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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

3 高等女学校の創設

 私立愛媛県高等女学校

 江戸時代以来、男尊女卑の風習が強く、女子は家庭内にあって婦徳を磨くべきであるとの考えが一般的であった。この風潮が、地方において女子中等教育の発展を阻害する大きい原因となった。教育事業が普及するにしたがい、小学校に就学する女生徒も次第に増加した。女生徒のなかには、さらに進んで高等普通教育を受けようと希望するものもあったが、県内に完備した女学校がないため、異郷に遊学しなければならない不便があった。そこで、松山高等小学校長中村一義は渡部明綱・久松貞泰らと協議して、松山に女学校を設立する計画を練った。中村・渡部らの奔走によって、県知事勝間田稔ら八名が特別賛助員、土屋正蒙(和気・温泉・久米・浮穴四郡の郡長)ら一五名が評議員、伊藤奚疑ら五二名が創業協賛員となり、女学校開設の準備に当たった。中村らは明治二四年九月に愛媛県高等女学校設立の願書を県へ提出し、翌一〇月に認可された。
 同校は二番町の民家を借用して仮校舎とし、入学生は三四人であった。この時制定された「愛媛県高等女学校規則」は、総則、学期及休日、学科及課程、試験、生徒心得、束修授業料寄宿舎貸与料、入退学、寄宿舎の八章からなっている。修業年限三か年の本科、修業年限四か年の予科のほかに撰科があった。本科・予科の学科は修身・読書・数学・習字・家政・手芸(和服・洋服裁縫・編物・刺繍・装飾品作成を含む)・地理・歴史・理科・図画・音楽・体操・英語であるが、英語科は随意科となっていた。生徒心得では、常に礼譲を重んじ信義を守って女徳を修め、また身だしなみとして「放課ノ時間タリトモ教室ノ内外ヲ奔走シ或ハ高談スル等総テ喧噪(けんそう)ノ行為アルヘカラス」とした(愛媛県教育史 資料編一一一~一一六)。
 同二四年一二月に中学校令が改正された時、はじめて高等女学校の名が現れ、法規のうえにその存在が認められた。その第一四条に「高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施ス所ニシテ、尋常中学校ノ種類トス」と定められた。ここに高等女学校が、女子高等普通教育機関として法文上に明記された。その後、愛媛県高等女学校へ入学する生徒が増加したにもかかわらず、経営はこれに反して収支がつねに償わない状況であった。ことに日清戦争が起こって、国民は戦果に重大な関心を持ち、その経過に一喜一憂する有り様であったから、高等女学校に対する寄付金は集まらず、その運営はいっそう困難を極めたばかりでなく、登校する生徒はわずかに数名で、事実上廃校の一歩手前の窮状に陥った。
 いっぽう全国各地に女学校が設置されるようになったので、文部省ではこれに関する規程をつくる必要があった。同二八年一月に「高等女学校規程」が制定されたが、その背景に男女分離主義の伝統が存在し、女子に対して婦徳婦技を中心とする女子独特の教育を施す意図があった。この規程は一二か条からなり、修業年限を六年としながらも三年までに伸縮を認め、父兄に対する経済上の便益を与えた。
 愛媛県高等女学校では、再建策を協議した結果、校則を改正して女子に適する実用的な学科を加え、経済面において県の補助金により設備の充実を期した。そこで、同二九年九月に校名を愛媛実業女学校と改称したが、これは高等女学校規程による変革を必要としたためであろう。生徒数も三〇余名に過ぎなかったが、三〇年には八〇名、三一年には一二〇名に増加し、同校の拡張計画もようやく軌道に乗った。
 県では充実した高等女学校建設の必要性を痛感していた。同三〇年一二月に、県知事牧朴真は県会に対して、県立中学校分校の独立、高等女学校と農業・商業・工業の実業学校の設立順序及び時期について諮問した。県会ではいろいろと論議が繰り返された結果、高等女学校について公共団体が設立する場合は、その創立費及び毎年の補助費を支出する案が可決された。翌三一年二月に「高等女学校補助規程」が定められた。愛媛県実業女学校では、県の補助を受けることになったので、四月に「高等女学校編成及設備規則」に準拠して諸規則を改正するとともに、校名を愛媛高等女学校と改称して開校式をあげた。また「私立愛媛高等女学校規則」二六条が定められ、修業年限三年の本科と、一年の技芸専修科とが置かれた(愛媛県教育史 資料編一七九~一八一)。校長には同校の理事渡部明綱が推薦され、生徒数の増加にそなえ三回にわたり校舎の増築工事が進められ、同三四年には三五五名の盛況を呈するようになった。

 高等女学校令

 明治三二年二月に、「高等女学校令」が公布され、法制上でも高等女学校は中学校と対等の地位を獲得した。同令は二〇か条からなり、その第二条において「府県ニ於テハ高等女学校ヲ設置スヘシ」とし、修業年限は四年で、土地の状況によって一年を伸縮することができた。また入学資格を高等小学校第二学年の課程を終了したものとし、従来まちまちになっていた高等女学校に関する制度の画一化を図った。
 さらに「高等女学校編成及設備規則」・「高等女学校ノ学科及其程度ニ関スル規則」が公布されたが、この二法規は同三四年三月に統合のうえ、必要事項を加えて「高等女学校令施行規則」となった。

 町立今治高等女学校宇和島高等女学校

 これより先、同三一年一〇月に今治町長石原信夫から高等女学校設立申請書が提出され、今治村にある旧城郭の建物を利用する予定であった。やがて高等女学校令に準拠して、「町立今治高等女学校規則」が制定され、県費・郡費の補助を申請した。同校は同三二年三月に設立を認可され、四月に開校し、生徒定員は本科五〇人、技芸専修科及び専攻科各一〇人であった。
 同三一年一二月に、宇和島町長土居礼は町立高等女学校設立の伺書を、つづいて県費補助の禀請(りんせい)書を県に提出した。翌三二年三月に学校予定地を変更して桜町の民家を賃借した。宇和島高等女学校は六月開校の運びとなり、修業年限は本科四年定員一二〇人、技芸専修科二年定員五〇人であった。