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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 内海航路の発達

 阪神・九州方面との連絡

 愛媛県は総延長一、六二四キロメートル、全国第五位の海岸線を持ち、沿岸各地には天然の良港が発達している。このような自然条件を生かして、海上による人や物資の輸送、各地域間の連絡が早くから発達してきた。海上交通の大動脈である瀬戸内海に面した県内諸港には、阪神~九州航路の定期船が数多く寄港し、阪神・九州地方との連絡路は比較的早くから開かれていた。明治四年一二月、当時大阪~関門間を運航していた汽船舞鶴丸が一か月三便三津浜に寄港するようになった。これが、県内への定期船寄港の始まりとされる。その後、明治一七年に大阪商船が設立されて以後、同社の阪神~九州航路を始めとする内海航路の県内諸港への寄港が本格化した。大阪商船は、岩崎弥太郎の三菱汽船と三井系の共同運輸の激しい競争のもとで、そのあおりを受けた大阪の中小船主が合同し、住友の広瀬宰平を頭取として設立したものである。同社は瀬戸内海に大阪~伊万里航路(第五本線)、大阪~博多航路(第六本線)、大阪~馬関(下関)航路(第七本線)、大阪~細島航路(第八本線)、大阪~宇和島航路(第九本線)を運航し、これら各航路の定期船が、県内では今治、三津浜(後に高浜)、長浜、八幡浜などに寄港した。
 これら内海航路のうち大阪~宇和島航路には、明治一八年以降宇和島運輸の第一宇和島丸(木船一四三トン)が就航した。宇和島運輸は、明治一七年一二月、宇和島の有力商人七名により資本金一万円で設立されたものである。当時の航路は、宇和島出港の後吉田・八幡浜・川之石を経由して大分県に渡り、佐賀関・大分・別府・日出へ寄港の後瀬戸内海を東行、長浜・三津浜・今治・多度津・高松を経て大阪に至るもので、大阪到着は宇和島出港の翌々日であった。運賃は宇和島・大阪間三等食事付で一円二〇銭であったといわれる。宇和島運輸の参加により、大阪~宇和島航路においては、大阪商船との間で激しい競争が始まり、明治四〇年に両社間で営業上の協定が結ばれるまで続いた。
 以上の外、阪神~九州航路には明治二〇年以降尼ヶ崎汽船部が運航を開始し、この航路はますます盛況を呈した。同社の航路は、大阪より瀬戸内海、関門海峡経由で九州西岸に至るもので、大阪~鹿児島航路、大阪~若松航路、大阪~大川航路が運航され、県内では今治・三津浜などに寄港した。
 その後、阪神~九州航路においては航路の新設・改廃が行われた。大阪~宇和島航路は、宇和島運輸が明治四〇年第一一宇和島丸(鋼船四九七トン)を建造し、航路を宇和島からさらに深浦・宿毛に延長した。また明治四四年六月以降は大分県内各港への寄港を廃止し、大幅な運航時間の短縮が図られることとなった。一方、大阪商船・宇和島運輸両社は、これと同時に宇和島~日出航路を開設した。これは宇和島から吉田・三瓶(みかめ)・八幡浜・川之石・塩成・三崎経由大分県に至る航路で、大阪~宇和島航路の九州廻り廃止にかわって四国~九州間の連絡を図るものであった。四国~九州連絡航路としては、この外に、明治二九年南宇和郡平城に設立された南予運輸によって、同年より、小筑紫~佐伯航路が運航されていた。同航路は高知県小筑紫より四国西岸を北上、三崎半島を経て大分県に至るもので、県内では船越・深浦・平城・魚神山・岩松・宇和島・穴井・川之石・塩成・三崎・串に寄港、九州連絡の航路であるとともに、南予諸港を結ぶ沿岸航路の役割も兼ねるものであった。
 大阪商船では、さきに明治三〇年八月東廻り大阪~鹿児島航路を新設、県内では高浜に寄港した。また、明治四一年三月には大阪~門司航路を新設、川之江・三島・新居浜・西条・壬生川・今治・高浜・郡中に寄港し、明治四四年六月開設の大阪~山陰航路は今治・高浜に寄港した。さらに、同社は翌四五年に至って新造旅客船による月六回運行の大阪~別府航路(当初は佐伯まで)を開設、大正~昭和にかけて運航回数を増加し、阪神~四国~別府遊覧コースとして旅客の人気を集めた。同航路は県内では高浜に、後には今治・長浜にも寄港するようになった。
 東予地方においても阪神地方との連絡が図られた。明治三〇年創設の東予汽船は大阪~関門航路を運航した。同社は明治四〇年東予運輸汽船となり、東予地方を中心とする沿岸航路の運航に当たるようになった。また、新居浜の住友鉱山汽船部は、明治三九年六月より今治・新居浜~大阪航路を一か月一〇便運航した。この航路は後に毎日運航となり、大阪商船も定期船を就航させるようになった。県内においては三島・川之江に寄港した。

 沿岸航路の発達

 瀬戸内の島々を経由して愛媛県と広島・山口方面を結ぶ航路や県内各地を連絡する航路も相次いで開設された。これら各航路のうち山陽地方との連絡航路は鉄道を通じての東京・阪神方面へのルートとして、また、島しょ部各港への連絡航路として繁栄した。一方、県内各地を連絡する沿岸航路は陸上交通の遅れを補うものとして発達し、昭和初年以後の予讃線西進とともにその多くは役割を終わって廃止されていった。
 東予地方では、今治と尾道・宇品を越智郡島しょ部経由で結ぶ航路が最も繁栄した。今治~宇品航路は明治二一年三月、今治に本拠をおく木村汽船によって運航が開始された。また、住友鉱山汽船部は、明治二七年、新居浜・四阪島間の連絡便を兼ねて新居浜~今治~尾道航路を開設した。同社ではこれとは別に新居浜・四阪島間の直通便も運航していた。
 その後、明治三〇年に今治に設立された東予汽船も、同年八月より今治~尾道航路、今治~宇品航路を開設し、三五年から第一東予丸(木船四七、四トン)などを就航させ、東予地方と越智郡島しょ部及び尾道・広島方面との連絡に当たった。これらの航路には、大正期に入ると、後述の石崎汽船や今治の村上汽船・御島巡航社なども定期船を就航させ、同方面における船便は非常な盛況をみせるようになった。
 中予地方では、明治二四年一〇月より石崎汽船によって三津浜~宇品航路が開設された。石崎汽船は文政年間に起源を有する三津浜の海運会社で、明治六年には外輪船「天貴丸」を購入、県下で最初に旅客船業を開業した。三津浜~宇品航路には、二四年に建造した第一相生(あいおい)丸(木船四三、五トン)が就航し、高浜開港後は高浜にも寄港し、愛媛・広島の両県都を結ぶ航路として、また、伊予鉄道・山陽鉄道の連絡航路として繁栄した。明治二九年には早速汽船、翌三〇年に大阪商船、大正元年に尼ヶ崎汽船も運航に参加することとなり、明治から大正期にかけて各社間で運賃値下げなどを内容とする激しい競争が展開された。同じく石崎汽船によって明治三八年より運行された三津浜・高浜~尾道航路は、東京への連絡コースとして喜ばれ、昭和初年の国鉄松山開通まで盛況が続いた。県外からは山口県の大島汽船が、明治三三年、柳井・大畠から大島の各港を経由して高浜・三津浜に至る航路を開設し、山口方面との連絡が始まった。
 以上の外、高浜・三津浜~中島航路が明治三一年中島汽船によって開設され、以後運航者にはたびたび変動が見られたが、温泉郡島しょ部住民の足として利用された。また、松山と南予地方を結ぶ航路として、高浜・三津浜~三机航路が、明治四〇年喜多郡長浜の末永回漕店によって開かれた。同航路は三崎半島の諸港から長浜・郡中経由三津浜・高浜に至るもので大正二年以後さらに航路を延長、北条から芸予諸島経由宇品まで運航されるようになった。
 南予地方では、先述の如く明治二九年以後南予運輸によって小筑紫・宿毛から南予地方諸港経由佐伯に至る航路が運航されていた。その後、当地方における海運の中心的な存在であった宇和島運輸は、明治四三年宇和島~吉田航路を開き、この航路は後に八幡浜まで延長された。また、これ以後相次いで宇和島~下灘(北宇和郡)航路、宇和島~遊子航路、三瓶~名取航路が開設され、地形的に見て小地域ごとに孤立しがちである南予地方にあって、各地域を結び付ける重要な役割を果たした。

図2-26 大阪商船航路図

図2-26 大阪商船航路図


表2-107 愛媛県関係主要海上航路 1

表2-107 愛媛県関係主要海上航路 1


表2-107 愛媛県関係主要海上航路 2

表2-107 愛媛県関係主要海上航路 2