の士は感慨に堪えず、窃に相謀りて大いに自由民権を拡張し、国事に任すべしと期待せり、時恰(あたか)も長屋君、同志団結の必要を唱ふるに会す」と記述している。
 準備会に集まった者は数名に過ぎなかったが、やがて、北予変則中学校(翌年松山中学校と改称)校長の草間時福(ときよし)と同校教諭の中島勝載(小林信近の実弟)らが参加した。草間は、岩村権令が末廣重恭(しげやす)(鉄腸)の仲介により県立英学所に招聘した慶応義塾出身の論客で、入社早々に「公共社主意書」を起草した。主意書は、「夫レ国家ハ吾人ノ頼テ以テ生息シ、其康福安寧ヲ保持スル城塞ナリ」の書き出しに始まり、「国亡テ民有シ国衰テ而シテ民ノ栄ヘルモノアルハ、未タ嘗テ聞カサル所ナリ」と国家論を展開、今日我が国なお百事欧米諸国に及ばないのは、「我人民カ未タ固有ノ権利ヲ回復スル能ハスシテ常ニ康福安寧ニ飢餓スル原因」にあると結論、結社の目的を、「人民ノ権利ヲ鞏固(きょうこ)ニシテ其義務ヲ励シ、断乎トシテ政府ト人民ノ間ニ立チ、其権衡偏重ヲ防キ同胞協和」するとしていた(資近代1 六四〇~六四一)。ここに貫かれているのは官民調和論であり、草間の師である福沢諭吉の思想が反映されていた。草間らが加わって、この年の一二月社員は三〇数名に拡大した。初代社長には長屋忠明を選任したが、やがて長屋の辞退で社長を廃し幹事二名を代表者とする組織改革を行った。公共社の組織は「公共社規則」で明らかである。この社則は、「河野広中文書」(国会図書館憲政資料室所蔵)に主意書と共に収められているが、制定の時期はその冒頭に掲げた例言に「已ニ起ス所ノ事業ニアリ、新聞諸出版及演説会是ナリ」とあるところから、公共社が海南新聞の発行を引き受けた明治一一年九月以後と考えられる。公共社は、明治一〇年七月「主意書」だけを定めて活動を開始した後、社員数も漸次増加、新聞発行などで組織を整備することが必要となったので、「公共社規則」を制定したものであろう。
 社則は、第一章総則、第二章職務、第三章撰挙、第四章議事、第五章出納、附録第一章演説会規則、附録第二章出版社規則、附録第三章愛国社加盟条項からなる(資近代2 六四〇~六四八)。以下、この社則に従って、その組織を概略しておこう。
 新入社員は社員の紹介を条件とし幹事が資格認定するという簡単なもので、毎月社費一〇銭を納入、社費を出す資力のない者は決議の数に加えないと社員の権利に差をつけていた。役員は幹事二名、会計掛一名で、社員の公選によって選任、その任期は六か月であった。初代の幹事には長屋忠明と草間時福が就任したようである。協議機関は、毎月隔週土曜日を開会日とする常会と臨時会とがあった。活動の財源は、社員からの社費、諸事業より出る利益金・寄附金・不用物売却金などで、支出額は社費の範囲内で賄うとしていた。
 附録の演説会規則は、人民を開花の域に導くために有志者が力を尽くしてこれを誘導奨励することが演説会の目的であり、自己の思想を吐露するだけでなく、広く同志を招いて、その論説を十分に言葉の上に尽くすことをうたっていた。さらに演説については、努めて着実を要し、なるべく卑近な例をあげて卑俗の語を用い聴衆に理解できる平易な内容であることを要望し、高尚に過ぎたり、暴論激説で聴衆を惑わさないように注意していた。演説会は、毎月第二・第四土曜日の夜を定例とし、原則として社員が演説し、社員の紹介と幹事の許可によって社外の者も演説することができた。演説者は毎会抽籤をもって順番を定め随時登壇し、一人の持ち時間は三〇分程度と決めていた。演説会の開会は、その都度新聞を通して一般に予告することにしており、「海南新聞」の広告欄にその会場、開会時刻が掲載された。
 演説会が規定にしたがって毎月第二・第四土曜日に開かれたとすれば、常会が第一・第三・第五土曜日であるので、社員は毎週土曜日に常会か演説会に出席することになり、かなり精力的な活動が要求された。
 公共社付属機関としての出版局は、新聞発行を主な業務内容とし、局長・委員の下で総理課・会計課・編輯(へんしゅう)課・印刷課の四課からなる機構を整えていた。この出版局は、公共社が「海南新聞」を引き受けた経過から独立採算制がとられ、社員外の出資者・株主が募集されていたようである。
 この時期の公共社の組織を示すと表1―102のようになる。

 公共社の地域活動

 明治一〇年一一月二八日付の「海南新聞」には、「去ル二十四日夜、松山小唐人町巽学校ニ於テ、公共社々員ノ演説会ヲ開カレマシタガ、殊ノ外盛ンナル事ニテ、傍聴人ハ二百余名ノ多キニ至リ、校内ニ充満シ殆ンド立錐ノ地モナカリシト云フ」とあり、新聞が報じた公共社演説会の最初の記事である。一一年一月には草間時福・中島勝載らの学術及び政談演説会が松山巽学校で開かれた。代議政体の内容と愛国心の必要なことを説き、またフランス革命などの事跡を述べたに過ぎなかったが、これが「県下政談ノ嚆矢(こうし)」であった。しかし「聴ク者皆幼稚」、政治の何物たるを知らないものが多く格別感触を与えることはなかったと警察の密偵は報告している(『政党沿革誌』 資近代2 五七三~五七四)。
 公共社が本格的な地域活動を開始してから約六か月後の明治一一年五月、愛国社再興を勧誘する土佐立志社の遊説隊員植木枝盛らが、高松での遊説を終えて三津浜港に上陸し、一七日に多度津に向かうまで八日間滞在した。国会図書館憲政資料室に所蔵されている植木枝盛文書の中の『四州山陽山陰紀行』で植木の松山での滞在日程をたどろう。
 五月一一日三津浜に着いた植木らは海南新聞出版局西河通徹を訪ねたが居なかったので、城山に登り、折から開会中の博覧会を見物、午後五時道後湯月町鮒屋(ふなや)旅館に投宿して温泉に入浴、夜になって西河の来訪を受けた。翌一二日には西河と同道して草間時福が宿を訪ね、午後まで談話、夜になって長屋忠明の招きに応じて松山市街北京町涼風亭に出向き、酒宴の中で愛国社再興のことを談じた。一三日松山市内を巡見、一四日宝厳寺での一遍上人旧跡を散策して、一五日午後長屋忠明を訪ね、夜大街道巽小学校で演説した。登壇した植木は、「吾々ハ旅ノ者ナリ、今此地ニ来ル、当地大勢ノ人ト談シタシ、之ヲ為スニハ演説会ニ若クハナシ、抑演説会ハ古来日本ニコレナシト雖モ、近頃漸ク之ヲ始メ処々ニ行ハルヽニ至レリ、今松山ノ地ニモ諸君ノ尽力ニヨリ演説会ヲ設ケタルハ如何ニモ結構ナルコトナリ、今夜卒ニ此演説場ニ登リ、如何ナルコトヲ演説シテ宜シキ乎、余暫ク之ヲ考ヘタルニ、地方ノ大ニ独立スベキコトヲ説話致ス方、第一肝要ナルベシ、仍テ左ニ是ノコトヲ述フベシ」と前置さして、国内政情から説き始めた。翌一六日は午後六時から真夜中過ぎまで長屋宅で公共社員一〇余名と会飲、土佐立志社の呼び掛けに応じた組織を挙げての歓迎ぶりであった。一七日夜植木は三津浜港から多度津に向かう船中で乗り合わせた警部から大久保利通刺殺を聞いている。
 九月、公共社は植木の勧誘に応じて大阪での愛国社再興大会に内藤正格・高木明暉を出席させた。その大会の決議を携えて両名が帰県すると、公共社は社則に「本社ハ愛国社ノ同盟ニ加ル事」など附則第三章を追加した。松山地域の士族を中心に結成された公共社は、愛国社に加盟したことで全国民権結社の一つに認知された。この時期、高知立志社高松分社員と称する植木一郎らが松山立志社を組織、各地に分舎を設け、「粗暴過激ノ言」でもって「愚民ヲ煽動」したが、公共社はこれとは交際しなかった(『政党沿革誌』)。

 公共社の転換と松山自由党の結成

 明治一二年になると、公共社の内部とそれを取り巻く情勢が変化してきた。公共社の代表長屋忠明は明治一一年一二月岩村県令の登用で野間風早郡長に就任、郡書記についた井手正光・中島勝載らと北条町に赴任した。理論面での指導者であった草間時福も一二年に東京に去った。
 創立当初の首脳部が組織を離れた後を受けて、新しい指導部を構成したのは藤野政高や白川福儀らであった。藤野は安政三年(一八五六)生まれの旧松山藩士、明治九年ごろ東京に遊学して同一一年ごろ代言免許を得て帰県、代言人を家業とするかたわら公共社に入社して活動を始めた。白川は安政四年(一八五七)生まれの旧松山藩士、東京に遊学して漢学を修め甲斐及び近江地方などで学校教員を勤めたが身体多病のため帰県、海南新聞記者となった。藤野・白川ら二〇代の青年を主体とした公共社は、明治一三年大阪の愛国社大会に参加して国会開設を目指した。啓蒙行政を展開していた県令岩村高俊が明治一三年三月に内務省戸籍局長に転出し、後任の県令関新平による厳格な姿勢は、公共社に従来の官民協調路線からの転換を迫った。長屋忠明・井手正光らは野間風早郡役所を辞して公共社に復帰した。明治一四年二月二〇日の総会決定で公共社は組織変更を実施、政談部・工業部・商業部・教育部の四部構成とした。このうち政談部は藤野・白川らの主張で従来の演説会を組織化したもので、計画的な企画のもとに言論活動を実行しようと「政談部規則」を定めた。同規則によると、政談部は「専ハラ国政上ニ思想ヲ注キ、政治ノ改良ト民人ノ幸福ヲ謀ルヲ以テ目的」として、演説会と討論会を開催する、演説会は、定期・臨時の二種とし、定期演説会は毎月第一土曜日の夜間に開く、演説はつとめて着実を旨とする、高尚疎遠の理論に偏して大衆から遊離してはならない、暴論激説を吐いてはならない、討論会は国政上の事項につき利害得失を弁論討論することを目的とし、毎月第三土曜日に定期、適宜臨時に開く、討論会は公開とする、会において議決した事項は、人民の権利と自由を回復するために請願建白することがある、などと定めていた(資近代2 五七五~五七七)。政談部長には橋本是哉が選ばれた。
 明治一四年一〇月自由党が結成されると、藤野・橋本らは公共社から政談部を独立させて松山自由党を組織しようとした。同年末から一五年にわたり松山地方で党員を募集したが、長屋忠明ら一〇余名が同意を表したに過ぎず、公共社員すべての参加は得られなかった。党員が十分に集まらないままに松山自由党は発足したが、『政党沿革誌』は「集会条例ノ為メ政社ノ資ヲ以テ運動ヲナスニハ万事不自由ナルヲ感シ、曽テ公共社中ニ設ケアリシ政談部ヲ廃シ屢々(しばしば)政談演説ヲ開会セリ」と、公共社と松山自由党の関係を解説している。松山自由党は、組織を全県的に拡大するために、宇和島の山崎惣六らが結成した蟻力社とも往復した。また同一五年五月三一日には今治町大雄寺で政談演説会を開いて、西条の馬場八十七・小川健一郎や今治の八木孝次ら東予の有志と共同で党勢拡大に努めた。この政談演説会は聴衆三〇〇余名、第一席馬場八十七の「政体ノ別」と題した演説の後を受けて、橋本是哉は「民権ノ拡張ハ同権ヲ全フスルニ在リ」の題名で登壇、演説の途中治外法権問題に及んだとき、臨席警部から中止を命ぜられ、会場騒然とした中で演説会は解散させられた。
 愛媛県は、明治一一年一二月二七日「演説会届出ノ件」で、およそ政談諸学を目的とし衆を集め演説・論議する者はあらかじめ会主及び会員三人以上の連名で最寄り警察署へ届け書を出すことと布達し、政談集会を届け出制とした(資近代1 八二五)。さらに明治一三年四月の「集会条例」で集会の認可制、警察官の監視及び解散権が規定されると、同一四年一月二九日政談以外の演説会も届け出を義務づけ屋外集会を禁じた。集会条例と一連の集会取り締まりに対し民権団体とその機関新聞は激しく非難した。集会条例制定直後の「海南新聞」明治一三年四月一八日付は、「議政院ハ政治ノ思想ヲ耕培シ愛国ノ精神ヲ育養スルノ学校ナリト、然レトモ今我国々会未開ケス、県会町村会ノ如キハ未々以テ完備ノ学校トスルニ足ラス、然ラハ則チ何モノカ以テ自今コノ思想精神ヲ培養スヘキヤ、答テ曰演説会ヨリ善キハナシ、然レトモ今ヤ条令出テ、天下有用ノ人ハ過半其場ニ臨ムノ権利ヲ褫剥(ちはく)サル、我輩千考未タ之ニ代ムルモノヲ捜出スルヲ得ス」と批判しているが、これ以上の非難は「新聞紙条例」「讒謗(ざんぼう)律」に触れて処罰の対象とされた。
 警察統計によると、公共社発行の「海南新聞」は明治一三年と同一四年各八件の刑事処分を受けている。そのほとんどは他人の栄誉を害すべき事件を掲載したとしての処罰であったが、明治一三年四月の国会開設請願建白書を不許可掲載したことに対する罰金一〇〇円は重い処分だった。「茲ニ新奇一種ノ棒アリ、其丈三尺樫ヲ以テ之ヲ造ル……」(明治一四・九・三〇付 海南新聞)と巡査の権威の象徴である警棒を嘲弄(ちょうろう)しただけで、巡査の職務を讒毀(ざんき)したとして処分された。新聞社は時には記事取消命令を拒否して戦う場合もあった。「海南新聞」は明治一四年一一月一九日と二〇日付で編揖長橋本是哉の論説「愛媛県常置委員会ヲ論ス」を掲載した。論説の内容は具体例をあげて常置委員会制度は立法・行政を混同させる必要悪のもので、「常置委員ハ其権限ヲ踰越(ゆえつ)シ愛媛県令ハ其行政権ヲ自棄スルモノナリ」と論じた程度のもので、批判というに当たらなかったが、県当局は記事の取り消しを求め、橋本を呼び出して記事の出所を尋問した。橋本はその出所を明かすことを拒否し、公共社出版局も県の要求には応じられないと回答して抵抗した。この時の闘志が見込まれて橋本是哉は後に県官に登用され、愛媛県警部となり、西条・大洲警察署長、警察部保安課長を歴任した。

 公共社の解散と海南協同会の設立

 県当局の発行停止と罰金処分で、公共社出版局発行の「海南新聞」は経営難に陥った。さらに一五年に県庁の印刷請負いが解約されたことが大きな打撃となり、商業部の不振も重なって公共社全体の経済が揺らぎ始めた。この危機を切り抜けるために公共社出版局長井手正光は、海南新聞社の独立を提案して総会で承認された。井手は公共社外にも設立発起人を求め、広く一般に株式を売り出し、明治一六年二月創業にこぎつけた。井手正光は、『逐年随録』の中で、「昼夜眠ラサルモノ数日ニ及フコト屢々(しばしば)アリ、其結果、吾輩ハ大ニ消化器ヲ害シタルコトヲ覚ヘタリ」と、その創業の苦心を語っている。
 公共社は、すでに政談部が独立して松山自由党となり独自の政治活動を展開していたから政治結社としての存在は薄くなっていた。さらに海南新聞社の創設によって新聞発行の業務を譲ったので、公共社はその役割を終えて解散した。これと前後して松山自由党も解散した。資金面や動員力で公共社に依存していた松山自由党は、公共社の解散でその基盤を失ったうえ、板垣退助の遭難や福島事件などで世間が自由党を破壊団体視したこともあって、この際解党が得策ということになったのであり、同じころ宇和島の蟻力社も解散した。しかし翌一六年には長屋忠明・藤野政高ら旧公共社・自由党の幹部によって海南協同会が設立された。藤野らは、県内全域にわたる広い範囲での政治活動の組織を作ろうとして、海南協同会と称する広域の団体名を用いたのであったが、一般には松山自由党の再興と見られた。
 海南協同会は、「自由ヲ拡張シ権利ヲ保全シ幸福ヲ増進シ社会ノ改良ヲ図ルヘシ」「日本国ニ於テ主義ヲ共ニシ目的ヲ同フスルモノト一致協同シテ目的ヲ達スヘシ」を主義として掲げたが、これは「自由党盟約」の条文を写したものであった。事務所は松山小唐人町二丁目に置き、後に二番町に移した。同会の主な人物は、長屋・藤野のほか橋本是哉・白川福儀・井手正光・大道寺徳・松下信光・内藤正格・岩本新藏・清水隆徳・二宮重義らで、藤野・橋本・岩本・清水・二宮らが政談演説委員となり、政治思想啓蒙のかたわら会員の勧誘に努めた。例えば、七月一〇日には藤野・橋本・清水・二宮が松山小唐人町一丁目遠山寄席で、一二月四日には三番町東栄座で藤野・井手らが政談演説会を開くなど海南協同会の存在を喧伝(けんでん)したので、明治一七年には会員三〇〇人を獲得した。

 板垣退助の来県と海南協同会の解散

 板垣退助を崇拝し高知自由党員と気脈を通ずる藤野らは、第三回四国自由大懇親会を松山で開催し板垣退助を招いて四国の活動家の連携を図り党勢拡張の機運を醸成しようとして、書簡を高知・徳島の有志に送って同調を求め、明治一六年一〇月開会に決定した。そこで藤野は高知に赴き板垣と面接して来松を要請、板垣も承諾した。第三回四国自由大懇親会は一〇月二四日松山宮古町大林寺で開かれた。しかし板垣は来松せず代理の安芸清香が基調演説をしたが盛り上がらず、意気込んでいた藤野は、「板垣総理ヲ聘セシナレハ会合者モ多ク、随テ我党ノ加入者モ多ク、依テ盛会ヲ聞クノ予定ナリシモ、何ソ計ラン、総理ノ来松ナキノミカ兼テ約定セシ人員モ来松セス、大ニ予想外ニテ如何ニモ不景気千万ナリ」(『政党沿革誌』)と嘆息した。藤野は四国各県の交通不便が懇親会出席者僅少の原因であるとして、情況視察や情報交換のための四州巡遊委員を設けようと提案し、各県代表者の賛同を得た。なお、次期の第四回四国懇親会は徳島と今治が争い、協議の結果一七年二月に今治で開催することになった。
 先の懇親会の決議により白川福儀と林常直が四国巡遊のため一一月一九日松山を出発した。今治に阿部光之助、西条に皆川廣済を訪ねて海南協同会員の募集を託し、高松の有志懇談会に臨み小西甚之助らと面談、高知に入って片岡健吉らを訪ね、板垣退助に明春の来県を要請して快諾を得、高知の政党の盛んなのに驚き、帰途宇和島に堀部彦次郎と山崎惣六、八幡浜に清水隆徳を訪ね伊予の政治活動の不振を嘆じて共に働くことを約し、一二月三一日の大晦日に松山に帰った。明治一七年一月一五日松山府中町河合寄席で開かれた政談演説会で、白川は四国巡遊の報告として土阿讃三州の合同一致の情況と政治思想に富んだ実事を挙げ、予州人士の団結心の乏しさと政治思想の不足を聴衆に訴えた。
 明治一七年二月二八日、板垣退助が一六人の随行者を伴って神戸から海路今治に入った。翌二九日第四回四国懇親会が越智郡今治村皇太神宮社殿で開会、会する者二七〇余名、板垣は、「我四国ノ如キハ連島中ヲ隔テサルニアラスト雖ト実ニ海南ノ一孤島、我レト利害ヲ共ニシ我レト近接シタル人ニシテ相親愛スヘキ人ヲ以テ共ニ此ニ会ス、是レ余カ此会集ハ尤モ親愛スヘキト言フ処ナリ」と懇親会への親愛の情を表し、ついで欧州視察の際イギリスで面談したスペンサーの説を引用しながら集会の意義を述べ、「此会ノ如キハ諸衆已ニ郷土ヲ愛シ延テ四国ニ及ヒシモノニシテ最モ敬愛スヘク、尤モ利害ヲ近接ニスル人々ノ会合ナレハ共ニ身ヲ公共ノコトニ委シ共ニ公共ノ福祉ヲ保ツニ至ル可キヲ信ス」「希(ねがわく)クハ諸衆能ク其志ヲ発起シ能ク国民タルノ面目ヲ備ヘ天下ノ人ト共ニ社会ノ幸福ヲ増進セラレンコトヲ切ニ希望ニ堪ヘサル所ナリ」と結んだ。この会合では、第五回四国懇親会を一〇月に阿波で開くこと、各地に遊説委員を巡遣して同志の連携を強化することなどを申し合わせた。三月一日、板垣退助は海路松山に入った。海南協同会員はじめ有志三〇〇余名が三津浜に出迎える中を午後四時上陸、板垣の乗った人力車を先頭に二〇〇輛が列らなって松山に入った。同夜、三番町の長坂周次郎の別荘に投宿、長屋忠明・藤野政高ら海南協同会の幹部が訪ねて懇談した。二日、板垣を迎えての自由懇親会が松山宮古町大林寺で開催、会するもの三〇〇余名、海南協同会の幹部をはじめ高須峯造・井上要・吉田唯光らも参加した。「此会タル単ニ会員ノ多カランコトヲ欲シ、人ニ制限ナキカ故ニ士族アリ卒族アリ商人アリ百姓アリ、中ニハ人力車夫アリ窃盗賭博等ノ前科アルモノ等モアリテ雑物混淆実ニ殺風景ヲ極ム」と、『政党沿革誌』は会の雰囲気を報じている。幹事を代表して門田正経が板垣来松の祝賀を述べ、これを機会に松山人士が政治的後進性を打破して四方と相提携することを訴えた。これを受けて板垣は簡単な答詞を述べ、酒宴に移った。同夜もまた多くの者が旅寓に出入して欧州視察談などを聞いた。板垣は三日午後松山を出発、海路上京した(資近代2 五八四~五九一)。板垣の来県中、終始彼の世話に当たったのは門田正経であった。門田は白川福儀の弟で、東京朝野新聞記者を務めた後、島根県の山陰新聞の主筆に招かれ、明治一六年帰郷して南溟(なんめい)義塾を一番町に設け私塾で生計を立てるかたわら海南協同会に参加して活躍していた。
 板垣の来松を機に会の発展を図った海南協同会であったが、官憲の妨害や群馬事件・加波山事件など自由党員による激化事件が悪材料となって伸び悩んだ。一〇月の自由党解党は海南協同会に一層の打撃を与え、退会者が続出し政談演説会にも聴衆が集まらなくなった。明治一八年一月二八日の総会には藤野・長屋・白川ら三五名が集まって海南協同会の存否について協議、自由党が解党しても協同会の組織だけは維持していこうとする意見が多数を占め解散は避けられた。しかし、その後もこの衰微を挽回することはできず、資金にも欠乏して一二月二八日の総会で海南協同会はついに解散するに至った(資近代2 五九六)。

 演説会葬儀事件

 「集会条例」で政談演説会の届出制が義務づけられ会場に警察官が臨検するようになると、演説会の不認可や中止を巡ってしばしば争いが起こった。次の西条での出来事はその代表例であり、民権運動激化事件の一つに数えられる。
 明治一八年五月一、二日の両日、新居郡西条本町の定小屋で政談演説会が開催されることになった。海南協同会の活動に刺激された同地の民権家小川健一郎が数人の同志と図り代言人の皆川廣済を会主として聞いたものであったが、久し振りの演説会とあって、初日の五月一日には定小屋に満員の聴衆が詰めかける盛況であった。第二番目に登場した小川健一郎が「失望と□害を論ず」と題する演説を終わろうとした時、臨監中の西条警察署長遠藤重明が弁士中止・集会解散を叫び明日の集会禁止を宣言した。「聴衆は場内に充満し広き会場も寸地を余さぬ位にて、中止解散を命ぜられたる時抔(など)には聴衆暫く動揺し、或は抗論せよ或は理由を聞けと叫ひし者もありて、会主が解散の旨を告げたるも敢て従はず、巡査が直接解散を命ずるに及んで始めて無事に解散したる」と、「海南新聞」五月六日付は会場の混乱を報じた。
 演説会の中止命令を不満とする小川健一郎らは、二八日再び政談演説会を開催することを決め、皆川廣済が会主兼弁士となり、渡部奇秀や海南協同会からの応援弁士門田正経らの演題を記載して西条警察署に届け出たが、同署は治安に妨害ありとしてすべての演談を不認可とした。小川らはなぜに警察署は集会の認可を与えないのか、数種の演題ことごとくを不認可とするのは全国にも例を見ない暴挙だと激高したが、今更これを言っても無益であり演題は既に死者になったに等しい、このうえは多数の葬送者を求めて演説会の葬儀供養をしようと衆議一決した。二八日予告の演説会場に集まった聴衆に皆川が代表して演題不認可のことを述べ、明日正午一二時から各地演説会追善供養及び本会葬礼式を執行するに付き、賛成の諸君は新芳原の定小屋まで来会あれと呼びかけた。翌二九日、小川らは葬礼の準備をし、午後一時の号鐘を合図に劇場に集まり、「大聲院不平怒鳴居士」と記した旗を立てて葬儀執行の集会を開いた。
 こうして小川らは警察への憤まんを晴らしたが、この集会費用の捻出に困り、新居郡大生院村市之川鉱山の資本家に寄附金を強要することを共謀した。三〇日、鉱山に出向き資産家の存否を尋ね不在であったので、県勧業課出張所雇川端熊吉宅に至り葬式費用の出金を促したが謝絶された。小川らはこれを聞き入れず、われわれは大衆のために徒党を組んで圧制を破ることを目的に活動している。社会のために尽くすつもりで金を出せ、もし断るなら貴様から血祭りにあげよう、などと威嚇(いかく)して金を恐喝しようとしたけれども、熊吉の次男梅吉が帰宅して目的を果たすことができなかった。
 この事件を知った西条警察署は、小川健一郎・丹正之・岩田久蔵・宇高喜代蔵・渡部奇秀・皆川廣済の六名を恐喝取財未遂の容疑で逮捕し西条治安裁判所へ起訴した。民権家の抗議戦術の一つである演説会葬儀事件が意外な展開となったので、一時拘留されていた門田正経が松山に帰ると海南協同会員など有志から詳細な説明を求められ、代言人を業とする藤野政高・岩本新蔵・高須峯造が被告の弁護を買って出た。公判では検察側・弁護側の激しい論戦が繰り返された後、裁判所は証拠不十分を理由に被告全員に無罪を宣告した。検察側はこの判決を不服として控訴の手続をとった。裁判の成り行きは県民の関心を呼んで、控訴審では連日二五〇人以上の傍聴人が詰めかけた。口頭弁論七日の後、八月八日松山裁判所は先の判決を破棄し、恐喝に加わらなかった皆川を除く被告五人に有罪を宣告した。判決は小川重禁錮三年罰金二〇円監視一年六か月、丹と岩田重禁錮二年罰金一〇円監視一年、宇高重禁錮一年罰金七円監視八か月、渡部重禁錮一年罰金五円監視八か月という厳しいものであった(資近代2 五九三~五九六)。主犯の小川健一郎は文久元年(一八六一)西条藩士族の家に生まれて当時二三歳、明治一〇年新居郡明屋敷村の択善学校に奉職していたが一一年に上京して慶応義塾などに遊学、一四年一一月帰郷、自由党に加入して政治活動に従事、明治一五年一〇月馬場八十七と共に恐喝取財の罪で重禁錮六か月罰金一〇円の罰を受け、今回の恐喝取財未遂で再犯に問われて罪を加重された。

表1-102 公共社の組織

表1-102 公共社の組織


図1-13 国会開設請願の戯画

図1-13 国会開設請願の戯画


図1-14 自由党結成の戯画

図1-14 自由党結成の戯画