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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 庶民生活の動向

 初等・中等教育の普及

 明治前半期における上からの積極的な開化政策により、明治中期以降の県民の生活様式は大きく変貌した。この変貌の重要な背景となったものが初等・中等教育の普及である。
 明治二三年の学校令公布以後、県下では小学校の増設や中学校・実業学校・高等女学校の設立が相次ぎ、諸学校への就学率も年々伸びていった。明治二五年の学事年報によると五八・四%(男六九・三%、女三五・二%)であった学齢児童の就学率は、同四二年の学事年報では九八・二%(男九八・九%、女九七・五%)となり、全国水準以上の伸びを示した。また、尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校の設置数も明治三七年度の学事年報によると、尋常小学校四四三校(公立四四二校・私立一校)、高等小学校三五校・尋常高等小学校一一七校(公立一一四校・私立三校)となり、初等教育の充実は県下全域に及んだ。教育内容も高等小学校においては、英語科・商業科・農業科・手工科など実科に関するものが設置され、実業教育が次第に重視されるようになった。いっぽう、初等教育の普及と県民の経済生活の向上により、教育に対する関心が日清・日露戦争前後から高まり、上級学校への進学熱も上昇した。師範学校や中学校は、明治二三年の愛媛県尋常師範学校の松山市木屋町への新築移転、同二五年の愛媛県尋常中学校設立に続いて、明治三四年までに宇和島中学・西条中学・宇和島中学大洲分校・西条中学今治分校などの県立中学校や私立北予中学校が設立され、明治三〇年代後半には農業・商業を家業とする一般家庭からの志願者が激増した。これら中学校への県下の入学者総数も明治三七年度には五七〇余名となり、日露戦争を契機に県民の中等教育への関心が一段と高揚した。また、日露戦争前後には産業界の強い要望を受けて実業教育の振興が叫ばれ、明治三三年には県立農業学校、同三四年には県立商業学校、同四二年には松山市立工業徒弟学校などが次々と設立され、産業の近代化に即応できる人材の養成が図られた。
 愛媛県では、特に農業教育に力点がおかれ、農村地帯を背景とした地域に甲種及び乙種の農業学校が次々と設立され、農村部における農具の改良、種子苗木の頒布などの農業技術の改良や生活様式の近代化促進に大きく貢献した(資近代3 四七七~四八三)。女子の中等・実業教育も社会の近代化に伴う県民意識の変化でもって関心が高まり、本科技芸科補習科などを併置した高等女学校が県下各地に設立された(資近代3 二八五)。愛媛県における女子教育は、明治一九年九月、四国で最初の女学校である私立松山女学校、及び明治二四年に創立された私立愛媛高等女学校(明治三三年廃校、県立松山高等女学校となる)に端を発するが、明治末年までに県立三校(松山・宇和島・今治)・郡立二校(大洲・西条)・私立一校(済美)の高等女学校が設立された。さらに明治四三年には愛媛県女子師範学校が独立創設されて小学校女子教員の養成が進められた。こうした女子教育の進歩は、教育現場を中心とする女子の職場への進出を促し、衣食住を中心とする生活様式や社会意識の覚醒(かくせい)を助長する大きな要因となった。

 新聞の普及と県民意識の覚醒

 県民の政治・文化意識を高めるのに大きな役割を果たしたのが新聞であった。「愛媛新聞」の創刊とその後の経緯については、すでに略述したが、政党活動が活発となった明治二〇年代からは県民の新聞への関心が一段と高揚し、読者数も急増した。明治二〇年代には一、〇〇〇部から二、〇〇〇部であった発行部数も序々に増加し、明治末から大正の初めには政友会系の「海南新聞」と進歩党系の「愛媛新報」は一万部を突破するまでに購読者数を伸ばした。「海南新聞」は、公共社―松山自由党―海南協同会―政友会の機関紙として民権思想の啓蒙活動や中央及び県下の政党活動の宣伝に力を入れ、県民の政治的覚醒に大きな役割を果たした。特に、明治二二年以来二二年間にわたってその経営に携わった藤野政高の社長時代には、経営方針も「新聞及ビ雑誌ヲ発行シ諸印刷出版ノ事業ヲ為シ又ハ諸業ニ必要ナル原品ノ売買製造等ノ営業ヲ為ス」と変更されると同時に、増資や紙幅の拡張が行われ経営安定化の方向が打ち出された。「海南新聞」が県民の関心を集めたのは、明治三七、三八年の日露戦争の従軍記を中心とする報道と明治四一年の臨時県会に端を発する大土木計画・三津浜築港疑獄事件の報道であった。日露戦争の報道にあたっては、従軍記やロシア人捕虜の動向を詳細に伝達するとともに、ポーツマス条約締結後の講和反対行動には社が音頭をとって松山市民大会を開催するなど読者と一体となった報道活動を展開した。県政については、政友会の機関紙としての立場から安藤県政を積極的に支持し、土木計画に賛同した。しかし非政友会系の伊澤多喜男知事が着任して三津浜築港疑獄事件を摘発すると一転して県政を攻撃しはじめた。「海南新聞」は文化面においても、正岡子規の俳句の革新運動に紙面を提供したり、俳誌「ほとゝぎす」の創刊に助力するなど県民の文化的啓蒙にも大きく寄与した。
 いっぽう、「愛媛新報」は、小林信近・高須峯造・山本盛信らにより明治二一年一〇月二〇日「豫讃新報」という名称で「海南新聞」に対抗して創刊された。一二月に予讃分県が成立すると同二二年二月一一日の憲法発布を機に名称を「愛媛新報」と改称し、改進党系愛媛倶楽部の機関紙としてイギリス流の穏健な立憲政体思想の宣伝に努めた。同紙も「海南新聞」同様、創刊当初は発行部数が伸びず経営難であったが、日清・日露両戦争における号外での戦況速報で「海南新聞」と競争し、読者数を飛躍的に伸ばした。特に、明治四一年の二二か年継続土木事業における三津浜築港問題では、安藤県政を徹底的に攻撃し、「海南新聞」と紙上での大論戦を展開して読者の関心をひいた。「愛媛新報」は、紙上に「安藤知事横暴史」や「続安藤知事横暴史」を連載して政友会の大土木計画を非難すると、「海南新聞」は、「愛媛子に誨(おし)ゆ」を掲載して反論した。このような県政界における泥試合は読者の関心を呼び、政治に対する県民の政治意識の覚醒に一段と拍車をかけ、大衆伝達としての新聞の役割が大きく注目されることとなった。

 防疫と衛生思想の発達

 医事衛生に関する近代化も明治一〇、一二、一九年の県下のコレラ大流行及び明治一五、一七、一八、一九年の赤痢の大流行を契機として発展した。医事衛生の近代化を目指して明治九、一〇年に第一回・第二回の医事会議が開催され、その指針が示された。これに伴って県の衛生行政機構も整備され、伝染病の予防と公衆衛生活動の振興が図られた。
 岩村県政時代には、当面する医事衛生に関する諸問題に対処するため医師を中心とする専門家が衛生行政に携わり、医事会議・医監―医事取締・医員会議―医務調査係・医員連合という衛生行政機構ができた。やがて医事会議や医務取締・医務調査係が廃止され、明治一三年から一四年にかけて新たに地方衛生会や郡医・町村衛生委員などが設置され(資近代2 二一二~二三二)、地方衛生会・衛生課―郡役所衛生掛・郡医―衛生通信担当員―町村衛生委員の新しい衛生行政機構で、コレラや赤痢などの防疫活動の指導に当たった。このように衛生行政は次第に医師の手から行政担当者の手に移り、衛生行政と医療の分離が明確となっていった。明治一八年には、防疫・衛生事務の最前線に立っていた町村衛生委員が三新法体制の大幅改正と財政難のため廃止され、衛生事務は戸長が取り扱うこととなった(資近代2 三五五)。また、同一九年には、内閣制度の発足に伴う機構改革により府県の衛生課が全国的に廃止され、衛生行政に一時支障をきたすことになった。
 この時期、愛媛県にはコレラが大流行し、その防疫のために県庁内に検疫本部が設置され、飲食物や民衆の集会の規制などを徹底的に行いその防疫に努めたが(資近代2 三五七~三五八)、衛生行政機構の縮小が与えた影響は大きく、対策が後手にまわる結果となった。このような状況は、明治二〇年のコレラの大流行の洗礼を受けた他府県でも見られ、政府も衛生課の必要性を痛感して再びこれを復活させることにした。その後、迅速な防疫体制の実現と衛生思想の徹底的な浸透を図るために、明治二六年を期して衛生行政は警察部に移管され警察行政の一環として行われるようになった。このような所管の変更によって伝染病に対する防疫体制は一段と強化され、県民の衛生観念の向上とあいまって予防に効果を発揮したが、いっぽうでは警察権力の発動による強引な衛生行政であったため医師や民衆と多くの摩擦を生じさせることとなった。町村では町村衛生委員が廃止されて以後、伝染病の防疫及び救護事務については戸長がその事務を取り扱っていたが、コレラ・赤痢などの伝染病の頻発により事務が繁忙となったため、明治二〇年、戸長の下に複数の町村衛生係が新設され、末端の防疫業務を担当した(資近代2 五五〇~五五一)。
 明治二一年に市制・町村制が公布され一応の地方自治制度が体系化されると、衛生行政は原則的には市町村が担当する業務となり、町村に衛生組合を設置して防疫業務や衛生思想の向上を住民自らの手で行うよう期待された。愛媛県でも明治二四年五月、「伝染病予防心得書」が各郡役所や市町村・警察署に伝達されるとともに、県下各市町村に衛生組合を設立して住民自らの手で伝染病予防に当たるよう指示した(資近代3 一〇〇~一〇四)。これにより、県下各町村に衛生組合が続々と設立されたが、なかでも桑村郡庄内村(現東予市内)や東宇和郡貝吹村(現野村町内)の衛生組合の活動は熱心で、飲料水の管理、下水・便所の管理、伝染病発生時の措置などに関する規約を作り組合員に署名捺印させ徹底を期そうとした。明治二八年、県はこの衛生組合の構成基準や規約の統一を図るため「衛生組合準則」を制定して市町村に布達、県下同一基準による住民衛生の向上を目指した(資近代3 一一八)。ついで県は、同三一年、「伝染病予防法」に準拠し「市町村衛生組合設置規程」を制定して、井戸・下水・便所・溝・家宅の内外の掃除改善の方法、衛生談話会開設の方法、伝染病発生時における各自の予防方法などの規約を作成させ提出させるとともに、石炭酸・塩酸・生石灰などの消毒薬を衛生組合に常備させるようにした(資近代3 三〇三~三〇五)。このような衛生組合の育成方針により、明治二〇年代末には約五、〇〇〇の組合が結成され県下市町村のほぼ全域に行き渡った。これと同時に各府県では溝渠・便所・塵芥・糞池などの清潔法が実施されはじめ、伝染病予防のための環境衛生の改善が徐々に進んだ。愛媛県は、明治二九年「清潔法施行規定」を定め、市町村の責任で下水路・便所・塵溜・汚水溜・厩牛舎などの整備や消毒を実施するよう指示した(資近代3 一二五~一二六)。同三三年には都市とそれに準ずる町村の環境衛生を改善するため、「汚物掃除法」が制定公布され、松山市・今治町・三津浜町・宇和島町が該当市町村に指定されて、下水路の整備や汚物処理を組織的に行うようになった。この結果環境衛生面の改善が一段と進み、住民の生活様式も徐々にではあるが近代化していった。

 生活様式の変化と庶民生活

 明治前半期の開化政策で、東京・大阪や横浜・神戸などの開港場の一部地域を中心に生活様式や風俗の洋風化が進み、煉瓦造りの洋館、洋服や靴の着用、牛豚肉の食用、牛乳の飲用などの流行が見られたが、地方都市やその近郊にこのような生活様式が浸透したのは明治も後半期のことであった。特に農村では、村落共同体の伝統が根強く残り、生活様式や風俗の洋風化の傾向をかたくなに拒む場合が多く、明治末から大正の始めになって一部住民の間でようやく取り入れるようになった。
 愛媛県でも、松山・今治・宇和島などの中核市町村を中心に生活様式や風俗の近代化が進み、産業や交通の発達に伴って徐々に周辺農村部に浸透していった。住民の足となる交通面の近代化は、明治二一年にはわが国最初の軽便鉄道が松山~三津間に開通し、一日一〇往復の運転を開始したのを最初に、同二六年には松山~平井間(同三二年には横河原まで全通)、同二九年には松山~森松間・松山~郡中間が開通し、周辺町村との結びつきがより緊密となった。また同四四年には、一番町~道後~古町間に電車が運行されるようになり、松山の景観も一変した。ところで、軽便鉄道開通当時の松山~三津間の下等運賃は三銭五厘で米一升七銭程度の当時としては高額なものであったが、珍しさも手伝って利用客は多かった。また、交通機関として新しく登場したのは、人力車・自転車・乗合馬車であった。人力車が初めて松山に登場したのは明治四年といわれるが、手軽な庶民の足として急速に普及し、同三〇年代以降には県下で一、五〇〇台前後となった。自転車は、明治二九年県内に初めて登場したが、道路事情の悪い愛媛県においては軽便な乗り物として県下全域に急速に普及し、明治末には五、〇〇〇台前後が利用されるようになった。特に、乗合馬車は、鉄道の敷設の遅れた松山市周辺以外の地域で明治三〇年代以降急速に普及し、鉄道開通までの旅客輸送の主役として活躍した。県下で初めて営業用の乗合馬車が登場したのは明治三三年の松山~北条間といわれるが、明治末には県下で約三五〇台の乗合馬車が営業するまでに普及し、都市と農村を結合させる重要な交通手段となった。
 火力・水力発電の開始による電力の供給や電灯の普及は、生産面や娯楽面で庶民生活を大きく変貌させた。わが国で電灯が一般に使用されるようになったのは、東京電灯会社が明治二一年から東京市内に電力供給を行ってからのことである。その後、神戸・大阪・京都・横浜などの主要都市にも同様な事業が生まれ、同二五年末には事業数一一、電灯需要戸数七、一三三となった。県下では、明治三四年一二月伊予水力電気㈱が創設され、同三五年から松山・三津浜に電灯が点灯されて以来、松山市・温泉郡・伊予郡へ電力の供給を行った。東予地方では、同四〇年に今治電気と西条水力電気会社が開業して越智郡・周桑郡に電力を供給、また南予地方では、同四五年に宇和水力電気㈱が開業して北宇和郡・東宇和郡への供給を開始した。電灯の普及も大正元年には、電灯需要戸数一七、七三五、常時灯数二〇、〇三四となり、農村部の近代化に大きく貢献した。
 民衆娯楽施設としては、明治一〇~二〇年代に松山・今治・宇和島などに常設芝居小屋や寄席が数多く建設され、大芝居・壮士芝居・落語・講談・浄瑠璃・琵琶・小唄・舞手踊・手品などが常時上演されて民衆娯楽の主役となった。特に、明治二〇年一〇月に開設された松山大街道の「新栄座」は松本幸四郎らの歌舞伎の大芝居を上演して好評を博し、同じく大街道の「改良座」は明治二二年川上音二郎らのオッペケペ節を上演するなど多くの観客を集めた。その後、壮士芝居(新派)をはじめとする劇団の地方巡業が盛んになると県下各地に劇場が建設されるようになり、日ごろ刺激のない農村部の住民も壮士芝居などを通して政治や事件の動向を把握できるようになった。明治三〇年代の半ばには、松山市駅東側に建設された「大西座」(後の末広座)で初めて活動写真が上映され、学生をはじめとする若者の人気を博した。活動写真はその後県下各地に巡業し、実写物や記録物を上映して庶民への浸透を図った。活動写真が従来の娯楽の中心であった大芝居などを圧倒し興業的にも成功するようになったのは、明治四四年松山の「寿座」で上映された劇映画「ジゴマ」人気を契機としていた。この「ジゴマ」は全国的に反響を呼び多くの観客を動員したが、その犯罪手口をまねる者が続出したため翌年上映禁止となった。大正元年には、県下で最初の常設活動写真館「世界館」(後の有楽座)が大街道に登場するに至り、庶民娯楽の中心は完全に活動写真に移っていった。
 衣食住の変化については、松山・宇和島・今治など都市部とその近郊一部住民や公共機関において建築物や衣服及び食生活に洋風化が浸透し、明治三〇年代以降には洋服・帽子の着用や肉食などの習慣がある程度定着したが、山村部における衣生活や食生活は従来どおりの自給自足体制に立脚する質素なものであった。都市近郊の農村部における庶民生活の一端を大正二年に編さんされた北宇和郡の『二名村誌』(現三間町)で紹介すると次のような状況であった。

 平素に於ける衣服は盡(ことごと)く綿服なれども、祭礼儀式等に於ては大半絹布を着用す、木綿着物と雖も手織にして地質堅牢なるもの少く双子織瓦斯縞等多く用ゐられ袴羽織も漸次着用者を増し品質亦従て高等なるものを用ゆ、近来綿ネルの流行と共にシャツズボン下の着用者多く「パッチ」襦袢(じゅばん)は之に反して衰ふ、女子の服装は華美を競ひ嫁入仕度の如きは実に身分不相応の投資を為すもの少なからず、男子の帯は縮緬(ちりめん)のスツコキ大に流行し角帯は商人に限るが如く、婦女子間には高価なる丸帯流行し其の柄をさへ競ふに至れり、従来防寒具として用ひられし赤毛布は二重マント、インパネス、将校マントに代り実用よりは寧ろ外観に重きを置くものゝ如し、婦女は男子の外套(がいとう)に対して吾妻コートを着用するもの珍らしからざるに至れり、襟巻の如きも近来男女共に毛製絹製羽子(はね)製の高価なるものを用ゆ、次に用ゆるもの稀なりし帽子は用ゐざる者稀なるに至り、編笠菅笠(すげがさ)の類は労働用として尚之を嫌ふに至れり、雨傘は一般にトヒヤ張を用ゐられ女子は蛇の目を用ゆ、日傘としては蝙蝠傘(こうもりがさ)を用ひ娘子供にして絹製を有せざるもの稀なり、下駄も表附流行し竹の皮緒棕梠(しゅろ)皮緒の如きは殆んど庭下駄としてのみ用ひらる、次に平素の主食物としては半麦飯を通常とす、副食物は魚肉及野菜を主とし近来魚肉の売れ行盛なるが如し、冬季に至れば牛肉を用ゆるもの亦少なからざれども未だ一般に用ゆるに至らず、飲料として酒は一般に嗜好せられ酒量漸時増加すると共にアルコール性の強度なるもの歓迎せらる、洋酒灘酒等は未だ用ゆるものなし、醤油は自家製造大に減少し宇和島より買ひ入るゝもの多し、次に家屋は維新以来瓦葺次第に増加せしも尚棟瓦庇瓦に止むるもの多し、近来新築する家屋には西洋棟流行し従て之等は皆瓦葺に限れり、蓋し家屋に於ては質素にして古風なること地方に冠たり、
之を要するに衣食住中最も華美に流れ過度に失し必要の程度を超ゆるの傾向なき能はざるは被服なる可し、

 この村は宇和島近郊の米作地域に位置して経済的には比較的豊かな農村であり、明治末には街道筋に商家や飲食店が数多く見られるような地域であったため、その生活状況は山村部の自給自足的な生活に比べかなり進んだ状況にあった。食生活においても一部では肉食が行われ、醤油などの調味料や酒などの嗜好品もかなり購入されていた様子がうかがえる。特に衣生活が華美に流れていると文中で警告しているが、このことはこの村の豊かさを象徴するものであった。

図2-41 コレラ(虎疫)流行の戯画

図2-41 コレラ(虎疫)流行の戯画


図2-42 軽便鉄道開通の戯画

図2-42 軽便鉄道開通の戯画


図2-43 電灯点灯の戯画

図2-43 電灯点灯の戯画