データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 二二か年継続土木事業

 地方税制限に関する法律の施行

 明治四一年三月三〇日、法律第三七号「地方税制限ニ関スル法律」が公布、四月一日から施行されることとなった。同法では、地租附加税(地租割)が地租一〇〇分の六〇、営業税附加税が営業税一〇〇分の二五、所得税附加税が所得税一〇〇分の一〇と、府県の国税附加税の課税制限率を明示し、このほかに、「特別ノ必要アル場合ニ於テハ内務大蔵両大臣ノ許可ヲ受ケ、第一乃至(ないし)第三条ノ制限ヲ超過シ其ノ百分ノ十二以内ニ於テ課税スル」ことを認め、さらに、(1)負債の元利償還の費用、(2)非常災害による復旧工事費、(3)水利費、(4)伝染病予防費は、「内務大蔵両大臣ノ許可ヲ受ケ前項ノ制限ヲ超過シテ課税スルヲ得」(第五条)としていた。
 これは、日露戦争の財源確保のため明治三七年三月公布された「非常特別税法」において、政府はその増徴に際して国民負担の過重を避けるため、府県その他公共団体の国税附加税に対して制限率を規定して(府県の地租割を地租一〇分の五)、国税増徴に伴う地方税負担の加重を禁止した。この非常特別税法は平和克服の翌年末日限りで廃止することとされていたが、戦後財源に苦しむ政府は同法を当分継続することとし、一方では一般税制の整理に着手した。そして明治四一年一月の帝国議会に二四個の租税整理案を提出したが、「地方税制限に関する法律案」もその一つであった。これは非常特別税が実質上永久税となり、また一方では戦後社会経済の発展に伴って、地方財政の施設経営費に対する需要が高まり、旧来の制限を固執すると地方団体の発展を阻害するおそれが出てきた。そこで租税整理に際して、地方税の制限を緩和し、単独法として法定することとしたものであった。この結果、戦争中応急的に設けられた地方税に対する制限は恒久的な制度と確定され、制限率その他にその後変更が加えられたが、同法は以後、三二年の久しきにわたり地方団体の課税を強く規定し、その財政力の基礎となったのである。

 大土木事業計画

 宿願の地方税制限の緩和を受けた県当局は、先の諮問答申に基づき着手してきた設計を詰め、財政計画をにらみ合わせて大土木事業計画の策定を急ぐとともに、明治四一年四月三〇日、臨時県会の招集告示を示達した。この県会に提出された事業内容は概要次のとおりであった(表2―112)。
 (1)既往の二継続土木事業(明治二九年度から同四二年度までの分、明治三五年度から同四五年度までの分)を打ち切り、一〇八万三、〇四〇円余の工事費を新継続事業に編入すること、(2)新規に六四七万一、九五九円余の継続事業を起工すること、(3)総額七五五万五、〇〇〇円の道路港湾河川改良費を明治四一年度から同六二年度までの二二か年継続年期で支出すること、(4)郡市町村が行う土木事業に対し、総額三〇万円の県費補助を明治四一年度から同六〇年度までの二〇か年継続年期で支出すること、
 この内、新規事業をみると、先の四〇年臨時県会の諮問答申の内容をさらに充実追加し、道路の部では、国道第三一号線関係で追加改修のほか渦井川・市場川・重信川の架橋、同五一号線関係では肱川架橋と夜昼峠燧道、県道では城辺街道の岩松以南のほか吉野街道など七線、里道は灘線ほか二一線(削除答弁のあった龍岡線を含む)で、工費計三三七万四、七七〇円余であり、港湾河川の部では、国領川など河川修築の追加、壬生川港船渠修築、三津浜築港、川之江ほか一〇港の浚渫(しゅんせつ)並びに設備、船舶諸機械購入などで、工費合計が二六二万一、一六二円余で、雑費が四七万六、四二五円余となっていた。
 このなかで特に目を引くのは、三津浜築港費九五万円であった。いわば政争の焦点であるのは勿論、工事金額として群を抜く巨額であり、しかものちの四二年通常県会で県当局が明らかにした内容では、工費九五万円のほか、一〇余万円の監督費と四〇余万円の機械買い入れ代が別途計上されており、合計では一五〇万円余の費用を計上していたわけで、この継続土木事業の中心が三津浜築港にあることを示していた。

 第七五回臨時県会

 明治四一年五月二八日、注目の大土木継続事業を審議するための臨時県会が開会された。この県会の政派構成は、前年九月の定期改選でこの土木事業が争点となったが、積極推進を図る政友会が圧勝し、二三議席を獲得、進歩党はわずか一三議席を有するに過ぎず、安藤県政の与党として政友会が磐石(ばんじゃく)の布陣を敷いていた。開会式辞において安藤知事は、地方官民の熱望した地方税制限規定が発布され、従来の課税緊縮は幾分の緩和を得た、故に本県多年の宿題である土木事業を行うのは最も時機を得たものと信ずるとし、殖産興業の発展と運輸交通機関の整備を期した大土木事業施行の必要を力説した。また、県民負担については、地租割・戸数割などに財源を求めるため多少の増税は覚悟を要すと指摘しながらも、「濫リニ苛重ナル増税ヲ為スモノニ非ス、本官ハ県民負担力ノ程度ヲ稽査シ以テ数年ヲ期シ秩序ヲ遂(お)フテ徐々ニ之ヲ施行スルモノナレバ工費総額ノ多大ナリト雖モ毫(すこし)モ危懼(きく)憂慮スルニ足ラザルナリ、本官ハ深ク県民ガ此土木事業ノ成功ヲ期スル為優ニ其費用ヲ負担シ得ルノ実力アルモノト確信ス」と述べ、過重な増税ではなく、県民が担税能力を十分に持っていると本計画に満々たる自信を示し、胸を張った。
 これに対し、反対する進歩派では、機関紙「愛媛新報」紙上に「土木大計画(臨時県会の問題)」を特集して、土木計画の内容とその財源のための負担過重を詳細に論評し、今回の土木計画は無謀危険にして無責任不公平の甚だしきものだときめつけた。また、進歩派議員が多数を占める松山市会は、五月二七日臨時市会を開いて、県の計画する土木事業は市民の負担に耐えないとして計画の縮小もしくは負担方法の変更を求めることを決議し、同月二八日天野義一郎議長の名をもって陳情書を県知事あてに提出した。試算によると、継続土木事業に伴う松山市の県税負担は、明治四〇年度三万六、八五一円四二銭に対し同四一年度は四万九、三七六円二六銭となり、差し引き一万二、〇〇〇円余の増徴の見込みであった。
 ところで同時に提出された明治四一年度県歳入歳出更正予算案では、歳入の中心である地租割が制限課率一〇〇分の六〇以外に制限外賦課を行うことにして、地租一円につき八六銭六厘(郡部七銭九厘・市郡部七八銭七厘)を徴収することとし、一三万七、九六七円余の増となった。また、戸数割は従来の地租割七・戸数割三の慣例となっていた割合を改め、地租割六分五厘・戸数割三分五厘としたため、一二万〇、八一二円余の増額となり、このほか、営業税附加税・所得税附加税もそれぞれ二、〇〇〇円余の増を図っていた。そして、歳出の部に土木費支出額二七万円、郡市町村土木補助費本年度支出額二万円を計上していた。
 審議では、工事施行順序方法の質問に対し、理事者は、慣例通り当局者が見るところに従い定めるとして公表を拒否したほか、工事に関する質疑はなく、専ら県民の負担の是否について論戦が展開した。県側は、地租割制限以上の賦課のほか、戸数割が他府県に比して軽いため今回従来の地租割七・戸数割三を改め、六分五厘と三分五厘とした。国の平均より戸数割は一厘上回るだけで県民はその負担に耐えられぬことはないとの判断を示した。政友派は、地租割・戸数割とも過重ではないと論じ、特に松山市の反対運動を論難し、一等地である松山市の戸数割は一戸一円八五銭九厘で、末等たる七等地の負担が一円四三銭六厘とはわずか四二銭三厘の差に過ぎず、この大計画により直接間接の多大の利益をあげるのは松山市であるにもかかわらず反対するのは理解に苦しむとした。これに対し、進歩派は、既往の継続土木事業の未完成を指摘して本計画は無謀だと批判し、本県と同等一〇〇万人位の県で戸数割一円五〇銭以上とるところは外になく、負担過重だと論じた。議場騒然のなかで反対論が続いたが、多数派による質疑が打ち切られ、採決強行となり、進歩派議員総退場のなかで、関係議案を含め、本計画案は一瀉千里(いっしゃせんり)に可決された。

 大土木事業の認可

 県会での事業阻止に敗れた進歩派は、政府に対して本計画の放漫さと県税負担の過重を陳情して認可をあくまで阻止しようと図った。このため、幹部連が相次いで上京したが、このうち村上紋四郎は進歩派県会議員団代表、天野義一郎は松山市会議長、村瀬正敬・堀内胖次郎は松山商工会幹事の資格で、それぞれの機関の陳情書を携帯していた。井上要を中心とするこの陳情委員は、六月九日内務省に、同月一二日大蔵省に出頭して陳情を行い、事業認可がないよう強く要請した。この間毎日新聞が、六月一一日付紙面に「愛媛県の秕政(ひせい)問題」と題する記事を掲載するなど中央紙も本県の土木問題に関心を示しはじめ、内務省内にも認可に対する慎重論が台頭してきた。
 このため窮地に立った安藤知事の要請で、六月二九日政友会支部幹事長藤野政高は夏井保四郎・岩崎一高らと上京し、知事及び同派代議士武市庫太らと内務大臣原敬に面会、土木事業の即時認可を強く要望した。原内相はこの数日前、進歩派代議士村松恒一郎と会見した際、「県会の決議に対して県民多数の反対あるは事重大なりと認むるものなるにより篤と調査の上正当の裁決を下すべし」と答えていたが、この安藤・藤野らに対しては、「県会の決議を全部認可することは六ヶ敷(むつかし)い、部分認可でもよいか」と了解を求めた。こうしたなかで、西園寺公望内閣が七月四日総辞職した。
 安藤知事及び愛媛政友派の意向をくんで認可を意図する原内相も、反対派の動きと認可慎重論に傾く内務官僚の姿勢にあって、判断を下せぬまま辞職する立場になった。そこで原は、内務省を去る置き土産に当局吏僚に認可を迫ったため、同省では大臣の顔立てとして七月八日高等官会議を開き、査定案を議決した。しかし、大蔵省がこの査定案のうち地租制限外賦課に難色を示したので、一三日、内務・大蔵関係者の協議により次の成案を得た。

 一 四十一年分二十二万五千円は十九万五千円とす、
 一 地租附加制限外百分の六は更に之を減じ営業税所得税共之に準じて減少す、
 一 地租割六分五厘、戸数割三分五厘は地租割六分七厘、戸数割三分三厘とす、
 一 四十二年度以後は制限外賦課を許さざるをもって普通制限内に於て計画を立て直し、毎年予算並に工事の場所とも予め主務省の認可を受くる事、

 以上のほか、内務省査定には「継続案中市町村費に属すべき事業は其市町村限り之を支弁せしむる事、土木補助費三十万円は全部不認可とす」ることが含まれていた。
 こうした経過で、内相原敬は七月一三日付内務省媛甲第五八号により、この継続土木事業に対し次の条件を付して施行認可を与えた。その条件とは、(1)明治四一年度支出額は金一九万五、〇〇〇円とすること、(2)次年度以降に属する分は格段の場合を除くのほか、地租割・営業税附加税・所得税附加税とも課税制限内において執行するを要すること、(3)次年度以降において執行すべき事業中、県一般の利害に関せず専ら地方の利害に係るものは努めて下級団体の経営に任ずる様取り計らうこと、(4)次年度以降施行すべき工事の箇処は毎年度予め詳細を具し内議を経らるべきことの四点であった。この認可には、「(貴県土木費)支出方法ハ相当ノ時期ヲ見計ヒ夫々訂正ノ上更ラニ許可禀請相成度」との内務省地方・土木両局長の通牒が添付されていた。また、同時に郡市町村土木補助費継続年期及び支出方法を不許可とする旨の内務大臣指令と、不許可については同補助事業が継続事業として経営しているものでないうえ、補助すべき箇所が未確定、また県財政に余裕があるとはいえないという理由を付した地方局長通牒が発せられていた(資近代3 四三五~四三六)。
 このように、条件認可というものの大土木計画は歳入面・歳出面ともに計画の再検討が必至とされる形となったが、七月一九日帰県した安藤知事と藤野政高ら政友派幹部は、歓迎会の席上などで土木事業の認可を誇示した。そして県当局は同月二二日、継続土木事業中明治四一年度分について減額更正のうえ許可された旨の告示を行い、他の認可条件については触れようとしなかった。これに対し、進歩派は機関紙「愛媛新報」紙上に七月二二日「土木事業認可塡末」を掲載して、無条件認可でないことを詳報し、翌二三日には「内務省を無視す、愛媛県告示第三百七十七号」と題して、「該告示は県民を欺瞞(ぎまん)せんとする」と論点を詳説し、「七万五千円の減額が何だか各年度に関係するが如くせぬが如く曖昧(あいまい)なる行文の下に主務省に怖(お)ぢ怖(お)ぢ全部認可を装ひ県民を胡魔化(ごまか)さんとするは如何にも卑劣なる心術と云ふべし」と非難していた。
 七月二五日、県当局は県参事会急施会を招集し、指令に基づき、地方税賦課率の減率及び支出年割額の削減による更正予算案を提示、参事会は異議なく可決した。こうして将来への問題をはらみつつ、大土木事業はともかくスタートを切ったのである。

 安藤知事の解任

 明治四一年通常県会において、県当局は、継続土木費第二年次予算の三二万五、〇〇〇円を計画どおり提出し、制限外賦課は一八万円余あるが土木費以外のもので、戸数割の増徴も問題なく、内務大臣の認可を得るべき自信があるとした。これに対して進歩派議員は、継続土木費計上と財源捻出には欺瞞性があると追求し、主務省の認可条件の公表を迫ったが、「此継続事業ハ府県制第三百三十三条ニヨリ内務大臣ノ認可セラレタルモノ故、継続事業ハ成立シタノデアル」「其ノ既定ノ年割額ヲ計上シ之カ施工ノ進捗(しんちょく)ヲ図ラントセリ」といった安藤知事の強固な推進意志表明や県官の官僚的答弁に何等の打開策を見出し得ず、政友派の審議強行を前に退場をもって抗議する以外になす術がなかった。
 二二か年継続土木事業の中心である三津浜築港計画は、県技師宮川清らにより設計が進められ、図2―40の内容で工事を開始することとなった。設計では、旧台場から延長五四三間の南突堤、港山から延長二六〇間の北突堤を築造、幅一二〇間の港口を設けて水面一二万八、〇〇〇坪、水深八五尺、一万トン級の船舶が停泊できる新港とし、旧港一万三、〇〇〇坪は日本大型船用とする、港頭には一万八、〇〇〇坪の埋立地を造成し、前面に桟橋を架して海陸連絡の便に供し、物寄場を築いて小舟の荷役の便に当てるとしていた(愛媛新報明治四二・七・一三)。
 三津浜築港起工式は、明治四二年七月一三日、盛大に挙行された。町内の家々には、新調の白地に浪と「三」の字の模様の旗が掲げられ、国旗・提灯・作花などで満街飾を施し、港内停泊の船舶はいずれも満艦飾の景況であった。海上には無数の浮樽をもって築港の模型が示され、町内の寺院は午前四時と正午を期して一斉に鐘をつき祝意を表した。式場には文武官・民間など無慮五〇〇余の来賓が参列、午前一〇時烟火(えんか)の打ち揚げとともに開式され、地鎮祭、築港設計報告、知事以下の式辞のあと、重だった者が小舟に乗って沖合に進み、礎石を沈下させて式を終了した。式典終了後、宴会に移り余興など催し物が延々と続き、この日三津浜町民は夜を徹して祝典に酔った。
 しかし、祝典の酔い覚めない二週間後の七月三〇日、突然、県知事安藤謙介は桂内閣から休職を命じられた。その理由は、不偏不党を本旨とする地方長官の職務を忘却しているというものであった。
 そして、安藤の最重要施策であったこの大土木事業も後任の伊澤多喜男によって大幅に縮小・更正され、形骸化するに至るのである。

表2-112 継続土木事業明細書 1

表2-112 継続土木事業明細書 1


表2-112 継続土木事業明細書 2

表2-112 継続土木事業明細書 2


図2-40 三津浜築港略図

図2-40 三津浜築港略図