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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

2 県立中学校の再設

 伊予尋常中学校の県立移管

 明治二四年一二月に、中学校令の改正が行われた。その改正点のなかで最も重要なのは、尋常中学校を各府県に一校設置すべきものとしたことである。当時の愛媛県には、県立中学校が一校もなく、わずかに私立伊予尋常中学校が松山に、私立明倫館が宇和島に存在したのみであった。したがって、県としては中学校令の改正に伴い、県立中学校を設置しなければならなかった。
 そこで県では、内容の充実している伊予尋常中学校を県立に移管し、その整備を図ることになった。同二五年四月二八日に「伊予尋常中学校ヲ廃シ尋常中学校ヲ置ク」と通達し、五月一二日から開校し、前校の生徒は入学手続きを要しないで新設中学校への編入を認めた(資近代3 七七)。明治二〇年五月の県立中学校廃止以来五年目に、ようやく県立校が復興された。
 同二五年五月一四日に公布された「愛媛県尋常中学校規則」は六三か条からなり、その内容は先の伊予尋常中学校規定とほとんど同じであるが、学年は四月一日から翌年三月三一日までで、第一学期を四月一日~八月三一日、第二学期を九月一日~翌年一月七日、第三学期を一月八日~三月三一日としたこと、試験を分けて入学試験・日課試験・臨時試験・学級試験とし、学年末において及落を判定する原則を設けたことは、前者と異なっている(愛媛県教育史 資料編一三三~一三九)。
 県立移管に伴い、一万四、〇〇〇円の予算のもとに校舎の増築がなされた。これは文部省の「尋常中学校設備規則」に記載された校地・校舎・寄宿舎・図書・備品などに関する規定に準拠したものであった。さらに県は増築終了後の収支決算の結果、残金二、二七三円余を中学校基金として管理し、毎年その利子を同校の経常費に加えた。
 同二七年三月に、文部省は「尋常中学校学科及程度改正」を公布し、従来の学科のうちから第二外国語・農業の二科目を除き、唱歌・簿記を随意科とし、学科授業の時数を定めた。県は、これに応じて同年四月二〇日に「尋常中学校規則中毎週授業」を作成した。この時間表を文部省制定の分と比較すると、全体の時間数ははるかに多く、とくに英語の時間数が多いのに対し、国語・漢文の時間数が少ない。これは都会地から離れている愛媛県の立場を考慮して作られた独自のものである。さらに県は、翌二八年四月九日新たに「愛媛県尋常中学校規則」を発布して、従来の規則の一部を改変し、倫理・国語及漢文・外国語科の各教授の要旨を詳細に規定した(愛媛県教育史 資料編一五四~一六三)。

 東予・南予分校の設置と独立

 交通事情の悪かった当時として、東予及び南予地域の進学希望者が松山に遊学することは、あらゆる方面において容易なことではなかった。そこで東予・南予の各地域では、中学校の復興を要望する機運が高まった。県ではまず一段階として、東予地区の西条に、南予地区の宇和島に尋常中学校の分校を設置することになった。これら分校の授業は三か年課程までとし、それらの修業者を松山本校に収容して、中等教育の完成を期待した。
 翌二九年二月二七日に尋常中学校規則を改正して、正式に愛媛県尋常中学校東予分校・同南予分校を設置することとなった。これに伴い、本校の定員を二〇〇人増加して七〇〇人とし、分校を各二〇○人とした。四月付の「東南両中学校分校仮校舎位置」によると、東予分校は西条町本町の民家に、南予分校は宇和島町丸ノ内に仮校舎を設け、四月二〇日から授業を開始するとしている。翌三〇年四月に第三級生徒二名が課程を終了、規定に従って松山本校の第二級に編入された。同校の入学生は八八名で、翌三一年には一〇九名に増加した。かねて西条町明屋敷の旧藩邸跡に建築中の校舎・寄宿舎が落成したので、六月に移転した。
 南予分校では、同二九年四月に一九三人の生徒が入学した。新入生は高等小学校四学年の卒業者が一〇〇人、同三学年修了者が三四人、同二学年修了者が一一人、元明倫館の修業者が四七人、松山本校からの転入生が七人であった。同三一年に生徒定員は二五〇人となり、新入生一〇二人を収容した。県では北宇和郡丸穂村及び堀端通にある伊達家の所有地を買収し、校舎を新築して六月に移転した。
 県は同三〇年一二月の県会に対して、愛媛県尋常中学校東予・同南予の両分校を独立校に引き直すことを諮問した。県会では、この二分校の独立を必要不可欠なものとして議決した。その結果、三二年度から両校を独立校とし、第四学年生を入学させ、翌三三年度に第五学年生を入学させ、中学校の形態を完備させることになった。
 そこで県では、同三二年三月三〇日に「中学校規則改正削除」の通達によって、正式に西条・宇和島の分校を県立中学校にする旨を明らかにした。これに伴い、従来の松山本校を愛媛県松山中学校、東予分校を同西条中学校、南予分校を同宇和島中学校と改称し、西条・宇和島両校の定員を各四〇〇人に増加した。

 私立北予英学校

 教育の普及にしたがい、小学校の過程を終えたもので、中学校への入学を希望する者が増加した。その希望者の最も多い松山では、わずかに県立校が一校あるばかりで、入学競争率は高く、一般受験生の要望を容れることができなかった。
 温泉郡川上村出身の城哲三は、この窮状を打開するために同二六年五月に北予英学校設立願を県へ提出した。この時の願書によると、二番町の民家を借用して仮校舎とし、修業年限は予科二年・本科二年であって、教科では英語科を中心とし、音読・訳読・英習字・作文・会話・文典・書取の時間が圧倒的に多かった(愛媛県教育史 資料編一五〇)。なお「北予英学校々則」は一四か条からなったが、使用した教室は二室に過ぎなかったから、いわば小規模の各種学校であった。