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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 地方改良・民力涵養運動と町村経営

 市町村治績並地方功労者表彰規程
 
 明治四一年一一月、愛媛県は「市町村並ニ市町村吏員功績表彰規程」を定め、温泉郡正岡村(現北条市)や新居郡氷見町(現西条市)町長久門信太郎・周桑郡中川村(現丹原町)村長越智茂登太らを表彰したが、地方改良運動の発展に対応して明治四五年七月五日に新しい「市町村治績並ニ地方改良功労者表彰規程」を定めた。同規程は、「民風優良諸般ノ事務克ク整善シ事業ノ施設経営宜ヲ得其ノ治績顕著」の市町村、「忠実其ノ職ニ努メ能ク市町村ノ事務ヲ整理シ又ハ市町村事業ノ経営ニ尽力シ其ノ功労顕著ナル」市町村吏員、「地方改良ノ為メニ尽力シ其ノ功労顕著ナル」団体・個人を表彰の対象とした(資近代3三八七~三八八)。 
 この基準に従い、郡長に命じて優良な市町村及び地方改良の功労者の推薦と治績報告をさせ選定した結果、大正年間には、表3―6のような優良町村と地方功労者が表彰された。これらの模範町村・町村長の治績の内容を年を追って概観すると次のようであった。

 町村治績

 大正二年に表彰された六か村のうち、伊予郡岡田村(現松前町)は、明治四二年以来三年計画で他村に先駆けて耕地整理を実行し、村内七部落ごとに共同苗代を設置して、美田の造成と米質の改良による増産に村民協力一致して励んだ。また農会を媒介に種子の交換・統一や害虫の駆除方法・肥料の配合の研究に取り組み、立毛・産米品評会を開いて栽培管理施肥その他一般作業の改良を図り産米の改善を促した。農業での共同作業を通じて村民の間に勤勉共同一致の醇風が醸成された。また、勤倹貯蓄・納税にも実績をあげた。明治三七年以来各部落に設けられた貯金組合は明治天皇の聖恩を記念した聖徳記念貯金岡田村貯金組合に統一され、年始歳暮の贈答と婚姻その他の祝祭などの酒宴を節約して貯金に充てるなど貯金人員・金額ともに良好であった。租税も競って納期内に完納するのが慣例となり、数年来一人の滞納者を出したことがないのが近村の羨望するところであった。各戸に諸税納期一覧表を配付して置き、各納期には区長を通じて徴税令書を配達、収入役自らが徴収に出掛けるなど、村役場の努力が納期内に完納する風習を作ったようであった。こうした勧業と勤倹貯蓄の推進が、「民力ヲ充実シ村勢発展ノ状見ルベキモノアリ」として表彰された。
 北宇和郡喜佐方村(現吉田町)は、戸数三一九、人口一、七七九人の小村であるが、住民は質朴醇良で勤勉によく業に励み、冠婚葬祭や田植えや籾すりなどの農繁期には互いに手伝い、家産の傾く家があれば頼母子講でその回復を計るなど情誼に厚く、隣保よく親睦した日常生活を続けていた。この勤勉の美風に加えて節約貯蓄を励行、郡の勧誘した聖徳記念貯金組合には六一七人が加入して一戸平均一七一円の貯金をした。また租税は定期内に完納していまだかつて一人の滞納者を出したこともない優秀さであった。徴税の取り扱いは令書を配布することなく納税期日を村内八組の組長に通達、組長はこれを組内各戸に触れ、納期になれば村民は組長の許に税金を納め組長がこれを取りまとめて収入役に納付する方法で、ほぼ午前中に納付手続きを終えるという手回しの良さであった。このため、喜佐方村は「夙ニ輯睦ノ美風ヲ存シ傳ヘテ今日ニ至リ、村勢発展ノ状見ルヘキモノアリ、特ニ勤倹貯蓄并納税ノ成績頗ル良好ナルヲ認ム」として、表彰された。
 伊予郡南伊予村(現伊予市)は、村長宮内長以下村吏が精励して役場書類の整理を図り、収受文書は即日処理し、諸統計も必ず実地につき根拠ある基礎により調製するなど、その事務実績には見るべきものがあった。整備された帳簿の中には住民親族調査簿があり、村内住民の郡内他町村における親族先を調査しているので、他町村に伝染病者があるときは直ちにその血族を取り調べて往訪交通を警戒し伝播予防の資に供するといった具合いに緻密正確を期していた。
 新居郡飯岡村(現西条市)は、戸数四〇八戸・人口一、九八五人の村で、国道に沿って商家飲食店を営む者があったけれども一般には農業をもって専業とし、華奢惰逸の風はなく質朴温順で勤倹力行の美風があった。このため、租税の納付に時期を違う者もなく、吏員の処置に不平を訴える者があるのを聞かなかった。学校建築・植林・溜池など特別な事業を経営してその資金を求める場合には富者は進んで寄付金を出して一般村民の負担が過重にならないようにするなど村民一致協同して常に自治団体の発展を企図していた。村会は常に平穏で執行機関とも極めて円滑であり、毎次原案の通り決定していた。殖産事業の施設経営としては、溜池築造や井堰・水路の修繕などに一村挙げて協力して、農業用水の確保を図り、日露戦役記念学林造成や植林を実行した。また村当局と村農会との連携の下に農事の改良や稚蚕共同飼育を推進した。納税・貯蓄には村民個々が自覚してこれに当たり、赤十字社その他の慈善団体にもすすんで参加した。このように村治諸般に実績をあげた飯岡村は、大正二年につづいて同四年にも治績功労表彰を受けている。以上の四か村のほか、伊予郡余土村(現松山市)は協同一致して自治の発達を図り特に勧業と勤倹貯蓄とに力を尽くして民力を充実させた、南宇和郡緑僧都村(現城辺町)は各種の会合を組織し相互連絡協力して村勢の発展を図り農事改良の方策特に顕著なるものがあるとして、それぞれ表彰された。
 大正三年に表彰された六か村中、喜多郡新谷村(現大洲市)と西宇和郡宮内村(現保内町)は造林経営、東宇和郡俵津村(現明浜町)と北宇和郡三間村(現三間町)は役場文書の整理、越智郡小西村(現大西町)と喜多郡御祓村(現五十崎町)は納税成績に顕著である治績功労が認められた。また大正四年の北宇和郡立間村(現吉田町)は町村制実施以来一人の滞納者もなく納税の成績極めて良好であり、良俗の致すところの模範となすにふさわしいとして表彰された。
 大正五年(一九一六)の喜多郡喜多灘村(現長浜町)と越智郡鏡村(現大三島町)は、いずれも納税の成績優良であるとして表彰された。
 大正六年の喜多郡五十崎村(現五十崎町)は、村政一般自治の発達を図り村勢発展の状見るべきものがあるとして表彰された。同村の吏員は授受文書をすべて処務規程で処理して敏速正確を旨とし、簿書の保存はそれぞれ部門に分けて一定の場所に格納、法令その他規則類の加除改廃の手入れもよく行われ、諸統計・報告などは期限前に処理することを例として、その事務整理は郡内第一といわれた。村の事業中最も著名なのは造林であって、明治三三年度以来一六六町歩の神南山公有林に植林した。また井堰開さくと溜池新設によって新田開発・干害防止に寄与し、里道改修と小田川橋梁の架設などの土木事業を施行して交通の利便を図った。村政中衛生にはとりわけ留意し、隔離病舎の改築による設備充実、市街地部分の下水道布設を進め、衛生組合に定時臨時の清潔法を励行させた。また村の改良方法の一つとして戸主会を設け、毎年一回戸長を招集して村治の状況・法令の改廃などを説明、納税の義務や施設事業などについて講話をなし、一年四回の「村報」を発刊して村治その他各般の状況を報知し、村風の改善に努めた。戦病死者の遺族慰藉、高齢者の歓待、罹災民の救助などのためには尚善会を設けてこれら社会事業に当たった。
 大正七年越智郡盛口村(現上浦町)・周桑郡三芳村(現東予市)と同八年の温泉郡西中島村(現中島町)は、いずれも「納税ノ成績優良ニシテ大正元年度以来一人ノ滞納者ヲ見ス、是レ吏員ノ克ク其ノ職ニ勉メ村民ノ克ク其ノ義務ヲ重ンスルニ由ル、洵ニ他ノ模範タリ」として表彰された。同一〇年の宇摩郡小富士村(現土居町)と同一四年の上浮穴郡石山村(現小田町)も納税優良のため顕彰された。
 北宇和郡三島村(現広見町)は、赤松義光が大正四年推されて村長となり村治の改革に力を尽くし、「村是五ヶ条」を定めて施政の根本方針とした。「村是五ヶ条」とは、「公益ヲ広メ自治ノ振興ヲ計ルコト(気)」「教育ヲ進メ文化ノ向上ニ勉ムルコト(智)」「人格ヲ尊ヒ村風ノ振作ニ勉ムルコト(徳)」「衛生ヲ守リ保健ノ普及ヲ計ルコト(体)」「産業ヲ興シ民力ノ充実ヲ計ルコト(経済)」の目標であり、これを貫徹すべく諸般の施策を講じた。自治の振興については吏員事務研究会を開いて法令その他執務上の疑問を審議研究した。教育の進歩に関しては、「貧困児童就学奨励規程」を設けて貧困者に学用品・金員を給与して就学出席を奨励、教育会を設けて学事の改善事項を協議実行し、男女青年団員は必ず実業補習学校に入学すべきことを義務づけた。
村風の改善民育の施設については、自治会を組織して村治上の重要事項を協議、村内の円満を図ると同時に自治的精神の涵養に努め、戸主会を設けて村長が出席して村治上その他必要な事項を協議した。その他村報・村暦を発行して村民の自覚を促し規約を設けて時間の厳守葬儀の改良などを行い弊風の矯正に努めつつあった。産業面では、米麦多収穫・自給肥料・養蚕・畜牛・林業奨励の方針を確立して、農業技術員を置き生業の改良奨励に努めた。大正九年度からは農業基本調査を実施して農業上の計画に資すことを期した。また農事改良実行組合・養蚕組合・三島信用購買販売組合などを組織して共同組合活動の発展を図り、地主会を組織して地主小作人間の親善融和に意を用いた。
 以上が大正年間に治績顕著をもって表彰された二三か村の治績概要であるが、選定の基準が「納税ノ成績優良ニシテ、一人ノ滞納者ヲ見ス」の納税完納を最重要視している点が注目される。地方改良運動の一環として開始された「市町村治績並地方改良功労者表彰」は、結局、納税の義務を完全に遂行する市町村を作っていくことを期待したものであったといえよう。しかし、第一次世界大戦後不況の風が吹きまくり、町や村の経済が年々落ち込んでいく中で、民力を高め、自治の発達を促し、税金の完納と貯蓄に励むことは次第に難しくなった。また一方では、デモクラシーの波が押し寄せ農民運動が勃興して地主と小作人の対立に村内が巻き込まれていくにつれ、「人情質朴醇良」「温厚篤実」の美風で、「勤倹奮励」「協同一致」して「克ク自治ノ改良」を図る従順な村民ではなくなった。治績功労の選定基準も既に表彰された町村に比べてより以上の充実した功績が要求された。大正二、三年に六か村ずつ選ばれていた模範村は、大正四年以後一、二村に減じ、大正九、一二、一三、一五年には該当村がなくなったのである。

 模範町村長

優良町村の減少に反比例して、本県では地方改良功労者の表彰が多くなった。大正二~六年の間三、四名にとどまっていた地方功労者は、大正七年(一九一八)六名、同八年一二名が表彰された。この中には、町村長以外にこれを補佐した助役・収入役・書記の吏員、郷党を指導し細民部落などの改善に励んだ指導者・公共事業に尽くした実業家も含まれていた。しかしこれも選定基準が困難になったのか、大正九年以後は二~四名の表彰に逆戻りし、現旧町村長と助役に絞られるようになった。これら地方功労者のうち顕彰された町村長の治績例を挙げると次のようである。
 大正三年に表彰された温泉郡西中島村(現中島町)村長忽那恕は、父の跡を継いで明治二七年以来村長の任期を重ね、家門の信用と自身の徳望により一村を率いて二〇年村政に尽くした。積極的功労としては、元来この村は六部落に分かれ、旧藩時代数藩に分属していた余習として部落割拠の風があったのを全村一致融和に努め、小学校を統合して設備の完成を期したこと、納税の成績を良好にしたこと、柑橘の栽植を試みたことなどであった。
 大正四年の温泉郡河野村(現北条市)村長田中虎次郎は、明治二三年町村制実施に際して助役となり、同二七年七月村長に当選して以来勤続中であり、その事務は確実で周密敏速、部下の指導宜しきを得ていた。この村は一四大字に分かれて純農家のほか商家及び漁家を包容し民情も同じではなかったが、極めて公平な村治に終始したのでいまだ紛擾を生じたことはなく、逐年自治の発達をみた。喜多郡三善村(現大洲市)村長亀岡哲夫は、性格勤勉質素で、明治一九年喜多郡書記を拝命、次いで県会議員・郡農会長・蚕種同業組合長など公共の事務に従事すること二八年に及んだ。村政では公益事業に意を用い、造林、耕地整理、部落財産の統一などに実績をあげた。
 大正五年の緑僧都村(現城辺町)村長尾崎重厚は、明治二四年八月助役、次いで同三二年五月村長に就任した。役場事務はもとより農事の改良、山林の経営、里道の改修、信用購買販売組合の事業など指導宜しくいずれも成績良好であった。明治四〇年には、村会議員・村吏・小学校教員などを会員にした公人会を組織、毎月一回会合を持ち、時間の励行、風紀の改善、勤倹貯蓄奨励、僕婢表彰などの社会改良事項を決めその徹底方法を談話研究した。このほか、毎年春秋二期の戸主会、教員・吏員が集まって法規学術研究と事務打ち合わせをする木曜会を興して自治の発達を図った。また緑青年館を建設して青年団員に談話夜学の場を提供、小学校教員奉職の経験を生かして自ら幻灯会を巡回実施するなど、民風改善の努力には特記すべきものがあった。同じ南宇和郡内海村村長實藤大治郎は村民の信望が厚く、戸籍簿など諸統計の整備や村基本財産の蓄積・勤倹貯蓄の励行など村長に負うところ少なくないとして表彰された。伊予郡南山崎村(現伊予市)村長影浦房五郎は、里道の改修・村有山林の整理、唐川ビワの品質改良などといずれも村長の熱心な指導の結果に基づくとして、この年に顕彰された。
 大正六年(一九一七)の新居郡神戸村(現西条市)村長久門甚三郎は、明治一九年郡書記を拝命、同二三年町村制実施に際し大保木村長の職に就き在職一二年、橘村長に転じて在職六年、同四〇年神戸村長になった。この村長歴が示すように役場内外の信頼極めて厚く事務の成績佳良であった。神戸村では、村農会と協力して農事の改良発展に尽くし、水利組合の基礎を強固にするため基本財産の蓄積に努めて基金収入をもって組合経常費の全部を賄うまでになった。その外、加茂川西堤防にしばしば水害あるのを憂え関係町村を勧誘して大正二年神戸村外二か村水害予防組合を設置するなど、見るべき治績が多いとして顕彰された。
 大正七年に表彰された下浮穴郡浮穴村(現松山市)村長武智太市郎は、明治三七年同村村長になった。当時、浮穴村は貧村で税の滞納者が多かった。武智は村長就任以来民情の弊を改めようとして種々画策した。中でも、自村の土地が他市町村民の所有地になっていることを慨嘆して、これの買い戻し方法を立て勤倹貯蓄組合を設けて土地資金の一助としてこれを勧奨した。また農事の改良を督励して農家経済の挽回を図り退廃にひんしていた農事を振興させた。納税については説諭勧告などでは成績が上がらないことを知り、明治三八年他町村に先駆けて納税組合を設けて徴収の方法を講じ、漸次改善の方向に進めていった。
 大正八年の西宇和郡川上村(現八幡浜市)村長土居盛一は、明治一二年以来村会議員・学務委員・郡会議員として公職にあり、同村々長には明治二三年町村制実施に際し選任されて以後三回の当選を重ね、その間、教育功労者として文部省表彰、農村風紀の改良者として日本農会総裁の表彰を受けていた。村治として特記すべきものは、明治四〇年産業組合を創立して資金を低利に運用し物資を廉価に購入して、組合を通じて個人の経済を助け、あわせて村風改善一致協同の実を挙げた功績であった。喜多郡内子町町長佐伯敬次郎も、中産者以下の窮状を救済するためと貯蓄組合を基礎とした産業組合を設置して信用購買の事業を営み県下有数の優良組合としての成績を挙げているとして、この年に表彰された。
 大正九年の喜多郡天神村(現五十崎町)村長高橋三保は、郡内有数の人物として県会議員その他重要な公職を歴任、村長には五十崎村村長次いで天神村村長を奉じて二六年、学校の整理、道路の改修、部落有財産の統一、耕地整理、産業組合の経営などいずれも良好な成績をあげたとして表彰された。
 大正一二年の伊予郡余土村(現松山市)村長鶴本房五郎は、明治二三年~大正三年村会議員を務め、その間学務委員・県農会理事・副会長に選ばれ、また多年余土村農会長・産業組合長・耕地整理組合長などの職を歴任、大正一一年村長に就任した。村長に就任するまでの鶴本の農事に関する諸般の施設改善と農村振興に関する適切な対策で地方の開発に資した功績はよく知られていた。
 村長としての鶴本は、近時農村不振の現状にかんがみて自作農奨励の必要を力説、村農会の施設として自作農奨励会を創設させ、小作人に漸次耕地を所有して自作農にする途を講じた。また小作争議が頻発してその解決が容易でないことを看取してこれを未然に防止し、農村の平和振興を図る急務を認識、村内の小作地はすべて産業組合で管理し、小作料の査定、徴収及び減免その他小作に関する一切の協定を産業組合で行う方法を考案して大正一〇年よりこれを実施させ、地主小作者間の紛争を解決した。「余土村是」の確立実行に関しては従来村長森恒太郎(盲天外)を補佐してその効果をあげていたが、自らが村長就任後は村是の方針を踏襲するとともに一層村治の改善に留意して自治の向上に尽力した。鶴本は、森恒太郎と並ぶ模範村余土村の二大人物として、その治績功労が改めて顕彰されたのであった。
 大正一三年(一九二四)に表彰された新居浜町長白石誉二郎は明治四四年町長に就任、周到な画策と熱心な努力とをもって同町の改善発達に努めていた。教育事業に関しては、町立実科女学校を創設して女子教育の普及振興を図り、実業補習学校に専任の教員を置いて内容を改善した。衛生に関しては、伝染病が頻繁に発生するのを憂えて数年の継続事業をもって排水不良地区に下水道を布設、漁民にトラホーム患者が多いことに着目してトラホーム診療所を設けてこれの撲滅を期し、更に避病院の改築、墓地の新設を行った。土木事業に関しては数年にわたって港湾を浚渫して船舶の寄港を便利にし、尻無川の付け替えを行って港口への土砂の流出を防ぎ、更に海面埋め立て工事を完成して住宅敷地を拡張した。産業に関しては、町内約一〇〇町歩の耕地整理を企画し、農業技術員を置いて農事の指導奨励に当たらせた。また商工会の設立を計画して商工業の発展を策し、日章会を設けて町民の和睦と向上発展に努めるなど、町民の福利を増進し町勢の発展に寄与する施設経営に励んだ。
 大正一五年、越智郡波止浜町(現今治市)で大正六年から町長を務めた原眞十郎の治績が優れていたため表彰を受けた。従前この町は納税成績が良くなかったので、原はこれの矯正に苦心、納税の種類・納期及び納税上の心得などを印刷した納税令書袋を各戸に配布し、あるいは町民に会合あるごとに納税義務の重要性を説き自覚を促すなど弊風の一掃に腐心した結果、その成績良好の域に達した。勧業面では奨励金を交付して波止浜塩業の振興に努めた。社会事業にも意を用い、毎年数回名士を招いて文化講座・通俗講演会を開き活動写真などを通じて町民の知識啓発思想善導を図った。また町営住宅二五戸を建設して住宅不足を緩和、小作争議の予防策として自作農創設維持資金の貸し付けを実施、窮民・細民には農工商就業資金を供給して救済策を講じた。大正一三年には町自治会を組織して生活の改善や勤倹奨励の実行に当たらせた。更に近年町の背後妙高山一帯の景勝地を利用して波止浜公園を設置、町民の慰安の場にするとともに外来の客を誘引して町の繁栄策の一環としての観光資源にしようとしていた。
 以上が県の顕彰した模範地方功労者のうち町村長数人の治績例である。県はこれら功労者の治績を表彰に際し「市町村治績並地方改良功労者事績」と称する冊子を作成印刷して市町村に配布、これを見習っての地方改良を勧めた。これら治績例を概括すると、資性着実で徳望があり任期を重ねて勤勉に村治に尽力、役場事務整理、納税の完納、勤倹貯蓄の励行、農事の改良、道路・治水施設の改修、村民融和などに実績を示す町村長像から、闊達剛健、自ら先頭に立って産業組合を発展させ、耕地整理に努め、地主小作人関係を調整し、地場産業の振興を講じ、各種社会事業に励む町村長像へその規範の移り変わりがみられる。町村行政に課せられる役割は時代を経るに従って変化し、その施政範囲はすこぶる多面的になってきて、市町村長の実行力と行政能力が大きく期待されるようになったのである。

 民力涵養運動実行要目

 第一次世界大戦後、物価騰貴と社会不安が高まるなかで、地方経営の方策として内務省を中心に民力涵養運動が開始された。大正八年(一九一九)三月、内相床次竹二郎は訓令を発して、「立国ノ大義ヲ闡明シ国体ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコト」などの国家的自覚をはじめ、統治的協力(立憲思想の体認、自治観念の陶冶、公共心及び犠牲的精神を涵養する)、世界的自覚(世界の大勢に順応して日々修養に努める)、社会的協力(相互融和して共済の実をあげる)、個人的自覚(勤倹力行、生産資金の増殖を進め生活の安定に努める)の五大要綱を示した。その実施に当たっては、民心の動向を察して善導啓発し、地方の実情に適応する方策を採るべきことを強調していた。
 同八年六月二四日、愛媛県は郡市町村の関係者を県公会堂に集めて民力涵養に関する協議会を開催、内務省嘱託国府種徳の講演の後、五大要綱に基づく「愛媛県戦後民力涵養五大要綱実行要目」(資社経下四六五~四六六)を示した。郡市町村がこれを参考にして状況に応じて工夫実行することを期待した(「海南新聞」大正八・六・二四付)。
 この実行要目を見ると、民力涵養運動は地方改良運動を拡大して、国民運動として推し進めようとしたものであった。県内各町村は、各方面の有力者に協力を求めて実行事項や民力涵養実行会・同遂行会などの機関を組織した。郡役所を通じて報告を受けた県当局は、大正一〇年二月民力涵養実行事項をまとめた。その主な内容は次のようであった(大正一〇年「県政事務引継書」)。

   第一、国体の精華に関するもの (1)神社で毎年二回以上国体及び神徳講演会を開催すること、(2)大祭祝日には必ず国旗を掲揚すること、(3)学校での拝賀式には各戸一人以上参列すること、(4)僧侶は毎年二回以上寺院で説教すること、(5)神社仏閣参詣講を起こし永遠に保持すること、(6)史蹟天然記念物などの調査標示保存方法を講ずること、(7)神社境内建物などの清浄を維持すること、(8)尚歯会及び頌徳会を設けること、(9)毎朝夕神棚及び祖先に対し礼拝すること、(10)家系図を作成すること、
 第二、自治の発達に関するもの (1)毎年または毎月一回町村報を発行すること、(2)青年会在郷軍人会などにおいて憲法発布の記念式を行うこと、(3)町村是の確立を期すること、(4)自治体の経済及び施設を住民に周知させること、(5)道路は左側を通行すること、(6)納税組合を設けること、(7)各部落に掲示板を掲げ常に必要な事項を周知させること、(8)公徳心養成のため集会において開閉会の場合は一同起立敬礼をなすこと、
 第三、日新の修養に関するもの (1)毎年各部落ごとに二回以上講話会を開くこと、(2)部落内の紛争を避けること、(3)陽暦を励行すること、(4)通俗文庫の発達を期すること、(5)補習教育の振興を図ること、(6)児童の就学並びに出席を促すこと、(7)衛生組合の活動を促し共同して住民の保健増進を図ること、(8)宴会での酒杯の交換を廃止すること、(9)諸集会には努めて出席する慣習を養うこと、(10)講話講演説教などへは飲酒をせず出席すること、
 第四、相互諧和に関するもの (1)戸主会婦人会の設置発展を期すこと、(2)細民部落の改善をすること、(3)貧困児童の家庭を救助して就学の向上を図ること、(4)被傭人の飲食物は傭主と同様にすること、(5)在郷軍人会と青年会の連絡を図ること、(6)町村内に互助会を組織し会員任意の義損金を募り貧困者の救護資金に充てること、(7)町村在住職人の賃金は同業者をして協定させること、(8)雇人の呼び捨てを改めること、(9)共済募金蓄積の方法を講ずること、(10)病者を見舞った場合饗応を避けること、
 第五、生活の安定に関するもの (1)公私会合の時間を厳守すること、(2)婚姻の贅費を除くため、若者に対し饗応を廃止し親類近隣のほか案内をしないこと、また酒宴は夜半一二時限り打ち切ること、(3)早婚または近親結婚の弊を改善すること、(4)葬儀の際は隣保相助の実を挙げ死者の家では親戚の外飲食しないこと、部落内各戸一人は会葬すること、喪家に対しみだりに贈物をしないこと、(5)年賀その他の賀宴を廃し、その費用を公共事業の資に寄付すること、また物品などの贈答を廃すこと、(6)みだりに新年の回礼及び饗応をしないこと、(7)無尽講・頼母子講などを改良し一般的金融を簡便ならしめること、(8)信用貸借により金融を容易にすること、(9)畜牛の奨励をなし一戸平均一頭以上とすること、(10)里道の改修をすること、(11)共同貯金組合を設けること、(12)報徳百年貯金または民力涵養実行記念貯金を実施すること、(13)既設貯金組合の活動を促し貯金の増加を計ること、(14)標準時刻の報知をなすこと、(15)早起きの美風を助長すること、(16)学校児童の弁当は自家の常食を携帯すること、(17)産業組合の普及発達を図ること、(18)軍人入営の際は衣服を質素にして送迎は虚飾に流れないこと、軍人退営の際土産物を分配しないこと、(19)苗の共同移植をすること、(20)果樹研究会・労働会・部落農事改良実行会を設置すること、(21)みだりに昼間の飲酒をしないこと、

 愛媛県では、大正一一年(一九二二)一一月の皇太子殿下行啓を好機として郡市町村を督励、その記念事業として民力涵養に関する施設経営を計画実行させた。その報告を表示すると表3―7のようになる。大半の町村や社会教化団体は記念植林、各種貯金の実施、産業組合・納税組合の設置と拡充、読書文庫の設置充実、敬老会の設置、道路修繕・補習教育の普及などをもって民力涵養事業としていたのである。
 各郡役所では、民力涵養運動の実行督励のため、いろいろな方法を考案し、町村長会や実行委員会に提示してその徹底を図った。
 越智郡では、大正一〇年に「民力涵養越智郡宣伝規程」を制定して、内務省訓令民力涵養五大要綱に基づく本県所定の実行要目の宣伝に努め完全遂行を期するのを目的として、郡長を隊長、町村長を支隊長とした宣伝活動の要項を町村長会に示した。また、民力涵養実行委員協議会を開いて次の諸事項を指示した(大正一〇年「越智郡町村長会書類」)。

   (1)地方改良の一機関である青年会・処女会は内容が幼稚であるので、指導すること、(2)戸主会・主婦会の円満な発達は直接地方の改良発展に貢献するところ大なるものがあるので、一一年度にはすべての町村に設立するよう準備すること、(3)新聞・雑誌・書籍の購読は地方の文化を助けるものであるから、その縦覧所を設けること、(4)部落改善は社会政策上重要な事項であるので尽力すること、(5)近時嫁入り仕度の競争が行われ葬式の虚礼に流れるものがあるので、この矯正策を講じること、(6)近来世人一般が勤労を嫌う傾向があるので、勤労主義の鼓吹に努めること、(7)金融機関の発達は地方の発達に関係するところはなはだ大きいので、信用組合などの発展を期するとともに、共同購入や販売組合の発達をも援助すること、(8)国民思想の養成に大祝祭日を有意義に利用すること、(9)時間励行を一層徹底させること、(10)女工・出稼ぎ青年を指導すること。

 周桑郡では、大正一二年に「周桑郡社会事業奨励要項」を作成して、民力涵養運動の指針とした。その一部を見ると、生活改善では、(1)国家祝祭日には各戸必ず国旗を掲揚すること、(2)三大節拝賀式にはなるべく参列拝賀すること、(3)旧暦墨守の弊風を打破し陽暦励行に努めること、(4)公私会合には終始の時間を定め時間励行をすること、(5)衣食住の冗費を省き生活の簡素を期すること、(6)酒盃の交換を廃し挨拶をもってこれに代えること、(7)送迎贈答は誠意をもって行い、贅費を節約すること、(8)冠婚式はなるべく神前で挙行し酒食の饗応をしないこと、(9)隣保互助の旧慣を助長すること、(10)自治体の経済及び施設事項を周知すること、(11)多少にかかわらず必ず貯金を励行することなどを奨励事項として列挙していた。
また風紀の改善と思想の善導では、(1)公共物を愛護する念を助長すること、(2)敬老会などを盛んにし尊長の念を深めること、(3)未成年層の禁酒禁煙を励行すること、(4)講話観劇など多数集会の際はなるべく男女席を別にすること、(5)軍人の入退営及び児童の入学卒業の場合は神社において奉告祭を執行することなどを挙げていた(大正一一~一四年「社会ニ関スル雑書綴」東予市誌編編纂室蔵)。
 第一次世界大戦後の日本の経済的危機、社会的・思想的混乱を防止するために策定された民力涵養運動は、こうして地方に根をおろしていった。そして、この運動を通じて天皇制の国家観念や国体思想が民衆の間に浸透し、デモクラシーの社会潮流に対抗する強力な運動組織として定着していったが、更に政府は「国民精神作興に関する詔書」によりこの運動の組織化・集中化を一層促していった。

 国民精神作興に関する詔書と勤倹週間の実施

 「国民精神作興に関する詔書」は、大正一二年(一九二三)一一月一〇日に天皇・摂政宮の名で発布された。その内容は、国家興隆の基礎が国民精神の剛健にあることを述べ、学問が進み人智が発達した今日においてかえって「浮華放縦ノ習」「軽佻詭激ノ風」が生じつつある時弊を指摘して国民を戒め、上下協力して国民精神の作興と国家興隆を図るべきことを国民に説いた。これは、日本社会全般に広がった享楽的退廃的雰囲気や社会労働運動の激化に伴う「思想ノ悪化」やこの年九月の関東大震災による人心の動揺・社会の不安に対処して、伝統的な日本精神や国民道徳を強調することによって国民教化「思想ノ善導」を実行しようとするものであった。
 政府は翌日詔書の趣旨を奉戴して、教育の振興、特に徳育を根底として人格の養成を重んじ、忠君愛国の思想を基礎に一致協力、国力の発展を図るべき旨の告諭を発した。本県では、一二月四日に県知事宮崎通之助が「国民精神作興ニ関スル詔書御趣旨徹底方ノ件」を発して、「質実剛健ノ精神ニ悖反スル所ナキカ、勤倹力行ノ旨ニ添ハサル所ナキカ、放縦ニ流レ中正ヲ失スル所ナキカ、宜シク実際ニ就テ弊ノ存スル所ヲ察シ矯正善導ノ方法ヲ講セラルヘシ」と、郡市長・県立学校長に訓令した(資近代3八〇三~八〇四)。
 この知事訓令は、主として学校教育の教化を指示したものであったが、社会教育面でもこれを適用した。県社会課は、大正一三年度民力涵養運動の目標として、「国民精神ノ振作更張ヲ図リ思想ノ善導ニ努ムルコト、」「消費節約生活改善ノ実行ヲ期セシメ、大ニ能率ノ増進ヲ図ルコト、」を二大項目に挙げ、その実行の督励に努力することになった。実行督励方法としては、(1)市町村または戸主会・主婦会などにおいて協定した申し合わせ事項の成績を調査して督励の資料とすること、(2)市町村または大字を単位とした講演・協議会を開催して、その実行力を高めるとともに常に一般民心の緊張を図ること、(3)本県社会事業協会主催の国民生活改善展覧会を県下五か所で開催し、これと連絡して大いに質実剛健の精神を振作するとともに消費節約生活改善の徹底を期すること、(4)皇太子殿下御成婚記念事業である婚礼の改善の徹底を期すること、(5)市町村関係者との連絡を密にして意見交換をなし相互の提携に努めること、(6)主婦会の組織を奨励普及させること、(7)貯金・簡易保険の加入を一層奨励すること、(8)適当な映画を購入して活動写真を利用すること、(9)内務省などから適当な講師の派遣を得て県下数か所で講演会を開催すること、(10)適当な印刷物などを作製して臨機に配布することにした(大正一三年「県政事務引継書」)。
 大正一三年(一九二四)二月一五日から二一目までの一週間、勤倹週間が全国一斉に開始された。愛媛県でも勤倹奨励に関する施設方法協議会を開催するなどしてこれに取り組み、国民精神作興に関する詔書の解説を各戸に配布し、実行要目の宣伝ポスターを掲示するなどして、勤倹思想の喚起に努めた。大正一四年二月の第二回勤倹週間では、一五・六日を装身用具を買わない日、一七・八日を禁煙の日、一九・二〇日を禁酒の日、二一日を貯金の日と定め、週間中は平素より毎朝一時間以上早起きを励行することにした。また、年末年始における社交上の弊風改善や予算生活の提唱などに関する勤倹奨励中央委員会の決議事項を郡市町村に送付して、その徹底方を要望した。
 大正一四年は、二月一五日~二一日の第二回につづいて、六月一〇日~一六日の第三回、九月一日~七日の第四回、一一月一〇日~一六日の第五回と、四度の勤倹週間が実施された。九月の第四回勤倹奨励強調週間に当たり、本県地方委員会が決定した実施要項によると、郡市町村・各官署・学校・軍隊・諸団体では九月一日正午までに(1)国民精神作興に関する詔書を奉読すること、(2)詔書の御趣旨を奉体して大震災に関する訓示または講話をなすこと、(3)午前一一時五八分(大震災の起こった時)を期し工場汽笛、号砲、鐘太鼓などを合図に黙想することを指示し、本期間中郡市町村・各団体においては講演会・協議会・活動写真会などを開催し、適当なポスター・宣伝ビラなどの配布を命じた。更に備考として、講演会の講演要旨や協議会での申し合わせ事項などの規範を示した。協議会での申し合わせ事項は、(1)生活改善に関する事項、例えば時間励行・記帳生活・予算生活の実行、虚礼にわたる贈答廃止、貯金保険の実行、祭礼の冗費節約、その他家庭経済に関すること、(2)生産増加・副業奨励に関する事項などであった。一一月の第五回勤倹奨励強調運動実施事項では、これを一層具体化し、週間中の実行事項として、(1)時間尊重、(2)早起き励行、(3)禁酒禁煙、(4)虚礼廃止、(5)予算生活の実行、の五項目を指示した。また「時間経費ニツキ無駄ノ消費アルニ気付カズ、一口ニ勤倹ノ余地ナシト叫ブモノアリ」、「共同的貯金ノ効果アルニ気付カズ一銭二銭ノ貯金ヲ軽ンズルモノアリ」、「生活ニ余裕ナキモノハ勤倹スヘキモ余裕アルモノハ勤倹ノ要ナシト考フルモノアリ」といった勤倹貯蓄の意義に対する解説例を挙げて、各種の会合で是正に努めるよう命じた(「社会ニ関スル雑書綴」東予市誌編さん室蔵)。
 こうして勤倹週間は、大正九年から毎年六月一〇日に実施された「時の記念日」と並んで民力涵養運動強調の主要な年中行事となった。それとともに、地域に根を下ろし定着させるための規制が強められていった。

 町村制の改正と町村会

 明治四四年四月新しい「市制」「町村制」が公布され、同二一年以来施行していた「市制」「町村制」が廃止された。主な改正点を町村に限ってみれば、(1)町村の法人性並びに権能及び負担の範囲を明らかにした、(2)町村会議員の任期が従来六年で三年ごとに半数を改選する定めであったのを改めて、任期を四年とし全部改選とした、(3)町村長は、旧法ではその町村公民中年齢三〇歳以上で選挙権を有する者から選挙すべきことに定められていたが、新法は年令の制限を撤廃した、(4)財務に関する規定を整備したなどであった。「町村制」は、大正一〇年四月にその一部が改正されて公民権の拡張が図られ、町村会議員選挙権の納税要件において従前の地租・直接国税年額二円以上が直接町村税を納めることをもって足りることになった。また二級制の等級選挙がこの改正で廃止された。この結果、町村会議員選挙人は大正七年選挙時の一〇万六、一七七人から同一一年の選挙では一四万七、六七九人に増加した(大正一一年「愛媛県統計書」)。個々の村々では、伊予郡原町村(現砥部町)が四二二人(一級三二、二級三九三)であったのが四七六人に、温泉郡神和村(現中島町)が五五八人(一級一四二、二級四一六)であったのが五八八人に増えるなど、多町村で三〇~四〇人近くの新有権者が生まれた(『砥部町誌』『中島町誌』)。
 大正一五年(一九二六)六月には、「市制」「町村制」と「府県制」が同時に改正された。今回の改正で地方議会にも普通選挙が採用されると同時に、「郡制」の廃止などにより種々の点で自治権が大幅に拡張されることになった。「町村制」改正による公民の要件は、(1)帝国臣民であること、(2)年齢二五歳以上の男子であること、(3)二年以上その町村住民であることの三つとされた。自治権の拡大については、(1)町村長の選任は府県知事の認可を必要としなくなったこと、(2)町村会議長互選の途を開いたこと、(3)市町村の廃置分合・町村の名称変更、町村吏員の就職・退職など町村の自治権行使に対する国の監督権を緩和したことなどであった。普通選挙の実施で昭和五年一月町村会議員選挙の際の有権者は二〇万五、三八二人に増大している(昭和五年「愛媛県統計書」)。
 町村会の職務権限は、明治二一年の「町村制」で例示された一一件、すなわち(1)歳入出予算の審議決定、(2)町村条例・規則の設定と改正、(3)町村費で支弁すべき事業の決定、(4)決算の認定、(5)町村有不動産の取り扱い、(6)基本財産の処分などのほか町村長・助役を選挙する権限など、基本的には戦後の「地方自治法」の公布に伴い「町村制」が廃止されるまで変化はなかった。
 町村会議員の定数は、人口一、五〇〇人未満が八人、一、五〇〇~五、〇〇〇人未満が一二人、五、〇〇〇~一万人が一八人であったが、おおむね一二人の村が多く、選挙区を設けて地域代表を選ぶように工夫する所もあった。大正後期から昭和初期の町村会には中央の政争をそのままに政友派対憲政(民政)派の対立抗争が持ち込まれ、これに議員選出地域の利害がからんで紛糾する場面が多くなった。一般的には、村三役の選任はもとよりあらゆる行政の遂行にそれが現れ、町村会・郡会・県会・衆議院の各議員選挙において党派の対立が激しくなった。しかし、実力・声望のある町村長の下一つの党派に固まるか超党派で行政を推進する町村もあり、この時期の町村会の性格を一概に論ずることはできない。町村長もまた、先の「模範町村長」で示したように長い期間町村行政に専念する町村長もあれば、県会議員を兼任する町村長も多く、各町村は、町村長と町村会議員との人間関係に地域性・風土が加わってそれぞれの行政を展開するのが実情であった。

表3-6 大正年間 治績功労知事表彰者一覧①

表3-6 大正年間 治績功労知事表彰者一覧①


表3-6 大正年間 知的功労知事表彰者一覧②

表3-6 大正年間 知的功労知事表彰者一覧②


表3-7 皇太子殿下行啓記念民力滋養事業調査(大正11年11月)①

表3-7 皇太子殿下行啓記念民力滋養事業調査(大正11年11月)①


表3-7 皇太子殿下行啓記念民力滋養事業調査(大正11年11月)②

表3-7 皇太子殿下行啓記念民力滋養事業調査(大正11年11月)②