データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

七 別子銅山の発展と社会問題の発生

 近代化の推進と新居浜村の発展

 明治七年、フランス人ラロックの別子銅山着任に始まる近代化事業は支配人広瀬宰平・村田謙一郎・大西誠一郎らや幾多の鉱山従業員によって推進された。東延斜坑の掘さくの進展、ダイナマイト使用による坑道掘進の効率改良、小足谷疏水道貫通工事の進展、弟地(おとじ)坑から筏津(いかだず)坑への坑区拡大など採鉱面での進展の外に、製錬面では多くの技術改革とそれに付随した洋式設備の導入が企図された。
 明治初期の和式製錬方法は選鉱された鉱石を焼鉱炉の中で蒸し焼きにし(木方(きがた)の作業)、それを溶鉱炉に入れ溶剤を混ぜて高熱処理した鈹(かわ)(銅分35~40%)を真吹(まぶき)炉で高熱熔解させ純度九七%の粗銅を得(吹方(ふきがた)の作業)、これを再度精錬し純度九九%の銅を製するというものであった。明治一二年に高橋に熔鉱炉を設け、従来の吹子(ふいご)に替わる送風機を備えた洋式の製錬所が建設された。翌年には工部省鉱山局英人技師ゴットフレーの指導下に弟地沈澱収銅所が完成し、貧鉱を硫化焙焼して硫酸銅とし、これを浸出槽の中で鉄と反応・沈澱させて、銅を析出する方法(湿式製錬)が試みられるようになった。
 この実績をもとに明治一九年から角野村山根(現新居浜市山根町)の生子(しょうじ)山(通称煙突山)に建設を始めた山根湿式製錬所が二一年に完成した。ここでは沈澱銅の生産の外に亜硫酸ガスを硫酸として回収、製品化した。また銅山峰を新居浜側に少し下った角石原(かどいしはら)にも、同一九年に選鉱場とストール式焼鉱場が設けられ旧立川(たつかわ)銅山の鉱石も処理した。
 新居浜製錬所は同一五年から計画され、新居浜村惣開(そうびらき)に高炉の建設を着手し一八年から試験操業を始めた。これは小・中・大高炉を有し鈹・粗銅・精銅を一貫製錬する本格的な洋式製錬所であった。ここには、明治二一年、工作方(住友重機械工業㈱の前身)が設置され、鉱山用機械の製造を開始し、翌年には新居浜分店として事務所が開設された。新居浜(惣開)製錬所の操業が軌道に乗り始めると、同二三年に立川の和式製錬を廃止し、また後述の別子大水害を機に高橋・角石原の熔鉱業務の惣開移転が始まった。
 この間、明治一二年に新居浜村御代(みよ)島に新港を完成させ、同一三年には新居浜―別子間の牛車道の完成を見るなど輸送面での進展が図られた。明治二〇年代に入ると新居浜―別子間の直通電話の架設(二三年)、石(いし)ヶ山丈(さんじょう)―端出場(はでば)間の複式空架索道の架設(二四年)、惣開―端出場間の鉱山専用鉄道(下部鉄道・全長一〇・四六キロメートル)・石ヶ山丈―角石原間の鉱山専用鉄道(上部鉄道・全長五・五三キロメートル)の開通(ともに二六年)などがみられ、鉱石や食糧の輸送、銅山従業員の往来や連絡が簡便になった。
 明治三五年には東延斜坑底から地底を北へ掘り進み、東平(とうなる)の地へ出る通洞(第三通洞、一、八一八メートル)が完成し、さらに同四四年には坑底から南側に掘り進まれた日浦通洞(二、〇五〇メートル)も完成した。これにより嶺南の日浦と嶺北の東平がトンネルで結ばれ、大正期には昇降機・坑内電車により鉱石はトンネルを経て東平へ運ばれるようになった。このような設備の近代化と技術改革を促進した背景には表2―101に見られる銅鉱石の含銅率の低下が注目される。元禄四年開坑以来、含銅率は一一・二四%であったものが明治七年に一〇・一〇%に低下し徐々にその品位は落ちていった。これは高品位の鉱石を掘り尽くしたことを意味するが、住友は貧鉱をも高度な技術をもって製錬する必要に迫られ、明治一〇年代の後半から二〇年代の後半にかけて設備と技術の改革を急いだ。これらの事業は、明治九年採鉱冶金学研究のためフランスへ留学し、一四年に帰国して鉱山技師長になった塩野門之助の近代化案に基づいて進められた。
 こうして別子山中では採鉱・選鉱・焼鉱を、新居浜惣開では製錬と経営事務を中心とした業務を行い、その間を専用鉄道と索道で結ぶという新体制が採られ始めた。さらに経営組織面でも先の新居浜分店の惣開開設を初め、明治二九年、別子鉱山出店を別子鉱業所と改称、同三二年、新居浜に鉱業所本部を設置するなどの改革が図られ、当時国内でも進展し始めた産業革命の流れの中で、近代的企業経営と生産増加及び資本の蓄積が行われた。
 この別子山中から新居浜惣開へと経営基盤が移動するのに拍車をかけたのは、明治三二年八月に起こった台風による大水害である。この日、午前中に降り始めた雨は午後八時ごろには雷鳴を交え暴風・強雨となり、午後九時ごろまでに別子山村の見花(けんか)谷・小足谷などに山崩れが発生した。特に見花谷では大山津波にのまれ、住民は家屋もろとも濁水渦巻く足谷川(銅山川の上流)の激流に流された。死者五一三名、負傷者二六名、家屋倒壊一二二戸、半壊三七戸の大被害が生じた。大水害の原因は「愛媛・高知・徳島・岡山の数県に渉った暴風雨が、偶々別子山の地勢上もっとも猛烈を極むるに至った為めであらう」と『別子開坑二百五十年史話』には記されているが、積年にわたる鉱山活動の結果、亜硫酸ガスで樹木の枯渇が進んでいたことも一因であった。新居浜市角野(すみの)の瑞応寺境内には犠牲者の霊を慰める「別子鑛山遭難流亡者碑」が住友家によって建てられている。この大水害は鉱山施設にも大きな損害を与えた。高橋製錬所では大溶鉱炉が倒壊し、事務所・作業場・倉庫なども流されて操業不能となった。住友家では当時経営基盤の中心を新居浜へ移行しつつあったこととも相まって、高橋製錬所の復旧を断念し、別子山中には焼鉱部門までを残し、製錬部門は新居浜へ移した。

 別子銅山の労働機構

 新居浜から別子ライン沿いに山を登り、角石原を経て銅山峰(標高一、二九四メートル)を越えると眼下に別子銅山跡を眺めることができる。坂道を下って行くと歓喜坑・寛政谷の焼鉱炉・鉱山幹部の事務所であった重任局(もとの勘定場―勘場と通称された)・目出度(めった)町の大山祇神社など盛時の面影はなく、案内の説明板と残された石垣のみが往時をしのばせている。明治中期ごろの地図では足谷川の両岸に山方・木方・吹方などの鉱山住宅が並び料亭一心楼・私立住友病院・雑貨屋・劇場などが見られ、県下で一九番目に設置されたという郵便局も記されている(伊藤玉男著「明治の別子」)。この別子銅山で生活する人々は、鉱山関係者とその家族が大部分を占め、その外、若干の商人などを加え、人口は明治二〇年代後半から三〇年代には一万二、〇〇〇人にのぼった。
 鉱山労働者は江戸時代以来の年季稼行の影響を受け、全国を渡り歩き定住性が少ないため、別子の鉱山労働者数は明確ではない。『新居浜産業経済史』では明治三六年以降の数を三、五〇〇~四、〇〇〇人前後としながらも、労働移動を考慮するともっと多かったであろうとしている。なお経営管理組織が整えられた明治四四年では雇員(こいん)(鉱山職員)五五三・稼人(かせぎにん)(鉱山労働者)五、〇八七人となっている。
 鉱山で働く人々は雇員と稼人に大別でき、雇員の間には住友家を中心とする家制度と等級制、稼人の間には飯場制度が存在した。雇員とは住友本店と直接雇用関係にある職員である。表2―102に示すように雇員は等級制により格付けされた。家業隆盛のため経営の合理化を企図していた一五年一月制定の家法によると、雇員を上等一等~同三等、等内一等~同一〇等、一等、等外一等~同五等に分け、月給を併記し職階制を整えている。この等級制は「家制度」と深く関係し、一等~三等(改正後は上等)の上級雇員は在勤中の功績により退職後、住友末家に取り立てられ、本家から紋付き・羽織を与えられた。四等~七等は別家に取り立てられ住友家の象徴である井桁の家紋が入った暖簾(のれん)と提灯(ちょうちん)が与えられた。このように住友本家を頂点にして末家・別家などの格式をつくり擬制的な家族関係を経営の中に導入した。これを「家制度」と呼んでいる。別子銅山ではこの家制度・等級制などのいわゆる縦の関係に、技術・設備・経営の近代化と拡大に対応して改変されていった事務章程(表2―103・表2―104)に基づく職務分掌を機能させ増々生産増を図った。
 一般に鉱山は深山幽谷にありその厳しい労働のために、他産業に比して労働力を獲得したり維持することが困難であった。
 「飯場制度」の初めがいつか明確ではないが、明治初期に山留(やまどめ)・手子(てご)・日用(ひよう)という名称が残っており、鉱山に職を求めて来た者はツテを尋ねて日用(日庸)として、坑外での雑用に従事して賃金を得た。手子は将来鉱夫に出世することをめざして鉱夫の手伝いや負夫(おいふ)として鉱石の運搬に従事し坑内で働いた。強い指導性と優秀な技術を有する者は稀に山留に出世することもあった。山留のような有力者は請け負い作業を円滑に進めるため、職を求めて来たいわゆる渡り者を自宅に寄留させ、衣食住の面倒を見ると同時に労働力を確保していった。また山留を引退してもなお山内で生活する人々の中には渡り者専用の寄宿舎を経営したり、手子の技術習熟に力を貸しながら自家に寄宿させるものもあった。これらの寄宿制度は形を変えて明治初期には特に採鉱・運搬などの請け負い作業に従事する労働力供給の機能を果たすものとして、「飯場制度」に変化したといわれている。
 銅山では鉱夫(坑夫)一〇名前後で手組という小集団を構成し、この集団で最も勢力ある者が会社側の採鉱・運搬などの仕事を請け負う請負人(請負頭)となり手組を統括していた。さらに請負人のうち有力な者は一〇組前後の手組を統括して飯場頭を兼ねていた。したがって飯場頭は請け負い作業に従事する鉱夫を募集し、仕事を割り当てるなど作業手配を整える外、鉱夫間の紛議の仲裁・会社に対する鉱夫の諸要求の伝達などの仕事もした。またかれらの衣食住など生活上一切の面倒を見るとともに、配下の者の採鉱技術向上のために鑿(のみ)の使い方などの指導もした。こうした親分子分・兄弟分の関係は団結力を強める反面、封建的隷属という弊害も生じていった。
 飯場にも鉱夫飯場・手子飯場・総小屋などの別があり、鉱夫は鉱夫飯場に属し手子は手子飯場に属した。なお手子は坑内が機械化されるにつれて従来の負夫(おいふ)としての職が減少し、代わってトロッコ押し・坑内軌道の敷設・坑木運搬などに従事するようになった。
 飯場頭や請負頭にしても彼らは鉱夫と同じ稼人であり、住友家に直接雇用された者ではなく鉱山作業の下請け人とその作業員である。なお後年、「別子銅山鉱夫雇用及労役規則」が出され、機械化・近代化による作業内容の分化に対応して支柱夫・鑿岩機夫・坑夫・負夫・収銅夫・撰鉱夫・機械夫・電機夫など一九種の職に従事する者を鉱夫としているが明治期には採鉱に従事する者を鉱夫(坑夫)と呼んでいたようである。
 雇員と稼人の接点に立つものに鉱夫頭・焼鉱頭(木方と呼ばれた焼鉱従事者の監督)・吹前頭(吹方といわれた製銅作業者の監督)などがいた。彼らは明治一五年一月制定の「住友家法」に記す職制の中で上等・等内の下の等外に位置づけられ住友家の准職員として遇された。したがって末家や別家には列されないが出入方(でいりかた)として格付けされていた。鉱夫頭は現場の監督者として生産過程において絶対的な権限と責任を有する者で、鉱夫としての技量と人望の厚い人が鉱夫頭などの推薦を受け住友家より任命された。鉱夫頭の文字は、明治六年九月付けの住友関係文書に初見される(神戸市 住友修史室談)。鉱夫頭には入坑する鉱夫や負夫の人員点検・請け負い者への掘場の割り当て、仕上げた作業量の査定など重要な仕事が任されていた。

 飯場制度の改革と別子大争議

 政府の殖産興業や官営工場払い下げ政策を経て国内でも産業革命の機運が高まり、日清戦争から日露戦争にかけて工業各部門で機械化が進み産業資本の確立が図られた。生産・販路の拡大を推進する住友は別子銅山の労務管理上抜本的な改革を通して近代的企業としての脱皮を図るべく、明治三九年、採鉱課主任牧相信を中心に大規模な採鉱課改革を実施し、その一環として飯場制度の改革を進めた。
 改革直前の別子銅山には一七の飯場があり、一つの飯場には一〇〇人前後の鉱夫・負夫が所属していた。飯場頭は一般鉱夫より採鉱技術に優れ鉱山知識に秀でている反面、封建的な親分子分の関係をもつ飯場の統率者であったため、近代化を図る会社にとっては合理化の対象ともなった。飯場頭は請負人をも兼ねているので、鉱夫と会社の間に存する中間搾取者でもあった。従来、会社は採鉱・坑道開さく・鉱石搬出などを請負人に請け負わせて、毎月その実績により請負賃金の総額を支払った。請負人はその内より自分の取り分を除き、その残余を鉱夫などに頭割りにして支払った。明治三四~三八年までの一か月賃金標準額は鉱夫一二円・負夫九円であった。飯場頭・請負人たちは住友家の准雇員でもある鉱夫頭と結託して、請負金額のつり上げ操作・架空の鉱夫名簿などにより水増しされた請負金を手にしたり、安米や特配品授受に不正を働くこともあった。また鉱夫からは飯場世話料も徴収していた。彼らは親類関係や兄弟分・親分子分の関係で結びつき、多くの鉱夫を抱えて結束力を強めていた。明治三八年九月、会社は請負人の不正を是正する計画を立てたが鉱夫頭・請負人などの反対が強く、逆に鉱夫も加えて賃金値上げ要求が起こり同年一一月に賃金標準額が引き上げられた。当時の賃金体系では、賃上げにより鉱夫の手取り額が増加したが、それ以上に中間搾取を増大させたことはいなめない。これらの弊害を除去し経営の合理化・近代化を図るため、別子鉱業所は明治三九年九月四日、「飯場取締規程」を定めた。これにより新しく三飯場を増設し二〇飯場とし一飯場に所属する鉱夫・負夫の人数を五〇名~一二〇名に制限し、ついで改革に反対する鉱夫頭・飯場頭を解雇・契約解除し新たな飯場頭に替えた。また坑内作業については請負人を全廃し鉱夫・負夫を直接請負人とし、担当作業場は飯場頭に抽籤で決定させるようにした。さらに賃金の配分は各人の技術水準に応じて設けられた等級や入坑日数に応じて支払われるようになった。こうした一連の改革に際して鉱夫間では、自分たちの生活が将釆楽になるのか苦しくなるのか、その見極めに苦慮しつつも請負人などの中間搾取者が排除されるため、手取り賃金が一割くらい上昇するだろうとの期待感もあり、一部の請負人・飯場頭の策動に応じる者は少なかった。飯場改革は結局、採鉱課―独立性の強い下請人グループ(鉱夫頭・飯場頭・請負頭)―鉱夫・負夫の関係を断ち、採鉱課―採鉱課任命の鉱夫頭・飯場頭―採鉱課と直接請け負い契約を持つ鉱夫・負夫の関係に変えたことであり、中間搾取を除いた点が重要である。
 こうして鉱夫は封建的体質をもつ飯場制度からは解放されたが、産業資本として成長していく住友の統轄を受けるようになった。会社側はこの改革と併行して、鉱夫が飯場頭・請負人などからいくら賃金を渡されていたかを内偵調査し、これを参考に前述の技術水準に応じた等級別賃金体系を作成実施したが、鉱夫の期待したものとはならずむしろ日露戦争後のインフレの中で、実質賃金の低下をきたす鉱夫もあり生活に窮した。改革前には生活苦になれば親方である請負人に借金ができた。しかし改革後は鉱夫の金融の道が閉ざされ、鉱夫・負夫による賃上げ要求が一〇月以降急速に高まった。一一月から翌四〇年五月にかけて負夫を中心とした賃上げ要求が出されていたが採鉱課はこれを取り上げなかったため、六月一日、鉱夫・負夫ら三百数十名が集会を開き、再度約三〇%の賃上げ要求を出し、これが拒否されるとストライキを実行する旨を申し合わせた。翌日、負夫の指導者山田豊次郎が、翌々日、鉱夫の指導者山崎鹿太郎が解雇されたため、別子山中は騒然となった。
 四一年六月四日、運動に参加した鉱夫・負夫が全員退職届を提出し、賃金の一括支払いを求め、交渉委員が採鉱課員と話し合った。しかし交渉が決裂し、午後六時、回答を待っていた鉱夫らが採鉱課の門柵を破って乱入し手当たり次第に室内を破壊した。激昻し暴徒化した者はダイナマイトで採鉱課事務所を爆破し、同所近くの運輸課・調度課・電話局・重役詰所・巡査派出所などを焼き払い、翌日の明け方には鉱夫など約八〇〇名が角野村立川の第三通洞口の鉱山施設や東平の施設の焼き打ちを決めた。この動きに刺激された柳谷坑所属の鉱夫も合流し、総勢五〇〇~六〇〇人が五日午後六時ごろから第三の採鉱課出張所に放火し、さらに東平の三番坑付近に押し寄せ、守衛部・木炭倉庫・石炭倉庫・販売部・電話交換所を焼き払った。別子全山に広がった暴動は翌六日には山を降りて端出場・山根・惣開にまで迫る気配を見せていた。この間、焼死者一名(電話工手)・焼失建物六七・損害三〇万円といわれる被害が生じていた。
 警察では不穏の情勢に備えて角野分署巡査・鉱業所請願巡査など三八名で警戒に当たっていたが、暴動化したため西条警察署長草苅源四郎ら近隣の応援を得て総勢一三〇余名で山中の警備についていた。六日午前、住友の汽船四阪丸で高浜より和田健児県警察部長ら一一〇名が新居浜に着いた。これと前後し、住友本店総理事鈴木馬左也は善通寺第一一師団司令部に出動を要請し、安藤知事も松山の歩兵第二二連隊に出動要請を出していた。和田警察部長は新居浜に着くと直ちに鉱夫の代表と会見・説諭のために武装警官二〇〇名を率いて別子山村に登り、鉱夫代表約一〇〇名と話し合った。警察部長が鉱夫・負夫などの要求を取り次ぐことを条件に暴動を中止させ、七日朝には鎮静化した。なお香川県の善通寺から派遣された一個中隊は六日に新居浜に着き行軍名目で駐屯を続けたが、事態の収拾により一一日に離県、松山よりの二個中隊は七日、高浜港で乗船準備中であったが出動を中止した。
 この暴動により警察は六二名を検挙、三五名を起訴し、四〇年一二月松山地方裁判所は指導者三名を懲役一三年に処すなど三〇名が有罪となった。
 この年は別子の外、足尾銅山・生野銀山・幌内炭坑など全国で一七の鉱山争議が起こった。別子銅山の大争議を足尾銅山の争議に比して考えると、社会主義に立った労働運動として位置づけるには若干の相違がある。既に足尾では永岡鶴造により鉱山労働者の組合を結成する動きが進められ、明治三九年一二月、「大日本労働至誠会足尾支部」が発会し、労働者に新思想を注入するための研究会も催されていた。別子の事件はこうした主義に基づく争議ではなく、賃金問題と人権問題に基づく争議であった。「愛媛新報」明治四〇年六月九日付に、「徒は頗る規律整然たるものあり、その進退宛然(えんぜん)軍隊組織にして一行一動総て首魁(しゅかい)が命令に依り集合退却之れ亦た喇叭(らっぱ)吹奏の下に定まり」とあり、組織化された労働者の力を報じているが、当時、住友の雇員が護身用とはいえピストル・刀剣・棍(こん)棒を携帯して鉱夫に接していたことに対する怒りも内在して暴動化したものと思える。
 この事件について和田警察部長は「海南新聞」明治四〇年六月二三日付に談話を寄せ、住友が銅価騰貴で巨利を得ているにもかかわらず、労働者の待遇を改善しなかったことが原因であると述べ、事件は決して社会主義に根ざすようなものではないとしている。
 七月に入って別子銅山の鉱夫は再度賃上げ要求を計画したり、検挙された鉱夫などの家族援助のためにカンパを実施し、一一月には東平の鉱夫間で共済資金制度を導入した組織も誕生したが労働組合としての発展は見られなかった。しかしこの事件は労働条件の改善を求めて決起した鉱山労働者がそのエネルギーを示したという点で、本県における労働運動史に一画期を記すものであった。

 自彊舎の創設と鷲尾勘解治

 近代的経営理念による改革に対応しきれず暴動化したこの事件後、住友は経営理念を全山の鉱夫にまで及ぼす必要を痛感していた。明治四〇年、別子鉱業所に鷲尾勘解治(かげはる)が入社した。彼は京都帝国大学法学部を卒業して採鉱課に属したが、入社後は生野銀山で自ら飯場生活を体験し、帰山後も坑内で就労して「法学士の別子銅山にあり」と新聞に紹介されるなど鉱夫の生活を体験した。中堅労働者の教育を積極的に採用して、近代的労務管理に資す必要性を認識していた住友の意向に呼応して、彼は明治四五年、別子山の風呂屋谷の病院跡を借りて私塾自彊舎(じきょうしゃ)を開設した。これは彼の禅的観念と儒教倫理を基に上下の意思の疎通を図るものであり、青年鉱夫ら二五名程度を鷲尾の私費で教育するものであった。易経のいう「自彊不息(じきょうふそく)」(努力して息(や)まず)、戊申詔書(四一年)の「宜ク上下心ヲ一ニシテ忠実業ニ服シ……自彊息(や)マサルヘシ」との精神により、朝五時起床・掃除・静座・教育勅語拝誦・朝食の後、六時半に出勤し、午後六時夕食の後、七時より静座・自習・座右銘の講読などの後九時半就寝の日課が決められた。鷲尾は若い鉱夫らとともに起居し信念をもって青年を善導し労使協調に努めた。自彊舎はその後、呉木(くれき)に移り(大正四年)一時沈滞していたが、大正一五年には角野町川口新田に鉱業所経営による社内教育機関として再興された。自彊の念に基づく彼の実践はその評価に賛否両論があるが、牧相信採鉱課主任の飯場改革が上からの改革でありその軋轢(あつれき)があまりにも大きかったのに対して、鷲尾の自彊舎運動は鉱山労働者を上下の融和という点で目覚めさせ、住友と地域の発展を求めようとした点で着想と実践のすばらしさがみられる。また鷲尾が後に別子鉱業所長・住友鉱山専務などの職に就き地域と共存しつつ住友の発展を期した施策は評価されるべきものがある。

 別子銅山の鉱毒水

 硫化銅鉱の坑内水や製錬過程で生じる廃水中には硫酸銅が含まれている。これが鉱毒水であり別子では銅汁・赤銅水とも呼ばれ、付近の河川を汚染した。既に江戸時代から鉱毒水や焙焼煙による被害はあった。寛政元年(一七四八)、立川銅山側から出た鉱毒水が国領川流域の農作物や魚貝類に被害を与えた時、農民は不満を抱きつつも、野菜や魚貝の消費地である銅山側に譲歩せざるを得ない一面もあったが、文政二年(一八一九)には別子銅山から足谷川・銅山川を経て本流の吉野川筋に鉱毒被害を及ぼしたとして徳島藩からの訴えが出たこともあった。旧西条藩・旧幕府領の被害村では江戸時代から年貢減免慣行が踏襲され、地租改正に際しては土地等級を低くしたり小作料が一般より低く決められた。
 明治三二年の大水害では集積していた鉱毒が一度に流れ出て、徳島県美馬郡脇町付近まで魚類に被害が及んだ。このため徳島県から大阪鉱山監督局に住友家が鉱毒防止工事を施すよう要請書が出され、同三二年一〇月、農商務大臣より住友に対して、小足谷四番坑・寛永坑・角石原に鉱毒水の防止装置を同年一二月一五日までに修築するよう命令を下し、さらに同三五年九月三〇日までには第三通洞側にも鉱毒水処理施設を完備することを命じた。会社側は既に明治一二年に高橋に湿式製錬所を建設し、弟地に沈澱収銅所を設け、貧鉱からも銅を取る試みに成功していたから、同三二年、小足谷疏水坑口に収銅所を設け、また第三通洞が完成すると通洞口に排水路工事を開始し、同三九年三月に完成させた。ここに全山の坑廃水が集められ、東平と山根に設けた沈澱収銅池で鉱毒水を処理した。処理された水は専用鉄道に沿って作った排水路から燧灘に流され、鉱毒水の河川汚染の問題には一応終止符をうった。

 新居浜製錬所の煙害

 別子銅山の近代化、特に技術改革と輸送面での機械化の推進と相まって、明治二〇年以降、新居浜製錬所(惣開)の洋式高炉など諸施設が漸次拡大された。粗銅生産も明治初年に比べると七倍にのぼり、製錬所が本格的に活動し始めると、製錬によって生じる亜硫酸ガスが近郊の農村の作物に被害を与え、農民生活に重大な脅威を及ぼすのを避けることができなかった。
 銅の生産増に比して新居郡金子村・新居浜村・庄内村・新須賀村(いずれも現新居浜市内)など新居浜製錬所近郊の村々では、稲作被害が目立ち始めた。図2―22のように金子村・新居浜村では二五年から二六年にその収量は六割も激減した。新居郡の農民たちが農作物被害の原因が製錬所から出る煙にあるとして立ち上がったのは明治二六年九月のことである。九月四日、新居浜村長は住友新居浜分店に対して、稲作被害原因の現地立ち会い調査を要求したのを皮切りに新居郡金子・庄内・新居浜・新須賀四村の農民代表は県庁に煙害を訴え、被害調査を請願した。これに対して住友側は立ち会い調査の結果、農作被害は煙害ではなく虫害であると主張し、県は西川技師が現地調査の結果、煙害は被害の副因であると断定した。回答に納得できない農民は新居浜分店と直接交渉を開始し熔鉱所移転や煙害調査を要求し、座り込みや徹夜交渉も行ったが警察の説諭により解散した。一〇月一日、住友側は自己所有地の小作人に対して、農作物の不作は肥料に問題があり、煙害とは無関係であると諭示したため、激昻した農民数百人が新居浜分店前に集合して騒動を起こした。この時も警官の制止で解散した。一〇月一二日新居浜・金子・高津村農民代表が県庁に被害原因の調査を陳情し、勝間田知事の斡旋で代表者会談を開いたが解決に至らなかった。
 明治二七年春、麦作は近年にない不作であった。七月一九日、一、三〇〇名の農民がむしろ旗・竹槍を持ち新居浜分店に殺到し、警戒中の多数の警官と衝突した。この騒動では多くの負傷者を出し、また五名の逮捕者が出た。松山から検事と予審判事が出張し現場検証をして、二三名が送検された。一二月から翌二八年二月にかけて、新居郡の地主総代・農民代表が上阪して、住友本店と交渉し被害の合同調査会の設置・製錬所の移転もしくは除害装置の建設を要求した。また地元選出の代議士藤田達芳(たつよし)も調停に乗り出し、中央政界への陳情も試みていた。
 一方、住友家では大阪本店支配人伊庭貞剛(いばさだたけ)(広瀬宰平の甥で、大阪上等裁判所判事・滋賀県選出衆議院議員など歴任)を二七年二月から別子鉱業所支配人に就かせ、煙害紛争の処理に当てた。住友家でも別子山中の亜硫酸ガスによる山林荒廃の惨状は当然熟知していただろうから、新居浜製錬所建設後の煙害をも予想し、その対策も塩野門之助が欧米の先進技術を駆使して考慮はされていたろうと思えるが、それを例証する資料はない。伊庭に代表される住友側と金子村長土岐長就・新居浜村長関家直温・角野村長伊藤健作・高津村長弓山雅男ら地元農民を代表する者との会談では容易には一致点に至らなかった。
 明治二八年一〇月、住友は製錬所を新居浜の沖合い二〇キロメートルに浮かぶ四阪島(現越智都宮窪町四阪島)へ移転することを発表し、島を買収した後、二九年九月、農商務大臣に四阪島製錬所建設認可を申請し、一二月に許可され着工した。この移転理由は、事業拡大による現用地の狭小化というもので、住友は煙害を認めなかった。
 このような情勢下に、愛媛県会では明治三〇年、文野昇二(新居郡)・河村菊次郎(宇摩郡)ら議員提出の「別子銅山附属新居浜熔鉱炉煙害調査ノ建議」を審議し、可決後、一二月六日に内務大臣にこの問題の解決を上申した(資近代3 五五四・五五五)。大阪鉱山監督署が、農作被害を煙害によるものと認め、四阪島移転の促進・製錬用煙突の改善など煙害防止の一〇項目を命じたのは三一年五月一八日で、別子大水害の後、一〇月にも再度施設改善命令が出され、改善と移転終了の期限をも指定された(資近代3 五五五~五五七)。三四年六月、四阪島製錬所に導入する生鉱吹という新技術設備を理由に移転が二年間延期されたことに起因する紛争があった(資近代3 五五八~五六六)。同三五年二月、鈴木重遠ら県選出代議士六名が超党派で質問書を国会に出し、移転延期が鉱山所有者のみを保護するものとして政府に迫った。この問題は田中正造による足尾銅山鉱毒問題の天皇への直訴事件と時を同じくしたため、世論が喚起し、住友は四阪島での生鉱吹を断念し、移転工事を再開した。製錬所は三七年八月一日完成し、焼鉱竃(かま)の火入れを行った。翌三八年一月、住友は全設備が移転完了したのを期に、被害にあった村々へ、賠償金としてではなく、村の基本財産として一二万五、〇〇〇円を寄附した。

 四阪島製錬所の煙害

 四阪島製錬所が完成すると、別子山中や角石原の焼鉱作業もここへ移した。会社側はもちろん鉱山監督署員・地元民のほとんどすべての人々が煙害問題は解決するものと信じていた。明治三七年一二月、越智郡宮窪村友浦で麦葉に煙斑が発見された。当時、越智郡技手であった同郡桜井村の加藤徹太郎はこの標本を県庁に送り、鑑定の結果、これは病虫害ではなく付近に製錬所があれば煙害によるものであると回答してきた。三八年から製錬所の操業が本格化すると、越智・周桑・新居・宇摩の四郡にも被害が及び、稲の葉が赤褐色に変じ、さらには黒くなる、花弁が枯死する、風向きによっては呼吸が困難になるという報告の外に、米麦のみならず桑・芋・豆・果樹にも被害が生じるようになった。製錬所での焼鉱量が増加するにつれ、煙害はさらに激化していった。三九年七月、壬生川町長一色耕平・桜井村長曽我部右吉は県に調査技師派遣を申請し、被害調査を実施したり、対策会議を開いた。越智郡では八月一八日、曽我部右吉を筆頭に富田・清水・立花・日高・日吉・近見・波止浜(はしはま)・乃万(のま)・波方・今治の一一町村長名で安藤知事に「烟害ニ付上申書」を提出し「害毒ノ極度ニ達セサル以前ニ於ヒテ之レガ妨護ノ方法ヲ講セラル」よう訴えた(資近代3 五六七~五六九)。九月二一日、周桑郡では被害関係町村長が壬生川公会堂に参集し、大阪鉱山監督署に被害の厳重取り締まりを陳情し、煙害の完全防止設備の新設もしくは製錬所を撤廃する運動を進めることを決議した。一色・曽我部らは県庁や大阪鉱山監督署にたびたび陳情を繰り返した。県では三九年六月臨時鉱毒調査会を組織し、内務部長西久保弘道を委員長に、技師直井市輔・技師吉野得一郎・農事試験場技師藤村誠太郎・県農会技師岡田温を委員に任命した。調査会は三九年七月~九月の硫煙襲来につき、三度の現地調査を実施後、四〇年九月二一日調査報告書を提出し、米麦の「被害ノ原因四阪島鉱業所噴出硫烟ト密接ナル関係ヲ有スルヲ認ムルニ至レリ」としている。この報告書は病葉を分析して内在する硫酸量を検査したり、鉱石中の硫黄含有量・四阪島精錬所の煤煙の流布範囲・作物や草木の変状・植物の一般的な病虫害など多様な角度から精査した結果を記したものである(資近代3 五七一~五七五)。なお、四阪島製錬所の硫煙が農作物に被害を及ぼすことを最初に断定したのは、明治三九年一一月二一日に越智郡農会に提出された県農会技師岡田温の「煙害報告書」によるものであった。
 被害原因調査は進んだが、煙害防止策は進まなかった。四一年四月も硫煙の飛来は激しく麦作に未曽有の減収が見込まれた。農民は自己の田畑の惨状を見て運搬して来た肥料を施すことをあきらめて、持ち帰る者も多かった。町村長は住友本店や鉱山監督署に打電し、被害地踏査の要請を図るとともに対策協議を重ねた。四月二六日、周桑郡三芳村(現東予市内)で二、〇〇〇余名が農民大会を開いた。この時は同郡桜樹村(現丹原町内)の千原鉱山の煙害被害も合わせて、小松・中川・石根(いわね)・桜樹の各村民も参加するに至った。ここで県知事・別子鉱業所支配人へ煙害解決を要求し、大阪鉱山監督署・農商務大臣に厳重な取り締まりと除害陳情書の提出を決議し申請した(資近代3 五七六~五七七)。また愛媛県農会でも総会の決議により煙害解決を知事に建議した。
 その後、安藤知事が同四一年四月二八日に、農商務省技師が五月二〇日に、鉱山監督署技師が六月四日に周桑・越智郡の被害地を視察した。
 安藤知事は内務大臣や農商務大臣に「煙害状況報告書」を提出し、関係局長や技師の派遣を要請するとともに、住友に対しても重役による現地視察を要請した。八月二二日、住友本店理事中田錦吉が安藤知事の要請を受けて被害地を視察した。二三日、越智郡富田村(現今治市富田)で農民一、三〇〇名が待ちうけて解決を要求した。翌八月二四日、日吉村(現今治市内)南光坊でも、中田理事が弁明を試みた際には、興奮した農民が会社側の不誠実を叫び会場が騒然とした。しかし臨場していた警官四〇名が抜剣捕縄の体制をとり暴動化は免れた。そのため二五日には越智郡内の農民五、〇〇〇余名が今治海岸に集まって、「越智郡煙害除害同盟会」を結成した。
 二六日、三芳村大明神河原では再び周桑郡農民大会が開かれた。一色壬生川町長兼煙害調査会長が煙害当初から会社側との会談や官庁への陳情の始終が報告され、また、中川村長越智茂登太ら町村長会や煙害調査会(四一年六月一二日結成)委員から、上京して陳情を継続する決心が述べられたが、窮状に逡巡して時を待てないとする農民はその日夕方から鍋釜薪炭・食糧を数十台の荷車に満載して住友と直接交渉をするため新居浜村の住友別子鉱業所へ向かった。農民の数は四、〇〇〇人にふくれ上がり、鉱業所側は守衛を配置し門戸を閉ざしたので、仕方なく付近の広場で夜を明かした。翌日、農民代表四三名は県警察部長や周桑郡長の立ち合いで久保鉱業所支配人と会談し、賠償請求を迫ったが、支配人は被害調査の結果が出なければ如何ともしがたいと答弁した。農民側はこれ以上被害に耐え忍ぶことはできないとして、支配人に即日上阪し重役会議で決定することを主張し、支配人が直ちに上阪することで収拾がつき、問題は本格的な煙害調査をして賠償交渉を進める段階にきた。新居郡・宇摩郡の農民も周桑・越智両郡と同じく被害を受けていたが、彼らの中には住友家所有地の小作人や鉱業所労働者が多くいたため、住友に対する態度は周桑・越智郡のそれとは異なっていた。
 明治四一年八月の新居浜での直接交渉が不調に終わった後、被害地町村長会や郡単位の煙害調査会を軸に国会・政府・県に対して「煙毒除害ノ義ニ付上申」(資近代3 五七七・五七八)や賠償交渉の促進の請願が続けられ、新居・宇摩両郡の町村も漸次この運動に参加するようになった。
 賠償交渉の際の被害額算定基準を作るために、明治四一年六月に愛媛県と住友がそれぞれ独自で麦作の坪刈り調査を行った。県は越智郡一三町村四三か所、周桑郡五町村二四か所を坪刈り地に選び、吉野得一郎農事試験場長を中心に調査し、農商務省は西ヶ原試験場技師の手で同年一〇月~一一月に稲作の坪刈り調査を実施した。この調査は参考資料として、硫煙襲来報告・煙害日誌・煙害略地図・被害標本及び米麦作付け反別取り調べを関係町村に課したので、被害金額の算定に役立った。
 明治四一年九月~一二月にかけても主務官庁の関係者や代議士の被害地視察が相次ぎ、被害民救済運動が高まった。県農会からは貴衆両院へ陳情書が出され、県選出代議士六名は合同で住友吉左衛門に対して解決促進の勧告書を送付した。また愛媛県会でも煙害救済に関する意見書を満場一致で決議し、伊澤知事と内務大臣に建議した。農民側も一二月、煙害調査会を開いて貴衆両院への煙害解決請願書提出につき協議し、上京委員を決め翌四二年一月、一色耕平・青野岩平・長谷部倉蔵・曽我部右吉ら周越両郡代表が上京した。
 こうした動きは国政に反映し、衆議院鉱毒問題特別委員会で、四阪島煙害問題は栃木県の足尾・茨城県の日立・秋田県の小坂などの各鉱山の鉱毒問題とともに議場論争の中心となった。このため、政府もやっと重い腰をあげ、明治四二年四月、鉱毒調査会設置の官制を公布した。

 尾道会談と煙害賠償協定

 明治四二年四月二〇日から広島県尾道で、住友側から大阪総本店理事鈴木馬左也・別子鉱業所支配人久保無二雄、農民側を代表して越智郡より石原實太郎・上田實五郎・曽我部右吉、周桑郡より一色耕平・青野岩平が初めて会合し賠償交渉を開始した。農民側は被害発生の三八年からの賠償額を決定し、さらに当時の被害程度を勘案して、将来三か年の被害額を加算し実害に適応した賠償金を請求した。これに対し住友側は賠償金の名辞を使用することを避け農業奨励金とし、その額も農民要求とは掛け離れて低いものを提示した。会談は質疑応答を繰り返すだけで妥協点に到達せず、会談を斡旋した加藤恒忠・才賀藤吉・夏井保四郎・木村艮ら県選出代議士らも両者の仲介を果たしたが、結局、不調に終わった。しかしこれは農民の長い煙害反対運動の中で、初めて住友本店側と農民側が正式に交渉したという点で評価され、尾道会談とか千光寺会談と呼ばれた。
 農民側代表の一人、一色耕平は大正一五年『愛媛県東豫煙害史』を著している。その中で尾道会談につき、「鑛主側は被害程度を軽視し為めに賠償名義を避けて農業奨励と云ふ美名の下に一時限りの出金し、其金額に於ても被害側と所見を異にするを以て数十萬の極めて少額に過きす、天下の豪商實業の泰斗にして被害側の苦境に同情乏しきか、然らされは多年の惨害を認むるの明なきか、又之を装ふの外なきなり」と述懐している。
 会談が決裂後、農民代表と別子鉱業所の交渉は継続していた。四二年八月、会社側は、稲の出穂期には通常の一か月四五〇万貫の焼鉱量を三分の二に減じたり、煙突の大掃除を早めたりすることを約すなど解決への曙光は見え始めた。被害は依然として甚大であったため、農民の中には被害標本を箱詰めして新居浜へ送り、賠償の早期解決を迫る者もいた。このような中で同年五月から翌四三年一〇月にかけて県官はもちろん農商務大臣や技師・政府鉱毒調査会派遣の専門家などが相ついで被害地や別子鉱業所及び四阪島製錬所を視察・調査した。
 四三年一月、越智・周桑郡農民は八、五二五名の署名を集め、新居郡農民とともに重ねて貴衆両院に請願書を提出した。衆議院では鉱毒除害命令と被害救済に関する建議案を提出し、政府に早急な解決を迫った(資近代3 五八七~五八八)。伊澤知事も調停に乗り出し五月九日には現地を視察した。知事は東予四郡郡長と協議の上、八月二二日、将来予想される賠償交渉に際し、農民代表は越智郡二名・周桑郡一名・新居郡一名・宇摩郡一名とすること、被害地認定範囲や賠償金額は農商務省の調査に準拠すること、交渉がまとまらない場合は農商務大臣または知事の裁定に異議を唱えないこと、賠償金は農民各自に分配せず農事改良費に充当することなどの条件を提示した。この案は関係町村の会合で検討され、一〇月四日、代表者一〇名が県庁に集まり、賠償金は各町村に分配することなど九項の希望と主務省への陳情などを加えて協定が成立した。
 一〇月二五日、大浦兼武農商務大臣官邸で賠償交渉が開始された。伊澤知事を座長に、住友代表鈴木馬左也・越智郡より石原實太郎・曽我部右吉・眞鍋周三郎・上田實五郎・野間米市、周桑郡より一色耕平・青野岩平・渡邊静一郎、新居郡より久保寅吉、宇摩郡より近藤喜三郎らが会談した。農民側は被害開始年を三八年度とし被害総額七〇万九、六五六円余と算定していたのに対し、住友側は三八年度は無害を主張し、一七万三、〇〇七円余と見積もっていた。双方の主張には大きな開きがあって妥協点に至らず、煙害防止のため、焼鉱量を年間五、五〇〇万貫とすること、賠償契約成立後も予想される煙害の賠償は四四年度から向こう三か年間を契約期間とすることを協定しただけで、他は農商務大臣の裁定を待つことになった。一一月九日、大浦農相より裁定書が示され、四一年一月一日から四三年一二月三一日までの損害賠償金三三万九、〇〇〇円、四四年以後は毎年七万七、〇〇〇円を支払うこと、四阪島製錬所での年間焼鉱量は最高五、五〇〇万貫とすることなどを約した「四阪島製錬所煙害事件賠償契約書」が締結された(資近代3 五八八~五九〇)。賠償金の処分は、その方法を一任された伊澤知事の手によって、明治四四年四月に行われた。賠償金から県営の被害地農事改良事業の費用や諸雑費を控除し、残金を農商務省の被害調査額に応じて町村に比例分配し、農民には直接分配せずこれを農林業改良奨励基金に充当する方法が採られた。県営の農事改良事業として、米麦採種場が越智郡清水村(四四年六月)・周桑郡庄内村(大正五年六月)・新居郡大町村福武(同年六月)・宇摩郡土居村(同六年四月)に設立され、苗圃は越智郡桜井村(大正五年三月)・新居郡泉川村(同九年三月)に設立された。町村の基金は指定範囲内の農林業改良に運用されたり、町村の産業組合・水利組合・耕地整理組合・肥料共同購入組合などにも貸し出した。
 賠償契約の締結は煙害の解消を意味するものではなかったから、契約期間満了ごとに契約更改が繰り返された。賠償金の支払いは住友にとっても負担が大きかったため、大正中期ごろから、本格的に除害施設の導入を進め、大正一四年、ペテルゼン式硫酸製造装置を採用し、亜硫酸ガスを硫酸に転化する硫酸工場が昭和四年から操業を開始した。こうした中で、昭和一四年一〇月一六日、四阪島製錬所内に中和工場が完成し、同年一二月一四日、一一回目の煙害賠償契約更改を最後に、煙害賠償連合会も解散して、長かった煙害問題に終止符をうった。

図2-21 別子銅山概略図

図2-21 別子銅山概略図


表2-101 明治期の別子銅山産出銅量

表2-101 明治期の別子銅山産出銅量


表2-102 別子銅山雇人の等級と月給一覧

表2-102 別子銅山雇人の等級と月給一覧


表2-103 明治15年別子銅山事務章程による職務分掌表

表2-103 明治15年別子銅山事務章程による職務分掌表


表2-104 明治24年別子銅山事務章程による職務分掌表

表2-104 明治24年別子銅山事務章程による職務分掌表


図2-22 新居郡金子村・新居浜村稲作被害の推移―平均収穫高を反当り2石とした場合の収穫高―

図2-22 新居郡金子村・新居浜村稲作被害の推移―平均収穫高を反当り2石とした場合の収穫高―


図2-23 四阪島煙害地域図

図2-23 四阪島煙害地域図