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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 小学校の整備

 小学校令・諸規則の制定と簡易尋常高等小学校の開校

 明治一九年三~四月文部大臣森有礼によって「帝国大学令」及び「小学校令」・「中学校令」・「師範学校令」が定められた。従来の「学制」・「教育令」では学校体系の全体を一つの法令で規定していたが、この諸学校令公布以後は各学校種別に法令を設けて学校制度を規制することになり、この方式が太平洋戦争の終わりまで続いた。この意味で学校令はその後に発達する近代学校制度の基礎を作ったものであった。小学校令では、小学校を尋常小学校四年・高等小学校四年の二段階とし、尋常小学校を義務教育とした。ただし土地の状況によっては、三年以内の小学簡易科を設け、尋常小学科に代用し得るものとした。文部省は、小学校令に付随して明治一九年五月に「小学校学科及其程度」「小学簡易科要領」などを定めた。愛媛県はこれを参考にして、同年一二月三日に「小学校教則」、同月四日に「小学簡易科教則」を制定した。小学校教則は、「教育教授練習ノ三者ニ依リ児童ヲシテ徳性ヲ修養シ身体ヲ発育シ、将来ノ生活上ニ要スル普通ノ知識技能ヲ得セシメ、善良ノ臣民タルヘキ地ヲ做(な)サシムル」(第一条)と小学校の目的を示し、学科・学期・教授の要旨及び順序・試験などを規定した。小学簡易科教則では「小学簡易科ハ尋常小学校ヲ履修スルコト能ハサルモノヽ為メニ設クルモノ」(第一条)とし、修業年限を三か年、授業時間を一日三時間とした(愛媛県教育史 資料編六三~七二)。
 県は、小学校教則のほかに同月四日に「小学校則」・「学齢児童就学規則」・「小学校授業料規則」などを制定した。校則は入退学欠席・生徒心得・戒飭(かいちょく)・参観について規定、生徒は「師長ノ教誨(きょうかい)ヲ守リ品行ヲ正クシ専ラ学業ヲ勉励シ以テ将来ノ幸福ヲ求ムヘシ」(第四条)といった心得などを示した。就学規則は、学齢児童父母後見人の届け出義務や戸長の学齢児童調査と父母・小学校への告知及び就学督励、就学猶予の条件などを規定した。授業料規則は、高等小学校一か月一〇銭~一円、尋常小学校五~七〇銭の範囲内で管理者が授業料の金額を決定して徴収するよう指示した(愛媛県教育史 資料編七三~七八)。授業料額の決定を委ねられた町村戸長は就学者の減少を防ぐため授業料を低い額に抑える傾向にあったから、県の期待したほどには授業料収入は望めなかった。県は、明治二〇年一〇月二六日に新しい「小学校授業料規則」を定めて、高等小学校一等一円~三等五〇銭、尋常小学校一等五〇銭~五等一〇銭の等級制を導入し、管理者が父兄財産の厚薄を調査して指定するとした(愛媛県教育史 資料編九〇~九一)。授業料の増収を図ろうとした県当局の苦肉の策であったが、富者に多額の授業料を課したことは公平を欠くとして識者の批判を受けた。
 小学校令は、「小学校ノ設置区域及位置ハ府知事県令ノ定ムル所ニ依ル」(第二条)と規定した。これを受けた愛媛県は、学務課の手で数か月を要して原案を作成した後、明治二〇年二月二三日に「小学校設置区域及位置」を告示し、四月一日から実施することにした(資近代2 四八八~五一七)。
 これの設定にあたり、学区は経済上・管理上の便宜を図るために一戸長所轄区域をもって一学区としたので、従来制度上行政区から独立した立場にあった学区は完全に行政組織に包含された。このために、旧学区が併合されて従来の七三四区が四二三区になった。また小学校は一学区内に尋常小学校一校を設置、土地の情況に応じて小学簡易科を併置・加設し、経済の貧困な学区は簡易科のみを置くことにしたので、乱立ぎみの学校が整理されて、一、三四五校が尋常校三〇二・簡易科六五七の合計九五九校に減少した。高等小学校は郡役所所轄内に一校(北宇和南宇和郡役所のみ二校)が設置された。なお、校名はこの再編成を機に学校の位置する村名で呼称することが原則とされた。
 学制改正に伴う新しい小学校は、明治二〇年四月に開校することを予定したが、新学校切り換え時には休校の処置をとった学校が多く、一部の地域では開校が遅れた。「海南新聞」七月一五日付は、「南宇和郡は学事改正以後準備の整頓せざるが為め、各町村ともかく休業し居るを以て子弟は日に遊戯を是れ事とし居れり」と報じている。新設の高等小学校は諸般の準備が整わず、六、七月になって開校した。
 開校当初の尋常・高等小学校及び小学簡易科の大部分は十分な教育施設を整えることができなかった。

 東宇和郡学事ノ景況 高等小学校一校、尋常小学校三校、其他ハ皆簡易科ニシテ、高等小学校ハ英語教師月俸拾弐円ヲ聘シテ英語ノ教授ヲ始業セリ、尋常校ハ月俸拾弐円ノ校長ヲ聘スル準備ナレドモ未ダ其人ヲ得ス、僅カニ一校ノミ其人ヲ得タリ、簡易科校ハ訓導一人ノミ、授業ノ方法ハ新教則実施以来日尚浅キヲ以テ孰(いず)レモ其方法ニ苦シムノ情況アリ、越智郡島嶼、十三島、四十三ヶ村、十四学区、尋常小学八校、簡易科二十五校ニテ、(中略)尋常校ノ如キハ簡易科ノ如ク就学ハ多カラス、此レ未タ学問ノ有用タルヲ感スルノ薄キト、五銭以上ノ授業料ヲ要スルニ原因スルモノナレドモ、管理者ノ督責ニヨリ追々就学スルニ至レリ、新居周布桑村郡学事一斑三郡ノ小学校ハ高等一校、尋常二十三校、簡易二十一校ナリ、高等校ハ新居郡西条ニアリテ、旧中学校舎ヲ用フ、然レドモ猶ホ狭隘ナルヲ以テ商家ヲ借リテ分教室ヲ設ケタリ、職員ハ校長一名、訓導五名、雇教員二名ナリ、出席生徒ハ二百六十名許リ、内女子ハ僅ニ十余名ニ過ギズ、尋常校ハ其校舎ノ不完全ナルモノ少シトセズ、其甚シキニ至リテハ、一学校ニシテ二棟或ハ三四棟ノ人家ヲ借受ケ、ヤツト学童ヲ容ルヽ如キモノアリ、職員ハ各校大抵一名ヅヽ、師範卒業生ヲ充テタリ、教師ハ素ヨリ各学事熱心ノ度ヲ異ニスベキモ、概シテ各校トモ内部ノ整理先ヅ宜シキヲ得タリト云フベシ、簡易科ハ概シテ不振ノ有様ナリ、

 明治二〇年六月に結成された愛媛教育協会の機関誌『愛媛教育協会雑誌』の掲載記事引用である。教員が新教則による授業方法に馴れていないこと、校舎などの設備が劣悪であること、教育意識の低さや授業料徴収などで就学率が停滞していることが知られる。
 小学校における就学率は、明治二〇年四二・七八%、同二一年三九・八一%と、授業料徴収などで停滞ないし下降していた。西宇和郡の一学校のように、授業料を強制すると「一二〇人ノ生徒一時ニ減シテ二〇人トナルアリ」といった例もあった。卯之町尋常小学校では明治二一年中の授業料として一等五〇銭四人、二等四〇銭一人、三等三〇銭五人、四等二〇銭五人、五等一〇銭三一人の等級のほかに等外五銭の枠を設けて、一七〇人に適用している。就学歩合が停滞している上に正規の授業料を徴収できない状態では、授業料のみで校費を賄うことは不可能であった。明治二〇年度の学校経費中授業料から捻出される割合は全体の一七・三〇%に過ぎず、従来どおり町村費に大きく依存しなければならなかった。また授業料を免除して就学を促そうと尋常小学校の代わりに設けた小学簡易科も、教科書・学用品の購入費は一般の小学校と変わらないこと、尋常小学校よりも下位に見られることなどから就学は伸びなかった。

 新小学校令と市町村立・組合立小学校の設置

 明治二三年一〇月七日、明治一九年の小学校令諸規定の不備を補正することと、市制・町村制によって成立した新しい地方行政制度に小学校令に関する教育行政事務を適合させるために「小学校令」が改めて公布された。新しい小学校令は「小学校ハ児童身体ノ発育ニ留意シテ、道徳教育及国民教育ノ基礎並生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」(第一条)と規定して教育目的を明確にしたのをはじめ、八章九六条にわたり小学校を細かく規制した。この小学校令で改正された重要な諸点は、小学簡易科が廃止されたこと、市町村が尋常小学校の設置主体であることを明確にしたこと、郡視学・学務委員を設けたことなどであった。小学校令に付随して市町村の教育事務を定めた「地方学事通則」をはじめ多くの関係法規が公布され、小学校教育の国家統制が強められたが、一般に小学校における教育水準を高めることにもなった。
 愛媛県は、明治二五年二月一〇日に新しい小学校令及び地方学事通則を四月一日から施行することを告示した(資近代3 七六)。しかし、県はこの日を期して旧法を廃止して新法を実行に移そうとしたのではなく、いわば「四月一日ハ初メテ新法令ノ実行ニ着手スルノ期」として考え、今後順序をおって新法に基づく諸条規を施行して漸次旧法を廃止し、段階的に新しい小学校令を施行していこうとする方針であった。このため、同二五年三月に「小学校設備規則」・「市町村立小学校設置廃止規則」・「小学校長及教員ノ任用解職其他進退ニ関スル細則」・「小学校長及教員職務及服務細則」・「小学校教員検定ニ関スル細則」、四月に「学齢児童就学規則」・「学齢児童出席ニ関スル規則」・「市町村立小学校授業料規則」・「市町村立小学校教員給料旅費及諸給与支給規則」、八月に「小学校教則」などを次々に立案布達した(愛媛県教育史 資料編一一八~一四〇)。
 小学校令は、「各市町村ニ於テ其市町村内ノ学齢児童ヲ就学セシムルニ足ルヘキ尋常小学校ヲ設置ス」(第二五条)とし、市に設置すべき尋常小学校の校数並びに位置は府県知事が市の意見を聞いて定めること、町村に設置する尋常小学校の校数並びに位置は郡長が町村の意見を聞いて定め、知事の許可を受けることと指示した。
 愛媛県当局は、明治二五年四月松山市役所に小学校の校数と位置を諮問し、市の意見を決定して六月一五日までに申し出るよう指示した。市は六月二一日に市会を開いて校数と位置について審議を求めたところ、「現今古町外側ノ両校ハ位置略(ほ)ホ其中ヲ得、就学児童通学上亦大ナル不便ナキヲ以テ、当市ヘハ従前之通二校ヲ設置スルヲ以テ適当ナリ」と議決した。市長木村利武は、「本職ニ於テモ議決之趣至当ト認メ候条、市会決議ノ通御指定相成度」と図面・調書を添えて六月二三日に答申し、七月二五日付で知事の認可を得た。
 いっぽう県は明治二五年三月に「小学校ノ校数並位置指定方取扱手続」を各郡役所に訓令して、校数と位置指定の標準及び町村学校組合と区を設ける場合の条件を示した。通学路程およそ一里をもって通学区域とし、その区域内で日々出席児童の平均数三〇~一、〇〇〇人のときに一校を設置する、一、〇〇〇人を越えるときは分割して二校を設置するかその一部児童の教育事務を他の町村に委託する、通学路程一里未満であっても離島または通学の困難な場合は通学区域を縮小して一校もしくは数校を増設する、通路が平易であるときは通学区域を広大にして校数を減らしてもよい、小学校の位置は交通便利の地で校地に適当な場所を選んで設定するといった内容であった。県内各郡長は、これを基準にして管内既設小学校の校数と位置を再検討して案を作成、町村に諮問した。この案のほとんどは、「校舎位置共従来ノモノト変更ナク、且又村内適当ノ校地」であったから、「村民一ツノ不平ナク、従テ村会及村長共ニ之ヲ可トス」といった状況で、郡長と町村長・町村会の意見が一致した。郡役所の案が既設学校の校数や位置を変更しようとする場合、または町村が校数の増減や位置についての腹案を持っているときには意見の対立が見られ調整が必要となったが、多くの場合郡長が町村長や町村会の反対意見をおさえて郡役所の原案を通した。各郡は明治二五年六月中にほぼ郡長の諮問案どおりに管内小学校ならびに位置を指定したい旨の申請を県に提出し、知事勝間田稔から認可された。この結果、県内に五五九校(うち高等科併設一〇校・町村学校組合立六校)が設けられた。県は、「市制」「町村制」施行に伴い、明治二三年三月二六日に「市立町村立小学校ノ校数位置及其種別」を公布して尋常科二三一校・簡易科二八一校・分教場一二二校の校数と位置を表示していた(資近代3 五九~七〇)。この校数に比べると全体で七五校を減少したことになる。
 新しい小学校令は、尋常小学校の設置単位が市町村になるという原則に立っていたが、町村組合を設けること、市町村を区に分画すること、学齢児童の教育事情の委託ないしは免除するなどの例外的措置を認めた。この結果、県内には、宇摩郡上分村と金田村、同郡津根村と野田村、新居郡西条町と神拝(かんばい)村、桑村郡三芳村と楠河村、温泉郡道後湯之町と道後村の六学校組合が結成され、同一町村内に数校を擁する町村の多くに学校区が設立されて学校経営のための区会が置かれた。また、伊予郡佐礼谷村字平岡越木皮ノ浦など一二地区が児童教育事務委託地、野間郡波止浜村来島字小島・周布郡千足山村など三五地区が就学義務免除地に指定された。
 小学校令は、高等小学校について市町村単独もしくは町村学校組合で設置できるとし、また尋常小学校に高等科を併設することも認めた。愛媛県ではこれに基づき、明治二五年三月の市町村立小学校設置廃止規則で高等小学校設置もしくは尋常小学校に高等科を併置するときの手続きを示した。また「小学校令施行ノ方針並ニ其手続」のなかで、高等小学校はなるべく多数の町村を組み合わせて設置すること、一市町村で高等小学校を設ける場合には少なくとも二学級以上を編制できる就学生徒数があること、尋常小学校に高等科を併置するには尋常科の児童の過半数が高等小学校の教科を修業するのでなければ許可しないことなどの方針を郡長に示した。この結果、各郡役所単位に一校ずつ設けられていた郡立高等小学校の廃止に代わり明治二五~二六年中に組合立高等小学校もしくは町村立高等小学校と尋常高等小学校の設立願いが相次いで県知事に提出されて認可を受けた。こうして市立松山と町村組合立三島・小富士・東新・西条・小松・福岡・国安・河南・今治・波止浜・風早・川上・久万・郡中・粟津・内子・青石・日吉崎・道泉・周知・宇和島・南宇和の二三高等小学校、川之江・田野・三津・灘・松前・北伊予・岡田・大洲・菅田・新谷・喜多・瀧川・長浜・八幡浜・三机・宇和町・土居・明治の一八尋常高等小学校が明治二六年までに開校した。

 学務委員の復活と県郡視学の設置

 新しい小学校令は、「市町村長ハ市町村ニ属スル国ノ教育事務ヲ管掌シ、市町村立小学校ヲ管理ス」(第七〇条)と規定して、市町村長に教育管理権を与えた。また「地方学事通則」で市町村の教育事務について規定、専門員として学務委員を復活した。
 県内各市町村では、学務委員設置のための条例を作成して学務委員を選任した。松山市は、明治二五年八月に「学務委員設置規程」を定めて市会議員一・市参事会員一・小学校教員二・市公民一の計五名の定数とし、井手正光らを選出した。また同月風早郡東中島村(現温泉郡中島町内)は、学務委員三名中二名は村会議員、一名は小学校教員とした。明治二五年中、県内には一、二六五名(うち公選八三七名・教員四二八名)の学務委員が選任された。
 県が明治二五年四月一九日に定めた「学務委員事務規程」によると、学務委員は学齢児童就学、小学校教員の待遇、学事統計報告について市町村長らを補助するものとされた。明治一〇年代教育令期の学務委員が一般行政機構から独立して町村戸長と対等に近い立場で教育事務に従事したのに比べると、再設された学務委員は市町村長の教育事務補助者でその職責ははるかに小さくなった。その活動は、「教育事務補助、実績挙ラサルモノ多キ状況」(明治二十七年 愛媛県学事年報)にあり、「学務委員は店頭の看板に均しき姿にして、一ヶ月と言ふは愚か一ヶ年中祝賀式其他折々顔出しをなし、入学期に当つて申訳に過きさる督責をなし、(中略)偶々教育上の視察をなして町村長に其意見を陳へ教育振興を図らんと欲するか如き熱心家ありとするも一二を以て計ふるに足るへし」(愛媛新報 明治三三・五・一六付)といった有名無実の実態が指摘された。
 小学校令は、郡内町村の教育事務を監督する郡視学の設置を定めていた。郡視学は郡制の施行と同時に設置することになっていたので、愛媛県は明治三〇年四月一日の郡制実施を待ち、同年三月六日に「郡視学職務規程」を定めてこれを四月一日から施行した。郡視学が監督すべき事務は、御影及び勅語謄本の奉置奉守、学校の設備、学校の規律及び衛生、学校編制、教員配置、教科用図書、教科課程、諸帳簿記録、教授及び管理、生徒の風儀及び学業、学齢児童の就学、学校長及び教員の服務、町村長・学務委員などの教育事務取り扱いなど学校教育の指導・管理全般にわたっていた(資近代3 二五四~二五五)。郡視学は小学校の教育実践上の助言指導を行うものであったから、師範学校附属小学校訓導・小学校長などの教育専門家が任命された。
 愛媛県に郡視学が置かれた明治三〇年は、県庁に地方視学が派遣された年でもあり、初代愛媛県視学として増地三之助(三重県)・片岡珺光(石川県)が就任した。地方視学は明治三二年六月の地方官々制中改正によって府県視学と改称、視学の上に新しく高等官である視学官が置かれて学務課長を兼ねた。初代愛媛県視学官には寺尾捨次郎(福井県)が任命された。
 こうして県視学と郡視学は、教育指導者とともに監査官としての役割を合わせ持った地方教育行政担当者として活動した。県学務課は、教育施策の徹底と統一を図るために毎年一度郡視学を召集して郡視学会を開催した。第一回郡視学会は、明治三一年四月二六~二八日県会議事堂で開かれ、学齢児童就学増加方法及び小学教員給料増加方法に改正増補を要すべき事項などを討議し、教育事務視察上の要件、小学校教授管理の改良方法などについて打ち合わせをしている。

 教育勅語・御真影の下付

 明治二三年一〇月三〇日「教育ニ関スル勅語」が発布された。翌日文部大臣は勅語奉承に関する訓示を発し、勅語の謄本を各学校に下賜して勅語捧読の式典を挙げ、学校の式日や日常教育の場で児童に徹底させることを指令した。愛媛県は、明治二三年一二月から翌一月中に大部分の学校に勅語謄本を送付した。この教育勅語謄本と前後して天皇・皇后の御真影が下賜された。県内の学校には、明治二三年度内に中学校・師範学校・高等小学校・松山市内尋常小学校に配布されたのを最初に同二七年度までに御真影が安置された。伊予郡の北山崎尋常小学校は明治二六年二月一目に御真影を奉迎した。同校沿革誌は奉迎の模様を次のように記録している。

 午前八時三、四学年男生国旗ヲ掲ゲ隊伍整々郡役所ニ赴ク、同九時一、二学年生幷ニ三、四学年女生出門、三島町下入リニテ奉迎シ御通行ノ際ハ真ツ先ニ校旗次ニ国旗二旈(りゅう)次ニ生徒幷ニ校長先駆ヲナシ、護衛トシテ生徒及ビ郡書記村吏有志者及ビ本校卒業生都合百五拾名御真影ノ前後ニ扈従(こしょう)ス、村長ハ始終御真影ヲ奉持ス、御真影校門ニ着スルヤ四学年生君ガ代三唱、次ニ玉座へ定置、次ニ一同式ノ如ク最敬礼、暫時休憩ノ後拝賀式ヲ挙行ス、

 県は明治二八年二月九日に「御影並勅語謄本取扱規程」を布達して、御真影と勅語謄本は白木の櫃に納め、奉置場は校内清浄な場所を選んで一区画をなし必ず鎖鑰(さやく)を設けること、市町村長と学校長が連帯して奉守の責に任じ、鍵を管守し、奉置場の開閉に立ち会い、時々奉置場を点検し、御真影・勅語謄本の汚損のないよう注意することなど、具体的に取り扱い方法を指示した。県内の学校では、御真影と教育勅語保存方の万全を期するために奉安所を設け、火災などの非常時に備えて非常奉安方法を定めておく所が次第に多くなった。
 こうして御真影と教育勅語は学校の精神的支柱として、儀式をはじめ学校教育のあらゆる場面で活用され、国民道徳の基本とされるようになった。これとともに、祝日大祭日には御真影を奉安し教育勅語の捧読を中心とする式典が課せられ、その儀式規程や儀式施行の準備及び順序が文部省令や県布達で統制された。

 小学校教育の統制と就学率の向上

 初等教育は明治二三年の小学校令で基礎を確立した。その後、日清戦争の勝利による国運の進展などで小学校令の改正が必要となり、明治三三年八月に新しい「小学校令」が制定された。改正された重要な点は、尋常小学校の年限を四年に統一したこと、なるべく二年制の高等小学校を尋常小学校に併置させ将来の義務教育年限の延長に備えたこと、授業料を徴収しないのを原則としたことなどであった。この小学校令とともに「小学校令施行規則」が制定された。施行規則は、従前の小学校令関係法規を統括し二二三か条にわたり詳細な部分まで立ち入って規定したために、小学校教育の画一化と統制が完成した。
 新しい小学校令の施行で、愛媛県では尋常小学校に高等科を併置する所が急激に増加し、明治三三年五二校であった尋常高等小学校は、同三六年には一〇九校になった。これに伴い、組合立高等小学校は次第に消滅していった。
 新しい小学校令・同施行規則は就学義務制を厳格に規定した。愛媛県はこれに準じて、明治三四年一月一二日に「学齢児童就学規則」を定め、市町村長は学齢簿に記入された児童の保護者に入学期日を一〇日以前に通知すること、毎年一月と二月に就学を勧誘すること、保護者が就学義務の免除または猶予を市町村長に申し立てる期限は、就学通知を受けた日から三〇日以内とするなどを指示した(愛媛県教育史 資料編二三四)。
 愛媛県の学齢児童中の就学率は、従来一度も全国平均に達したことはなかった(表2―108)。このため、歴代知事はしばしば告諭を発して就学を促した。県知事篠崎五郎は、明治三一年二月二六日に「児童就学勧誘ノ告諭」を発し、二九年末の就学調査を例にあげて本県の就学水準の低さを実証した後、「近時国運ノ伸暢ニ伴ヒ軍備ノ増大、教育ノ拡張ハ言ヲ待タス、殖産興業ニ関スル各種ノ新事業頻(しきり)ニ勃興シ有為ノ人材ヲ要スルコト少ナカラサルモ、常ニ其人ニ乏シキノ憾アリ、且客年本県兵丁検査ノ際ニ於ケル甲乙両種兵丁ノ教育ニ関スル統計ヲ見ルニ、無学者ノ数三分ノ一以上ノ多キニ居ルカ如キ、皆教育ノ不及ニ由ラスンハアラス」と時局に対応して教育の重要性を諭し、就学勧誘と出席奨励を郡市町村の学事関係者に要望した。就学向上の効果的方法として、県は明治三一年二月一日に「市町村立小学校々旗規程」を定め、校旗に付した白線の数によってその学校の就学成績を明示させ、就学率を競争させた。就学成績の等級は五段階に分かれ、前年末学齢児童一〇〇人中就学人員九〇人以上、在籍生一〇〇人中日々出席者数九〇人以上の場合は白線五條の入った第一等旗を掲揚、六〇人未満・七五人未満の一條白線の五等旗まであった。校旗の等級は、毎年三月県布達告示で指定され、四月から一年間前年度成績による等級旗を揚げた。初年度三一年分の小学校等級は同年三月三一日に公表され、温泉郡雄群村・西宇和郡八幡浜町・北宇和郡宇和島町の各小学校が第一等に、松山市・周桑郡庄内村・東宇和郡宇和町・北宇和郡吉田町など各小学校が第二等に挙げられた。
 校旗規程に代表される県の就学督励策に対応して、市町村はその地区内学齢児童の就学勧誘に傾倒した。西宇和郡川之石村は会員一四〇人からなる川之石就学奨励会を組織し、就学奨励会規則を設定して児童の就学を勧誘し入学生・在学生・卒業生に物品を与えて奨励表彰した。松山市は明治三三年八月に就学奨励会を結成して、「一就学督責の厳行及貧民授業料の免除を市長に建議し其実行を期すること、一貧民就学者に学用品を貸与し又は金銭物品を給与すること、一夜学校及子守学校を設くること、一本会委員を各大字に置き就学を奨励せしむること、一談話会を時々公開し就学の必要を知らしむること」などの事業を行った。上浮穴郡弘形村(現美川村)は「児童就学奨励規約」を定め、皆勤生徒に金一円、二〇〇日以上出席の者に金五〇銭、一五〇日以上の者に金二〇銭を賞与し、正当の理由なく欠席して出席一〇〇日に満たない長欠児童の保護者から金二〇銭、五〇日に満たない場合には金五〇銭の過怠金を供出させた。越智郡宮浦村では貧児のために「学用品貸与規程」を設けて、教科書・石盤・算盤・硯などを貸し与えて、就学者の増加を図った。
 県と市町村の就学奨励策が効を奏して、愛媛県は明治三一年度にはじめて全国平均を越えた。明治三三年の小学校令による授業料免除の効果もあってその後の就学歩合は順調に伸張し、明治三五年度に全国平均ともども九〇%を突破した。小学校々旗規程は初志の目的を達したとして、同年一月二三日に廃止された。
 日露戦争の勝利と国際的地位の向上を背景に、明治四一年四月から尋常小学校の修学年限は六か年となりこれを義務制とした。義務教育年限延長を機に本県の就学率は全国平均に先がけて就学率九八%を越えた。学制の指向した国民皆学が三五年を経てようやく実現したといえよう。

 教員不足と待遇問題

 就学率の向上による学童の増加で大きな悩みとなったのは、教員の絶対数が不足していることであった。教員欠乏の原因は薄給にあったので、政府は、明治三〇年一月に「町村立小学校教員俸給ニ関スル件」を勅令で公布して、教員の月俸平均額と最低額を提示し、この基準にそって府県知事は教員の俸給額を定めるよう指令した。愛媛県はこれに従って、同年四月九日に「市町村立小学校教員給料旅費標準並給料旅費及諸給与支給規則」を布達して教員月俸の標準を明らかにし、県内市町村は小学校教員の増俸を行った。この結果、明治三〇年の本科男教員の給料平均月額は、尋常正教員九円二銭五厘、高等正教員一二円一九銭二厘、尋常准教員五円九九銭と前年度に比べて若干の増額をみた。しかし政府の示した支出義務額にはなお相当の開きがあって教員の不満は大きかった。
 教員は、「月給則ち十円未満の収入を以て教員たる体面を保ち得べくもあらず、止むを得ず活版所の校正を内職にし、或は夜間他の業務に従事して僅かに台所の止るを防ぐを以て身体は疲れ精神も疲れ」とか、「給料を衣食住其他万般一家の生計費にあつるときは決して充分なりと云ひ難く、漸く饑寒を凌ぎ得るといふべく、栄耀などは夢想し得らるゝところに非ず」といった実情を新聞などで訴え、世間の関心も高まった。県は、明治三一年二月二六日に知事篠崎五郎の名で「教員待遇改善ノ告諭」を発して本県の教員待遇が全国に劣る状況を数字で示し、「彼教職ニ在ル者頻々去テ其職業ヲ他ニ転セントシ、或ハ地位ヲ他府県ニ求メントスル者、年ヲ逐フテ其数ヲ増加スル傾向アルハ、職トシテ待遇ノ韮薄ニ由ラスンハアラス、当事者躬ラ奮テ教員ニ対シテハ会計年度更新ノ機会ヲ利用シテ、之カ待遇ノ実績ヲ進メ以テ教育ノ普及振興ヲ計ルヘシ」と郡市町村当局を督励、翌三二年一月と一一月には給料標準の引き上げを実施した。
 教員給の増俸は、市町村財政の負担を一層強くした。県内市町村の公学費支出額は明治三〇年時で市町村費支出総額の四四%強にのぼり、教員給の優遇措置としての増俸で同三四年には五二%の支出歩合となった。政府は明治三三年三月に「市町村立小学校教育費国庫補助法」を公布して小学校教員の年功加俸と特別加俸に充てるため毎年国庫金を支給することにした。愛媛県は明治三五年に教員加俸資金二万四五四円の国庫補助金を得ているが、市町村に分配するとわずかの金額であった。明治三五年四六%、同三六年四九%と教育費の重圧は依然市町村財政の上に重くのしかかった。
 教員不足を補う方策として代用教員が多く雇用されたが、教員としての学力資質などで問題があったので、正教員よりも低い待遇で雇用できる准教員と女教員の養成が期待された。明治四〇年代、松山市や多くの郡で准教員養成所が設置され、明治四三年には女子師範学校が開校して女教員の本格的養成が開始された。

 遠足・運動会と修学旅行

 小学校の児童にとって最も楽しい学校行事の一つに遠足と運動会がある。明治二〇年代の遠足は徒歩で数里離れた目的地に向かいその地で遊戯や競技を行って心身を鍛練するのを慣わしとしたから、運動会と同義語として併用された。
 明治三〇年代になると、春季と秋季のうち一方を近くの河原・野原・海辺に赴いて遊戯競技を行う運動会、他方を社会見学などを折り込んで遠出する遠足と、その内容を区別して実施するようになった。温泉郡志津川尋常小学校では明治三〇年度の遠足運動会として、春季を三月二八日に同村の重信川河原で遊戯を中心に行い、秋季を一〇月二六日に伊予鉄道を利用して三津浜に遠出し帰途松山市内を見学している。
 今日の運動会が学校行事として定着するのは明治三五、六年ごろからであり、明治四〇年代には学校の一大行事として児童・父兄・地区住民の人気を博するに至った。県下一の大規模校の松山高等小学校は、見物人を校内運動場に収容しきれなくなったので、明治四一年三月一七日の運動会は道後公園東トラックを会場にあてた。知事・市会議長などの来賓や一般父兄が立錐の余地のないまでに見守る中で、一、五〇〇余名の生徒が回転運動(四年女子)・サークル(一年女子)・徒手体操(一年男子)・啞鈴体操(三年女子)・分列式(二年男子)・教具運動(三年男子)・操銃運動(四年男子)・旗体操(三年女子)などを熱心に演じた。
 小学校の修学旅行は、遠足運動会が年中行事化したのと同じころに実施されはじめた。桑村郡国安尋常小学校は、明治二二年一〇月二五日~二七日に新居郡市之川鉱山に修学旅行を実施した。生徒は、白米一升・金一〇銭と当日分の弁当を持って参集、父母の見送りを受け、「午前七時ノ時計ヲ合図ニ劉朗タル進軍喇叭(ラッパ)ト軍歌ノ合唱ヲ以テ歩調正シク整々堂々出発ノ途」に上った。一行は宮の下の堤腹で弁当を食べ少時休憩の後、新居郡工場の製錬所を見学、加茂川を舟で上って西条に着き、警察病院などを見学した。午後六時一軒の旅館に至り、「本行ノ趣旨ヲ説キ米壱升ニテ本夕ヲ、金拾五銭ニテ翌夕ヲ宿泊セシメンコト」を頼んだところ、宿主は快くこれを承諾したので、一同旅装を解き入浴して疲れをいやすことができた。その夜は郡役所の学務主任書記や西条高等小学校・西条尋常小学校の訓導数名が訪れ、生徒に煎餅饅頭などを与えてこれを歓迎し、午後一〇時各自就寝した。翌二六日午前八時一同弁当を背負い旅館を出発して郡役所に赴き、郡長代理の第一課長から「尋常小学生徒ノ修学旅行トシテ斯ク遠足セルハ、本県ノ嚆矢(こうし)ニシテ又頗(すこぶ)ル美挙ナルコト」と賞賛され、生徒総代が答辞を述べて別れを告げ、市之川鉱山に向かった。正午目的地に着き藤田組鉱長に面会してその一室を借り昼食をとった後、鉱長の案内で数か所の鉱坑に入り、内部の設備運搬の状況を見学した。その間、鉱長は鉱物を生徒に示して説明の労をとり、茶菓を饗して同山に一泊することを勧めた。期日に限りがあるのでこの好意を辞退し、提灯一五個を借りて午後六時下山し始め、八時加茂川に至った。西条の宿主、「時ニ江頭点々タルノ燈火列ヲ整ヘテ一行ヲ迎フ」。提灯二〇余箇を照らしての出迎えに教員一同感謝、「各生徒ハ二十余箇ノ提燈ヲ得テ大ニ勢ヲ増シ、活気爰ニ一振シテ竹ニ提燈ヲ結ビ頭上ニカザシ、喇叭ノ先導ニ軍歌ヲ合唱シ、騒々暗ヲ破リテ帰宿」したのは午後一〇時であった。二七日は西条尋常小学校・西条高等学校を参観し、午後一時帰路につき点灯のころ北条村に至り、生徒父兄数十人が提灯を携えて出迎えるのに会した。「互ニ語リ互ニ笑ヒテ一同ノ和気又酌ム可キ」中を、父兄子弟相携えて無事帰校したのは午後八時であった(国安尋常小学校沿革誌)。
 明治三〇年代、修学旅行は年中行事となり、松山など中心部を目的地とした。宇摩郡新宮尋常小学校は、明治三二年一〇月一一日~二〇日に同郡新成・古野両尋常小学校と合同で松山まで修学旅行をした。以下はその旅行の模様である。
 一〇月一一日新宮を出発した旅行生は三島町で新成・古野両校生と合流した後、午後一一時第一東予丸に乗り込み午後五時過ぎに今治港に着いた。一二日快晴、午前中今治市街を散歩して耶蘇会堂・今治高等小学校・郵便電信局・大神宮・綿ネルエ場・今治尋常小学校・郡役所・吹揚城趾・紡績会社・鉄砲製造場などを巡見、午前一一時四〇分第四肱川丸に便乗した。船上から大島、波止浜、渡島の海軍要塞砲台新設地、来島海峡、興居島の小富士、高浜港などを眺めながら午後四時三津浜港に上陸し、直ちに汽車便で松山外側停留所に降り、二番町の旅館に投宿した。一三日快晴、午前一一時から汽車便で道後公園に遊び、頂上の小亭に行厨を開き四方を眺望して星ヶ岡・石手川・公園の旧城跡などの説明を受け、園内を一周して温泉に入浴した。一四日快晴、午前九時から萱町公会堂で伊予物産共進会を参観し、西堀端から練兵場を経て一番町に出、中学校・県庁・議事堂・地方裁判所を眺めて帰宿した。昼食後師範学校を見学し、帰途松山城天守閣に登り石手川・重信川・四国新道などを眺望した。一五日曇、新成小学校の引率訓導は昨夜夫人病気の電報に接したので、午前中に同校旅行生を連れて帰途につく。新宮・古野両校生は午後松山を出発しようとしたが、すでに汽船便に遅れたことを知って、一日滞留を延ばし三番町・大街道・湊町などを散歩した。
 一六日曇後雨、悪天候のため新宮校の引率訓導は生徒の苦悶を予想してなお一泊して天候が平穏になるのを待とうとしたが、古野校の訓導に促されて午前七時一行は松山を出発して三津浜の石崎回漕店に入った。折しも「風伯ノ怒愈益甚敷、激濤騰降恰モ丘陵ノ如ク激奔シ来ル、白波ハ岸ニ砕ケテ浪花十数尺ノ上ニ飛揚ス、北顧スレバ丘上ニ暴風ノ警戒旗飜ヘルアリ」といった状態であった。旅行生はこの悪条件の下で午後二時高浜港から白竜丸に乗船した。荒波の中を出航した船は、「或ハ天ニ朝シ或ハ海底ニ陥リ怒濤甲板ヲ洗フコト再三、而シテ乗客ハ恰モ死屍ノ横ハレルガ如ク困臥シ一人ノ起坐セルモノナシ」。この波浪も宮崎岬を南折するころようやくおさまり、午後五時今治港に上陸することができた。ここで先発していた新成校生徒が船舶欠航のため足止めされていることを聞き、これと合流して一泊した。一七日快晴、新宮校旅行生は先に帰途につく新成・古野両校生徒と別れて桜井村に赴き、一八日、白砂青松数十町歩の広い海岸に遊んで疲れをいやした。一九日、午前九時桜井を出発して今治に向かい、一二時五〇分東予丸に乗船し、午後六時三島港に上陸、松柏村に一泊、二〇日午後三時新宮に帰山した(新宮尋常小学校沿革誌)。
 西条高等小学校三、四年生は明治三八年一〇月二三日~二六日松山方面に修学旅行、兵営・勝山城・師範学校・高浜港・星ヶ岡の古戦場・森松橋・松山測候所・道後温泉・道後公園・市街などをそれぞれの留意事項をもって見学、ロシア国俘虜についても熱心な学習の対象とした。

表2-108 明治20~同45年度就学率表

表2-108 明治20~同45年度就学率表