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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 勝間田・小牧県政と県会

 勝間田県政と県会

 明治二二年一二月二六日、白根専一との交替人事で、勝間田稔(かつまたみのる)が愛知県知事から本県知事に任命された。勝間田は、天保一三年(一八四二)生まれの山口県士族で、当時奏任官一等、四七歳であった。自ら提出した履歴によると、政府に出仕した山口県士族の例にもれず、勝間田稔もまた、その履歴を戊辰戦争への出陣から始めていた。慶応四年一二月の王政復古後、越後国新発田へ軍監として出陣、翌年三月まで滞陣し、そのまま越後府判事試補に登用されて柏崎及び小千谷民政局に在勤した。明治四年五月、一二等出仕戸籍係として郷里山口県に転属し、以後、同県学務係・勧業係を勤め、九等出仕まで昇進したが、同七年一〇月に依願免となっている。明治一二年四月、勝間田は再度官途についたが、今度は一躍内務権少書記官という中枢官僚としてであった。時の内務卿は伊藤博文であった。内務省に入ってからの勝間田は、書記官として内局勤務をしながら各職を兼務している。一四年一〇月、少書記官兼務のまま警保局事務取扱、一六年三月に警保局長、その間権大書記官に昇格した。一七年二月、警保局長の兼務を解かれ内局第一課専務となった。後任の局長は後の顕官清浦奎吾である。その後、勝間田は内局第一課を動かず、第二課を兼務しながら、戸籍局長・会計局長不在の間の臨時局長、一七年一〇月に社寺局長を兼務、更に戸籍局長兼務となって間もない一八年一月に愛知県令に転出を命じられ、その後ついに本庁に戻らなかった。明治三三年休職となるまで、愛知・愛媛・宮城・新潟の各県知事を歴任した。勝間田の官僚としての本領は、清仏戦争に関係する「局外中立ノ法規実施方委員」を命じられていることなどから、法規を中心とする実務型官僚といえるようで、地方官時代が、一六年間に四県、平均四年に及ぶ比較的長い部類に属するのも、それを裏付けていると思われる。
 勝間田が県知事の任にあった時期は、就任直前に県下では、「市制」・「町村制」が実施され、翌明治二三年には「府県制」・「郡制」公布、第一回衆議院議員選挙、第一回帝国議会開会と明治立憲体制が名実ともに整備、施行されていく状況にあった。その意味では、彼の実務的手腕が内外とも期待されていたわけである。
 一方、当時の県政界の動向は、衆議院議員選挙や帝国議会をめぐる中央政界の動向を背景として、二大政派が激しい角逐(かくちく)を続けていた。県会勢力では、明治二二年一月の予讃分離に伴う総改選で、従来圧倒的優勢を誇っていた改進党系は辛うじて大同派を抑えたが、翌二三年二月の半数改選では敗れ、少数派に転落した。一方、勝利を収めた大同派は、愛国公党への加盟をめぐって分裂し、六月の第一回衆議院議員選挙は三派の争いとなった。その結果、大同派四、改進党派二、愛国派二の勢力分野に分かれた。
 総選挙の後、中央政界では民党大合同の気運が高まり、改進党は離脱したが、大同各派は解散して、立憲自由党が成立した。しかし、愛媛政界では別の動きが生じ、劣勢に立つ改進党と分離派の愛国派が合同し、一〇月に愛媛合同倶楽部が組織された。もっとも、この結集は長く続かず、わずか一年後の翌二四年一〇月解散に至った。
 明治二六年二月、第二回衆議院議員選挙が行われた。これは、松方正義内閣の樺山海相のいわゆる「蛮勇演説」を契機に議会が紛糾したため、解散されたもので、政府の「民党征伐」を目的とした予定の行動とも評され、政府は品川弥二郎内相と前愛媛県知事であった次官白根専一を中心に全国的な選挙干渉を行ったので有名である。このため、高知県をはじめ各地で流血を見る壮絶な選挙戦となったが、愛媛県ではその例をみない。勝間田知事は、明治二五年一月一二日に各警察署長あてに訓令して、「選挙ニ際シ甲乙党派ノ競争ヲ免レサルハ之ヲ既往ニ徴シテ明ナリ、其時ニ当リ警察官ハ不偏不党公平無私ノ位地ニ立チ厳然職務ヲ執行スルノ覚悟ナカルヘカラス」と警察官の自粛を促し、その選挙への介入を戒めている。これは、県下が干渉対象に入るべき要素がなかったことによるものと考えられるが、一面、勝間田知事の施政方針にその一端があると思われる。結果は、自由党四、改進党三の新分野になった。続いて行われた県会議員選挙では、自由党二九、改進党一六と自由党の圧勝に終わっている。以上、勝間田施政下では、初期を除き、おおむね大同派・自由党が県会の多数派となっていた。

 四国新道の完工

 勝間田稔が前任白根知事から引き継いだ重要案件は四国新道の完成であった。そもそもこの四国新道は、明治一九年から開鑿(かいさく)工事を始め、同二二年には完成する予定であったが、予想外の難工事のうえ、香川県分離など事件にはばまれ、繰り延べと工事予算の追加を必要としていた。このため県当局は、明治二三年臨時県会に、継続事業の二三年度繰り延べと新道中の重信川架橋と松山市内道路改修費など二万八、〇〇〇円余の追加予算案を提出したが、新たに大同派が多数を占めた県会は、大筋で改修延期を認めながら、県民の負担増を強いること、かつ重信川の架橋及び松山市内道路の改修は事業完工の後、他年を待っても遅くないとの理由で増額分を否決した。このうえ、臨時県会終了後、今度は大同派から分裂した愛国公党系が改進派と提携して議会多数派となり、通常県会に臨むことになったため、勝間田県政は議会対策に苦慮しなければならなかった。
 このように明治二三年度完成の見込みとなったが、同二三年九月の暴風雨のため、上浮穴郡柳谷村久万川筋の仮橋が流失する事故があり、再度繰り延べをせざるを得なくなった。県当局は、この仮橋を渡船に変更することにして、同二三年通常県会に諮問し、これを是認する答申を得たので、直ちに内務省に認可を求めたところ、許可通牒が翌二四年三月に至ったため、年度内に実施することができず、翌年度に繰り越すこととなった。明治二四年九月、臨時県会に渡船場設営などの工事費追加案が提出されたが、議会では、新道開鑿の目的は高知・愛媛両県の貫通にあるとして本案は高知県側の事業完成期(明治二五年度以後)まで延期すべきであるとの意見が多数を占め、工事費は特別修補費のみを残して大幅に削減された。
 このため、予算面では新道開鑿事業は中断されることになり、県当局は、内務省に対し「新道開鑿事業中止残金整理方ノ儀ニ付上申」を行った。これに対し、内務省から同二五年二月、工事延期は聞き届けるが、工事を一時中断して残金を必要年度まで繰り越し、蓄積するのは継続事業の性質を喪失するため不都合であるとして、国庫補助金を返納、残金処分については県会の審議に付すべき旨の指令・通牒が発せられた。この指令・通牒を受けた勝間田は、指令のように処理した場合、目下必要の工事を施行することができないのみならず、「最前決議企画ノ旨ニ違ヒ前途倍困難ヲ極メ容易ニ其完成ヲ告ル能ハサル」と新道完成に重大な支障を来たすと判断し、三月、内務部長武内維積に「新道開鑿事業継続方ノ儀ニ付上申」を持参させ、国庫補助金返納の中止を内務省に嘆願させた。その結果、内務省では禀申(りんしん)を聞き置くことになったので、県としては、二四年度内に継続工事変更の議決を経、国の認可を得て工事に着手する必要があった。しかし、年度末が押し迫り、三月一〇日には県会議員選挙(半数改選)を実施する状況下では臨時県会を開催することは困難なため、三月一五日に常置委員会急施会を開催し、継続事業を繰り越す道路新開費更正予算の可決を得、ついで内務省の継続年度延期の認可を受けた。
 この更正予算は、事業継続のための応急措置であったから、県は同年四月の臨時県会に継続年度の一か年延期と工事費を二五年度に繰り越す更正予算案を提出した。勝間田知事は、この予算審議に当たり特に登壇して、事業の中断・継続をめぐっての内務省折衝の経過を詳説し、この重要事件を臨時県会を招集せずに常置委員会の議事に付したのは、時日の余裕なく諸般の事情によるものであり、「単ニ年度ノ聯絡(れんらく)ヲ繋(つな)キテ継続ノ性質ヲ持チ以テ昨年県会決議ノ趣旨ヲ可及的貫徹セシメントスルニ努メ且更ニ県会ノ審議ヲ経テ恰当(こうとう)ノ処理ヲ為サンコトヲ期シタルニ外ナラス」と弁明に努め、「諸君宜ク其意ノ在ル所ヲ了察セラレ、其筋指令ノ趣モアルコトナレハ、篤ト該事業ノ為メ地方経済ノ為メニ省慮セラレ、適当ノ議決アランコトヲ深ク期望ス」と議会の協賛を求めた。県会はこれに同調し、久万川筋渡船場と特別修補費の更正追加予算案を原案どおり可決した。これにより、新道開鑿継続事業中の明治二四年度分は崩壊箇所の修補にとどめ、翌二五年度に渡船場、破壊のおそれある箇所の山留築造と勾配切り下げ及び暗渠の埋設などが施行されることとなり、結果として、前年の臨時県会決議がほぼ生かされた。
 このようにして延期、繰り越しを重ね、明治一九年の着工以来、七年の歳月を経て、愛媛県側については完工をみたのである。
 なお、徳島・香川県は明治二三年にその分担路線を完成していたが、高知県側の工事に手間取り、明治二七年五月「四国新道」はようやく全通した。

 国県道改修計画の県会諮問と延期の答申

 勝間田県政にあって四国新道は、いわば既定事業の仕上げをする役割に過ぎなかったが、これとは別に、その施政中最大の事業として、県内主要国県道大改修事業を起こそうとした。それは、松山~来見(くるみ)(通称「桜三里」)、松山~八幡浜(犬寄峠・泉峠・夜昼峠など)、大洲~宇和島(鳥坂峠・法華津峠・高串越など)間の国県道改修を六八万余円の費用で、明治二六年度より七か年継続事業として施行しようとするものであった。県当局は、明治二四年九月、臨時県会を招集して事業計画を具体的に示し、改修諮問に対する県会の意見答申を求めた。諮問案によれば、趣旨として、本県の地勢は山岳十分の七を占め、平坦は十分の三に過ぎず、しかも平坦の部分も岡峰渓谷の間に介在するもの多く、従って道路険悪、交通運輸の不便は実に名状することができない、これ故に道路の改修は実に「本県ノ急務」であると述べ、その背景として、県会が去る明治二二年度に松山~中山~八幡浜、大洲~吉田~宇和島間の県道改修測量を可決、同二四年度に松山~来見~川之江間の国道改修測量を可決し、県庁がこのたび測量を終え、設計予算を結了したことを事由としていた。なお、国道の来見以東については、他の国県道の現状に比べ状況が良いので、今回は対象外とし他日に譲ったとしていた。
 なお、この諮問案には、国県道改修をめぐり各地から提出された路線選定改修に係る一七種類の建白書を附録として公表参考に供していた。これは、明治二二年度から新道改修測量が開始され、改修予定路線が明確になるにしたがって、路線から外れた町村からは路線変更、改修予定路線の関係町村からは新道路建設促進の建白が相次いだことを示していた。
 提案理由の説明に立った勝間田は、愛媛県における土木事業の必要性、改修工事の内容と基準、費額支弁方法と県民負担の度合い、改修予定線路選定の事由などについて長い演説を行い、「今回ノ改修事業タルヤ実ニ本県ノ一大工事ニシテ、費用亦多カラストセス、随テ一家ノ負担亦甚タ少カラス」、四国新道開鑿工事が終わらないうちにこの事業を進めることは、「世論或ハ彼ヲ籍テ此ヲ証シ疑懼(ぎく)ノ念ナキニアラサルヘシ」、しかし「交通運輸ノ便利ヲ興シ一県経済ノ進路ヲ開クハ亦是レ一県ノ富源ヲ培養シ各人ノ幸福ヲ増進スル所以ニシテ之ヲ姑息ニ付シ去ル」は長計ではない、今回の設計予算は学術上宜しきを得ていると信じており本官もその責に当たる覚悟である、但し、設計に伴わない予算の増減や技術上許されない減省をこうむる場合は理事者は実にその責に当たるに苦しむことになる、とその決意を披瀝して、議員の了解を求めた。
 県会第一次会では、常置委員が道路改修の急要な旨を述べ、まずこれを二次会に移した後、適当な修正を加えたいとの意見を報告した。議場ではこれを是非する論議が交々起こり、ついには改修延期と推進の二派に分裂して紛糾した。改修延期論者は、(1)四国新道が完工しない今日において一大継続土木事業を開始するのは民力に堪えないこと、(2)府県制施行後の整備された県会で県債を募集して着手するのが良策であること、(3)政府が目下道路条例の調査中であるので、国道改修費は国庫支弁に移る可能性があることなどを主張した。改修論者は、(1)道路改修は急要な事業であること、(2)改修工事は今日可決しても、着手は府県制施行や道路条件発布後になる可能性があること、(3)運輸交通の発達は県下の富を増す上で不可欠であり、土木工事は生産的な消費に属するものであることなどを理由としていた。両論の討論が尽きたところで二次会に移され、答申案が審議されることとなった。第二次会では、四つの修正説が出されて採決の結果いずれも消滅、五名の査理委員案も消滅、つづく三名の査理委員案である国道及び予期国道はその峻険部分を改修し、県道は国道改修後着手するという案がようやく議決された。ところが、第三次会では、一次会における延期論が再び起こり、さらに二次会で消滅した国道は峻険部分を改修、県道路線はさらに実測のうえ路線を確定して起工すべしとの動議が再発し、採決の結果、二次会議決案は三名の賛成、延期説一九名、修正説二〇名でともに過半数に達しなかった。ここで議事停止の動議が提出されたが、採決の結果、起立者半数となったため、議長小林信近はこの建議を査理する委員三名を指名した。委員はその意見として、建議を採納し「暫ラクノ時機ノ熟スルマテ之(改修)ヲ延期スルニ如カス」と報告した。改修論者はこの査理案に強く反発し、延期論者との間で論難弁駁(べんばく)が激しく展開され、採決の結果、改修・延期とも正半数となり、議長裁決で「改修延期」が宣言され、本会の議事を終結した。議長小林信近は、「本会ノ議論数派ニ岐シ消滅ニ帰シタルヲモツテ委員ヲ置キ査理シ再三審議ヲ遂ケ候処、結局良方按(案)得サルヲ以テ延期スルコトニ決議致候」との答申書を提出した。この県会は、改進・愛国派連携の愛媛合同倶楽部が大同派を制し、議長小林信近・副議長井手正光を輩出していたが、改修論と延期論は党派に関係なく、地域の利害と結ぶ県議の意思の反映であった。県全体の交通運輸の発展のため道路改修が必要であることは、非改修論が存しないところからみても議員全員が是認したところで、ただ時期・路線・費用の問題で紛糾したわけであった。個人としては早期改修論者でありながら、延期、非開鑿を希望する地元民の突き上げに苦慮する議員心理を井手正光は、手記『逐年随録』の中で次のように吐露している。

 吾輩ハ常ニ交通ノ便ヲ開クハ民業ヲ奨ムル唯一手段ニ付一日モ遅ル可ラストノ意見ナルヲ以テ大ニ開鑿ノ必要ヲ論シタリ、然レトモ其方法ニ至リテハ先第一着ニ其峻険ナル部分ヲ開鑿シ平坦部ハ後回トスルモ可ナリトシ其費用ノ一半ヲ節シ民力ノ負担ヲ軽カラシメントシタリ、然ルニ選挙区民ハ非開鑿論ヲ唱ヘ種々ナル方法ヲ以テ吾輩ノ意見ヲ変セシメント運動セリ、吾輩ハ断乎トシテ開鑿ノ必要ヲ論シ区民ニ説示スル処アリシナレトモ、区民モ亦ソノ賦税ノ大ナランコトヲ恐レ非開鑿論ニ悉従シテ吾輩ノ議論ニハ面従後背ナリシ、爾来如斯ウルサキコトニハ関係セザルヘシト思フ、

 この結果、勝間田知事がその施政中最大の熱意をもって推進しようとした国県道改修の大事業は施行を阻まれ、県政最重要課題でありながら先送りされることとなった。
 こうした勝間田稔の治政をみると、議員に対しては、協賛を受けようとする低姿勢を意識しているように思える。このことは反面、党派が複雑に入り乱れる県会対策への甘さとなり、「議決の精神に副はん」としたことが四国新道開鑿延期問題で内務省折衝に苦しみ、国県道改修計画で県会の十分な協力を得られない結果となったのではなかろうか。勝間田は、内務省本庁時代に養った実務的な面や人脈を利する方法を地方長官としてあまり発揮しないまま、愛媛県を去ることとなったのである。なお、勝間田県政中、土木事業以外で特記すべき事項として、「中学校令」の改正に伴い明治二五年五月に県立愛媛県尋常中学校が開校されたことがあげられよう。

 風水害の復旧

 明治二七年一月二〇日、勝間田稔が宮城県知事に転出した後、愛媛県知事となったのは小牧昌業(こまきまさなり)であった。「高等官履歴」によると、小牧昌業は天保一四年(一八四三)九月生まれの鹿児島県士族、一五歳のとき藩命を受けて江戸の塩谷宕陰らの門に学び、修学五年の後帰国して藩校造士館の教員となった。元治・慶応年間、儒官として藩主の上洛に随従し、維新後朝廷に出仕した。明治二年行政官史官試補、小史、権大史に進み、同四年清国留学を命じられ、帰国後開拓使に出仕したが、同七年征台の役処理のため渡清した大久保利通に随伴、翌八年には朝鮮問題解決のため渡鮮の黒田清隆に随行した。その後、再び開拓使に戻り、開拓少書記官・権大書記官に累進、明治一五年に開拓使が廃止された後、太政官書記官、同一八年に文部大臣書記官、翌年文部大臣秘書官、同二〇年に農商務大臣秘書官、翌二一年内閣総理大臣秘書官・書記官長を歴任した。地方長官には、明治二二年一二月奈良県知事を拝命し、続いて本県知事に任ぜられたのであった。小牧は、本県在任三年三か月で非職となり、明治三〇年一二月貴族院勅選議員、翌三一年一一月には枢密院書記官長になった。
 赴任早々、小牧が取り組まねばならなかった問題は、明治二六年一〇月本県を襲った大風水害の復旧工事であった。この台風は県下至る所に災害をもたらしたが、特に新居・周布・桑村・越智・野間・風早・久米・下浮穴郡においては未曽有の災害といわれ、道路・橋梁・堤防・樋閘(ひこう)のみでも破損七千余か所におよぶ惨状をもたらした。このため、県当局は、明治二七年二月に臨時県会を招集して総額七〇万余円の水害復旧土木関係費を計上し、その支弁には増徴と国庫補助金を充てたが、地租割については七~八月の旱害に併せて水害を受けた県民が負担に耐えないところから、増徴を極力抑える必要があるとして県政史上はじめて県債を発行し、一四万五、〇〇〇円でこれを補充することとした。これについて県会では、多数派を占めていた自由党は改進党とともにこの非常時復旧予算を異議なく認めた。
 水害復旧予算は、その後、明治二七年九月の出水での増破や工事実施に当たり発見された設計ミス、脱漏を手直ししたため、当初二六年度追加予算で精算するところを繰り越し、増額を重ね、明治二八年度に至ってほぼ九〇余万円の費用を要してようやく処理を終えた。ところが、同二八年七月から九月にかけて県内は数回の水害を受け、河川・海岸・堤防など破損の箇所が多く生じたので、県は再び四万余円の水害復旧土木費を組んで対処しなければならなかった。そのうえ、明治二六年には赤痢の大流行、同二八年にはコレラ蔓延の兆しがあったため、県はその防疫にも追われた。このように明治二六、二七年は、相次いで大水害・旱害・疫病に見舞われ、人民負担上の困難は実に少なしとしない状況にあった。さらに、明治二七年八月から日清戦争が開戦したこともあって、小牧県政は「地方税支出ニ於テモ主トシテ節減ヲ加ヘ」る必要から新規事業を起こす財政的余裕がなく、もっぱら水害復旧と防疫に終始した。

 日清戦後経営と小牧県政

 日清戦争後、政府は軍備拡張と内政充実を目標とする戦後経営を打ち出し、特に内政面では、経済の発達と民産の増殖とを図るため、おもに勧業、教育、金融機関・交通機関の拡張などに重点を置く方針をとった。愛媛県でも、県知事小牧昌業は、明治二九年七月の臨時県会に県内主要道路・河川の改修、治水のための一〇か年継続土木事業計画案を提示し、総工費六三万円余の審議を求めた。その内容をみると、道路については明治二四年臨時県会に勝間田知事が諮問し、「延期の答申」を受けた「国県道改修計画」をほぼ再生したもので、特に紛糾の焦点であった県道大洲~宇和島路線については、内子~野村~三間~宇和島路線と宇和町~歯長峠~三間~宇和島路線について測量、検討を加えた結果、先の諮問案にある大洲~宇和島(鳥坂峠・法華津峠・高串越)が最良路線と認定していた。なお、新たに、県道阿波街道・卯之町街道・城辺街道を加えたほか、蒼社・中山・大明神の三河川の治水事業を入れたものが本事業の骨子であった。
 当時の県会は、自由党・進歩党の伯仲時代で辛うじて自由党が多数派を維持していた。審議の結果、一〇か年の継続計画を六か年に短縮し、工事対象のうち県道卯之町街道を除いて宇和島街道の臥龍坂・鳥坂を追加し、年度割支出予算額を修正した。さらに議会は、この削除した卯之町街道鳥越線とその比較線である笠置線の測定及びその結果による良線の選定、国道第三二号高知街道の重信川架橋促進の二件を県知事に対し建議することに決した。小牧知事は、議決を採納、内務省の承認を得て認可するとともに、同年の通常県会に、建議にあった比較線のうち優越と認めた鳥越線の改修と重信川架橋工事を追加する予算を提出した。この結果、継続事業は約七六万円を要する大事業に膨れあがった。さらに小牧は、土木振興策の一つとして、県費補助により市町村に里道の改修・新設を促すため、七月臨時県会に「市町村土木費補助規則」を諮問した。当時の愛媛県には、各市町村が施行する土木事業に対する県費補助規定がなく、ただ風水害による被害が多大の場合における復旧工事に対し緊急補助をするにとどまっていた。このため、市町村からは必要不可欠の土木工事に対する県費補助がしばしば要望された。県会でも、明治二〇年通常県会で県知事藤村紫朗の諮問になる町村土木費補助法が審議されたが、これが地方税土木費支弁区分との付帯条件であったことも左右し、諮問案不完全として紛糾し、議会は時期尚早と判断して否決した前例があった。今回の諮問について議会では、補助条件を厳しくするなど条文の一部を修正して可決答申を行った。この結果、市町村費支弁の道路の新築・改築について、工費三分の一以内の県費補助の道がようやく開かれることとなった。
 明治二九年は、八月から一〇月にかけて風水害があり、その応急復旧やコレラ・赤痢の流行に伴う救療の追加費を要した。そのうえ、明治三〇年度当初予算には、尋常中学校東予・南予分校建築費が計上され、教育費だけでも前年度予算を二万六千余円上回る膨張予算となった。県当局は、これらを賄うため地租割・戸数割を中心に増徴を図ったが、この年三月の「営業税法」で主要営業業種が国税に移管されたため、地租割の比重が高まり、税源の確保に行き詰まった。このため、三月公布の「地方経済ニ於テ臨時土木費ノ為ニ起債及地租制限外賦課ノ件」を適用して、地租割の制限外賦課を断行し、また備荒儲蓄金からの借り入れ起債を行って支出を補塡することとし、議会もまたこの方策に同意した。
 このように、小牧県政は議会と相提携し、議会はまた増幅して、戦後経営の美名の下に非常予算を組み、土木振興と学校造りの積極策を推進した。

図2-2 国道改修見込線略図

図2-2 国道改修見込線略図