データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)
五 地方改良運動と模範村
財政の窮迫と町村の自治更正
明治二一年からの町村制実施により広汎な町村合併が行われた結果、伝統的な自然村落は新しい行政町村に組み込まれ、その体質は変貌していった。日清戦争後、貨幣経済の浸透に伴い中小農民の没落が激しくなり地主制が一段と進行したが、一方、都市の工業化は農民の離村を促し、農村全般にわたって体制の変化が生じてきた。その間、国税・府県税・市町村税を含めた租税負担は一貫して増加の傾向にあったが、特に財源の弱い町村財政にしわ寄せが来ることになった。それは戸数割の増徴を中心に、町村債・寄附金の増加によく現れていた。
こうした事態の進行は、町村制度を揺るがし、地方行政体制の確立に重大な影響を及ぼすものとして、政府・内務省は、財政的基礎を固める一環として先の部落有林野の統一を推進するなど財政建て直しの方策を打ち、また町村民の融和統一を図るために氏神合併を指示した。さらに、旧来の地方共同社会を基盤とする農村更生策として、極力自治を督励し、町村自治の示標として「町村是(ちょうそんぜ)」を設けさせた。ついで、自治の理念として二宮尊徳の報徳主義を導入して、地方自治の再編を行った。
当時の内務省が唱えた地方自治については、同地方局編『模範的町村治』(明治三六年一一月発行)によると、地方自治制度の目的は、町村が独立自営しその公共事務を処理することにあって、町村は国家の基礎でその仕事は国政の消長に影響するとその重要性を指摘し、町村自治の推進には地方名望家・地方自治の職にある者を軸とする町村独自の自力更生を強く求めていた。さらに、その重要な方策として「町村是」を取り上げ、「町村是」は町村経済の状態及び地勢地理・人情・風俗習慣などにわたって現状を調査し、将来よって立つべき基礎を確立するにあると規定し、当時全国に一三〇余町村で完成していると述べて、その作成を督励していた。要するに「町村是」は、内務当局の意を受けた各町村の自治要項で、作成の意図は各町村に実態調査を通じて自治意識を高揚させようとするものであった。
これが、日清戦争後の戦後経営期に内務省が先頭に立って各地方に働きかけた地方改良運動であり、従来の官治的地方自治が効果をあげないという反省からきた自治自営の奨励であった。
余土村是と模範村
この町村是の作成を先駆け、全国で名を馳せた模範村に温泉郡余土(よど)村(現松山市余戸)があった。全国に名を知られ、注目を浴びた模範村・優良村の事例は決して珍しいものではないが、この余土村のように、永年にわたって模範村の名を保持し続けた村は、全国的にみて極めて稀であった。松山市との合併によって村が消滅した昭和二九年まで、余土村には全国各地からの視察者が絶えなかった。当の余土村は、松山市に南接し、道後平野西部に位置する典型的な米麦作の純農村で、とりたてて特徴のない平凡な村であった。
この平凡な余土村が、一躍天下に知られるようになったきっかけは、明治三六年三月、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会において、その出品「余土村村是」が一等賞牌を授与されたことにあった。
余土村村是 一等賞牌
愛媛県温泉郡余土村
温泉郡余土村
従五位理学博士 神保 小虎
審査官従四位勲四等理学博士 村岡 範為馳
正五位勲四等 寺田 勇吉
審査部長正三位勲二等 辻 新次
審査総長正三位勲一等男爵 大鳥 圭介
審査の成績に依り前記の賞牌を授与す
明治三十六年七月一日
第五回内国勧業博覧会総裁大勲位功四級 載 仁 親 王
時代を画したこの調査とそれに基づく実践によって、模範村余土村の名を高らしめたのは、盲目の村長森盲天外(本名恒太郎)の活躍にあった。
森恒太郎は、元治元年(一八六四)に伊予郡西余戸村の庄屋の長男として生まれた。明治九年、県変則中学北予学校(のちの旧制松山中学校)に入学、校長草間時福の民権思想の影響を受け、同一四年に東京へ遊学、中村敬宇の私塾同人社に入塾した。明治一九年帰郷、同年の石手川大洪水による村の復興運動に立ち上がり、翌年余土村農談会を創立した。その後、推されて郡町村連合会・学事会議員となり、進んで政界へ入り、明治二一年、県立憲改進党の結成に参画、機関紙「予讃新報」発行に尽力した。同二三年の香川分県後の第一回県会議員に当選、前後して南予鉄道・松山紡績などの設立発起人として活躍した。そして、同二六年には余土村村会議員になっていたが、政治活動に熱中したあまり、家庭生活が破綻(はたん)し財産を消失したことや「いわゆる政治屋なるものの職業化」を嫌い政界を去ることとした。ところが間もなく眼底出血を患い、治療の甲斐なく、明治二九年、三二歳で両眼を失明するに至った。絶望の中から立ち直り、参禅中の彼を、余戸村会は村長として迎えることを決議、就任を要請した。ところが、村の提出した村長当選の認可申請に対して、県庁内では盲目者であることを理由に認可しようとしなかった。盲天外は、「私一人の権利が蹂躙(じゅうりん)せらるるのみならず、我が国盲人界の脅威である、幾万の盲人は公的生活より葬られねばならぬ結果を招来する」と憤慨し、時の県知事篠崎五郎に直談判し、つぶさにその抱懐する意見を披瀝(ひれき)した。篠崎知事は、意見を聴取して同情の涙をその目にたたえ、「心配なさるな」と力ある一言を与え、二日の後、村長就任許可が村役場に届き、ここに日本で唯一の盲人村長が誕生した。
盲天外が留意した村治の信条は、我が村を家庭と思い村民との人間的な心の結合を重視した点にあった。村役場は小学校の旧校舎、盲天外は教員住宅を改造した一室で、不自由な身ながら自炊生活を送り、各部落に出かけて家庭を訪問し、人を集めて談話を試みた。また村会は、「こたつ会議」と呼ばれる方式、「居室の炉を囲み家庭的な村会」とし、議決も多数決でなく、全員が納得いくまで話し合って決めた。
こうしたなかで、盲天外は、「村を治めんとするにはその対象たる村の研究に出発せねばならない」との考えを持ち、その準備を進めていたところ、明治三二年、前田正名が来県し模範調査の勧誘を受けたので、直ちに調査を承諾した。
前田正名は、明治一七年に農商務大書記官として後世農政に重大な影響を与えた『興業意見』を編さんし、同二三年農商務次官を退官後は、系統農会の組織作りに敏腕を振るった無類の農政通で、「無冠の農相」と称された人物であった。彼の政策立案の特徴は、徹底した実証主義にあり、「人ニ問ハズ、物ニ問へ」の言にみられるように、地方・農事に関する詳細な調査と分析を積み上げて企画立案するものであった。この来県は、大日本農会の決議により全国八農区に一か所ずつの模範村是を実行するためのものであった。
余土村村是調査は、明治三二年一〇月、助役池内清間を主任とし、村内から選ばれた鶴本多次郎・栗田卯太郎・竹田新六・本田居治・今井藤蔵らを委員として着手し、翌三三年四月に『余土村是調査資料』上下二編二二章六九節、統計九九表を収めて完成した。その内容は、土地に始まり人口・産業・風俗・経済・教育など各般にわたり、村の実態をあらゆる角度から精査したもので、その内容の豊富さに驚嘆させられる。しかし、この村是調査の価値はその調査内容にあるのではない。この調査結果が、村の置かれている現況を見据え、現下の問題を摘出し、それが村の振興計画に進展し、その計画がさらに実践に移されて、模範村余土村の建設に遺憾なく活用された点にこそあった。
森村長は、この資料に基づき検討を加えた結果、将来いかにすべきかの対策を決定した。しかしその内容は行政各般にわたり、従って結論もその範囲も広く、実行には村治全般にわたる不断の努力ならざるを得ないため、特に緊要なるものを選び、自治の基本方針、つまり「村是」を設定した。(1)小学教育の改善、(2)青年教育の実施、(3)耕地の改良、(4)勤倹貯蓄、(5)共同購入、(6)小作保護、(7)副業の奨励などであった。ここで特に注意を要するのは、対策としての結論は実行を意味し、具体的設定をして実行すれば事終わるものも少なくないこと、村是は永遠の設定でも一〇〇年の大計を定めたものでもなく、時代に応じその形体を改めて推進するものであることと極めて実践的なことであった。
村是の設定を基に、実施要項である「余土村村是要領」、さらに具体的な実行計画である「村是実践攷(じっせんこう)」を定めて実行に移した。小学教育では、調査資料の教材化、児童役場・学校栽園・児童による貯金集金活動・児童貯金・小学校内に実業補習学校の併設などの開始、青年教育では、幹部養成のための青年実習会の組織、青年活動の教育化、農事改良の実践、文庫及び新聞閲覧所の創設などを実行した。耕地の改良では、洪水の残した土砂の利用、耕地整理、耕地交換、大師講・題目講などの講の組織を利用して農業観念の高揚をはかる田地である講田の設置と共同耕作を行い、勤倹貯蓄では、貯金の実行と勤労の美風の養成を図った。小作保護については、政策として肥料貸し付けや資金貸与、小作保護基金「積立米」の設置、共同購入については、産業組合の充実と共同作業の実践、副業については伊予絣の奨励などを実行した。その着想の妙、実践の巧みさなど卓抜した点は比類がなかった。先の表彰にいたった出品には、村是調査資料とともに、村是実況の概況が付記されていた。
村の治績が優秀なることが世上に流布するとともに、視察来村の者が増加した。その最も多くは明治四三年から大正四年ごろで、主として農事団体視察であったが、大正一〇年に産業組合が小作地を管理するにおよび、再び増加し、全国七割の府県、朝鮮・台湾から年間一、五〇〇人に達するに至った。
森盲天外は、在任一〇年の明治四〇年二月、余土村長を辞任した。その後、魂の記録『一粒米』、『義農作兵衛』、『町村是調査指針』、『体験物語我が村』を著述する一方、温泉郡立地方自治研究所主任として自治体の指導と研究に当たるとともに、道後に「天心園」を創立して青年教育に、煩悶相談に当たった。また昭和二年、中予善隣会長として融和運動に努めるなど、自治と共存を目指す教育と福祉事業に専念した。晩年の昭和五年には推されて道後湯之町町会議員、翌年県会議員となり、昭和七年には道後町長となった。
余土村は、この卓越した自治と農政の実践家の指導のもと、村是を実践、多大の成果を上げ、その後も村是の形体を改良・開発し、実践を深めていった。このことが模範村として長命を保ち得た鍵であった。本県の農業史に、また自治体史にこの『余土村是』と森盲天外の名は欠かすことはできない。
地方改良運動の推進
先述のように内務省が中心となって推進した地方改良運動は、日露戦争下において挙国一致の戦時体制を強化するため、町村レベルで積極的に推し進められ、町村財政の緊縮や基本財産の設定、納税組合や貯蓄組合の設立をはじめ、出征軍人・遺家族援護や各種の農事改良などとして、多面的に展開されてきていた。それは第一次西園寺内閣に継承され、戦後経営の一環として町村財政の建て直しやその基盤強化を目標とした。さらに、第二次桂内閣の下では、首相が蔵相を兼任して財政整理を図るとともに、内務大臣には生粋の官僚である平田東助を起用して内政の刷新を図った。平田内相は、この地方改良運動を地方行政の基本政策として採用し、省務として励行したのである。すなわち、この平田内相時代に「地方改良」が行政事務として督励されたのみならず、国の地方行政の基本思想として定着したのであった。かくして、これから大正初期にかけて、いわゆる地方改良運動が全国的に幅広く展開していくことになった。
このまず第一歩は、明治四一年一〇月一三日の戊申詔書の発布であった。この詔書は、今後の国家の発展を図るために上下の者が心を一つにし、それぞれの職業に忠実に励み、倹約をして一生懸命に働いて産をうみ、浮わついた気分を取り除き、自ら努めるよう訓諭したものであった。この理念が、地方改良運動実践の精神となったのである。
愛媛県は、詔書奉読式に関する訓令を発し、その趣旨を奉戴するよう指示した。一一月、神職に対して訓令し、敬神の念を喚起させるとともに当局者を助けて神社をして経営公共の利益に資し、神社制度の改良に努めるよう示達した。訓諭の指示にあたっては一般論を通じ、さらには具体策で徹底していた。町村会長会議において、郡長が県知事の訓示に基づき戊申詔書の精神を訓示し、実行方法について具体的な協議が行われた。明治四二年二月五日~七日開催の伊予郡学事集会では、郡長から戊申詔書に関する件、義務教育年限延長実施に関する件、就学出席に関する件などの訓示を受けた後、戊申詔書の趣旨を貫徹させる方策及び既に実施している状況について談話をした。また、三月一日~三日の郡視学会では、安藤知事から児童就学出席の督励、小学校施設の完成、教員管理の強化などの訓示を受けたあと、戊申詔書趣旨徹底方実施の状況などにつき意見交換を行った。こうしたことから、県内各学校では戊申詔書を訓育面に活用する方法を積極的に講じていった。
内務省では、明治四一年九月から一か月余にわたって感化救済事業講習会を開催、一般的な感化救済事業のみでなく貧民や非行問題も広く地方改良運動との関連で捉え、また地方官会議では繰り返し地方改良事業の推進を強調し、それを実践した優良団体や個人を表彰して各地における実践上のモデルとして設定した。愛媛県では、明治四一年一一月七日県訓令で「市町村吏員及功績表彰規程」を定め、郡市長の具申した九三名のうち次の一三名を選び、明治四二年六月三〇日、新築県庁舎楼上において第一回知事表彰式を挙行した。
(被表彰者) 新居郡氷見村長 久門信太郎 新居郡飯岡村長 松本亀次郎 周桑郡中川村長 越智茂登太 越智郡桜井村長 曽我部右吉 元温泉郡余土村長 森恒太郎 温泉郡正岡村長 寺井温一郎 温泉郡興居島村長 堀内新三 松山市学務委員 日野国治 喜多郡豊茂村長 西山繁樹 喜多郡大洲村長 井林純一郎 喜多郡五十崎村長 高野島太郎 元西宇和郡双岩村長 三瀬甚一 北宇和郡喜佐方村長 宮田喜壽
国の表彰については、同年六月の内務省通牒に基づき県では、地方改良事業功労者表彰候補として、一等温泉郡正岡村、二等伊予郡岡田村、三等温泉郡余土村、四等周桑郡中川村長越智茂登太、五等新居郡氷見町、(六等から一三等まで省略)と順位をつけて具申した。その結果、同四三年二月二五日に温泉郡正岡村が団体の部で三等となり、内務大臣表彰の栄誉に輝き、奨励金五〇〇円を授与された。その表彰対象となった治績概況の項目では、施政の機関、村民の風紀、治進会(時間の励行・献盃廃止・貯金組合の奨励・作法講習・巡回講話・尚歯会・婦人会・門標調製)、青年会(村治その他公共事業に対する貢献・講話会・夜学会・図書部・勤倹貯蓄・農事奨励・火防・風紀の改善)、村農会、耕地整理、道路改修、教育、納税成績などが列記されていた。
翌四三年度については、北宇和郡喜佐方村を選奨したが表彰には至らなかった。そして翌四四年度において、伊澤知事は、県内に比較的優良な町村もあるがなお一層の監督指導を加え、一段の治績を挙げた後に譲りたいとの理由により上申を見合わす旨の回答を主務省に提出していた。
内務省は、地方改良運動の具体的展開のために同四二年から四四年にかけて五回にわたり、地方改良事業講習会を全国から県・郡の官吏、町村長、郡・町村の吏員を集めて東京で開催した。県では、明治四四年度から地方改良費として毎年九〇〇円(但し六年度は一、七八〇円)の予算を計上し、同年六月に第一回地方改良講習会を開催した。このように推進された地方改良運動は、その中心課題が町村財政の安定、社会教育の充実、小学校教育の充実強化であり、さらに多様な農事改良を推進し、産業組合の拡充や貯蓄組合の結成によって地方経済の発展と民力の充実を期したものであった。したがって、運動は、内務省の主導であったが、農商務省・文部省の所管に属する諸政策を包括する広汎なものであった。愛媛県では、先の模範村余土村や表彰を受けた温泉郡正岡村などの優れたケースがあるが、全般に明治年間はやや低調の感は免れない。全国表彰が連続しないことや、県当局が表彰候補を見合わす事例にそれをみることができる。この理由としては、東予における煙害問題や政争となり県下を狂奔させた大土木事業計画などが、県・町村が主体となって行う改良運動促進を弱めたものと考えられる。
地方改良と青年会
地方改良の推進は地方自治体に置かれ、自治体改善の中心に青年会があった。明治中期以降、旧来の若衆連・若連中などと呼ばれた若者集団に代わって、青年の風紀の改善と知識の向上を図る方法として、青年会・夜学会が各地に設置されるようになった。早いものでは、明治一七年の松山城北青年会、同二〇年の小松町・久万町・西宇和郡郷村・和気郡安城寺村などの青年会の組織と夜学会の設置があった。日清戦争後には普及をみせ、特に日露戦争・戦後にかけて町村の督励と義勇奉公の使命感に燃える青年たちによって組織作りが進んだ。また政府も青年団設置を督励することとなり、愛媛県では明治三九年一月訓令を発し、適切な指導を指示した。明治四三年における青年団(会)設置状況をみると、二九七町村中二三五町村で八〇三、翌四四年には二六三町村で四八一となっている。数の減少は、前年に県当局から組織内容の改善指示があったため新居・温泉・伊予・喜多・北宇和郡で一町村単位に統合整理されたことによった。また夜学会は、国の指示奨励もあって勤労青少年のための公的教育機関である実業補習学校へと転換していった。
一例を明治四二年の温泉郡正岡村青年会にみると、この会は日露戦争中の明治三七年八月一七日、正岡尋常小学校長門田方武の主唱に応じて各部落惣代及び若連中惣代が発起して結成、各部落に支会を設置、会員数一七六名、名誉会員六七名で基本金四四円余を有した。その事業をみると、戦役に際しては会員の就業や募金による金四〇余円を恤兵部に献納、応召軍人の歓送迎、戦死者葬儀の会葬、凱旋軍人の慰安を行った。また正岡小学校運動場の整理や教育・衛生幻灯会を各部落を巡回し開催していた。また農事奨励において、村農会試作田一反歩を担当し、苗代における害虫駆除に当たるほか、村の消防事業を担当したり、風紀改善では盆踊りを全廃し、治進会(成人男子で結成)とともに酒盃献酬の撤廃・時間励行・未成年者の風紀取り締まりに効果をあげた。青年会自体の事業としては、毎年春秋二回の例会において、農事老功者を招いて講話会を開催したほか、毎年一月から三月の間六〇日間の夜学会を開催し、小学校教員指導のもとに高等科程度の補習教育を行い、特に二宮尊徳の報徳主義の鼓吹に努め、出席率は平均八五%を確保した。また各支会に図書部を設置することとし、既設四か所に二五〇余冊を備え、毎月購入する雑誌は『農業雑法』『少年世界』の二種である。本年は青年会文庫を設置して各支会を巡回する計画であるとした。このほか明治四〇年八月に、青年会貯金組合を設置、毎月貯金を奨励し、現在一一五人加入で一か月積立金一二円余である。また支会のうちには、不毛地開墾により耕地一反五畝三歩を得、その収入より毎年五円を蓄積する所があるとしていた。
また喜多郡柳沢村田処青年会は文部大臣表彰を受けているが、その会則によれば「第一条 本会ハ喜多郡田処内ニ居住スル青年ヲ一団体トナシ教育勅語戊申詔書ノ御趣旨ヲ奉躰シ智徳ノ修養身体ノ鍛錬勤倹力行及ビ共同自治ノ精神ヲ養フヲ以テ目的トス」と目的を掲げ、会費は五銭、基本金として文部省の下賜金及び有志の寄附を保管、増殖を図り、その利子の一部を会経費に編入することとしていた。事業については、夜学会の組織、義援救護、勤倹貯蓄、消防、会員への祝慰、会員の善行表彰、記念文庫の設置、応召者送迎慰藉、旅行の九項目をあげていた。
このように青年会活動は、青年自体の知識を高め、共同自治活動を促進するとともに、町村の再建に大いに貢献し村内の秩序維持や民力を高める大きな力となっていた。