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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 日露戦争と歩兵第22連隊の戦闘

 第11師団の誕生

 連戦連勝をもって講和を迎えた日清戦争も、その直後の三国干渉によって、弱少国の悲哀を如実に味わう結果となった。国民の強い結束を背景に軍備の強化拡充が要望され、明治二九年七月には軍備編成及び団隊配備表が改正された。これによって従来の近衛を含む七個師団のほかに、屯田兵団を第7師団に改編し、さらに第8から12まで五個師団が増設されることになった。新編された第11師団は四国全域を管区とし、師団司令部を善通寺に置き、今まで第5師団隷下にあった第10旅団をその指揮下に入れるとともに、以下の新編部隊を編成することになった。

歩兵第22旅団司令部(丸亀)
歩兵第43連隊(善通寺)・同第44連隊(高知)
騎兵第11連隊(善通寺) 野戦砲兵第11連隊(善通寺) 工兵第11大隊(善通寺) 輜重(しちょう)兵第11大隊(善通寺)

 このうち、歩兵第44連隊の編成は、22連隊が担任し、台湾派遣第2大隊の空兵舎を利用し、主として高知関係の将兵をこれに充てた。これで四国における歩兵連隊は一県一連隊となり、徴募区が地方行政と一致することになった。44連隊は翌三〇年七月、松山の連隊を出発し高知の新兵舎に移転した。また11師団司令部は、初代師団長に中将乃木希典(まれすけ)を迎え、三一年一二月一日に開庁し、ここに第11師団は精強師団として第一歩を踏み出した。
 これより先、明治二九年四月には第5憲兵隊愛媛分隊屯所が松山に設置され、軍関係全般の秩序の維持に当たった。
 同三〇年二月には兵営内に第四号兵舎が竣功し、各大隊の末尾中隊がこれに移った。
 同年三月、プロシアのカイト歩兵第22連隊将校団から、同一連隊番号のよしみをもって、日清戦争戦勝祝賀の祝辞が届き、わが連隊もこれに答辞を送った。

 動員・出征

 わが国が露国に対し最後通牒を発したのは明治三七年二月五日、宣戦の詔勅が下されたのは二月一六日であった。
 第11師団に動員が下令されたのは四月一九日、22連隊にも充員召集の兵員や徴発馬が続々と到着し、同月二七日には動員が完結した。二九日には城北練兵場において連隊長歩兵大佐青木助次郎が軍容を閲兵し、戦場に臨む心構えを訓示した。五月二一日、営門を出発した連隊は、沿道に詰め掛けた熱狂する県民に見送られて高浜港で乗船し征途についた。
 このころ大陸の戦場では、鴨緑江を越えて進撃した第1軍(近衛・第2・第12師団基幹)は鳳凰城付近に前進し、独立して行動する第10師団は中間地点の大孤山付近に上陸し、遼東半島に上陸した第2軍(第1・第3・第4師団基幹)は金州南方の南山攻防に激戦中であった。
 第2軍に増加すべく二四日張家屯付近に上陸した第11師団は、揚陸した部隊から逐次金州に向かい急行せよとの軍命令を受けた。師団長は先ず歩兵第22連隊(第1大隊・第10中隊欠)に二七日早朝出発し、金州に向かい前進して軍司令官の指揮を受けるよう命じた。連隊は急進して夕方には鐘家屯に達したが、このころ南山陥落の報に接し、同夜はここに宿営した。揚陸が遅れた第10中隊は同夜、また第1大隊は二九日になって連隊主力に追及した。
 第2軍は五月三〇日、大連を占領し、第1・第3師団を旅順要塞に向かって前進させていた。このとき大本営は、第2軍は蓋平・遼陽方面の攻撃に専念せしめ、旅順攻囲のために新たに第3軍を設けることを決定した。

 旅順攻囲作戦

 この戦闘序列の変更によって、第11師団はすでに旅順に向けて第1師団と併進中の第3師団とその戦闘任務を交替するよう命じられ、翌三一日、第一線に進出して同師団の戦闘位置を引き継いだ。22連隊は師団の右翼隊として、第1師団の左翼に連繋し守備についた。六月六日、第3軍司令官乃木希典(この時大将に昇進)が張家屯に上陸し、第1・第11師団及び攻城特殊部隊などがその令下に入った。前面のフォーク・セミヨノフ両支隊は、わが軍より優勢な兵力を保有し、しかもその勢力圏内にある歪頭山・剣山は、わが補給の基地となった大連湾を見下ろし監視する位置にあった。六月二五日、攻撃準備を整えた軍は第11師団にこの攻撃を命令した。二六日早朝、師団は歪頭山に向かい攻撃前進を開始したが、この時22連隊は中央縦隊の本隊にあり、第一線連隊が歪頭山を、夕刻には剣山を占領する間、師団の予備隊として温存されていた。七月二日ころから強力な砲兵を伴った露軍が全線にわたって逆襲を試み始めた。22連隊も逐次第一線に加入を命じられ、隣接連隊と協力してこの露車を撃退した。その後連隊は師団の中央隊左翼部隊となって、右は44連隊、左は12連隊と連繋して占領地の守備についた。八日未明には第3大隊から大鉄匠山に派遣された独立小哨が、優勢な露軍の攻撃を受けてしばらく抗戦の後防御線内に後退するなど、緊迫した状態が続いた。二〇日ごろから増援の第9師団が到着し、第1・第11師団の中間に進出し戦闘に参加した。軍は二五日から攻撃を再開することを決意し、22連隊も右翼隊(長・第10旅団長少将山中信義)の指揮下にあって大白山を北から攻撃した。二六日早朝には大白山高地の北麓に達し、ここで連隊の全兵力を注入して大白山頂攻略に努めた。しかし敵塁は掩蓋(えんがい)に銃眼を備えて堅固で、その野砲もわが連隊に盛んに砲火を集中したため攻撃は挫折し山腹に徹宵防御工事を行って明日に備えた。翌二七日態勢を整え、支援砲兵の射撃効果を待って突撃の機をうかがったが、この間第2大隊長少佐玉井清水が負傷し、第5中隊長岩本宗太郎が大隊の指揮をとった。夜に入って第1大隊(長・少佐松村安雄)は隣接する第12連隊と呼応して一九七高地に夜襲を決行した。第2・第3大隊は火力をもってこれを支援したが、露軍機関銃の猛射により死傷者が続出した。第1大隊はこれにひるまず前進し、塁前五〇メートルにまで達したが、このとき予期せぬ地隙に遭遇し前進を阻まれた。わずかに第2中隊のみが山壁をよじ登って陣内に突入したが衆募敵せず、逆に撃退される羽目となった。露軍の塁前の地隙に夜を徹した大隊は翌二八日未明、隣接友軍と相呼応して突入し、第2・第3大隊も直ちに同高地に達してその占領を確実にした。この一連の戦闘で争奪した山地は、露軍にとっては旅順要塞の内をわが軍にさらさないための前進陣地であったので、その抵抗は極めて真剣で、両軍とも苦しくかつ犠牲の多い戦いであった。22連隊の戦死傷者も剣山の攻防戦では二一名であったが、大白山攻撃では四一五名にも達した。
 この後も連隊は所在の露軍を撃破して前進し、三〇日には要衝大孤山を望む松嵐溝に進出し、ここに旅順要塞攻囲網が完成した。

 大孤山の攻略

 第11師団の前面の大・小孤山は、旅順要塞東外郭に位置して、付近の山々より一段と高く、わが軍を見下ろす要点である。攻城砲の展開が逐次進ちょくしたので、八月六日、第11師団にこの攻略が命令された。歩兵第22連隊(第3大隊欠)は右翼隊長山中少将の指揮の下、左第一線となり、大孤山を東北から攻撃することになった。七日夕刻第3大隊が、次いで第1大隊も行動を開始した。しかし前進路は地形が険しい上に、敵の探照灯や照明火箭に阻止されたため損害を避けて北麓に夜を徹し、翌八日未明、隣接12連隊と呼応して陣地に突入した。第3大隊の各中隊は突撃を反復し、また第1大隊の第2・第4中隊も絶壁を登って突撃に参加し、遂にその北斜面と山頂とを占領した。
 九日朝、大孤山々頂一帯を占領守備する22連隊に対し、旅順要塞東正面主陣地からの砲火が集中しはじめ、さらに旅順港から出動した露軍艦艇も黄海の北夾板子沖にあって、わが側背を射撃した。このため連隊は山頂を保持することが困難となり、一時死角に避難していたが、午後になってこの砲撃に呼応した数百の歩兵がわが占領地の奪回を図って前進して来るのが発見された。各中隊は直ちに稜線上の守備位置に復帰し、その一部は砲火を冒して北斜面を急進し、露軍とほとんど同時に山頂に達し奮戦してこれを駆逐した。この三日間の戦闘で22連隊の戦死傷者は一七八名に達した。またその功績も認められ、第3大隊・第2中隊及び第4中隊に対し、第3軍司令官から感状が授与された。
 その後も小規模の来襲があったが、その都度これを撃退し、陣地をますます堅固にして次の戦闘に備えた。

 旅順第一次攻撃

 軍は攻城砲兵の展開を待って、八月一八日から旅順要塞に総攻撃を行う計画を立てた。第11師団には攻撃目標として東鶏冠山北堡塁一帯が与えられたが、この一連の堡塁は旅順東正面防御線の中でも最も完備した永久築城であった。
 一九日朝から砲兵各部隊は一斉に要塞に対する砲撃を開始した。22連隊は師団の右翼隊長山中少将の指揮下にあってその中央地区隊となり、東鶏冠山砲台に対し突撃する計画であった。第一線諸隊はこの夜進路の諸障害を破壊除去して突撃を準備した。
 二〇日も砲兵は射撃を継続し、一五〇〇に至って計画通り突撃準備射撃の目標に転換した。22連隊は第2大隊を突撃部隊、第1大隊を援護部隊と区署し、明二一日未明の一斉突撃に備えた。第2大隊長(少佐武富令治)は偵察の結果その突撃進路に数条の鉄条網があり、かつその下方には地雷が埋設されていることを察知し、配属工兵にこれを排除させ突撃進路の開設をさせた。第1大隊長(少佐松村安雄)は配属機関砲六門を併せ指揮し、攻撃援護のための工事を続行した。さきの配属工兵はこれを援護する歩兵二個小隊と共に鉄条網に二〇〇メートルの距離に迫ったが、その周辺の散兵壕の守兵から猛射を受け、一部の兵は鉄条網に突進したが多大の損害を受け、遂に目的を達されぬまま二一日〇四〇〇になって後退した。突撃進路の開設が不成功となったため、突撃部隊である第2大隊は一時後退した。青木連隊長は右翼隊長の厳しい督促を受け、先に後退した第2大隊に再度突撃を命じた。同大隊は再び前進し進路の障害物破壊に努めたが、配属工兵中隊はその兵力の過半を失って、なお目的を達成することが出来なかった。このころ、両翼部隊の突撃準備が出来たので、青木連隊長は右翼隊長から直ちに行動を起こすよう命じられ、これを第2大隊長に命じたが、同大隊は激しい射撃を受けたため独断で再び後方の斜面に退却した。右翼隊長は第9師団が一三〇〇突撃を行うという通報を得て、これに連繋してさらに突撃を再興することに決し、青木連隊長に対して障害物を排除し得なければ、これを超越してでも前進せよと命じた。第2大隊長武富少佐も進んで三度の突撃に移るべく部下を前進させていたが、一三三〇過ぎ同少佐が負傷し、またしても突撃を中止するに至った。その後大隊の指揮は大尉岩本宗太郎がとり、態勢を立て直し、先遣した鉄条網破壊隊の地雷処理を待って攻撃前進に移った。一六〇〇砲台前中腹散兵壕に近接し、熾烈な敵弾のそそぐ中を突撃に移った。このため突撃目標の守兵はあわてて退却したが、近辺の陣地から激しい集中火を受け、第一・二線の各中隊いずれも苦境に陥り、傷者は兵力の三分の二にも達した。翌天明に至っても施す術がなく、辛うじて敵前二〇~三〇メートルの地を保持した。またそれまで師団予備隊として控置されていた第3大隊(長・少佐上村長治)も連隊主力の右翼に投入され、戦闘隊形をとって第一線に加入すべく行動を開始したが、途中において猛烈な銃砲火にさらされて死傷者続出し、わずかに連隊長の指揮下に復しただけに止まった。この報告を受けた軍司令官は第11師団のこの方面からの攻撃は奏功の望みがないと判断した。
 二三日朝右翼隊長は、歩兵第44連隊を右突撃縦隊とし、歩兵第22連隊を左突撃縦隊として、攻撃進路を北側に変換する新しい命令を下達した。これは第9師団の確保した盤龍山東堡塁から敵陣内に進入し、戦果を拡張しようとするものであった。望台砲台攻略を命じられた右突撃縦隊、一戸堡塁攻撃を命じられた左突撃縦隊の順に、順次盤龍山東堡塁に集結し、夜に入ってまず右突撃縦隊が望台砲台に強攻をかけた。しかし前進するに従い後方の各高地から十字砲火を被り、地形にも惑わされて部隊の前進方向が分裂して苦戦となった。続いて進出した左突撃縦隊もこの酷しい戦局に吸引され、はじめ22連隊の第3大隊が、次いで第1大隊もこの戦闘に加入し、二四日〇二〇〇ころから両縦隊とも望台砲台に対し数回の突撃を反復したが成功するに至らなかった。払暁になって盤龍山東・西両堡塁の友軍は、望台砲台に対する突撃隊に支援射撃を開始した。中でも東堡塁に担い上げた第9師団の砲兵一小隊は、塁頂に出てこの支援射撃に加わった。このため山腹にあった露軍はすべて望台砲台頂上に退却した。これに勢いを得た突撃隊はこれを追尾して山頂に迫り、一部は遂に頂上に達した。しかし塁頂のわが砲兵が露軍の集中砲火を浴びて沈黙すると、守兵は再び高地一帯に出現して頑強に抵抗した。このころ予備隊であった第2大隊も第一線に投入され、所在の兵員を集めながら攻撃に参加したが、その防戦は頑強で突撃の余力なく、遂に虎頭山の東麓斜面に停止した。
 師団長はこの攻撃が不成功となった最大の原因が、東鶏冠山北堡塁からの露軍砲兵の背射にありと判断し、わが砲火をこの堡塁に集中することともに、歩兵第12連隊の一個大隊をもってこの攻略に充てた。しかしこの大隊も前進中甚大な損害を被り、わが砲火が堡塁に集中して突撃の機が熟しても前進することが出来なかった。ここに至って師団長は隷下各隊の力を使い果たしたことを知り、一三二五になって攻撃中止を命令し、これを軍司令官に報告するとともに、隣接第9師団長に通報した。
 軍司令官は一六〇〇強襲中止の命令を下したが、露軍の砲撃はなお昼夜休むことなく、二一日以来悪戦苦闘四昼夜を重ねた将兵の疲労困憊(こんぱい)はその極に達していた。望台砲台に突撃した左・右両突撃隊は、その後も露軍の爆裂榴弾を受けて損害を被ったが、この夜死傷者を収容しながら退却し、翌二五日〇四〇〇王家屯付近に集合した。この時の残員は将校以下六六七名であった。この戦闘における22連隊の戦死傷者は一、三四八名に達し、戦死者中には第3大隊長上村少佐が、戦傷者中には第1大隊長松村安雄・第2大隊長武富令治が含まれるという厳しい損害を受けている。

 旅順第二次攻撃

 後退した第11師団は、第一次攻撃出発線を守備し第二次攻撃に備えることになった。損害の大きかった第10旅団(歩兵第22連隊・歩兵第44連隊基幹)に師団予備隊となって龍頭河西に位置し、戦力の回復に努めた。しかし受けた打撃は大きく、22連隊は各大隊ごとに残存兵力を集めてそれぞれ一個中隊に改編し得たに過ぎなかった。
 八月三一日、軍司令官は第一次攻撃の強襲法による攻撃を取り止め、第二次攻撃は壕を掘って攻撃陣地を推進して迫る正攻法によることを命令した。九月二日から作業が開始され、まず第一次攻撃の際に発進した散兵壕を第一陣地として整備した。22連隊は再び右翼隊長山中少将の指揮下にあってその右地区隊となり、今度は攻撃目標に東鶏冠山北堡塁が与えられた。掘進作業は工兵隊の指導を受けて昼夜交替で行われたが、三日には早くも守兵に発覚し、特にその作業の先端はその狙撃あるいは集中砲火を受けたので、しばしば工事を中止しなければならなかった。特に昼間は掘った土を前方に投土するとたちまち敵弾が集中するので、これを後方の崖下に捨てなければならない状況であった。地隙を交通壕に改修し六日には第一陣地の前方四〇〇メートルに第二陣地を構成する運びとなったが、作業を援護する歩兵の散兵壕にも敵火が集中した。第二陣地からは交通壕を電光型に掘進し、さらにその前方一〇〇メートルに長さ約二二〇メートルの第三攻撃陣地を構成したが、守兵の出撃はその都度これを撃退した。このころになって連隊は新たに兵員の補充を受け、第1・第2大隊を編成したが、第3大隊はなお欠けたままであった。
 その後も第三攻撃陣地から短辺の電光形攻路を二条掘進し、一〇月一日には北堡塁外壕前約二〇〇メートルの地点に長さ約一二〇メートルの第四攻撃陣地を構築した。この間も妨害砲火は依然激しく、またその擲石(てきせき)地雷の爆発による損害も生じた。このころから新たに展開し終えたわが二八センチ榴弾砲が堡塁に対する射撃を開始したが、その大きな破壊力によって堡塁の人員材料が飛散し、第一線将兵の志気は大いに鼓舞された。その後も攻撃陣地推進作業は続けられ、電光形攻路を掘進しては第五・第六の攻撃陣地が構築されたが、陣地に接近するにつれ守兵はその胸墻内側に反射鏡を備えてわが行動を監視し、さらには手榴弾を投擲(とうてき)して妨害した。一九日、第五攻撃陣地は東鶏冠山砲台から激しい側射を受け、その設備が破壊されるとともに死傷者も続出した。しかし二〇日になって第五攻撃陣地から掘り進んだ攻路頭が堡塁外岸頂を距る三〇メートルの位置に達し、ここから先は二本の坑道を掘って進むことになった。二一日夕突如露兵がわが先端の作業場を襲ったが、銃を執る暇のなかった作業兵は工具をもって格闘してこれを撃退した。二三日左坑道は岩石に遭遇して掘進が難航したが、このころから露軍の対坑道作業の鍬音が聞こえるようになった。やがてその坑道がわが右坑道の下方を掘進中であることが判明し、露軍の作業によりわが坑道の土砂が振動し、またその小爆破によりわが坑道の框(かまち)が脱落するまでになった。このため右坑道においては垂直坑を掘り下げてその坑道に達しこれを占領することが試みられたが、約一メートル掘り下げて露軍と出合わず、これを中止しさらに前方に掘進した。二五日には第3大隊(本部及び第9・第10中隊)が補充編成され、連隊の戦力はほぼ旧に復すことになった。二七日、右坑道を掘進作業中の工兵隊は、地中に一個の小坑があるのを発見し、敵の対坑道であろうかと検視中、突然この付近に爆発が起こり、径二〇メートルの爆破口が生じた。露側資料によるとこれは露軍がわが坑道頭を破壊せんと仕掛けた爆薬によるものであった。このためわが坑道は全く破壊されたが、外壕前の鉄条網もまた飛散して進路を開くとともに、ベトン製穹窖(きゅうこう)が露呈した。外壕とは堡塁の外周に掘りめぐらせてある壕で、ここに落ち込んだ攻撃側の兵員を側射して一挙にせん滅する構えである。穹窖の穹は円形の天井、窖は穴倉の意で、ベトン(当時は無筋コンクリート)で固め、銃眼や兵員待機、弾薬集積所などを備えた永久築城施設の一環である。ここでわが軍は、この穹窖が堡塁正面の外壕の外岸に独立して構築されていて、銃眼は内側の外壕を掃射するよう設けられ、わが攻撃する側には背壁があって大量の土砂で掩蔽(えんぺい)されているものであるということをはじめて知った。露呈したのはこの外壕外岸穹窖の北端第一号窖室の背壁であった。驚きかつ小躍りした歩工兵は協同して三回にわたりこれを爆破し、その破壊口に手榴弾を投入して突入した。これに対し露兵もその次の区画に障壁を設けて至近距離に相対してわが進入を拒止(きょし)した。二八日左坑道は別の窖室の背壁に達し、二度の爆破によって幅二・五メートル、高さ二メートルの破壊口を作ることに成功した。この爆破作業によってその窖室内の守兵の多くは死傷した模様であったが、煙がまだ消滅しない中に残存露兵はその破壊口から射撃を開始して、わが近接を許さなかった。夕方、さらに破壊口を拡大し、第3中隊の一分隊と機関砲二門が突入し、守兵の抵抗を排して第三・第四号窖室付近を占領した。
 軍司令官は各師団の攻撃陣地推進の状況と砲撃の成果を見て、一〇月三〇日一三〇〇を期し全線一斉に目標堡塁に対し突入することを命じた。22連隊は第2大隊に機関砲二門、工兵一個小隊を配属して突撃隊とし、第1大隊(二個中隊欠)を予備隊として早朝から突撃配置についた。第2大隊は各中隊から選抜した兵を中尉井生清治に指揮させた突撃中隊を編成し、工兵による突撃路の開設を待った。一三〇〇、突撃中隊は命令通り突進を開始し、まず一小隊が敵火を冒して外壕の障害物を超え、携帯橋を内岸に架けて堡塁の胸墻(きょうしょう)にとりついた。露軍の銃火はますます激しく、手榴弾も雨下して小隊には死傷続出したが、一三三〇、遂に胸墻外斜面の一部の奪取に成功した。突撃小隊は外斜面に散兵壕を掘開しようと試みたが、今なお守兵の立てこもる外岸穹窖から機関銃の背射を受け、たちまち小隊長以下ほとんどの兵員が死傷した。続いて第二突撃小隊も突進したが、これまた壕底において側防火器及び手榴弾の反撃を受け、全滅の悲運に見舞われた。第三突撃小隊が前進しようとするころには、その進出口に敵火が集中し、続いて外壕に躍進することすら不可能となった。第2大隊長(少佐・佐々木栄次郎)は第6・第7中隊に突撃中隊を支援させるとともに、一部を迂回させて外岸穹窖中心部に突入させ、突撃隊を背射する敵を制圧して戦局の打開を図ったが、これも機関銃の掃射と鉄条網に阻まれて奏功せず、止むなく夜襲をもって再突入を行うことを決心した。夜に入って師団長は守兵が次々と増強され、夜襲を行っても成功する見込みのないことを知ってこれを中止し、翌朝からさらに攻撃を再興することを命じた。突撃隊は斜堤上の第七攻撃陣地を増強し、今なお守兵の拠る外岸側防穹窖の爆破も企てたが成功しなかった。
 三一日、師団正面においては東鶏冠山北堡塁が攻撃重点目標に選ばれ、攻城砲兵の火力を集中し、午後に入ってからは二八センチ榴弾砲も加わってこれを制圧した。青木連隊長はこの好機を捉えあらゆる努力をして戦局を打開しようと努めた。しかしこれ程激しい攻城砲兵の猛射を受けたにもかかわらず、露軍の盤龍山第一砲台及び望台砲台はなお健在で、その火力を狭い進出破壊口に集中するとともに外壕内を縦射した。わが突撃隊は多大の損害を被り、突撃はしばらく中止された。突撃隊は懸命に外壕内の攻路の開設に努めながら戦闘を継続したが、一八四〇ころから彼我の砲火は一段と激しさを増し、堡塁の胸墻付近にまで達していた第5・第8中隊はさきの側防砲火に加え、直上堡塁からの手榴弾・銃火を浴び、幹部はことごとく倒れて全滅にひんした。増援を命じられた第7中隊も手を施す術がなく、打開策として連隊長が命じた第3中隊の一小隊の迂回接敵も成功しなかった。この惨状に連隊長はこの突撃の続行に成功の可能性のない事を知り、〇二五〇、中止命令を発した。諸隊は奪取した第一・第四号窖室を確保し、外壕内の攻路・第七攻撃陣地の掘拡に専念した。続いて連隊長は第1大隊を前進させて、ほとんど戦力を喪失した第2大隊と交替を命じた。第1大隊は先ず第1中隊に占領中の窖室と第七攻撃陣地とを確保させ、残三個中隊を第六・第五攻撃陣地付近に配備した。また第2大隊は朝までに、生存者による死傷者の収容と戦場掃除を行い、連隊の予備隊となった。この第二次攻撃においても、22連隊は五三九名の戦死傷者を出した。第一次攻撃と合算すれば二か月半の間に一、九〇〇名となり、攻撃軍の犠牲としては例のない苛酷なものであった。

 旅順第三次攻撃

 軍司令官は、各戦線とも攻撃が意の如く進展しない原因として、わが砲兵の連日にわたる全力射撃にもかかわらず、堡塁・砲台の形状に大きな変化がなく、ベトン掩蔽部、外壕の側防機能、これらの交通掩蓋などにほとんど損害を与えていないことを知った。また外壕の外岸壁は天然の岩石質で、一部のこの外壕通過に成功した部隊も、その後の攻撃路の築造に難渋する所を、巧妙に配置された堡塁からの瞰射(かんしゃ)・縦射を浴びて潰滅に陥っている。ここにおいて従来の攻撃方法を改め、さらに地下に潜らせざるを得ないとの結論に達した。一一月二日、右地区隊長青木大佐は第5・第8中隊を失って甚大な打撃(五日間の死傷二六二名)を受けている第2大隊を再び第一線に駆り出し、残余の部下に第3大隊の一部を付して、今なお敵が立てこもる外岸穹窖の略取を命じている。この時までにわが軍は第一号から五号までの窖室を確保し、第六号窖室以東を固守する守兵と相対していたのであるが、外壕側からするこの攻撃は掩蔽攻路の構築が繰り返しその妨害を受け難航した。第二次攻撃の惨たんたる終局は人間の精神力の限界をはるかに超え、一一月に入ってからの指揮統率は随所に混乱を生じた。しかし一一日、第7師団が新たに軍の戦闘序列に編入され、一九日、第9師団が占領した一戸堡塁が、これからの東鶏冠山北堡塁攻略を容易にするため第11師団の地区に入れられたころには徐々に鎮静化に向かっている。連隊は工兵第8大隊第1中隊が新たに配属されて作業能力が一段と増大した。引き続き第六号窖室以東に頑強にたてこもる守兵に対しては、穹窖内に坑道を掘進し、また背壁沿いにも別に坑道を設け、爆破を行っては小刻みに攻め立てた。一七日、外岸穹窖凸角付近に爆破のための薬室を掘開していたわが作業隊は、偶然にも地雷の爆発によって生じた漏斗(ろうと)孔を発見した。この爆発は露軍側の防御坑道の開口を暴露し、しかも正面の外岸穹窖内には守兵が居ないことが明らかになったので直ちにこれを占領し、奥に続く外岸防坑路内の露兵と胸墻を築いて相対した。さらに山砲一門を占領した穹窖内に進め、その砲眼を逆に利用して外壕内通路を射撃した。その後も攻路の推進と爆破は反復して行われ、二一日夜に入って凸角より二五メートルにわたる外岸防坑路はすべてわが手中に帰し、堡塁正面の外壕は全くわが制圧下に置かれた。これよりいよいよ堡塁直下に爆破のための薬室を設けるため二坑道の掘進を始めたが、内岸の基脚付近から岩盤で、その作業は容易に進ちょくしなかった。このころ守兵もまたわが企図を確認するためその直上から垂直坑を掘り下げ、次いで斜堤付近から対壕作業を開始して掘進を妨害した。
 軍司令官は全般の攻撃作業の進展を見て、一一月二六日、第三次総攻撃を行うことを命令した。そのころ、軍司令部ではバルチック艦隊の東洋回航を迎え撃つため、海軍を旅順から解放し、その準備に専念させることが急務とされていたのである。第11師団長は軍の総攻撃に先立って、東鶏冠山砲台中腹の散兵壕を奪取するため歩兵第12連隊にこれに突撃を命じた。突撃部隊は一度はこの散兵壕を奪取し爆薬戦による激しい散兵壕の争奪を行ったが優勢な露軍の反撃に遭い、翌二四日、さらに攻撃を反復したが犠牲者が続出し、ついにこれを中止して当初の攻撃陣地に後退した。この間22連隊はなお胸墻下の坑道を掘進し、二五日には爆破のための薬室の装塡(そうてん)を終えた。
 二六日、連隊長は第1大隊(長・少佐福地守太郎)を正面突撃隊とし、第2・第3大隊を第2大隊長佐々木栄次郎に指揮させて咽喉部突撃隊とし、機関砲二門を一戸堡塁に配置して支援の態勢を整えた。計画通り一三〇〇胸墻の爆破が行われたが、坑道の掘進が十分でなかったため、その外方半分のみが外壕内に崩れ落ち、内方半分は依然残ってしまった。このため破壊部分は自然斜面となったが守兵の火線までになお四メートルの傾斜面を残す結果となった。正面突撃隊は激しい射撃と手榴弾の雨を浴び、たちまち多数の死傷者を生じ堡塁を奪取することが出来なかった。連隊長は直ちに予備隊をここに投入し、さらに激しく突撃を命じた。咽喉部突撃隊も激しい応射に遭い、多くの兵員が傷つき、突撃隊長佐々木少佐は突撃中止を命じて再挙を謀ることにした。正面突撃隊は福地少佐戦死など幹部のほとんどが倒れ、戦線全般にわたり悲惨な状況となっていた。連隊長は第3大隊(第11中隊・第12中隊欠)を正面に移し、さらに突撃を続行したが、大隊長(長・大尉厚東秀吉)が重傷を負い、手榴弾の激しい爆発によって突撃するより先に多数の兵員が死傷して成功しなかった。連隊長はその指揮下に復された第2中隊続いて第6・第7中隊をさらにこれに続かせようとした。一六三〇、師団予備隊であった歩兵第44連隊第6中隊が青木連隊長に増援配属されるとともに師団長から「連隊長自ら全力を提げて突入せよ」との厳命があった。青木連隊長はこの命を受け、一八一〇、22連隊第6・第7中隊の残員一五〇、44連隊第6中隊、工兵第2中隊の残員を指揮し、自ら陣頭に立って突撃を試みたが、露軍の爆薬攻撃と機関銃の掃射に甚大な損害を受け、遂に陣内に突入することが出来なかった。連隊長は後図(こうと)を思い、進出した胸墻に攻撃陣地を構築すべく砲火を冒して作業を行ったが、なおも死傷続出した。このため作業を中止し外岸穹窖の占領を確実にする決心をした。
 この連隊の全兵力を投入しても突撃が成功しない悲惨な戦況下にあって、師団長は北堡塁の戦局全般に及ぼす価値から初志を貫き、二〇五〇には師団最後の予備隊であった44連隊第5中隊を、翌〇〇五〇には地区隊予備隊であった同連隊第3大隊(第11中隊・第12中隊欠)を青木連隊長の指揮下に入れることにした。連隊長はこれを指揮、〇三五〇行動を開始して、まず44連隊の一小隊をもって胸墻頂斜面の占領を命じたが、この小隊が外岸穹窖から前進を始めると、たちまち手榴弾のため損害続出し、後続部隊も全く進出することが出来なくなった。このため連隊長はこの突撃を中止し、死傷者及び武器弾薬を収容して夜を徹した。
 翌二七日、連隊長はさらに攻城砲兵の支援射撃を求め、配属された44連隊の一部との混成で突撃準備を進めた。この時、軍命令で正面の攻撃を一時中止し、専ら爾霊山(にれいさん)の攻略に集中することが下達された。青木地区隊長は22連隊の第7中隊と機関砲六門とを第一線に配備し、44連隊第3大隊(第11中隊・第12中隊欠)と工兵第2中隊とをもって第五攻撃陣地の左翼より攻路の掘進を開始させ、残りの22連隊主力は後方の攻撃陣地に下げて態勢の立て直しを図ることにした。その後攻撃路の掘進は露軍の爆薬投下や銃眼新設によって妨害されたが、わが第一線部隊はこれを排除して工事を進めた。露軍もわが軍の正面胸墻付近の爆破計画を察知し、堡塁内に第二抵抗線を構築し、わが作業頭に対し地雷球や手榴弾を投げて妨害を続けたが、兵力の損害を恐れて出撃することはなかった。
 一二月二日、両軍の協定が成立して互いに屍体の収容が行われた。双方赤十字旗を立て、中立地帯を設けて露軍が山上から運ぶ戦死者を受け取り、攻路頭まで運搬収容した。両軍将校が酒などを持ち寄って歓談し、記念写真を撮ったものもあったが、一部には作業半ばにして銃声が起こり、収容が中止された所もあった。三日、新たに師団長に中将鮫島重雄が着任した。四日には翌日に迫った第7師団の爾霊山総攻撃を支援するため、鋭意前面の露軍の牽制に任じた。第7師団は一四日間にも及ぶ鉄血山を覆い山形改まる肉弾戦の末、五日一〇〇〇、遂に爾霊山西南山頂を占領し、夜襲をも撃退して山頂一帯の占領を確実にした。この戦果によってわが連隊正面の露軍にもようやく弾薬の欠乏、士気の低下の兆候が見られるようになって来た。一三日には支援砲兵の一部が陣地を推進し、連隊には山砲・機関砲・工兵が増加配属され、胸墻爆破のための二坑道のほか、その外側にも各一支坑道が掘進された。胸墻(きょうしょう)の危機が目前に迫ったことを覚った露軍は、ステッセル将軍以下協議の末、胸墻の守兵の大部分を第二抵抗線に後退させた。一五日、露軍の築城の権威者コンドラテンコ少将は東鶏冠北堡塁を視察中、たまたまわが二八センチ榴弾砲弾がその窖室に命中し、同少将は爆死した。視察の目的は日本軍が有毒ガスを用いたという報告を確かめるものであったが、実際は砲弾発射による二酸化炭素などの充満を錯覚したものであった。有力な築城家を失ったことで、露軍の士気はまたしても阻喪した。
 一六日になって坑道の掘進が予定点に達し、薬室の塡実も完了した。爆破は一八日一四〇〇と決定された。連隊長は44連隊の配属部隊を併せ指揮し、第一~第四突撃隊・最後突撃隊その他の部署を行い、爆破と同時に突入する準備を整えて待機した。予定より一五分遅れて一四一五、一斉に爆薬に点火した。計画通り八個の薬室は総て爆発し、備砲・掩蓋は高く中空に飛散し、土石と共に遠く三~四〇〇メートルにまで降り注いだ。爆破の威力は大きく、攻撃を悩まし続けた正面胸墻は見るかげもなく、二つの半漏斗孔となっていた。しかし計画を上回った破壊力のため掩蓋(えんがい)下に待機した突撃隊の一部に損害を生じ、攻路の一部は交通杜絶(とぜつ)し、外岸穹窖(きゅうこう)の進出口も閉塞されてしまった。攻城砲兵・師団砲兵は全火力を集中して突撃支援射撃を開始した。第一突撃隊は進出口の土石を排除して前進し、漏斗孔の縁端まで進出したが、中庭の第二線胸墻や側面の横墻に拠った守兵の機関銃・手榴弾を浴びて突撃は困難となってしまった。さらに後方砲台からの縦射を浴び、損害が続出し始めた。中山地区隊長は自ら外岸頂に進出して指揮を取り、青木連隊長は外岸穹窖内で最後突撃隊の森田中隊を掌握し、これを率いて爆破孔に前進して再三突入を試みたが敵火なお激しく成功しなかった。このころ、わが穹窖内警備隊は機を見て防坑路内の敵を逐次圧迫し戦果を拡張していた。突撃隊は爆破孔に射撃陣地を構築し、中庭の第二線胸墻や兵舎上の第三線胸墻の守兵に射撃を集中した。
 夕刻になって師団の総予備隊であった後備歩兵第38連隊第2大隊がこの戦線に投入され、22連隊と並列して戦闘に加入し日没ころ果敢に突撃に移ったが、たちまち集中火を浴び突撃は成功しなかった。夜に入って連隊長は中庭に向け大爆薬と多数の手榴弾を投擲し、敵火器の撲滅を計り、森田中隊は敵火力の衰えに乗じ堡塁の両肩より攻路を進め、二一二〇に中庭の第二線胸墻内部に果敢な突入を行った。これによって爆破孔内にとどまってその位置を固守していた兵力も勇を得て中庭に進入しこれを確保した。森田中隊はさらに兵舎を奪取すべく、左右両入口に迫ったが、露軍は諸施設を爆破して退却した。突撃諸隊は兵舎付近の残兵を掃討し、二三五〇、堡塁全部の占領に成功した。連隊長は混乱した戦線を整理し、森田中隊に増援を派遣するとともに、敵の逆襲に備え兵舎及び咽喉部胸墻上に防御工事を施して警戒を厳にした。その後連隊は攻撃作業にも着手し、二〇日には選抜した兵力をもって堡塁東南の旧交通壕であった散兵壕を急襲し、一挙に同山第二堡塁を隔たる一〇〇メートルの地点を占領し、ここにも陣地を構築した。二八日には第9師団の二龍山堡塁攻撃を援助するため警急配備に付き、前面の敵の牽制を行った。この日第9師団は同堡塁の奪取に成功し、露軍の士気はさらに低下して行った。
 東鶏冠山第二堡塁に対する対壕攻撃作業は中央及び左坑道が掘進を続けていたが、このころ気温は零下一〇数度に下がり、積雪に加えて表土は凍結し、さらに掘進路が岩盤に遭遇したため、当初は年末までに終了する予定が年明け一月一〇日ころまでかかりそうになっていた。明けて明治三八年一月一日、露軍の動揺を見て機をうかがっていた第9師団左翼隊と第11師団前田地区隊は協力して望台を占領した。この要地の奪取によって彼我(ひが)の主客の位置は一転した。青木連隊長も第2大隊を第一線、第1大隊を予備隊として前面旧囲壁に対する攻撃を準備中であった。このころは東鶏冠山第二堡塁及び旧囲壁にはなお守兵が配備についてその警戒は厳重であった。二日〇〇四〇、突然東鶏冠山砲台に一大爆破があった。退却に先立ち露軍が行った火砲・施設の破壊である。これを看破した連隊長は第一線の第5中隊・第6中隊の一小隊及び工兵の一小隊を同山第四砲台に向かわせ、威力偵察を行うとともに成し得ればこれを奪取すべきことを命じた。これらの部隊は急進し、前面陣地に守兵なきことを知り、〇一四五、同山第四砲台を占領した。連隊長は直ちに第2大隊の残部をここに増加し、夜明けにはその地点を確保した。師団友軍各隊もこのころ東鶏冠山第二堡塁・同山第三・第二砲台を略取していた。
 これより先、一日一六三〇には露国の軍使が、ステッセル中将より乃木軍司令官宛の、開城の決意を認めた書翰を携えてわが前哨線に来着していた。連隊は師団命令によって占領地域を堅固に守備して次に備えた。この第三次攻撃において22連隊は一、七五二名の戦死傷者を出した。また旅順攻撃全期間(七か月)を通じた死傷者数は四、三〇〇を超えている。これは当初の連隊編成人数を上回るもので、肉弾につぐ肉弾をもって勝ち得たこの勝利が、如何に多くの将兵の犠牲の上に成り立ったかを知るのである。またその功績も認められ、北堡塁(感状には北砲台とある)爆破占領に際しては大山総司令官及び乃木軍司令官から、次いで堡塁東南の旧交通壕(感状には怪物堡塁とある)急襲占領に際しては再び乃木軍司令官からそれぞれ感状が授与された。
 その後連隊は戦線の整理を行い、兵員の補充もあって一月五日には久しく欠けていた第11・第12中隊の編制も旧に復した。一三日、外国観戦武官の見守る中を、軍は建制順に秩序整然と旅順入城式を行った。
 その後第11師団はしばらく大本営の直轄となり、鋭意北進の準備をしながら、旅順要塞内外の警備に任じた。

 奉天会戦

 明治三八年一月一二日、新戦闘序列が発令され、第11師団は新しく編成される鴨緑江軍に編入された。師団は同月二〇日、数個梯団になって旅順を出発し、連隊も日清戦争の古戦場である鳳凰城、雪裡站、草河口を経て、二月二一日に城廠に到着した。奉天会戦を目前にして鴨緑江軍にはなるべく速やかに城廠から清河城を経て馬群鄲付近に前進し、敵の左側背に迫ってこれを牽制するよう要求されていた。一か月にわたる長途の強行軍の疲れを癒(い)やすひまもなく、十分な戦闘準備を整える余裕もないまま、師団はこの戦闘に突入せざるを得なかった。
 この時期、連隊の第1・第7・第8中隊は韓国西北境の守備に当たっていて、二月一七日原隊復帰を命じられたが、しばらくは未着のままであった。第2大隊(長・少佐樋口千万太、第7・8中隊欠)は山中少将の指揮する左翼隊に属し、二二日、はやくも第5中隊は富城峪付近の戦闘に参加した。二四日、大隊は八七二高地の攻略を命じられたが、積雪に加え前進路は断崖絶壁で激しい露軍砲火に見舞われ死傷者が続出した。左翼隊は各部隊相互の連絡が絶え、命令・報告も一つも到着せぬ悲惨な状態に置かれていた。中央隊長を命じられた青木連隊長は、連隊主力(第1中隊・第2大隊欠)と43連隊第2大隊その他配属部隊を併せ指揮し、清河城南方高地、富家樓子付近の露軍の攻撃に任じた。二三日夜、第3大隊から選抜した白石中隊(将兵三〇余名)に、ひそかにその砲兵陣地に奇襲をかけさせたが、地形と障害物にさえぎられ、中隊は突撃することが出来ず敵前に停止した。翌二四日朝、中央隊は攻撃前進を開始したが、その先頭部隊は各所で露兵と接触し戦闘が始まった。敵情を視察した中央隊長は22連隊第3大隊(白石中隊を除く)及び43連隊第2大隊(第6中隊欠)を第一線に展開し、同連隊第6中隊に白石中隊を救援させて徐々に露軍陣地を攻略した。夕刻、中央隊長は部隊の前進を中止し、諸隊を整理するとともに地形の偵察に専念した。
 このころ清河城支隊長アレクセエフ中将は、鴨緑江軍の兵力を過大に判断し、わが軍がその左翼に迂回して清河城―馬群鄲道に迫ることを恐れて、清河城を放棄する決心をしていた。露軍が夜間退却を始めたことを察知したわが軍は、翌二五日、追撃に移り清河城を占領した。二六日も続いて露軍を急追したが、連隊は師団の前衛となり、第3大隊(長・少佐大江保)を前兵として前進した。抵抗する少数の露車を駆逐しながら険しい山間の小径を北上したが、正午ごろから激しい降雪があり、寒さも厳しく行進は困難を極めた。夕方になって、五百牛彔堡子を守備する露軍の抵抗線に遭遇したが、彼はその砲兵の火力をわが進出口である隘路(あいろ)付近に集中したため、前兵独力の攻撃は困難となった。前衛司令官は砲兵を展開し放列を布いたが、降雪ますます激しく日没も迫ったので、警戒を厳にして宿営についた。このころ露軍にあっては、クロパトキン総司令官より、清河城支隊を指揮して馬群鄲を固守せよと命じられたレンネンカンプ中将がこの戦線に到着し、わが攻撃を阻止すべく懸命に作戦指揮をとった。二七日になっても、露軍の中には退却するもの、前進して陣地につくものなど混乱があったが次第に態勢を立て直し、両軍砲兵は激しい砲撃戦を行った。早朝わが第3大隊正面に砲兵支援の歩兵二中隊の来襲があったが、わが方もまた砲兵の支援を得てこれを撃退した。連隊の第1大隊(長・少佐田原小三郎、第1・2中隊欠)も第3大隊の右翼に連繋して第一線に進出し、第2中隊は左翼に行動して西方の警戒に任じた。第一線部隊は射撃して前進を始めたが、一〇三〇ころ、第1大隊は露軍の歩兵がわが右翼に迂回したことを連隊長に報告した。連隊長は直ちに第3大隊から第11中隊を抽出してこの方面に派遣し、右側の警戒に当たらせたが、間もなく誤報であったことが判明し、該中隊を旧位置に復するなど、わが方にも混乱があった。砲撃戦は夕刻まで続き、一部の守兵を退却させたが、大部の歩兵はなお激しく応射したので、この日はこれ以上進むことが出来なかった。この日、韓国西北境の守備に当たっていた第7・第8中隊が復帰し、師団の予備隊となった。
 二八日未明から連隊は中央隊長山中少将の指揮の下に攻撃が再開され、第1大隊は五百牛彔堡子東方高地を攻撃して露軍を撃退し、一〇〇〇にはその北方高地にまで進出した。連隊長は第5・第6中隊及び第3大隊を指揮して折からの濃霧を利して前進し、同時刻にこれに多大の損害を与えて五百牛彔堡子西北方高地に達して大台子の露軍と対じした。しかしこの露軍は増援部隊を得てなおも頑強に抵抗した。最左翼に展開していた第9中隊は機を見て突撃を敢行したが、砲火ますます猛威を振るい、地形も険しく登ることが困難でこの試みは成功しなかった。この大台子の高地は清河城から三龍峪を経るわが師団の補給路を見下す位置にあるもので、師団としてもこの奪取が急務であった。さらに露将ツマノフ少将の率いる有力な一部隊は、石痘大岺に進出し、わが軍の左翼深く楔(くさび)を打ち込んで来た。軍の総予備隊のほとんどを使い果たしていた軍司令官は、この危急を救い形勢を挽回するためには、第11師団の中央隊にその前面の露軍を猛烈果敢に攻撃させる以外に策なしと判断し、厳しくその攻撃を命令した。このため師団長も中央隊に対し、左右両翼隊の攻撃進ちょくに関係なく突撃して大台子付近を奪取せよと命じた。
 夜に入って中央隊予備隊であった44連隊第1大隊が夜襲を決行し、連隊はこれを援助した。突撃大隊はその弾雨をおかして再三突撃を敢行したが成功せず、連隊も中央隊長命令によってこの突撃に加入すべく前進し、まさに突撃に移ろうとした時、再び同隊長命令によって中止さされた。これは突撃大隊の損害があまりにも大きく、同一結果に陥ることが明らかに予測されたからであった。突撃大隊は天明までに退却して高地脚に集合し、連隊はその位置に陣地を占めて夜を徹した。
 翌三月一日、攻撃は再開された。歩砲兵は激しく敵陣を射砲撃したので、その稜線は砂塵と爆煙に覆われ、露兵はみな山背に隠れて被害を避けていた。この機に乗じ第9中隊つづいて第11中隊が突撃隊となって突進し、44連隊第9中隊もこれに増援し、遂に一四〇〇ころ標高三八八高地を奪取に成功した。この戦果に乗じ第10・第12中隊も急進して高地東北稜線に進出してこれを支援した。一六〇〇ころ露軍の一部隊が三八八高地に逆襲をかけて来た。わが守兵は第9・第11、それに第44連隊第9中隊を合算して五〇名に満たない兵力であったので、これに圧迫され退却を余儀なくされた。この時、師団予備隊として控置されていた第2中隊が急ぎこの戦線に増加され、第3大隊長大江少佐がこれを指揮して前線に馳せつけた。大隊長の制止と援軍の来着に勇気づけられた守兵は退却を止め、きびすを返して相対抗して激戦一時間、再び該高地を奪回した。その後も後方の露軍からの射撃が集中したが、44連隊第10中隊もさらに増援され、掩体(えんたい)や機関砲陣地を構築して前面の露軍と対じした。その後も露軍はこの高地の奪回を目指し、さかんに砲撃を加えて来たので、わが方にも損害が続いていた。わが手に帰したこの高地は、今度は逆に馬群鄲の敵配備を見下ろす位置にあることから、露軍の逆襲があることは明らかであった。
 二日にはさらに44連隊第1大隊が、続いて同連隊第11中隊が増援され、守備が強化されていた。午後になって露軍の砲撃は一段と激しさを増し、露将アリエフ少将みずから指揮する千数百の歩兵が数梯団となって攻撃して来た。わが砲兵も全力をあげてこれに射弾を集中し、守兵は露軍を陣前至近距離に引きつけて一斉に射撃を浴びせたので、その先頭梯団はほとんどこれをせん滅し、後続梯団にも大きな損害を与えた。
 三日午後にも再び同様な経過の後約二〇〇の歩兵の攻撃があったが、激戦の後これも撃退した。四日、五日は現状を維持しその回復攻撃に備えたが、このころ連隊の死傷者は増加の一途をたどり、戦線で銃を執り得る者はわずか三〇〇名となっていた。特に三八八高地を占領し死守した第3大隊と第2中隊両隊を併せて残員八〇に過ぎず、将校ことごとく死傷したため、特務曹長川上荒蔵がこれを指揮し川上小隊と呼ぶ状態に陥っていた。韓国々境から原隊に馳せ参じた第1・第7・第8中隊も、このころ中央隊予備隊となったが、その兵員は当初編制の半ばにも満たず、長途の行軍に疲れていた。
 奉天会戦全般の情況は、この疲弊しきった部隊に補給休養の暇を与えず、過酷にも標高三八八高地から北へ延びる稜線を逐次攻略せよとの命令が下された。六日朝から、連隊長自ら一個小隊ほどの戦力に低下した各中隊を直接指揮しての攻撃が開始された。まず第6中隊が疎林を抜けて前面高地の露軍に奇襲をかけ、死傷続出するもひるまず頂上に達し、守兵と格闘した。友軍も激しく支援射撃を行ったが衆寡敵せず、死傷益々増加したので、遂に森林まで退却を余儀なくされた。連隊長は敵情を偵察し改めて攻撃部署を定め、ほとんどの兵力を第一線に展開して攻撃を再開した。一六〇〇、機を見て川上小隊と第4中隊の一小隊とが突撃を行ったが、たちまち露軍の十字砲火を浴びて停止した。一七三〇、予備隊であった第7・第8中隊を第一線に増加し、支援射撃部隊であった第5中隊及び機関砲四門も攻撃部隊に増加した。
 日没のころ各隊は最後の力をふり絞り、一斉に突撃して守兵と格闘の後これを駆逐し、一九〇〇ころ遂に大台子北方稜線一帯の奪取に成功した。連隊長は諸隊を稜線守備の配置につかせ、その回復攻撃に備えたが、土地凍結して散兵壕の掘開も思うに委せない状態で夜に入った。後退した露軍は近距離に留まって射撃をもって対抗していたが、二一五〇ころから数波数次にわたって逆襲して来た。諸隊は必死にこれを防ぎ撃退したが、最も北方に突出していた第1・第5中隊、川上小隊、機関砲二門は東西両方面より露軍の突撃を受け、格闘戦となった。配属されていた機関砲二門は兵員全滅し、砲二門は奪われ、残余は退却を余儀なくされた。連隊長は第8中隊を前線に増援させ、退却した部隊を集結整理して懸命に防戦に努めた。
 翌七日払暁、12連隊の二個中隊が連隊に増加され、連隊長はこの兵力をもって昨夜失った守備地の奪還を試みたが成功しなかった。中央隊長山中少将は、左右両翼隊の攻撃が進ちょくせず、後方の補給路も砲火に暴露して弾薬の補給が意の如く行われない現況を直視し、このままでは22連隊が全滅する恐れがありと判断した。一五〇〇、中央隊長は連隊長に対し、日没を待って退却せよと命じ、連隊長は死傷者及び武器弾薬を集め、退却援護部隊として第7中隊を当てるなどの部署を行った。同じころ、わが満州軍の左翼師団が露軍右側背に深く迫った戦況から、敵将クロパトキン大将もまた鴨緑江軍正面の露軍に退却命令を発していた。深夜になって密かに退却を始めたわが第一線部隊は、敵情が静粛になり、その陣地後方のかがり火が消え、馬群鄲付近に火災が発生したことを発見した。この報告を受けた中央隊長は、退却援護に任じていた第7中隊に、一転して敗敵を追撃するよう命じた。同中隊は師団の騎兵11連隊に次いで前進し、九日朝になって馬群鄲に進入し、炎上中の糧まつ庫を消火して多量の食糧品をろ獲した。連隊主力は馬群郭に集結したが人員著しく減少し、連隊全部を整理して辛うじて藤田・森田・結城の三個中隊を編成した。
 友軍諸隊は一斉に追撃を開始したが、22連隊(三個中隊)は前衛(司令官・山中少将)に属し、撫順に向け前進した。一〇日夕、露軍の退却援護の砲撃も衰えたので、渾河を越え撫順に到着、その北方の馬牛庄子を占領した。一一日には撫順―鉄嶺街道をさらに北上して横道河子に達し、一二日には森田・藤田両中隊は前兵となって、露軍に接触しながら前進を続け、瓢起屯を占領して警戒に当たった。一四日、連隊は師団の予備隊となり柴家堡子に集合し、一九日以降営盤付近に移駐して吉林方面の捜索にあたるとともに漸く休養をとることが出来た。
 鴨緑江軍は二月二一日以降、絶えず優勢な露軍と相対し、常に攻撃の主導権を握ってこれを圧迫し、奉天会戦における満州軍の作戦に貢献した。しかしその損害も大きく、戦闘員の損害は死傷者を合わせて二〇%を超えている。22連隊は特に激烈な第一線に投入され、九一六名の戦死傷者を出した。その武勲に対し、第2中隊及び第3大隊に対し、鴨緑江軍司令官川村中将から感状が授与された。

 占領地守備

 四月下旬になって第11師団は、撫順東方一一〇キロメートルの英額城付近に進出し、海龍城を拠点とするレンネンカンフ支隊の反攻をしばしば撃退した。この占領地守備の戦闘は五月から六月にかけて続いたが、わが将兵の意気は壮(さか)んで、優勢なその反攻企図をことごとく挫折させた。この間人員の損耗の激しかったわが22連隊は、後方にあって鋭意戦力の回復に努め、六月二三日には第3大隊(長・大尉荘司都盛)が全家窩棚(英額城西方一五キロメートル)に進出し、同地の守備についた。また青木連隊長の指揮する連隊主力も、同二九日に二道嶺(英額城北方一〇キロメートル)の第一線に進出し、地形及び敵情を捜索した。七月二一日、第3大隊は左に隣接して守備する第1軍の右翼に数百の露兵が侵入したとの情報に接した。大隊長は直ちに第12中隊と騎兵一小隊を北方二〇キロメートルの孤家子付近に急進させ、この部隊を攻撃させた。12中隊は行動中の露軍を捕捉し、猛烈な射撃を加えてこれを壊乱させ、隣接第1軍の右翼に迫った危険を排除した。

 凱旋

 九月一日、ポーツマスにおいて休戦議定書が調印され、一六日に全軍に休戦命令が発された。さらに一〇月一六日には平和克復の運びとなり、すべての敵対行動が中止された。その後満州軍の凱旋計画が立てられ、諸軍は順次凱旋の途につくことになる。22連隊も一一月四日、英額城西郊の八家子の宿営地を出発し、先ず撫順に宿営して、この地で輝かしい明治三九年の元旦を迎えた。一月三日、奉天駅から乗車し鉄路大連に到着、六・七の両日輸送船に分乗して懐かしの故国に向かった。
 郷里では官民あげての歓迎準備が整っていた。県知事安藤謙介が歓迎会長となり、郡市兵事会、武揚会、愛国婦人会、篤志看護婦会などを中心として、接待の準備がなされていた。松山市内はくまなく掃き清められ、戸ごとに国旗が掲げられた。高浜港には愛媛・高知両県で作られた電飾の大凱旋門がそびえ、祝酒・湯茶の接待所、洗面所が設けられ、打上げ花火も用意されていた。
 これより先、三八年一一月二〇日、第4軍に属して勇戦した後備歩兵第22連隊(本節四参照)が第一陣として凱旋していた。一月五~八日には終始共に戦った高知の歩兵第44連隊が22連隊より一足先に上陸した。高知の歓迎陣ははるばる四国山脈を越えて参集し、その万歳の歓呼は興居島が吹きとぶばかりであったと伝えられている。
 歩兵第22連隊は一月九日、第1大隊が第10旅団司令部と共に、一〇日には連隊本部と第2大隊が、一一日には第3大隊が打ちふる小旗と歓声の波の中に上陸した。出征時には真紅の旭光、濃紫の房であった軍旗が、竿の漆もはげ落ち、旗面もわずかに三分の一を残すのみとなっていたことは、無言で連隊の武勲と苦闘とを物語るものであった。上陸部隊ごとに隊伍を整え、三津浜街道を凱旋行進し、それぞれ兵営に帰還した。この日から三日間、安藤知事は「諸賑随意」を布告した。提灯(ちょうちん)行列に参加した県民の列は営内にも入り、凱旋兵士も手を振ってこれに応えた。
 第3大隊の営内帰還を待って、連隊の戦時編成解隊式が行われた。青木連隊長の訓示の後、現役勤務と除隊者の区分がなされ、再び隊列を組んで最後の解体分列式があり、安藤知事の祝辞があって式を終了した。徴発され従軍した軍馬も公売に付され、元の飼主の手に戻って懐かしむ微笑ましい光景も随所に散見された。この様にして一月一三日、歩兵第22連隊の復員業務は完結した。
 明治四〇年四月三〇日、東京青山練兵場において挙行された陸軍凱旋観兵式には、青木連隊長以下一四二名の将兵が連隊代表部隊として軍旗を奉じて参列した。

 秋山好古・真之両将軍

 日露戦争において陸と海とで大きな役割を果たした将星に我が郷土出身の秋山好古・真之兄弟がいる。
 秋山好古(よしふる)は安政六年(一八五九)、松山藩士秋山久敬の三男として中歩行(かち)町(現歩行(かち)町二丁目)に生まれた。はじめ大阪小学師範を出て教職についたが、明治一〇年陸軍士官学校入校、同一二年陸軍騎兵少尉に任官、同一六年陸軍大学校入校、同二〇年には旧藩主久松定謨(さだこと)の補導役としてフランスに留学した。日清戦争では騎兵第1大隊長として、旅順攻略から蓋平・田庄台などに転戦した。(遼河平原に進出の項参照)戦後は騎兵学校長として草創期の騎兵科の育成に情熱を傾注した。同三六年にはシベリアで行われた露国陸軍大演習に参観武官として派遣された。
 日露戦争には騎兵第1旅団を率い、秋山支隊として出征、曲家店・得利寺・熊岳城と世界最強のコサック騎兵を敵にして奮戦した。遼陽戦においては第2軍の左翼の援護を命じられるが、さらに進んで露軍の右側背に圧力をかけ、全局の戦闘に寄与した。沙河対陣中には永沼・長谷川両挺進隊を長駆公主嶺・長春方面の敵中に挺進させ、橋梁爆破や倉庫襲撃などを敢行し、露軍の背後に多大の脅威を与えた。次いで黒溝台戦においては、優勢な露軍の猛襲に対し、騎兵による拠点防御戦術を採って沈旦堡などの要地を固守し、遂にこれを撃退して全軍の作戦に大きく貢献した。さらに奉天戦においては騎兵第2旅団も併せ指揮し、奉天西方に進出して大包囲作戦のための第3軍の旋回運動の翼側を掩護(えんご)するとともに、露軍にその企図を秘匿して、本会戦大勝の素因を成し遂げた。その後も敗兵を急追し、三月二二日には支隊主力を率いて昌図に入城、さらにその北方の鴜鷺樹も占領した。この地は本戦争中わが軍が行動した最北端であったが、ここでもわれに三倍するミシチェンコ騎兵団と遭遇、激戦の末同地を固守し遂にはこれを撃退した。これは自身の「本邦騎兵用法論」を実戦に臨んで完成させたもので、捜索・警戒・戦闘・挺進などの戦術的用兵からさらに発展し、機動集団としての騎兵運用にまで強化したものである。これによってわが国騎兵の父と仰がれるに至った。
 戦争後は、騎兵監・第13師団長・近衛師団長・朝鮮駐剳(さつ)軍司令官と軍の要職にあり、大正五年、陸軍大将に任ぜられ、さらに軍事参議官・教育総監などを歴任した。
 大正一二年、現役を退き、翌一三年、郷党に乞われて北予中学校の校長に就任、余生を後進の育英に尽くした。昭和五年、校長を辞任したが、病を得て東京の陸軍々医学校に入院、一一月四日病没、享年七二歳であった。
 秋山真之(さねゆき)は明治元年(一八六九)、秋山久敬の五男として中歩行町に生まれた。一五歳のとき兄好古に招かれて上京し、その下宿に寄遇したが、東京大学予備門に入校してからは神田猿楽町に正岡子規と下宿生活を送った。同一九年、海軍兵学校入校、同二三年、優等の成績で同校を卒業、日清戦争には少尉、第4遊撃隊軍艦筑紫の航海士として従軍した。その後しばらく水雷関係の学生や艇隊付をしたが、同二九年、海軍大尉に昇進するとともに海軍軍令部牒報課員を命じられ、満鮮方面で活躍した。同三〇年には米国留学を仰せつけられ、サムソン提督、マハン大佐、グードリッチ大佐らの指導で近代海軍戦術を究めた。
 帰朝後は海軍大学校教官・艦隊参謀などを務め、日露戦争では連合艦隊司令長官の先任参謀(中佐)として活躍した。わが国の命運を決する日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を対馬海峡に待ち受け、「皇国の興廃此の一戦に在り」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、敵の意表をつく敵前逐次回頭(いわゆる丁字戦法)を採り、一挙に露艦隊を撃滅、海戦の大勢を決した。「舷々相摩す」「本日天候晴朗なれども波高し」の名報告文は、後世永く語り伝えられている。
 戦争後は諸艦々長・軍令部参謀・第2水雷戦隊司令官などを歴任、大正六年海軍中将に昇進したが、病を得たため待命を仰せつけられ、翌七年二月四日、小田原にて没した。享年五一歳であった。

 桜井忠温と水野広徳

 日露戦争に従軍した桜井忠温と水野広徳がそれぞれ陸と海との実戦体験を基に著述した『肉弾』と『此一戦』は戦記文学の双璧(へき)と称された。
 桜井忠温(ただよし)は明治一二年旧松山藩士桜井信之の三男として小唐人町(現大街道)に生まれた。松山中学を経て同三三年陸軍士官学校入校、同三四年同校を卒業した。
 日露戦争には少尉、歩兵第22連隊の連隊旗手として出征、初陣の歪頭山攻撃から剣山・大白山・大孤山と軍旗を捧(ほう)じて転戦した。八月初旬、中尉昇進の報せに接し、第12中隊の小隊長を命じられた。旅順第一次攻撃の際には、当初第3大隊は予備隊として温存されていたが、盤龍山東堡塁に攻撃進路が変更された時から第一線に進出し、望台砲台に対する攻撃に参加した。間もなく中隊長が戦死したので替わって中隊の指揮をとり、同砲台に肉薄したが右手のほか各所に重傷を負い、他連隊兵士の介添えにより九死に一生を得た。療養中その実戦体験を左手で書いた『肉弾』は体験者の書いた戦記文学の先駆として広く愛読され、また世界一四か国語に翻訳されて、小国日本が近代文明と対決し、肉弾をもって戦勝をかち得た経緯を世界に紹介した。天皇閲覧に供されたが、反面陸軍将校服務規定逸脱の廉(かど)で上司に叱責されてもいる。
 戦争後は陸軍経理学校生徒隊長・師団副官・陸軍省新聞班長などを歴任し、昭和三年陸軍少将で現役を退いた。その間『草に祈る』『銃剣は耕す』をはじめ多くの著書を残しているが、これらは『桜井忠温全集』全七巻に収められている。また幼少より画技にも秀で、好んで戦場回想の絵を描いたが、特に乃木軍司令官の孤影には多くの部下と二児を失った悲哀がにじみ出ている。太平洋戦争終了後は昭和三四年に帰郷し、「落葉村舎」にあって文筆活動に没頭し、『哀しきものの記録』などを著した。同三九年、県教育文化賞を受けたが、翌四〇年病没した。
 松山市堀の内にある歩兵第22連隊記念碑の副碑には、彼の「最も愛情あるものは最も勇敢なり」の辞が刻まれている。
 水野広徳(ひろのり)は明治八年、旧松山藩士水野光之の二男として三津浜に生まれた。伊予尋常中学校(後に松山中学)を五年中退、再三の挑戦の結果、同二九年、海軍兵学校入校、三三年海軍少尉に任官し、のち軍艦乗組・陸戦小隊長・艇隊艇長などを歴任した。
 日露戦争には第41号水雷艇長として従軍し、旅順口閉塞や日本海海戦に参加、東郷司令長官より感状を授与された。明治三九年、海軍軍令部に出仕を命じられ、日露戦争海戦史の編集に従事し、その余暇に『此一戦』を執筆し、四四年発刊した。大正二年、時局にかんがみ、日米戦争仮想記『次の一戦』を書くが、発表は見合わせていた。たまたま一友人の窮迫を救うためこの原稿を寄与し、同三年、「一海軍中佐」の匿名で出版されたが、外交の機微にわたる点があり問題化した。その後匿名が発覚し、無認可出版の廉で謹慎を命じられるとともに、同書は絶版となった。同年当局の認可を得て『戦影』(旅順海戦私記)を発刊するが、この書は書店にほとんどその姿を見せないで煙滅している。八年ころまでは『中央公論』などに軍国主義的主張の評論を書き続けていたが、同年第一次世界大戦後のフランス戦跡やドイツ国内の惨状を視察し、戦争の幻滅を覚認し思想の大転換を来した。
 翌九年帰朝後、軍令部に出仕するとともに、新聞紙上に「軍人心理」を書くが、現役軍人の筆としては露骨に過ぎるとして再び謹慎処分を受けた。このころより軍隊はもはや永住の地にあらずと決意し、大正一〇年八月、現役を引退した。その後も筆を休ませることなく、同一四年には米国海軍大演習に際し、日米両国民の感情的対立激化を憂いて「米国海軍の太平洋大演習を中心として」(日米両国民に告ぐ)を『中央公論』に発表、その他「戦争と軍備問題」「無産階級と国防問題」など多くの著作を世に出した。昭和七年、日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』を東海書院から出版したが、発売禁止となった。同一二年には『日本名将論』を出版するが、以降当局の監視きびしく執筆不能となる。昭和二〇年、越智郡吉海町に二度目の疎開をしたが、病を得て一〇月一八日、今治市の病院で没した。
 『反骨の軍人・水野広徳』(経済往来社)には、原稿のままであった「剣を吊るまで」「剣を解くまで」が収録されている。

図2-32 旅順攻囲作戦における連隊の攻路

図2-32 旅順攻囲作戦における連隊の攻路


図2-33 旅順第一次攻撃における連隊の攻路

図2-33 旅順第一次攻撃における連隊の攻路


図2-34 旅順第二次攻撃における連隊の攻路掘進

図2-34 旅順第二次攻撃における連隊の攻路掘進


図2-35 東鶏冠山北堡塁配備及び連隊の攻路

図2-35 東鶏冠山北堡塁配備及び連隊の攻路


図2-36 外壕外岸穹窖の平面及び堡塁の断面図

図2-36 外壕外岸穹窖の平面及び堡塁の断面図


図2-37 東鶏冠山北堡塁の爆破と占領

図2-37 東鶏冠山北堡塁の爆破と占領


図2-38 旅順攻略後の連隊の進攻路

図2-38 旅順攻略後の連隊の進攻路