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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

5 実業学校の創設

 実業学校令

 わが国における近代的教育は、はじめ普通教育に重点が置かれたので、実業学校の制度が整備されるのははるかに遅れた。高等教育会議の諮問を経て、各種の実業教育全般にわたる統一的な規制をするために、同三二年二月に「実業学校令」を公布した。この令は一九条からなり、実業学校の種類を工業・農業・商業・商船・実業補習の各学校とした。これら各種別の規程では、まず「農業学校規程」が定められた。この規定は二八か条からなり、甲・乙二種に分けられ、甲種の修業年限を三年とした。乙種は低度の農業一般についての職業教育を施し、三年以内とした。前者が中等程度における組織的な職業教育機関であるのに対し、後者は地方の実情に応じて融通性をもつ職業教育を施す機関であった。
 これより先、県は農・商・工の実業学校設立の必要性を痛感し、また文部省からの勧誘もあったので、同三〇年一二月の県会に学校設立の順序及びその時期について諮問した。県会では論争が繰り返された結果、まず農業学校を優先し、三二~三年度に準備を完了する案が可決された。

 愛媛県農業学校の誕生

 県ではまず農業学校を設置する方針が確立したので、準備を進めるとともに、同三三年三月に文部省から設置の認可を受けた。同月二四日には「愛媛県農業学校規則」を公布した。この規則は三二条からなり、甲種の規程により、修業年限三年の本科一二〇人、一年の専攻科二〇人と定められた。(愛媛県教育史 資料編二〇五~二〇八)
 翌三四年九月に、県立学校はすべて校名に愛媛県立の語句を冠することになった。翌三五年一月に県立農業学校規則の改正が行われた。この規則は四〇か条からなり、前記のものと大差はないが、生徒定員が一五〇人に増加し、実習科目について詳細な規程ができた。

 郡立宇摩・新居・周桑農業学校

 宇摩郡長三浦一志は、郡内で農業学校設立の要望が強いのを知って、乙種農業学校の構想を持ち、同三四年の郡会に設置を提案した。郡会では多数の賛成者があって、経常費・建築費を支出することを承認した。
 宇摩農業学校は同三四年五月に文部省の設置許可を受け、修業年限三年、生徒定員一二〇人で、三島町の民家を貸りて、七月に開校式を挙げた。翌三五年三月に同町横井手の新校舎及び実習地とが整備されたので、この地に移転した。
 新居郡は新居浜平野が展開し、県下で有数の農業地帯であり、この当時農業に従事するもの六五%に及んだ。同三四年九月に郡長浅野長道は農業の近代化を図るために、郡立農学校設立の禀請(りんせい)書を県へ提出した。校地は同郡中萩町萩生、教科課程は乙種で、生徒定員は一二〇人の予定であった。新居郡立農学校は一〇月一日に開校し、文部省から一一月に設立を認可された。
 周桑郡では郡立実業補習学校があったが、郡では地方民の要望に応じて農業学校に編成替えするため、同三五年一二月に申請書を提出した。修業年限三年の乙種で、生徒定員は一〇〇人であった。周桑郡立農業学校は翌三六年三月に文部省より設置認可され四月から開校した。

 県立商業学校設立の経過

 文運の進歩にしたがい、実業教育について法律的に規制する必要が起こり、文部省は明治一七年一月に「商業学校通則」を公布した。さらに同三二年二月に「商業学校規程」が定められた。これによると、甲乙二種の学校があり、両者ともに修業年限三年であるが、前者は高等小学校、後者は尋常小学校の卒業生を収容した。
 これより先、松山地区では商業学校を設立する要望が高く、政財界の有力者は設立促進の委員会を結成して、同三〇年一一月に意見書を知事に提出するに至った。知事は実業学校設立の順序とその時期について県会に諮問した。県会でいろいろの議案が検討されたすえ、商業学校を同三五年度から開校すべしとの案が可決された。この間松山市会では、敷地を寄付する旨を決議した。県は既定の方針に基づき、同三四年九月に県立商業学校設置伺書を提出し、一〇月に文部省から設置認可があったので、一〇月二三日に「愛媛県立商業学校規則」を公布した(愛媛県教育史 資料編二四二~二四七)この規則は三六か条からなり、同校は甲種であって、修業年限は予科二年・本科三年で、定員は八〇名・一二〇名であった。温泉郡道後村持田に新校舎が落成し、翌三五年四月に入学式を挙行した。

 西宇和郡立商業学校・宇和島町立商業学校

 県立商業学校設置の論議が繰り返されている時、八幡浜町を中心として商業学校設置の要望が高まった。西宇和郡会は同町に郡立甲種の商業学校設置の方針を確立して伺書を提出した結果、同三四年三月に文部省から設置の認可があった。同校ははじめ湊町の民家を仮校舎として、四月に開校式を挙げた。翌三五年にかねて新築中の新川畔の校舎が落成したので移転した。
 西宇和郡立商業学校の創立後間もなく、宇和島町でも同じような計画が進められた。同三四年八月に町長高槻常貞から町立商業学校の認可申請書が提出された。同校は乙種で修業年限三年、定員一八〇人であった。翌三五年一月に設置認可があり、四月にはじめ裡町の仮校舎で開校したが、九月に丸ノ内の新校舎に移転した。

 弓削商船学校の創設

 明治三二年二月に、文部省で「商船学校規程」が制定された。この規程は二二か条からなり、甲・乙の二種に分かれ、前者の修業年限は三年で、四年の高等小学校卒業者を対象とし、航海科・機関科などの特種な科目が課せられた。後者は二年で尋常小学校卒業者を対象とした。全国的に見ると、商船学校の存在は僅少であった。同三四年に越智郡弓削・岩城村組合立海員学校が誕生した。これは両地域の青年のなかに船員・船具製造業を志すものが多く、また明治中期に貨物船が帆船から汽船に移行するにしたがい、新しい技術を持つ船員を養成する急務が生じたことによった。同三三年一〇月に、組合長の弓削村長中村晴二郎は、弓削村小川に船員学校を設立する申請書を提出した。県ではその必要性を認め、同校を実業補習学校程度として認可した。
 ところが弓削地区六か村ではこれに満足せず、その組織を拡大して甲種の商船学校を設けようとする要望が高くなった。そこで六村が連合して学校組合を結成し、翌三五年二月に商船学校設立の申請書を提出した。これによると、定員本科一〇五名・予科七〇名であって、三月に文部省から学校組合の経営による弓削商船学校設置の認可を受け、四月に開校した。