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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 林業と水産業①

 林政の進展

 本県は古くからの木材産地で阪神地方へ用材や薪炭を移出して来た。大正四年の林野面積は二九万五、二〇〇町歩で、その後も少しずつ増加している。明治末期から林政上の問題の一つに部落有林の整理があった。これは林野を開発し植林を進めるため、入会地の伝統を持つ部落林を町村移管とするもので、「公有林野施業規則」や同統一奨励金下付規則及びその改正法によって行われた(資社経上四一七~四一八)。明治末にも周桑郡中川村(現丹原町)一、一二五町歩、南宇和郡一本松村八四六町歩などが統一された。大正二~七年の間に東宇和郡下宇和村(現宇和町)外一五か町村二、〇六五町が完了し、昭和四年では県下の部落有林は約四、〇〇〇町歩を残すのみであった。
 明治中期に始まった育苗の補助も次第に拡充された。明治四三年四月から市町村や農会設置の樹苗園、大正九年から森林組合分についても補助を加え、大正一五年から適用樹種も一二から一四種となった(資社経上四一四~四二五)。また大正末から昭和初期にかけて南予に四か所の県営苗園を設置した。
 植林や治山治水事業は水害を機に進み、明治中後期には西村荒吉・越智茂登太・村上盛一・曽我部右吉ら数多くの先覚功労者が現れた。明治末期の県下の林野荒廃地は八、四二〇町歩とみられていたが、政府の第一期治水事業を受けて本県でも大正三年から着工し、昭和一〇年までに二、七三八町歩(費用七三万円)の工事を行った。事業の中核となったものは「荒廃地復旧費補助規制」であったが、特に荒廃の激しい大三島各村では森林組合を組織し、全村挙げてはげしばり(植物名ひめやしゃぶしの異称)の植林や土止め工事を行った。例えば瀬戸崎村では組合員四五五名が二八六町歩を対象に、五年間で延ベ一万六、〇〇〇人を要して一八万本を植林した。昭和七年(一九三二)には時局匡救事業としての県営荒廃地復旧事業も始まり、一二年からは一二か年計画、七一万円の予算で第二期治水工事も着手された。
 山林の保護や林業の経営指導のために大正三年県林務課が設置され、大正五年に県山林会が設立された。同会は昭和三年に五万円の活動基金蓄積を計画した。また大正一二年にそれまでの林区署制に代えて営林局制を実施し、愛媛県は高知営林局管轄下となり、その下部に西条・松山などの営林署を置いて公有林野の維持に当たった。造林事業も補助金制度によって進められてきたが、大正期には天然造林や竹林造成も補助の対象に拡大された。大正一〇年には県有二一五町歩、郡有八六七町歩の模範林があったが、同一一~昭和一八年の間に県営のみで二、四〇〇町歩の造成が計画された。昭和に入って治水事業は更に活発化して、三年から重要工事は県直営となり、水源涵養林の造林補助も始まった(資社経上四三〇)。しかし産業全般の進展によって林野の伐採面積も増え、人工造林面積が大正初年の三、〇〇〇町歩から昭和初年の二、二〇〇町歩と減少したのに対し、昭和初年の伐採高は四、五〇〇町歩以上で、濫伐傾向はそれ以降も続いた。
 大正期には特に私有林の維持と共同経営奨励のために森林組合の設立が進められた(資社経上四一七~四一八)。組合は公的団体としての力を持ち、明治末年から大正一〇年ごろにかけて各地で結成され、町村合併によってより大規模に統合された。しかし昭和一〇年代では「森林法」の改正などで、組合は軍用資材としての林産物の確保を使命の一つとするに至った。

 林業地域

 明治末年からは施業案の編成や近代技術の導入で近世来の伝統の上に特色ある山林経営がみられた。宇摩郡を代表する住友林業は別子銅山用の木炭と坑木確保の必要から生まれたものである。住友の四国内の山林は昭和二年で約一万七、〇〇〇町歩あり、うち新居郡・宇摩郡で約九、〇〇〇町歩を有し、大半は明治期に集積したものであった。山林の経営は住友の総本店から大正一〇年に合資会社住友林業となり、大正七、八年ごろには銅山峰の土砂流出防止用の植林が完了し、草原へのカラマツの植林も進められていた。加茂川上流では西条藩の林制下によく保護された天然林が成長していたが、搬出には不便で大正期は筏流しによる方法しかなかった。同流域の大正六年ころの荒廃地は四八七町歩余あり、同年技手を置き苗圃を補助して植林を進めた。苗圃は大正九年末二四町歩となった。
 周桑郡では中川村村長の越智茂登太が、国有地の払い下げを受けて明治三七年から植林を始め、一、二〇〇町歩の村有美林を保有した。越智郡玉川地域でも曽我部右吉らの努力によって、明治三六~大正一五年の間に鈍川・龍岡地区中心に三〇五町歩、昭和六~一七年に九四町歩を共有山組合が植林し、別に部分林、学校林などの造林を加えて二、五四七町歩の山林を保有した。これら東予地域の造林は明治二六年の蒼社川、同三二年の加茂川・国領川の氾濫が大きな起因となった。
 松山周辺では用材は松山へ、薪炭は砥部や近村を需要地とする林業が成立していた。伊予郡では明治四〇年から二五か年で一、〇二二町歩の郡有林へ年四〇町歩ずつの植林を計画したが後にこれを縮小し、町村や部落の請負林として伸長を図った。大正六年の温泉郡内の一万三、九六九戸の山林所有状況をみると、二二万八、五九四町歩のうち二反未満の所有者が四三・四%もあり、一町未満では七五%で全山林の一二・三%、五〇町歩以上所有の三〇戸(〇・二%)が五万八、〇〇〇町歩(二五・三%)を持つという極端な階層分化を示している(『温泉郡勢』)。大正三年(一九一四)の同郡拝志村(現重信町)では、山林は村面積の八〇%一、三三八町歩を占めていた。約半分の私有林は交通不便な所にあり、林相は松の天然林を主とし植林部分は松杉の幼木林、村有林四三〇町歩の八割は草生地、残りの国有林も雑木天然林であった。同年の生産額は丸太角材・杉板など八、七一二円で米産三七万円、麦産二三万円に比して極めて低い(『重信町誌』)。
 久万地方では大正三年に造林と製材・製炭及び販売を目的とした久万造林㈱が井部栄範により設立された。大正期を通じて植林・生産も進み、杉の小丸太「久万材」の名が普及した。昭和に入るとトラック輸送も増え、木材価格も上がって安定した林業経営をみせた。肱川林業のうち神南山の美林は、五十崎村村長の高野島太郎らの植林によるもので、これら県下の林業地帯の形成は前記の樹苗圃補助や公有林野補助・水源涵養造林補助など、国県の保護政策によるところが大きい。県下の重要林産物である椎茸は、昭和に入って上浮穴郡中心に生産が急増した。また全国一の中山栗は、大正五年には二万貫であったが、昭和元年に五万貫を産して出荷組合を結成した。五年には輸出を開始、農村不況にも有利で一〇年ごろ一五万貫、一五年(一九二六)には三〇万貫と戦前最高を示した。

 製材と製炭

 県下の製材業の発展は遅く、大正期に入ってようやく固定工場が増加した。今治は木材の消費地で綿業を背景に箱材生産が行われ、大正一四年木材商組合も成立した。松山地区では喜多郡の長浜町と伊予郡の郡中町が集散地で、昭和初年には六、七軒の木材問屋があった。また上浮穴郡久万町・小田町村・喜多郡内子町などは原木入手に好条件の山間製材地で、多くの木材商人がいた。宇和島港は松材を坑木として九州の炭坑に移出して繁栄した。販売の問屋が製材施設をもつのが大正期の一般の形であった。
 広葉樹が広く分布する本県は全国有数の製炭地で、南・北宇和郡を中心に切り炭として阪神へ出荷された。明治中期は約四五〇万貫、大正期は六〇〇万貫であったが、昭和に入り急増した。大正一〇年の産額では南・北宇和郡が県下の三六%(明治三七年六一%)、白炭では五七%を占めた。しかし昭和三年には二七%と減少し、新興の上浮穴郡と喜多郡が増加した。東予では大正初年までは別子や今治地区が盛んであったが、後には用材地域に転じた。昭和初年の県外移出分は生産の四割内外であったが、不況対策などから検査改良の必要が主張された。既に大正一二年には喜多郡に、愛媛木炭同業組合、同一一年に松山及び周辺郡で、伊予木炭同業組合が設立されて自主検査を行ったが、県は昭和七年三月に検査規則を制定し(資社経上四三三)、西条・松山・大洲・宇和島に支所を置いた。また改良窯の構築を勧め補助金を交付した。

 漁業の進歩

 昭和二年(一九二七)の県下の漁民は約四万四千人、漁獲高は五〇〇万円、全水産物では一、二七五万円、漁船数は北海道、長崎県に次いで三位、県域の半分は内海の不利な条件にありながら全国有数の漁業県であった。明治末年から大正一〇年ごろまでが著しい発展期で、地曳きや船曳きなどの沿岸網漁から巾着網・流し網へと変化し、網は麻製から綿糸網となった。例えばこの間宇和海の鰯漁では、船曳き網が三分の一に減少し改良揚繰網が普及し、漁船の動力化がこれに拍車をかけた。また遠洋漁業も始まり朝鮮・樺太など外地へ盛んに進出した。県水産試験場でも大正七年愛水丸(二七トン四五馬力)を建造して五島列島で試験操業をし、同一二年更に優秀船伊予丸(四三トンジーゼル七五馬力)を新造して朝鮮海域の巾着網を指導した。煮干鰯製造や海苔養殖の技術指導講習会も、大正九年から開始した。
 一方、県では紛争解決や取り締まりなど漁業秩序維持のため、明治四○年に水産課を独立させた。明治三七年二月の「愛媛県漁業取締規則(資近代3三八八)を同四〇年、大正二年、昭和二年と改正し、禁漁期・禁漁魚種・禁止漁具を設け、打瀬網・五智網など知事免許漁法を二三種とした。しかし大正期に極めて盛んであった汽船底曳き漁は、許可分のみでも六〇艘となり、禁漁区の宇和海や伊予灘でも操業して沿岸漁民と紛争を起こすなど、漁業の進歩が行政の措置に先行する面もみられた。漁獲が多いため軽少の罰金を意にせず違反船が減少しなかった。
 漁業の近代化によって漁獲量は増加したが、加工技術や施設は遅れ、鮮魚のまま肥料とするなど豊作貧乏の現象も起きた。明治四三年、政府は漁業法の全面改正によって漁業権を強化するとともに漁業組合の目的を拡大し、漁村にも適当な施設を持つ道を開いた。しかし大正一三年の県下一四一組合六連合会のうち、共販事業を営むものは二〇余あるだけで、他は何の施設もない状況であった。県では大正一五年の「漁業組合令施行細則」、昭和七年「漁業施設奨励規程」などにより諸帳簿を調えさせ、漁礁築設・販売や加工・貯蔵施設などに補助金を与えるなど、昭和に入ってようやく共同施設事業が進展した。漁業法実施により明治三九年に県一円を区域とする水産組合が組織されたがあまり実績は上がらず、大正一〇年の「水産会法」によって翌年郡市単位の水産会が成立し、この統一のため県水産会(大正一一年四月二一日発足会長西村兵太郎)が中心となって水産業の改良や漁村改善に努力した。その活動は共進会開催・共同施設奨励・販売斡旋・水産加工品の品質検査など多方面にわたった。

 漁獲と漁業地域

 漁獲量は豊凶の差や漁価の高下による変動が激しいが、金額では沿岸漁業の鰯と鯛で四割五分、沖合漁業の鯵・鰹・鯖・鮪で三割を占める。魚類以外ではイカ・タコ・エビの水揚げが多くまた増加傾向にあった。宇和海の鰯漁は大正初年に和船の巾着網・四ツ手網が普及し、大正五年(一九一六)に南宇和郡御荘村の浅海友市が揚繰網を使用、同一二年には同村の浜田祐太郎が同網に発動機を付けて使用し、以降動力化が進展した。集魚灯は大正一〇年から松明や石油に替えてアセチレンガスを使用し、昭和四年(一九二九)ごろから蓄電池が使われた。いずれの時期も宇和海域では、網元が多くの漁民を網子として雇用するだけでなく製造・販売なども村民挙げての生産体制がとられた。
 瀬戸内の鯛縛り網は、大正三年県下に九〇統があった。中心の燧灘海域ではこの漁区を他県他郡の侵漁から守るため、越智郡の宮窪・友浦及び今治など関係一八漁業組合で同年四月に、燧灘漁業連合会を組織し、村上紋四郎を会長とした。しかし大正末年からは不漁によって衰退に向かった。前記の汽船底曳きは西宇和郡が中心で、明治四〇年に井上清吾が下関から、大正七年真穴村真網代(現八幡浜市)の柳沢秋太郎が山口から導入したものである。同一〇年から政府も取り締まりのため禁漁区を設定し、同一三年からは東経一三〇度以東の網を禁止するなど順次整理を進めた。南宇和郡の鰹漁の動力は鰯漁よりも早く、明治末年から発動機船で土佐沖や五島列島へ進出し、漁船も大型化したが、昭和初期には衰退傾向となった。西宇和郡三瓶地方の鯖釣漁は、大正期はニトン型六人乗りであったが昭和二年から五トン型八人、八年から一五トン型一五人乗りと大型化し鹿児島県沖にも出漁した。
 明治三〇年代から発達した朝鮮海域への出漁は、同四五年には二五組合を数え、大正末年までは毎年一、五〇〇名前後が出漁した。大正中期までは船団を組み手漕ぎで釜山沖や巨済島へ出漁したが、後には船を現地に置き、関釜連絡船を使用することもあった。
 漁獲の伸びと消費の拡大とによって、遅れていた流通面も次第に合理化された。大正末期からはトラック輸送が始まり販路も拡大した。明治末に五〇以上あった県下の魚市場は、統合して大規模になると共に製氷設備を持った。三津魚市場は大正二年の資本金五万円を同一一年には一五万円と増資し、大正末から昭和初期の不況期にも二割五歩以上の高配当を続けた。しかし中間経費の削減や三津浜町繁栄策のため昭和三年九月、町営移管を決定した。北宇和郡の吉田魚市場も大正から昭和にかけては三間、大洲地方までを販路として発展し、昭和二年には六〇万円の魚を買い入れたが、五年に町営化した。今治市では旧来の今治魚市場に対抗して、大正一〇年創設の魚清商店が朝鮮海域産の魚を下関から移入し、大正末年には市内生魚の六割を扱った。
 一方、漁船の動力化、漁網の大型化によって漁場は狭くなり、紛争も多くなった。特に昭和に入って鰯漁の火光使用については沿岸漁民は激しく反対した。宿毛湾での高知県、日向灘での宮崎県との交渉はともに困難であったが、粘り強い県の交渉で、制限付きで入漁は認められるものの紛争はやまず、契約更改が繰り返された。

 水産製造業

 漁獲量も多く阪神市場をひかえる愛媛は全国有数の水産製造県で、昭和二年、産額で煮干しは全国二位、蒲鉾・竹輪四位、鰹節一一位、総合では九位であった。しかし漁業との兼営による小規模生産が中心で、技術の進歩は遅れた。産高は第一次大戦中に伸び、大正九年の四六二万円までは急増したがその後は減少し、昭和三年に回復したもののその後は再び停滞した。鰹節など節類は九五%以上を南宇和郡で産し大正元年以降、県水産試験場が速成法の講習を行って品質を改良した。節類加工の削り節は全国的にも製造が早く始まり、大正初年に伊予郡で弥満仁・ヤマキ・マルトモの三社が創業した。当初の原料は豊漁で安価な近海産の大羽イワシ・メジカ・サバであった。
 塩干は大半を南宇和郡で産し、素干しは西宇和郡を中心に南・北宇和郡で製造した。煮干しは豊漁の鰯を原料とするが雨天ではすぐに腐敗するため、大正九年から火熱乾燥機が研究された。製造は南・北宇和郡のほか伊予郡・喜多郡・西宇和郡・越智郡など広く県下に分布した。昭和に入って出荷量が増すと、県や郡市水産会では等級検査を行って品質維持に努めた。蒲鉾類は明治期は宇和島が中心であったが、明治中期から八幡浜でも製造され、大正六、七年ころは同地方が首位となった。当時はまだ今治・松山も産額が多かったが大正末からの機船底曳き漁の発展で次第に八幡浜に集中し、昭和元年では県下数量の四九%、金額では四一%を占めた。

 養殖と内水面漁業

 専門技術を必要とする水産養殖は、大正期はまだその萌芽期であった。昭和六年(一九三一)でも県下の養殖場は九九三か所、面積一七四万坪、産額はわずか六万六、〇〇〇円余であった。養殖の試験研究に県水産試験場の果たした役割は大きく、明治四二年(一九〇九)に御荘湾、四四年に岩松湾でまずあこや貝の養殖が研究された。明治四三年には西条・宇和島でかき養殖の指導、大正二年以降鯉の飼養や稚魚の配布、同八年あまごの孵化、一〇年養鰻試験などが行われた。
 東予地方の広大な浅海はかき・海苔の適地で近世来の伝統を持つが、明治期にも数多くの人が試養した。県水産試験場の東予分場では明治末期から度々技術指導を行った。新居郡橘村(現西条市)禎瑞漁協の津島増右衛門は沖縄や朝鮮も視察して明治四四年に、中山川河口で海苔の篊建養殖を試みた。大正元年(一九一二)新居郡役所も専任技師を置いて研究した。大正初年にはバカ貝など貝類の種苗放養を行って好成績を収めた。
 南宇和郡では明治末年から小西左金吾・実藤道久らが真珠養殖を研究し、大正四年予土水産㈱が初めて真円真珠の産出に成功した。六、七、八年と産高を伸ばして大阪へ販売したが九年の洪水によって解散した。代わって大月菊男が伊予真珠㈱を設立して事業を継いだが、大正一五年の暴落で閉鎖した。こうして昭和初年までは興亡を繰り返したが、昭和四年、大月は向田伊之一を技師として三重県に大月真珠㈱を設立し、好成績によって御荘湾に進出、向田も稚貝養殖に成功して昭和一〇年代には量産体制に入り、伊予真珠の名声を得た。しかし戦時体制によって市場不振となり、かき養殖に転換して時勢を待った。
 内水面漁業はダム建設や河口の港湾化で不振となったが、孵化の研究はかえって進み、放流も盛んとなった。面河川水域では、仁淀川発電所建設の補償金によって、面河・弘形など五か村四八〇名で大正一一年に漁業組合を組織し、柳谷村落出に孵化場を建設して鱒二〇万粒を孵化するとともに鮎・鰻などの放流を続けた。

 塩業の近代化

 明治三八年一月、塩業の保護を目的とした専売法施行により、塩価が公定されて産地間の競争はなくなった。しかし販売権を失った塩田地主は旧来の製法に安住し、大正期にはあまり技術進歩が行われなかった。政府は塩の低廉化策によってコストの高い小規模塩田(百姓浜)の整理を行い、明治四三、四四年で全国八、〇〇〇町歩のうち一、九〇〇町歩が姿を消した。県下の整理対象は温泉郡新浜村一二・五町歩、興居島五・九町歩、三津浜三・二町歩など八か町村一八業者、合計三二町四反余で県塩田面積の九%であった。第一次大戦後需要の急増で、安価な外国塩の輸入が急増すると更に整理が必要となり、昭和四~五年の第二次整理で一、一五九町歩が対象となった。県下では多喜浜塩田のうちの一一五町歩をはじめ垣生村・神郷村の全塩田と岩城村の一部、計一二三町歩が整理された。
 大正末期には塩価の据え置きによる収入減を補うため、製塩合理化の
研究が始められ、浜子の賃上げ要求には、塩田地主は塩田同盟会を結成して対抗した。波止浜塩田では昭和元年から大型ST釜を入れ、四年には全浜で使用した。昭和一一年からはコンクリートや粘土製流下盤を研究した。昭和一五年に波止浜と伯方に完成した真空式の合同製塩工場は、コスト引き下げの大きな力となった。また現物支給を特色とし高賃金であった浜子賃金は、不況期の沿岸農漁村では重要な収入源で、越智郡大島では一、〇〇〇名前後が従事していた。瀬戸田・竹原など芸備地方の塩田へも多く出稼ぎし、昭和七年越智郡津倉村(現吉海町)の場合、二六九名の浜子のうち地元の津倉塩田で働く者は三五名で、他は他村への出稼ぎであった。












表3-33 愛媛県の郡市別所有別林野面積(大正10年)

表3-33 愛媛県の郡市別所有別林野面積(大正10年)


表3-34 愛媛県の製材工場(昭和8年現在)

表3-34 愛媛県の製材工場(昭和8年現在)


図3-6 愛媛県の林産 資料:「愛媛県統計書」より作成

図3-6 愛媛県の林産 資料:「愛媛県統計書」より作成


表3-35 愛媛県の木炭生産

表3-35 愛媛県の木炭生産


表3-36 愛媛県の水産業者

表3-36 愛媛県の水産業者


図3-7 愛媛県の漁船数と漁獲高の推移 資料:「愛媛統計書」より作成

図3-7 愛媛県の漁船数と漁獲高の推移 資料:「愛媛統計書」より作成


表3-37 愛媛県の魚種別漁獲高

表3-37 愛媛県の魚種別漁獲高


表3-38 主要漁法の分布(大正10年末)

表3-38 主要漁法の分布(大正10年末)


図3-8 愛媛県遠洋漁業の推移 資料:「愛媛県統計書」より作成

図3-8 愛媛県遠洋漁業の推移 資料:「愛媛県統計書」より作成


表3-39 愛媛県の水産製造高

表3-39 愛媛県の水産製造高