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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 郡政の展開と郡制の廃止

 郡政の実情と郡制の廃止

 郡は、プロシアの制にならった明治二三年の「郡制」発布により、新たに自治体として設定された行政単位であった。従って、郡制施行後、郡が自治体として充分に発展を遂げるかどうかは、我が国の地方制度発達上の一つの重要な課題であった。郡の行う事業施設をみると、道路・治水・堤防・橋梁などの新設改修の土木事業、一般農業・蚕糸業・畜産業・水産業・製紙業などの奨励助長の勧業事業、義務教育(郡視学設置)、実業教育・実業補修教育の普及など教育事業、郡医の設置・産婆看護婦の養成・衛生講習会の開催などの衛生事業が中心であった。このほか郡は、町村の経営する道路・橋梁その他の新設改修に補助金を与え、郡農会・蚕糸組合・畜産組合・漁業組合・山林組合・紙業組合あるいは茶業組合などに補助金を交付し、教育会・町村立の高等小学校補習科・組合立の農業学校などに財政的援助をなし、また衛生会・医師会・産婆組合・私立病院あるいは看護婦講習会等に補助を与えるなど、下級地方団体、組合その他の団体あるいは私人の公共的施設に対する補助を通じて間接的にその地方の上木・産業・教育及び衛生などの発達に寄与してきたのであった。
 また、郡の財政収入をみると、郡には課税権が与えられていないため、大部分は町村分賦額が占め、次に県補助金、続いて寄付金収入となり、以下郡債収入・財産収入・国庫補助金などとなっていた。
 こうしたことから、郡はその事業内容や財源関係からみて、団体自体の発達に基づく自治体としてよりも、むしろ府県と町村との間に中間団体として挿入された人為的な団体としての地位と機能を持ち続けてきた。しかし、町村に対する国からの委任事務の増加に伴い、それに堪えうるための町村強化策が進められるにつれて、郡は次第に影の薄い存在となっていった。
 郡制については、制定当時元老院会議において、また政府部内においても、郡の自治体化に対して強硬な反対意見が唱えられていた。その後、郡制施行の前提であった郡の全国的分合が遅々として進まず、自然郡制の施行も遅延気味となった。このため郡制廃止の声は早くから表れ、明治三七年には、挙国多事の際ほとんど仕事らしい仕事をしていない無用の長物の郡を廃して民力休養に努むべきであるとする郡制廃止案が衆議院で問題になったが、審議未了となった。つづいて西園寺内閣が明治三九年と同四〇年に郡制廃止法律案を帝国議会に提出、大正三年には議員提案になる同法律案がいずれも衆議院で可決されたが、その都度貴族院で否決された。
 大正一〇年三月第四四議会に、原敬内閣は三度、郡制廃止法律案を提出した。内務大臣床次竹二郎が詳細にその提案理由を説明しており、その大要は次のとおりであった。(1)郡制施行以来、郡自治の発達には見るべきものが甚だ少ない。(2)府県と町村が自治体として古い歴史を有し、地方事務の多くを経営しており、郡経営に残されたものは少なく、郡は本来その発展の地盤を欠いている。(3)自治体としての郡の廃止は、地方行政組織の簡素化、事務の簡捷化となり、郡長の町村指導監督が容易となって町村行政の充実が図れる。(4)郡費の分賦が消滅する結果、町村財政に伸縮力が与えられ、町村自治活動の促進に利益が大である。
 この郡制廃止法律案は政府原案どおり衆議院を通過した。難関である貴族院では、特別委員にこれが付託され、賛成論が大勢を抑え可決され、更に本会議でもついに原案どおり通過した。大正一〇年(一九二一)四月一二日法律第六三号をもって「郡制廃止ニ関スル法律」が公布されることとなった。初めて法律案が議会に提出されてから、一七年の歳月を経てようやく実現をみることになったのである。
 こうして大正一二年四月一日をもって郡制は廃止され、郡は純然たる行政区画となった。郡長・郡役所は従前通り存続したが、専ら国の地方行政官庁としての性質を持つに過ぎなくなった。

 県会での郡立学校県立移管論議

 郡制廃止の公布に伴い、内務大臣指示事項にそって経過措置が順次とられることになったが、愛媛県ではまず最初に、郡立学校の県立移管を取り上げた。大正一〇年通常県会で、予算説明に当たった知事宮崎通之助は、大正一一年度をもって郡制が廃止されるから、郡立学校の多くは県立に移管するのが適当であると考えている、現在調査を進めているが、郡制廃止以前に学校移管について審議してほしいと述べ、郡立学校県立移管案を本県会中に提出すると予告した。
 提出された大正一一年度追加予算案は、郡制廃止に伴う郡立学校と八幡浜町立高等女学校の県立移管及び県立東宇和高等女学校の教育費追加四三万余円、道路速成を図るための土木費年度割支出額追加二二万円の大型のものであった。このうち、教育費については、当時郡立中等学校が宇摩郡立農林・新居郡立農・伊予郡立実業・南宇和郡立実業の四農業学校と郡立宇摩高女・新居郡立西条高女・周桑郡立高女・喜多郡立大洲高女の四高等女学校及び郡立宇和島実科女学校の九校を数えたが、県当局は、「不振ノ現況ニアル」宇摩郡立農林学校を除いて八校の県立移管を適当とし、合わせて八幡浜町立高等女学校の県営化及び「郡ノ地理的状態並ニ此地方ニ於ケル向学心ノ状況等ヨリ考ヘテ」東宇和高等女学校を新設しようとしていた。
 これらの学校の移管・新設に要する経常部歳出は二一万円余で、知事説明によると、「県ノ真ノ負担額ハ一○万二、七〇〇円」であるとされた。更に、県立移管及び新設学校については校地校舎備品などを無償で県有に移すこととされ、県営にふさわしい校地校舎の設備充実については、当該郡・町が建築工事を施行して現物提供する大洲高女・宇和島実科女・八幡浜高女を除き、他の七校は大正一一~一三年度継続事業で一一年度の二一万余円を最初に、二九万五千余円の経費により整備することにしていた。これらの費用はすべて当該地方の寄付金負担の予定であった。
 この追加予算案は本県会の焦点とされ、県民注視の的となった。とりわけ、県会野党憲政会の機関紙「愛媛新報」は、膨大な追加予算は県民負担を考えない県当局の無謀と政友会の党利党略の馴れ合いであるとして厳しく批判した。更に、郡立学校の県立引き直しについても、充実した二、三の郡立学校に絞り、県民の負担力を考慮した県立学校経営の根本方針を確立すべきであると論じていた(「愛媛新報」社説大正一〇・一一・一七付)。また、同紙は与党政友会のなかでも、野本半三郎ら一二名の県議が、郡立学校引き直し案は「政友会支部四、五の最高幹部にて決定し他の議員には何等謀る所なく知事を動かしたるもの」であるとして、「百万県民の為めに公正なる意見を有するものには仮令反対党にても行動を共にし所信を貫徹すべしと申し合わせた」と報じた。一二県議の造反に直面した政友会では、追加案の審議を遅らせ、支部長の岩崎一高が説得に乗り出し、野本半三郎の次期議長就任などを条件に党議に服することを認めさせたといわれる。
 この結果、審議では、政友会多数で採決を強行して原案可決、二、三読会審議を省略して確定議とした。一二月一〇日付「愛媛新報」社説は、「学校案遂に鵜呑にさる」「今や神聖なる教育さへも党勢拡張の具に供せられるるに至った」と慨嘆していた。
 各校は、それぞれ設備を整え、文部大臣の認可を経て、翌年四月に再発足もしくは新発足した。

 郡制廃止に伴う事務処理

 大正一一年通常県会は、時の加藤友三郎内閣の示した行財政整理・緊縮財政・綱紀粛正の方針、並びに九月一四日付の内務・大蔵両次官名による財政緊縮に関する訓示による抑制を受けて編成された予算案と翌年四月施行の郡制廃止に伴う郡有財産の処分、郡事業の帰属などが大きな議題となった。
 郡制廃止に伴い、従来郡費をもって施設経営していたもののうち県に移管したものに係る予算は、大正一二年度追加予算案としてこの県会に提出された。経常部と臨時部を合わせると五八万五千余円の巨額で一二年度当初予算額五三九万九千余円の約一〇・八%に当たっていた。なお、当初予算案は前年に比して約五・九%減の緊縮予算となっていた。
 歳出予算の主な内容を次にみよう。土木関係では、経常部で道路書記一人と道路技手八人、工手四人と工手補四人の県移管による人件費、既設の道路・小橋梁の通常修繕費などで六万五千余円、臨時部で新たに県道に編入される予定道路(後述の諮問第二、三、四号)の改修費として三〇万円余が計上されていた。教育関係では、先の県立移管で独り取り残されていた宇摩郡立実業学校を移管するために経常部で二万二千円、臨時部で施設充実のため三万一千円を計上、そのほか臨時部では、郡費補助事業のうち愛媛教育協会・公立実業補習学校に対する補助、上浮穴郡経営の松山市内にある生徒寄宿施設への補助を計上していた。勧業関係では、勧業費中に水産に関する技手六人と農業に関する技手四人、郡役所費中に養蚕技手一二人と林業技手九人及びその他一二人、合わせて四三人の県移管の人件費、臨時部では、従来の郡費補助を継続するため県農会・組合及び連合会・山林会への補助を計上している。社会事業関係では、社会主事補九人を県に移し、青年団及び処女会郡連合会補助を計上していた。
 郡制廃止による必要不可欠の追加予算であるとはいえ、その結果として県民が直接担う負担は少なくなかった。この点に関して宮崎知事は、郡制実施中の郡費総額は大正一一年度一九一万円の多額にのぼっている、これは郡制廃止に伴い一時的に膨張した額であるので、今回の追加予算総額五八万五千円余をこれと比較するのは適当でない、大正九年度の郡費総額八七万円と比較すると、追加予算総額はその六割六分に当たっているとして、県への移管に際して経費節減に努めたことを強調し、県民の直接負担となる戸数割四〇万円についても、郡費の町村分賦金の多寡を示して、郡制廃止により県民の直接負担額が減少すると説明していた。
 しかし、郡制廃止に伴って郡の施設経営事業のすべてが県に移管される訳ではなく、県に移管されないものは当然町村の新たな負担として加わってくるし、また道路の府県道移管や県立学校移管・新設に伴う地元寄付金など直接間接の町村負担増を考え合わせるとき、経費軽減を文字どおり受けとることは疑問視されたのである。

 (第三次)府県道の路線認定

 こうした県民負担増大への危惧がある反面、郡制廃止に便乗する動きがあることも見逃せない。その例証として府県道の路線認定をめぐる問題があった。この大正一一年通常県会には、四件の諮問案が提出されたが、いずれも郡制の廃止に関連した権利・義務の帰属問題と郡道及び町村道の処分に関する問題であった。
 諮問第一号は、法の規定により温泉郡外一一郡に属する次の営造物及び事業並びに権利義務を愛媛県に帰属させようとする内務大臣からの諮問であった。

  一、郡吏員職員ニ対スル退隠料、退職給与金、遺族扶助料支給ノ義務、
  二、郡歳計剰余金、郡費誤払戻入及誤納下戻、
  三、前各項ノ外ノ営造物及事業竝権利義務ニシテ別紙村又ハ町村ニ帰属セシムルモノ其他郡制廃止前ニ処分スルモノヲ除キタルモノ、(各郡の細目は省略)

 審議においては、西村兵太郎(喜多郡、憲政会)から第二項の歳計剰余金について、府県道への編入を見込んで既に工事を着手しておりながら、結局編入が認められずかつ工事そのものも三月三一日までに完成しない場合、その歳入剰余金を県に移管するのは酷でないかとの質疑があった。これについて内務部長百済文輔は、法律上明確な規定はないが、最近発布された勅令第五〇二号第一一条に「郡制廃止ニ伴フ経過事務ハ郡長之ヲ処理ス」の項目があるので、これを適用して従来の出納閉鎖の時期まで郡長が残務処理を行うことにしておけば問題は解決するとの見解を示した。他に格別の論議もなく、満場の賛成で可決し、読会を省略して確定議となった。
 諮問第二、第三、第四号は、知事宮崎通之助の提出にかかる府県道路線認定の変更及び路線の認定に関するものであった。諮問案の詳細は省略するが、第二号は既に県会に諮って認定済みの路線のうち高知県との調整がつかない西条高知線など三路線、第三号は認可の下りていない土居蕪崎港線など三路線、計六路線の認定変更を図ったものである。第四号が問題の諮問案で、今回の郡制廃止に際し新たに七〇路線(郡道一二二里、町村道六七里、計約一八九里)を府県道に編入することを諮ったものである。いずれも地元の利害と直接に結びついた案件であり、県会最大の関心をひいた問題であった。
 一二月九日、諮問案が提出されると、地元関係者が続々と松山に集結してきた。議事日程が変更され、急遽これらの諮問案は翌一〇日に審議に付されることになったが、当日の県会は「傍聴席は立錘の余地なく、議場の場内に迄溢るる程の大入大人気」(「愛媛新報」大正一一・一二・一二付)という状態であった。諮問案に対して、政友派と憲政派の双方から答申案が提出された。政友派の答申案は清家俊三外一九名から提出され、清家俊三が提案理由の説明を行った。その内容は、原案を至当と認め賛成としながらも、諮問案中四路線の変更と新たに追加認定を一五路線(六〇里)要求するものであった。一方、憲政派の諮問案は村上紋四郎外一四名より提出され、村上が提案理由の説明を行った。第二、第三号諮問については異議なしと答申したが、第四号については、郡道を偏重するあまり市町村を連結する重要町村道を没却しているとして、新たに十数路線を追加する答申であった。この両派の答申案をめぐっては、議場外で双方の機関紙(「海南新聞」と「愛媛新報」)が、それぞれ自派の選挙地盤のみを偏重しているとして激しい非難の応酬を展開しており、議場内では答申案の提出により両派の立場が明確になっていたため、実質的な審議・論議はほとんど行われなかった。採決の結果、憲政派の答申案は賛成少数で否決され、政友派の答申案が原案どおり可決され、以降の読会を省略して確定議となった。
 この諮問と答申及び附帯決議の路線は内務省に認可申請され、翌一二年四月一日、一部の路線を除いて内務省から認定された。県はこれを受けて、同日告示で新たに認定された路線を公示した。その内訳をみると、第二号関係で答申三路線に対し三路線、第三号関係答申三路線に対し一路線の認定、第四号関係七〇路線に対し五一路線(今治津倉線と津倉宮窪線は今治宮窪線として認定)、政友派付帯決議による申請一九路線については五路線、その他従前申請中のもの一九路線が認定された。この結果、変更を含め新認定となったのは合計七九路線であった。この外、従前認定の大町西条線が廃止された。(資近代3八六六~八七四)以上を一覧すると表3―5のようである。なお、大正一三年にも県会への諮問・答申を経て、三坂・松山線など一五路線が府県道に認定されている(路線名は第六節「交通・運輸の発達―道路」参照)。

 郡役所の廃止

 郡制廃止後、地方行政官庁として残されていた郡長・郡役所は、大正一五年(一九二六)六月四日の「地方官官制」全文改正により全廃されることとなった。この改正は七月一日から施行され、郡は単なる地理的区分を示す名称に過ぎなくなった。
 郡役所廃止の発端は、大蔵省の行政整理にあるとされるが、同省の郡統廃合案の動きを見た内務省が全廃を決意し、大正一三年ころからその下準備のため、各府県に郡役所廃止善後処分に関する照会を重ねていた。
 愛媛県の場合、大正一三年(一九二四)一二月内務省地方局長照会(郡長職務権限事項の処置、県庁官吏の増員数・配置及び経費詳細、出張所などの組織・職務権限・管轄区域とその必要経費)に対し、内部協議の結果、翌一四年二月二日知事佐竹義文は「郡役所廃止ハ絶対ニ不可ナリト認ム」と回答していた。協議資料によると、このうち出張所ないしは支庁の設置については、工場課を除き他の課はすべてその必要性を認めていた。
 つづいて六月二四日付地方局からの電報照会(郡役所廃止後中間機関を設けず、郡長職務を県知事に引き継ぐ場合の県庁職員数の増員及び経費明細)に対しては、国費関係一〇四人で一五万三千余円、県費関係一一〇人で一四万七千余円と報告していた。
 更に、同年一二月二一日付「郡役所廃止善後処分ノ件ニ付照会」では、廃止年月日、中間機関不設置の原則、郡長権限の移譲、地方事務官の増員数及び国費配当見込額、府県経費(郡役所費の半額)などについて明示して照会していた。
これに対し愛媛県は、「内務部庶務課ヲ地方課卜財務課トシ勧業課ヲ農務課及商工課トスル」「各課・警察署等ニ配置ノ人員及経費ハ別紙ノ通」「本県ハ交通不便等ノ関係モアリ地方事務官ハ七名御配置相成度」「事務官配置予定、商工課長・社会課長・財務課長・地方課町村監察官三名・学務課兵事社寺官一名」と要約回答していた。別紙による「県費増加額調」の総計をみると、増員一一二人、経費一二万六千余円で、大正一五年度予算計上の郡役所関係人員(二五〇人)、経費(二五万三千余円)の約半分であった。
 このほか内務省からは、郡役所廃止に伴う退職官吏賜金の調査や(1)府県管内で鉄道及び乗合自動車の開通している町村数、(2)府県庁への往復日数毎の町村数の報告が求められた。愛媛県では、前者については一一万円、後者については、(1)が一五一町村、(2)が一日以内六五町村、二日以上二一一町村、三日以上八六町村、五日以上なしと回報していた。
 政府は、右のような各府県に対する調査結果をもとに、府県制中改正法律案の審議を議会に要請し、大正一五年度予算案を提出した。法律案は衆議院の委員会で一部修正され、本会議で修正案通り可決、貴族院では反対意見は強かったが、衆議院議決通り可決成立した。しかし、貴族院は予算案可決に際して、「郡長廃止ハ地方ノ状況ニ依リ、反テ其ノ行政及自治ノ運用ヲ凝滞セシムルノ虞ナシトセス。……町村民ニ対シ不便ヲ与フルト認メラルル地方ニハ、支庁又ハ出張所ヲ設置スル等適当ナル施設ヲ為シ、町村ノ指導監督上万遺憾ナキヲ期セラレンコトヲ望ム」との附帯決議を可決した。

 宇和支庁の設置

 改正府県制の成立を得た第一次若槻礼次郎内閣は、貴族院の附帯決議を無視できず、妥協的措置として、新府県制に基づいた地方官官制の全文改正に際して、支庁及び支庁出張所の設置を規定した。その結果、全国に二五支所が設置され、愛媛県には一支庁が設置されることになった。
 四月二二日、政府は地方長官会議を招集し、席上若槻内相は、郡長と郡役所の廃止を七月一日より実施する旨を告げるとともにその意義について、地方行政機関の組織簡易化により事務の簡捷、町村の自立独行・健全発達、国費及び地方費の節約による国民負担の軽減を強調し、その上で府県知事に対して「能く制度革新の趣旨を徹底せしむるに勉め、国民をして自奮自発、相率ゐて自治有終を済さしむるに力を致されむこと」を要請した。
 二日後、内務省は地方局長名で各府県に対し、支庁設置の必要性の有無を照会した。これを東京ステーションホテルで受け取った県知事香坂昌康は、二六日付で「宇和支庁」の必要を次のように回答した。

  一、支庁所在地 宇和島市
  二、管轄区域 北宇和郡(全部二町三十箇村)、南宇和郡(全部二町五箇村)
  三、理由
    右両郡ハ本県ノ南端ニシテ県庁ニ至ルニ海路ニ由ルヲ順路トシ、宇和島港ヨリ松山市迄百〇二浬(外ニ鉄路五哩八分アリ)一日ニ一便アルノミナリ、更ニ南宇和郡深浦港ヨリ宇和島港迄四十三浬ヲ算シ、又右両郡内ノ町村ヨリ其ノ湊ニ至ルニ一日ヲ要スル町村ノミナリ、
    近時陸路自動車ノ便漸ク開ケタリト雖宇和島市ヨリ松山市迄三十一里南宇和郡役所々在地ヨリ四十二里アリテ、六時間乃至八時間ヲ要シ発着車数尠キヲ以テ普通ノ用ニ供スル能ハス、
    以上ノ如ク交通ノ便極メテ薄キ殆ト島嶼ト異ナルナキ僻地ナルト共ニ其ノ区域亦広ク、且ツ宇和島市ガ各町村ト県庁トノ要路ナルヲ以テ茲ニ支庁ヲ設クルヲ至当トスベシ、

 この申請は、そのまま内務省で認められ、六月九日内務省告示第八二号で示達された。(資近代3八一九)こうして、愛媛県宇和支庁が七月一日から新しく発足した。庁舎は、宇和島市広小路の旧北宇和郡役所をそのまま使用した。
 ところで、大正一五年六月、郡役所廃止に伴う善後処置のため臨時県会が開催された。提案された大正一五年度歳入歳出更正予算案をみると次のようであった。歳出経常部郡役所費は一〇万円余、率にして四〇・一%を減額していた。内訳は、俸給・旅費を四~六月の三か月分の支出で七月以後の九か月を打ち切り、諸給では退職特別賜金及手当を八万六千余円計上していた。なお、整理された郡吏員数は書記一五七人、視学一二人、技手二五人、主事補一〇人、産業技手一三人、計二三五人に及んでいた。一方、県庁職員の増員としては、県吏員職員費が一一万二千余円の増額で、年俸二〇〇円の主事一人、月俸一一五円の視学七人を含む吏員一〇二人、雇員二二人の俸給九か月分が計上されていた。このほか、警部補巡査六人が増員され、警察費に俸給九か月分が計上追加された。
 審議においては、超党派の議員から活発な質疑・意見が展開したが、とりわけ郡役所廃止後に宇和島に設置される宇和支庁に対する反対意見がその中心となった。南予を代表する形で清家吉次郎(北宇和郡、政友会)が大演説を行っているが、要約すると、第一は、設置理由としての「交通不便ノ故」について、外にも東宇和郡の海岸四か村のようにより不便な所があり納得できないこと、第二は、今回の郡役所廃止の目的が市町村ともに三次監督を改めて二次監督にすることにあるにもかかわらず、「丁度其支庁ヲ置カレル其膝元ノ宇和島市ヲ除外セラルルコトハ何タルヤリ方デアルカ」、自治制の未発達であれば宇和島市を除外するのは納得できないという点にあった。この清家の見解には日野政太郎(温泉郡、政友本党)から賛成意見が出され、同人の再質問において、北宇和郡の町村長会が廃止を決議し、南宇和郡の村長からも支庁設置反対意見を聞いている点が補強された。こうした町村自治の立場からする反対運動は、既に政府がその設置を内務省告示で公表したころから開始されており、「愛媛新報」は「宇和支庁の反対運動――町村自治の権威の為当然だ――」と題した社説(六月一一日付)を掲げ、北宇和郡町村長会の反対運動を紹介して、「宇和島市に支庁を設置するは北宇和郡町村を侮辱するものだ」という住民感情から反対運動が起こっている点を重視していた。清家や日野ら町村長議員の反対論もこれを基調にしていた。
 答弁に立った知事香坂昌康は、町村自治の侵害であるとの所論に対して、内務省が全国的に通観して交通の状態をみて決定したもので、鉄道の開通していない南予地方に支庁を置くことは「地方ノ民衆ノ便宜ヲ図ル」上において当然ではないかと質問をかわしていた。
 こうした町村自治にかかわる基本的質問のほかには、郡役所廃止に伴い徴兵・衛生事務が警察署に移されることなど警察関係、技術吏員の減員と今後の配置問題、宇和支庁の組織・経費や支庁長の権限に関する質問が出された。
 更正予算案は原案どおり可決、確定議となった。しかし、六月二二日に「宇和支庁撤廃意見書」が清家吉次郎以下政友会一一名・憲政会七名・中立一名の超党派かつ全県的な議員によって提出され、県会最終日の二四日に全員異議なく確定議とし、この件に関する愛媛県会の意見表明として内務大臣に送付された。
 更に、同日、松田喜三郎(温泉郡、政友本党)ほか一六名を提出者とする郡役所廃止後の町村分合などを求める意見書が提出、審議に付され、異議なく確定議となり、内務大臣に送付された。意見書の内容は、郡役所の廃止に伴い市町村を分合整理してその事務の簡捷、経費の節約など諸般の改善をなし、市町村民の便益利福を図るため、次の諸項について速やかな実現を望むものであった。

  一、村ハ戸数一千戸以上ヲ標準トシテ分合整理スルコト
  二、村ノ分合整理ニ伴ヒ市及町モ之ガ整理ヲナスコト
  三、各町村ニ郵便局ヲ置キ、郵便配達為替貯金電信事務ヲ取扱フコト
  四、各町村ヲ連絡シテ電話ヲ架設スルコト
  五、不動産登記事務ヲ市町村役場ニ於テ取扱ハシムルコト


 県庁機構の改革

 大正一五年(一九二六)六月三日、「地方官官制」が全文改正された。今回の改正は、郡役所廃止や時勢の進展に伴う事務分掌の増加に対応した措置であった。主な改正点は、(1)内務部・警察部の外に学務部を新設したこと、(2)内務大臣は府県を指定して土木部・産業部・衛生部を置くことがあるとしたこと、(3)知事が必要と認めるときは支庁・出張所を置くことができるとしたこと、(4)書記官を三人に増員したのをはじめ地方事務官など高等官吏定員の大幅増を図ったことなどであった。
 これに伴い、愛媛県は大正一五年六月三〇日に「愛媛県処務細則」を改正して、内務部にあった学務課・社会課と新設の社寺兵事課の三課からなる学務部を独立新設、内務部には地方課・蚕糸課を、知事官房には統計係をそれぞれ増設し、七月一日より施行した(資近代3八二〇~八二五)。
 郡役所廃止に伴う市町村その他公共団体・支庁の行政監督は新設の地方課が管掌することとなり、課長には元温泉郡長親泊朝輝、町村監察官として元南宇和郡長国西藤三郎、元東宇和郡長堀熊次郎、元西宇和郡長大野弥平の三地方事務官が地方課及び庶務課勤務で当たり、このほか九名の属が配置された。なお、その他の元郡長の異動をみると、元北宇和郡長高橋惣太郎は社寺兵事課長、元越智郡長川又金太郎は宇和支庁長、元喜多郡長渡辺信男は大阪府に転任で、その他の郡長は廃官となっていた。このように地方課には市町村行政監督に関する実務家を配置したほか、郡吏員から県に移された者ないし公共団体に移った者が多かったため失業者は少なく、かつ町村吏員に移る余裕もなかったので、郡役所の廃止も万事円満に解決されたと評された(「海南新聞」大正一五・七・三付)。










表3-5 府県道の路線認定

表3-5 府県道の路線認定