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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 軍備の成立

 大阪鎮台から広島鎮台へ

 さきの徴兵令発布の前日、明治六年一月九日には全国の鎮台配置が増強され、六軍管六鎮台一四営所となった。増設されたのは名古屋・広島の二鎮台で、第5軍管広島鎮台は広島及び丸亀に営所を置き、広島・小田・島根・浜田・山口・香川・名東・高知・神山・石鐡の一〇県がその管轄区とされた。同年七月には条例の改定で、第5軍管は第11師管(広島)と第12師管(丸亀)を包括すると定められた。高松営所には新たに徴兵(陸軍省第一年報には臨時招集の字句が用いられている)された兵員による第24大隊が増設されて二個大隊の編制となった。翌七年一二月、高松から丸亀の新営所に移転した。同八年一月には再び条例の改定があり、広島鎮台の常備兵力定数は四、三四〇名、内訳は歩兵二連隊、砲兵二小隊、工兵一小隊、輺重(しちょう)兵一隊、海岸砲兵一隊となり、この中で丸亀営所の定員は二、三四六人であった。
 これら定員は、この後、日を追って漸次充足され、予定された編制に達した。

 歩兵第12連隊の誕生

 丸亀営所においては、旧藩士で編成された第16大隊と、徴兵々員で編成された第24大隊の差を廃し、名称も第1・第2大隊と改めて一致団結の実を挙げようとしていた。明治八年五月、この両大隊をもって歩兵第12連隊が編成され、初代連隊長に歩兵中佐黒木為禎(ためもと)が任ぜられた。九月九日、青山御所において、明治天皇から軍旗が親授せられた。このあと軍旗は広島において歩兵第11連隊と共に広島鎮台司令官の軍旗授与式に臨み、次いで丸亀の屯営地に帰って連隊分列式を行った。翌九年四月、第1・第2両大隊より兵員を分割して第3大隊が設けられ、ここに同連隊の編成は完結した。本県の壮丁の多くはこの連隊に入営している。このころ、脚気患者が多発し温泉治療のため、道後温泉近くの寺院に仮病院を設けて転療させた記録が残っている。

 西南の役

 明治一〇年二月、鹿児島県士族三万余が征韓論に敗れた西郷隆盛を首領に仰いで兵を挙げ、熊本鎮台の拠点である熊本城を包囲し攻撃を開始した。籠城して抗戦する鎮台司令官以下の将兵を救援するため、政府軍はこれを挟撃する形で前進し激戦を展開した。この時歩兵第12連隊はその建制を解き、この作戦のため臨時に編成された旅団に分属された。その一部は正面軍に配されて北方から、連隊主力は衝背軍に属し八代南方に上陸してこの戦闘に参加した。
 激闘の末、四月中旬に至って熊本城の包囲を解くことに成功、つづいて熊本東方地域に移動する西郷軍を求めて城東作戦、さらに退却する敵を急追して人吉・宮崎と転戦した。敗れた西郷軍は一時北上し、八月一五日には延岡において再び政府軍に捕捉されている。
 このころ高知県では、これも征韓論に敗れた板垣退助・林有造らが立志社を設立し、西郷に呼応する反政府的動きを見せ始めていた。近衛の二個連隊をはじめ大部分の陸海軍戦力を九州に投入した政府は、この治安維持のため警視隊をこの方面に派遣し、警戒に当たらせた。参謀部の「明治十年、諸往復、宇和島出張」によれば、陸軍少佐梶山鼎介(部下軍人七名)が統監し、大警部有馬純堯の指揮する一〇個小隊(一小隊は一〇〇名編制)が編成せられ、六月九日、「マセリヤ号」に乗船して神戸を出航した。警部以下の総人員は一、一五五人、弾薬八〇万発を携行している。同船は翌一〇日、三津浜港に入港、梶山少佐は上陸して愛媛県権令岩村高俊に面会し打ち合わせを行った後、翌一一日、長浜に四個小隊、弾薬一〇万発を降ろし、主力は一二日に宇和島に上陸、警視隊は大隆寺・等覚寺・大超寺に分営した。翌一三日にはこのうち二個小隊が弾薬五万発を携えて陸路岩松を経て城辺・平城に分遣され、さらに二二日には軍艦「孟春号」によって一部兵力が宿毛に輸送された、この部隊はその後多数の間諜(かんちょう)・探偵を高知及び九州に送り、鋭意情報の収集に努めた。
 海軍もまた六月一七日には海軍大尉三浦功の率いる静岡丸を、二一日には海軍中尉和田義政の回天丸、同大尉山澄直清の通計丸を予土沿岸に派遣し、陸軍と協議して一帯の警備に当たらせた。また軍艦日進・浅間・鳳翔・孟春の四隻も豊後海面にあって、延岡の西郷軍砲撃や、先の警視隊の輸送などに活躍した。
 これら警視隊及び海軍の配置によって、土佐の決起は未然に防止することが出来た。このあたりの事情については、三輪田米山もその六月一三日の日記に、「行在所より今昼豊後賊徒追々潰分いたし候ニ付、土佐伊予御かため有之、御かための為、伊予へ巡査千人御降しニ相成、右権令岩村高俊殿より千人入込ニ相成ニ付、浮説ヲとなへましく様布達ニ相成、一昨日ころ入込ニ相成、宇和島へ行しト申事也、」と記している。県下においても旧吉田藩士飯渕貞幹、旧大洲藩士武田豊城らが西郷軍に呼応する挙兵を企てたが、未然に発覚し、逮捕されて松山の監獄に収容された。
 八月中旬、延岡において包囲された西郷軍は諸隊の編合を解き、政府軍の間隙から急峻な山地に脱出し、これを踏破して鹿児島に逃れた。歩兵第12連隊はこれを追撃し、城山陣地の攻防戦に勇戦したが、九月二四日、西郷が負傷しほどなく自決したため、七か月に及ぶ西南の役はここに終局した。同月二七日には征討旅団の編成が解かれ、一〇月初旬連隊は丸亀の屯営に凱旋した。また県下の警視隊は九月一九日、引き揚げの達しがあり、同二四日、宇和島を抜錨、長浜の小隊を収容して二五日神戸入港、二六日には帰阪している。
 西南の役における本県出身者の戦死傷数は、郷土連隊創設以前のことで明らかでない。最近熊本県及び福岡県が行った同役戦死者の墓碑調査から本県(愛媛県讃岐国とあるものは除く)関係者を抽出すると次の通りである。

(1) 正面軍関係
    判明した県人墓碑  四三基
    右の所属別内訳  歩兵12連隊  六基
             近衛歩兵1・2連隊
             歩兵8・9・11連隊  三七基
    右の所在地
    福岡県 御井郡茶臼山
    熊本県 南関町、玉名町、植木町、山鹿町、隈府町 一帯墓地

(2) 衝背軍関係
    判明した県人墓碑  一四基
    右の所属別内訳  歩兵12連隊  一二基
             歩兵11連隊  二基
    右の所在地 熊本県 八代町一帯墓地
 (注) 防衛庁戦史部調査資料による。地名は戦没当時の地名。大分・宮崎・鹿児島の各県については墓碑調査の資料がない。

 呉鎮守府の創設

 陸軍が徴兵制を軸にその基礎が固まったのに対し、海軍は徴兵によらず、沿岸・島しょ部などからの応募者を採用して兵員としていた。明治一六年徴兵令改正によって初めて徴兵制を採ることになるが、この時も海軍志願兵徴募規則を制定して志願による入隊の制度を設けた。これによって後年まで海軍では志願兵出身者の占める比率が高く、陸軍と比較して著しい特色を持った。
 このころから軍港の位置選定の作業として、海岸測量や錘測・流測などが開始された。横須賀・佐世保と共に呉が有望視されるのは、この地が兵要地誌上、防衛に極めて好条件を備えていることに因るものであった。さらに兵器艦船の製造所として、また教育の一大拠点として適地であることも指摘されている。ただこの管区は海峡が多くて航海練習には不向きで、当初は常時海兵団の補充員のみを置く計画であったことが『秘書類纂』(伊藤博文編)にも見られる。
 同一九年四月、「海軍条例」「鎮守府官制」が制定されて全国の海面を五海軍区に分け、各区の軍港に鎮守府を置いた。呉は第2海軍区鎮守府と定められ、用地の買収、建築工事を開始した。やがて同二二年五月、呉鎮守府の開庁を見るに至ったが、この時の同海軍区の区画は、瀬戸内海を中にして和歌山県から山口県まで、大分県から宮崎県まで、及び四国の海岸海面が指定されていた。また軍港司令官の隷下に海兵団が設置せられ、軍港の警備にあたると共に下士官兵の教育に任じた。このころの海軍兵士には、一~五等の水兵・火夫・木工・鍛冶・厨夫、一~四等の看病夫、一~三等の筆記(後の主計)などに区分され、水兵は砲術・水雷術・運用術・信号などの訓練に励んだ。
 徴募の区域も順次整備されて、海軍兵員は各師団管内沿海及び島しょを包括する大隊区から徴募されることとなり、本県からも多くの壮丁がこの海兵団に入団した。
 同二九年、軍港司令官の制度が廃止され、海兵団は鎮守府司令官に直属することになる。

 歩兵第22連隊の誕生

 明治五年五月、大阪鎮台高松分営から、二個小隊が松山に分遣されて以来、一時期を除いてその分屯は継続されていた。西南の役の後、同一一年六月以降は一個大隊がおおむね一年交替で分屯することに改められていた。
 同一五年には内外の情勢にかんがみ、陸海軍の整備が進められ、同一七年に兵備表が制定される。その年から十か年計画で軍備の強化が開始され、これに関連して二月六日、松山営所設置の命令が出された。直ちに丸亀営所内に本部が設けられて編成業務が開始された。六月二五日、歩兵第22連隊の新設が本決まりとなったので、歩兵第12連隊の上等兵以下を四等分し、その一つをもって第22連隊第1大隊(初代大隊長、少佐内藤正明)が編成せられ、松山城址に駐屯した。この時、それまで分屯していた第12連隊の一個大隊は丸亀に帰還した。
 当初一個大隊のみで出発した連隊は、その後同一九年六月一七日には連隊本部、第2大隊本部と第2大隊の半分が、同二〇年五月一七日には第2大隊の残り半分が、さらに翌二一年一二月一日には第3大隊が逐次増設され、その編成を完結した。初代連隊長は陸軍歩兵中佐杉山直矢、連隊は三個大隊、一大隊は四個中隊の編成で、愛媛・高知両県を徴募区としていた。
 連隊の編成完結に先立つ一九年八月一七日には、宮中において歩兵第22連隊に軍旗が授与せられた。この日、明治天皇はみずからこの軍旗を陸軍卿に授けられ、陸軍卿はこれを連隊旗手藤田邦親少尉に授与した。連隊旗手に捧持された軍旗は、広島鎮台司令官のもとに奉送され、同司令官はこれを第10旅団長に、同旅団長は八月二八日、松山において第22連隊長杉山中佐に授けた。
 この日、連隊は軍旗護衛隊を三津浜船着き場に派遣し、連隊長以下将兵は地方官公吏とともに営内練兵場に整列してこれを迎えた。市民もまた沿道を清め、戸ごとに国旗を掲げて祝福した。式は旅団長品川少将の勅語捧読に始まり、ついで杉山連隊長がこれに奉答し、軍旗を拝受した後分列行進をして終えた。

   勅 語
 歩兵第二十二聯隊編制成(ナル)ヲ告ク仍(ヨッ)テ今其軍旗一旒(リュウ)ヲ授ク汝軍人等協力同心
 シテ益威武ヲ宣揚シ我帝国ヲ保護セヨ
   奉 答
 敬テ明勅ヲ奉シ臣等死力を竭(ツク)シ誓テ国家ヲ保護セン

 この後、歩兵第22連隊においては、毎年八月二八日を軍旗拝受記念日としていたが、後には宮中において拝受した八月一七日に変更し式典を行った。軍旗はこの後、日清・日露戦争から満州守備・シベリヤ出兵・上海事変・日中戦争と、絶えず連隊団結の核心として戦場に臨んだが、昭和二〇年六月二三日、沖縄宇江城において奉焼せられ、玉砕した連隊とその運命をともにした。
 第3大隊が増設された明治二一年の一一月には、すでに除隊した予備兵役の点呼召集があり、予備兵役が二日間の演習に参加した。続いて現役兵は高知平野における師団秋季機動演習に参加し、初めて大規模な部隊行動の演習を体験した。これらの演習は、地方住民にとっても物珍しい事で、多くの見物人が集まった。当初懸念されていた民宿や寝具の調弁も、住民の積極的協力が得られて順調に進んだ。
 またこのころには市町村の戸籍を基にしての壮丁名簿も次第に完備し、徴兵検査場も日帰り出来る範囲で整備された。選ばれて近衛兵に入隊した者は勿論、在営三か年で上等兵に進級して除隊した者は、村の中堅として迎えられるようになっていた。徴兵や国民皆兵の意味が、ようやく民衆に理解され始めた時期であった。

 連隊所管の変遷と大隊区司令部

 歩兵第22連隊の編成進行中にも制度の変更による所管の変遷があった。明治一八年七月には、師管に変えて旅団本部が設置された。連隊は、歩兵第12連隊とともに、丸亀に置かれた第10旅団本部に属することになった。同二一年、第10旅団本部は松山に移転し、同時に衛戌病院が旧二の丸の敷地内に設けられた。ついで、「師団司令部・旅団司令部条例」の公布に伴い、広島鎮台は第5師団と、また第10旅団本部は第10旅団司令部と改称されたが、連隊の所属は従前通りであった。
 歩兵第22連隊が創設される以前は、本県の壮丁は近衛連隊・広島の諸隊及び丸亀の歩兵第12連隊に入営していた。連隊創設後は、愛媛・高知両県下の壮丁が入営することになった。明治二一年五月、愛媛及び高知大隊区司令部が設置され、これら徴募業務に専従することになる。これは同二九年、第11師団の新設に伴う徴募区の改正により、連隊区司令部と改称されることになった。

 施設の整備と訓練の進行

 明治一一年、歩兵第12連隊の一個大隊が松山に分屯したとき、松山城址堀の内の東北隅に兵舎二棟が建てられた。同一七年、歩兵第22連隊の創設にあたっては、付属建物が増築され、同二〇年には将校集会所が、さらに同二一年、連隊の編成完結に際しては兵舎一棟が増築されている。この年移転して来た第10旅団本部と、新設された大隊区司令部は連隊本部と同居していたが、同三〇年、連隊区司令部(明治二九年改称)は堀の内東門内側に新築移転した。このころの市民は昔からの習慣に従い、営内練兵場を通過して往き来していた。
 明治一〇年六月および同一五年二月の二回にわたり、吉田浜射撃場(正称、生石村小銃射撃場)約三万二、〇〇〇坪を購入し、射撃訓練用地とする。同二二年五月には城北練兵場(正称、道後練兵場)約七万坪を購入し、操練の用地とした。
 明治一九年には新式の一八年式村田銃が支給される。将兵は定期検閲・特命検閲を受け、機動演習に参加し、改正された歩兵操典を教習して、着々と訓練を重ねていった。また豪雨のため石手川の氾濫(はんらん)に際しては、連隊から鍬兵を派遣して防護にも当たった。

 瀬戸内海防御の策定

 陸軍では一般兵力の外に、海岸防備のための砲台建設の必要性が早くから要望されていた。明治一五年一一月、陸軍卿大山巖は欧州視察中の伊藤博文に書簡を送り、オランダ陸軍の中から海岸砲台築造に熟達した将校を来日させるよう要請している。これに応えた伊藤博文は厳選の末、オランダ国工兵大尉ヴァン=スケルムベークを推薦した。彼は翌一六年来日し、東京湾陸軍臨時建築署に所属して、まず東京湾の防備について策を上申した。その後わが国の南海一帯の防備についても調査し、明治一八年九月五日、陸軍卿大山巖宛に「日本国南海海岸防禦ニ就テノ復命書」を提出している。その中で同大尉は当時わが国の海軍力の実情にかんがみ、瀬戸内海における第二線の防衛線を芸予海峡に設けることを提案した。その防衛地点としては、第一に来島海峡、第二に鼻栗瀬戸及び佳例(かれい)海峡(宮窪と伯方の間)、第三に大久野(おおくの)島の南北の海峡を列挙し、それぞれについて砲台設定の具体策を立案している。来島海峡については、鼠島(現在の小島(おしま))に中位加農砲(回転砲座付き)二門、施條臼砲六門を、また小瀬戸島にも加農砲四門・臼砲六門を配備すべきことが答申されている。他の二海峡についても同様で、地形によっては海岸堡砦(ほうさい)と砲とを併用すべきこと、敵の上陸のおそれある島には若干の守備兵を配置すべきこと、支援する水雷船の繋泊所としては、波止浜と伯方島アロノ浦(有津・叶浦)などが挙げられている。添付された海図には、配備すべき砲座の位置と、砲座からの射程・射角が克明に記入され、当時の砲の性能からしても、有効に芸予海峡を防衛する築城計画であったことが分かる。鼠島については、馬島と比較した一節があるが、後者の地形が険しくて築城に不利なことから前者を選んだ経緯が述べられ、「余ガ実地検査ヲ遂ゲタルニ……」とあることから、同大尉がこの島しょ部を克明に踏査したことがうかがわれる。
 ヴァン=スケルムベーク工兵大尉のこの復命書は、陸軍の内海防衛のための要塞砲兵配備計画の根幹となった。
 明治二四年九月には、参謀総長熾仁(たるひと)親王から「海岸要地防備ノ位置撰定の件」が上奏されたが、その中で、本州と四国との交通を確保するためには、東は紀淡・鳴門海峡で、西は芸予海峡で閉鎖しなければならないとある。同二五年九月、「砲台建築事務取扱順序」などが制定されて準備が進み、日清戦争の後に芸予連隊が編成されて、その一部が小島(おしま)に要塞重砲を配備する。このころは火砲の性能の向上に伴い、ヴァン=スケルムベーク大尉の計画はかなり修正されたものとなっている。

図1-18 オランダ工兵大尉ヴァン=スケルムベーク「日本国南部海岸防禦復命書」附図の一部

図1-18 オランダ工兵大尉ヴァン=スケルムベーク「日本国南部海岸防禦復命書」附図の一部