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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 近代工業の確立①

 工業構造の変化

 愛媛県は第一次世界大戦を契機として農業県から工業県へと脱皮したが、同時に工業構造も変化の兆しをみせた。例えば工場数は大正八年に急増したが、新設工場のほとんどは原動機使用工場であった。また男子職工の比率は大正初年の二〇%が一〇年には二九%となった。しかし依然として繊維工業を主体としていた本県工業の全国的地位は明治期よりも低下し、昭和元年で職工数は一五位、工産額は全国の一・五一%で一八位であった。大正一〇年(一九二一)で原動力機関数の六五%、馬力総数の七八%を織物・紡績・生糸の三部門で占めていた。繊維工業部門での女子職工の割合は大正一〇年九三%、昭和元年八五%、同五年九三%、同一〇年九一%と変化がない。
 県下工業生産に占める重化学工業の比率は明治四二年六・二%(全国二四・一%)、大正九年一〇・〇%(同三五・一%)、昭和元年八・三%(同二七・〇%)と大正期は変化がなかったが、重化学工業のみは昭和恐慌期にも成長を続けたため、一〇年には三五・六%(全国四七・七%)、一四年五二・一%(同六二・四%)と伸び全国平均値にも接近した。なお昭和元年の工産額は今治・松山両市と西宇和郡(八幡浜町)で県下の五一%を占めていた。
 大正期の県の工業指導は染色・紡織が中心で、松山に明治三六年創立した愛媛県工業試験場、大正一一年今治市に設立の愛媛県工業講習所に技師・技手を置き、八幡浜町や宇和島市にも駐在員を置いて原料・製品の試験研究に当たらせた。大正一三年に経費節減のため、試験場を今治に移して講習所と合併する案が起こったが、中南予の商工業者の反対で廃案となり、同一五年従来の松山市湊町から同市大字沢に新築移転した。更に業界と連携を強めるため大正一三年愛媛県染織工業会を創立、同一五年各織物組合に技手一名を配した。醸造業や製紙業でも県庁に専任の技師を置き、各郡の同業組合に補助を行った。

 鉱業の発展

 大正期の県下の鉱業は、第一次世界大戦による鉱産物価格の高騰で活況となり、銅を中心に硫化鉄・マンガン・石灰石などの産高が増加した。大正四年末の銅鉱の採掘願は八九一件もあり、同六年の鉱業関係従事者は九、一三五人にも達した。この間鉱業経営は会社組織となり、久原・三菱・明治鉱業など大手資本が中小鉱山を買収し、採鉱選鉱ともに動力化・能率化が進められた。昭和二年の本県の鉱産額は全国一〇位、金・銀は六位、銅は二位、硫化鉄は一位であった。
 鉱産額は大正九~一一年の間は戦後不況で減少したがその後回復に向かった。昭和恐慌期には中小鉱山は整理され、大手の合理化と技術向上とで生産は増加を続けた。戦時体制下では設備の拡充によって量産体制がとられた。鉱産物の産出は鉱物と市況によって著しい変動があった。アンチモニーを産した新居郡大生院村(現西条市)の市之川鉱山は市価の高騰で、大正四年(一九一五)に水力電気により選鉱・粉砕・運搬を動力化し、翌年一月には鉱夫二〇〇名を増募した。しかし同七年の終戦による下落で閉山、同一五年に再開したが産額は伸びず、昭和七、八年わずかに復調して五〇名前後で稼業した。昭和一二年(一九三七)以降は量産の指令によって鉱区を拡張し、探鉱と採掘に努めたが産出量は伸びなかった。
 採石業は昭和初年までは四〇万円前後の産額であったが、その後に急増した。生産の中心である石灰石は、大正末期は化学肥料のため不振であったが、セメント業の発展で県下の二大産地東宇和郡高山村(現明浜町)や越智郡関前村では採石に機械力を導入し、輸送も機帆船となって販路が拡大した。昭和七、八年ころからは建設事業の進展で、花崗岩の採石や砂利採取が急成長した。

 別子銅山

 明治末期に一〇万トン台であった別子の産銅は、大正に入って二〇万トンとなり、第一次大戦の間は三交代八時間制で昼夜の別なく採鉱を続け、四〇万トン近くを産出した。この期より技術革新が著しく、出鉱量は増加を続けたが、鉱石の品位低下により含有銅量は停滞した。大正四年九月には第四通洞が完成して坑口と端出場に電車を走らせ、同月大竪坑(エレベーター)の完成で採鉱本部を翌年東平に移し、昭和五年更に端出場に移し運搬系統を整備した。選鉱では手選に替えて浮遊選鉱を採用し、一・八%前後の品位でも処理可能となった。大正九年東平に粉鉱選鉱場、同一一年粒鉱選鉱場を設置した。また化学工業の発達から、硫化鉄鉱の需要も伸びた。しかし戦後の不況によって大正一〇年以降数回の人員整理があり、同一四年には別子鉱夫組合と改善会の対立から労働争議が起こった。
 鉱山の活況は各地に鉱毒や煙害問題を発生させた。農商務省は大正二年に全国鉱山に、新法による硫酸稀釈処理を指示し、別子でも大正六年四阪島に六本の大煙突を建設した。しかし排煙の温度低下で拡散が行われにくくなり、かえって煙害を拡大した。昭和五年亜硫酸ガスを中和するペテルゼン式硫酸工場、一三年アンモニアによる廃煙の中和工場の完成で煙害問題は解決したが、明治四一年から昭和一四年の間に住友の支払った賠償金・寄付金等は八四万八、〇〇〇円に達した。
 西宇和郡佐島でも明治製錬の買収後は焼鉱量が増加し、甘藷、麦などが枯死する被害が発生したため、八幡浜外八か町村で大正二年九月から補償交渉に当たった。しかし大戦後の不況で郡内の鉱山は縮小され、大正九年には大分県佐賀関に製錬所を移したため、同問題は解決した。

 在来工業の推移

 県下の在来工業は大戦後と昭和恐慌の影響が著しく、第一次大戦中の数か年の活況を除き、大正から戦前を通じて衰退又は停滞気味であった。清酒は大正八年の一七万八、〇〇〇石を頂点に下降を続けた。酒造家の規模は少しずつ大きくなったが、昭和一〇年でも一醸造家当たり平均わずか二四〇石であった。良品は灘酒代用として同地方へ桶売りされた。主産地は松山・今治で、越智郡と西宇和郡の杜氏組合が両市のほか九州や中国・朝鮮へも出稼ぎした。醤油は高知と九州へ主として出荷した。
 木蠟は明治中ごろから減少を続けたが、大正中期から電灯とパラフィンの普及で更に急減した。晒蠟は大正一〇年(一九二一)ごろまでは生蠟の七割を産したが、それ以降は三割となった。製造の中心は喜多郡であるが、原料の櫨は西宇和郡や九州から移入した。桜井漆器は大正初年は製造家四〇戸内外であったが大正一一年から昭和二年(一九二七)までは六〇戸以上となり、職工も四五〇人を抱えて黄金期となった。生産の約六割は食器類で、親方一三〇人と売り子八〇〇人の行商によって中国・九州へ販売された。
 砥部焼は明治二七年のシカゴ博覧会に出品して海外にも知られ、向井和平の愛山窯などの良品は欧米へも輸出した。日露戦争後は東南アジアヘの輸出が伸びて好景気であったが、その後大正初年までは反動不況で生産量を減らした。しかし第一次世界大戦によって欧州製品の東南アジア輸出が途絶えたため再び活況となった。生産の頂点は大正六~九年で、七年では製造家三三戸、職工七五九人、産額九四万五、〇〇〇円で、うち七割が伊予ボールと呼ばれる型染めの安価な茶碗と皿であった。この期に砥部窯業の中心となったのは、三窯を経営し問屋を兼ねた大正三年設立の橋田商事㈱であった。しかしその後は輸出不振と内需が先進地におされて衰退し、昭和恐慌期には休廃業と操短が相次ぎ、産額は大戦時の一〇分の一となった。
 県下の製瓦業も日露戦争後から第一次大戦期にかけては好況が続き、製造戸数は五五〇戸前後であった。銀光沢をつけた改良瓦が好評で、手工業的生産法では間に合わず、大正九年から電力利用の土練機、石炭利用の改良窯、白地乾燥棚などが現れた。しかし昭和四年からは不況と洋瓦・スレート瓦との競合で不振となり、昭和一二年には四〇〇戸以下となった。中心産地の菊間でも盛期には製造家七〇戸と職工二三〇名で七〇〇万枚を産して、大阪・広島・香川などへ出荷した。不況期には共販のため「菊間製瓦販売組合」を設立して、各戸の庭先取り引きを改めるよう指導し、菊間瓦の商標を定めて価格を協定した。同組合は信用事業も行ったが、価格の下落で昭和七年から生産制限をやむなくし、一二年以降は徴用も加わって職工は九〇名前後となった。

 綿織物業

 綿織物は明治期から昭和前期までの県下工業生産の主力であり、特に明治四〇年代は機業家数五万戸、職工六~七万人、大正六年(一九一七)から昭和六年(一九三一)の間は機業家約二万二、〇〇〇戸、職工は三万三、〇〇〇人であった。昭和二年の機業家数は全国の二三・九%、手織機台数は二八・一%でともに一位、職工数は一三・六%で大阪に次いで二位、産額は五・三%で五位と高い地位にあった。しかしその主力は兼業農家の賃織りや一〇人未満の零細工場を中心としていた。特に松山市域の伊予絣生産は零細であった。同市と温泉・伊予二郡を合わせると昭和五年では機業家の九八・四%、職工の七八・八%を占めた。一方今治市と越智郡や新居郡、宇和島市や西宇和郡では工場的生産が行われており、今治市と越智郡のみで県下力織機の五六・七%を占め、手織機はわずか一五五台であった。
 小幅物は松山市と温泉郡の伊予絣、西宇和の縞木綿を中心として第一次大戦中から異常な好況であり、大正六年七八一万円、同七年九五三万円を産し、同八年から一四年の間は一、〇〇〇万円を超した。その後も高い生産量を保持したが、価格は下落を続けて昭和五年以降の生産額は盛期の三分の一以下となった。各地に産した白木綿は、明治末期にはまだ四〇〇万反以上を産したが大正以降は半減した。しかし今治市の綿ネル、西宇和郡の粗布・縞布など広幅物は大戦後の不況からの回復も早く、昭和以降も順調な発展を続けた。

 伊予絣の生産

 明治三九年に二四七万反を産した伊予絣は、戦後の反動不況によって大正四年まで下降を続けた。特に大正二、三年は捺染絣の進出で打撃が大きく、職工賃や織り賃を引き下げても採算が合わず転廃業が続出した。しかし第一次世界大戦によって五年から好況となり、同八年から昭和四年まではほぼ二〇〇万反台を維持した。安価と丈夫さから販路も広く、大正一二年までは数量で全国の過半、金額でも三割を産した。大戦開始当初は反当たり一円三〇銭であったが、八年三月には三円六、七〇銭、同年末に六円、九年に入ると八~一〇円と問屋の思惑買いもあって急騰し黄金期となった。松山市の工業生産額をみても、大正二年の伊予絣は綿糸に次いで九一万円であったが、同一〇年では六八九万円で、首位となり二位の綿糸の二・二倍となっている。しかし九年秋には二円台に急落し、日本銀行広島支店から一〇〇万円を借り入れて急場を凌いだ。その後持ち直すが一一年以降は価格の低迷により不振を続けた。
 伊予絣の生産は農家の余剰労働力の賃織りである織り元制と出機制に特色があり、温泉郡中島の場合では織り元が平均一五〇軒の織り子を抱えていた。しかし好況期には職工二〇人前後の工場も数多く設立され、力織機よりは安い足踏式織機によって、従来の高機の二倍以上の能率をあげた。足踏機は大賀式から大岩・三谷・宮内式など多種の改良型が現れ、大正四年田内栄三郎、昭和九年仁木近太郎など、力織機を導入する機業家もいたがともに主力とはならず、出機制が戦前までは一般的であった。
 伊予絣の指導・検査機関である「伊予織物同業組合」は、デザインや染色の改良、丈尺の延長などで不況克服に努めた。また大正一三年九月、機業家や関連業者を会員として「伊予絣改良同盟会」を結成したが、洋風化や児童の学童服化など服飾の変化には抗しきれず、昭和一三年以降は綿糸も配給制となって一〇〇万反を割った。豊富な用水と労働力を有する西条地方では、大正初年に関西捺染㈱、西条織布などの工場が力織機によって捺染絣や大正布を量産した。

 今治地方の綿業

 今治地方の白木綿は、軍用包帯の需要によって明治二八年(一八九五)には五〇〇万反に達したが以後は下降線をたどり、明治四〇年ごろには産額で、大正六年(一九一七)には数量でも広幅物に追い越された。大正五年から数年間は、輸出向けの大正布を織って好況であったが、それも明治中期の半分以下であった。不況対策のため和歌山から導入した綿ネルは漂白の水質の良さ、注文生産で経営が堅実なため本場の紀州ネルより安価で良品であった。特に片毛ネルは一般衣服用の生地として大手会社の注文が多く、大正元年には伊予絣の産額を超えて県下綿織物の首位となった。
 生産の動力化は明治末期から進められたが、力織機台数は大正二年の六〇〇台から同九年に六、〇〇〇台となり、第一次大戦期に近代化を達成したことが分かる。手織機は大正末年に姿を消した。また輸出率は明治四三年が生産高の二七・三%であったが、大正七年では五三・六%であり、インド・南洋方面への進出が発展の大きな牽引力となった。反当たり単価も大正五年の四・一七円が六年五・四六円、七年一〇・八二円、八年一四・五〇円と急上昇し、六年ごろから昼夜二交代の一二時間労働制が一般となった。頂点は昭和元年であるが、それ以降はメリヤスの進出、足袋裏地などの大手の自社製造開始で減少傾向となった。綿ネル生産は明治中期既に大阪では動力生産が行われた。これに対抗するため今治でも阿部会社(職工五八一人)、伊予織物(同三八八人)など大工場を設立するとともに、労賃の安い農村部へ従業員数数十名の分工場を作った。やがて綿ネルが本社工場へ集中すると、分工場はタオルに転換して今治タオル発展の要因となった。
 タオル業も第一次世界大戦期に発展をみせた。大正元年(一九一二)では全国生産の三・四%、金額で二・八%で五位であったが、同九年に兵庫県、一四年に三重県を抜いて大阪府と首位を争った。大正五年にインド・中国南部に輸出を開始し、そのころ麓式織機から足踏機に代わった。しかし大正七年に原田式力織機が導入されるとたちまち普及し、手織機は姿を消した。大正一〇年ごろから不況の白木綿業者のタオル業への転換が増加した。
 大正一一年に県立工業講習所が創立されると、技師の菅原利鑅を中心に技術改良が進み、ドビー機を使用してデザインが工夫され、湯上げ用や反物用のタオルが生産された。同一四年にはジャカード機により紋織タオルが織られ、屑綿糸利用の手拭から高級化への道が開けた。昭和五年以降は好況となり、一〇年では全国生産の三四%を占めた。今治タオルの特色は安価で良質、製造が先晒であること、個人企業体であることなどであるが、特に泉州(大阪府南部の地)より大規模で高能率であること、工員が地元農村の通勤者で、経営に弾力性があることの利点があった。同業組合は明治末期から広幅物を主に「伊予綿練同業組合」、小幅物にタオル業者を加えて「伊予綿布同業組合」があった。しかし、大正五年ごろから組合員が綿ネルとタオルを併織し、製品も類似して混乱したため、両者を合して大正九年五月に「今治織物組合」を結成した。会員は今治市・越智・周桑・新居各郡一円の一五三名で、同一四年の「工業組合法」発布によって「今治織物工業組合」と改称し、検査や加工・品質の高度化、共同化に努めた。

 南予の綿織物

 八幡浜地方の縞木綿は明治末期から動力化か行われ、大正二年二月現在では西宇和郡内に動力工場が九工場あり、更に五工場が建設準備中であった。翌年には共同染色工場を設立し、原糸は愛媛紡績八幡浜工場が提供できるという量産体制が整ったところで大戦となった。たちまち活況となり製品は綿ネル・タオル・大正布・粗布など、新製品も加えて中国を中心に輸出も急増した。主要工場は酒六・岡田織布・窪田合資会社などで、特に酒六は南予一円に次々と分工場を拡張した。大正末年からは欧州産縞リンネルの代用である縞三綾が好況となり、同郡の産額は昭和四年(一九二九)に三五八万円、八年六〇七万円、一二年は一、〇八八万円と増加した。
 宇和島町でも大正五年に宇和島織布、翌年日本織布などが設立されて輸出中心に生産を伸ばし、その後都築工場・西村製織なども力織機を増設した。大正一一年(一九二二)には今治から丸今綿布が進出して日本織布を合併した。吉田町では大正七年三月、吉田織布が中国向けの粗布を製造したが、戦後の不況で大正九年坂本・毛利・福島ら諸工場が廃業し、大手の吉田織布も同一四年二月に廃業した。

 紡績業

 県下の紡績業は明治二〇年代に地元資本により発足した。当時の紡績工場は県下では唯一の近代大工場であったが、明治三四、五年の不況期に大阪資本の進出を許した。明治末期の一日平均運転数は約三万錘であったが、大正に入って拡張が著しく、同二年には宇摩郡三島町に職工五一二人、七、〇〇〇錘の三島紡績が創設され、西宇和郡川之石町の大阪紡績川之石工場は一万五、〇〇〇錘を増設して県内最多の三万錘となった。このころ松山紡績も一万錘の増設を計画したが、全国的な設備過剰と原綿の高騰など条件の悪化によって中止した。県全体の運転数では、大戦景気の中でアジア市場への大きな伸びによって大正三年八万五、〇〇〇錘、同九年の九万七、〇〇〇錘の二つの頂点を持つが、九年三月の恐慌以降は長期間の低迷を続けた。
 大正八年の全国生産では、東洋紡績・大阪合同紡績・倉敷紡績・近江帆布など一〇大紡績に八三%が集中するが、県下でもこれら大手の県内進出や、中小企業合併策により、この期に吸収合併の動きが著しい。三島紡績も不況を改組で乗り切ろうとしたが、結局は中央資本に吸収された。生産高は大正三年が最多であるが、一錘当たり五〇円が六倍の三〇〇円と熱狂景気となった八年が生産額では頂点で三、〇〇〇万円を超した。この好況は他県も同様で、広島県の福島紡績福山工場は、愛媛県下でも熱心に女工募集を行った。以後の不況期でも職工数や生産量の減少はそれほど著しくはない。価格の下落対策としては大日本紡績連合会の第九次操短(大正九年五月から一年七か月間)昼夜一〇時間交代、一割操短に県下でも合わせた。しかし各企業は内実、操短による生産縮小を増設によって補充しようとしたため効果は今一つであった。
 復調の兆しは昭和六年(一九三一)からである。昭和四年二月から深夜業を廃止し、一日実働一七時間制の操短中であった東洋紡績川之石工場も、一一月に精紡機六、四〇八台を増設した。総工費二八〇万円余の大工事で町民を驚嘆させた西宇和郡三瓶町の近江帆布三瓶工場も、昭和五年六月から操業した。こうして昭和一〇年、日本の綿紡績糸の輸出量は、イギリスの二九・五%を超え、四一%にも達した。しかし一二年以降は原綿の輸入制限や戦時統制によって、生産系統にも大きな変化が生じた。

 製糸王国の出現

 明治期に確立した県下の製糸業は、大正期に大戦の好況によって著しく発展し、その後も昭和五年の糸価の暴落までは順調に生産を伸ばした。生糸原価の七割は繭であり、養蚕が農家の最大の副業であった本県では、生糸生産の消長が農村や農家経済に及ぼした影響は極めて大きい。大正初期には器械製糸が零細の座繰製糸を圧し、明治末年まで一、五〇〇戸以上あった座繰は、大正三年一、○二一戸、四年五七五戸、八年三五四戸、一〇年には二三九戸と急減し、昭和初期では一二○~一三〇戸となった。生糸生産に占める器械製糸の割合は、明治二〇年ごろで五五%、大正一、二年で八七%、三年以降では九〇%となった。また小規模生産では激しい糸価の変動に適応が不利なため、明治中期までは一〇~五〇釜が大半であった器械製糸工場も次第に大型化した。大正五年に一〇〇釜以上の工場は一三であったが、一〇年には二九となり、全釜数の三割以上を占有した。
 生糸は輸出の八割がアメリカ向けであったが、大正三年に入って同国の需要が高まり、大戦開始直後は多少の停滞があったものの五、六年は好調となり、県下各地では工場の新増設が相次いだ。新居郡では中萩村に飯尾製糸、橘村に横井製糸が設立されたほか、岡山県の郡是製糸分工場へ、農家から直接販売する経路も開かれた。このころ開業した大型工場では、資本金三〇万円で二〇〇釜を持つ北宇和郡八幡村(現宇和島市)の南予製糸、ほぼ同等クラスに西宇和郡八幡浜町の摂津製糸、周桑郡丹原町の周桑製糸、北宇和郡明治村(現松野町)松丸の明治製糸、温泉郡北吉井村(現重信町)横河原の愛媛蚕業などがあった。大正五年大洲町付近には、今岡・河野など器械製糸二〇工場があり、工女は約一、五〇〇人、日給六、七〇銭でその所得は地方経済を潤した。養蚕の中心地菅田地区では二階建ての蚕室を新築し、生繭一〇〇貫目以上を産出する農家も多く、年収一、〇〇〇円以上(水田なら二〇町歩分)の農家が全戸の半数もいた(『大洲市誌』)。
 しかしこの好況も数年間で、大正九年には反動によって糸価は四割も暴落し、その後も回復することなく下落を続けた。このころ県産の繭量だけでは不足し、約半分を高知県・大分県・宮崎県などから移入していたが、これらの県でも製糸工業が活発となったため繭不足が深刻となった。ために各工場は不況の上に繭価の高値にも苦しんだ。本県は糸価の下落に生産増で対応したため、昭和初年が最大の生産期であった。昭和二年(一九二七)県下の生糸生産は全国八位、京都以西では一位であった。
 県下の生糸生産の中心は宇和島市と南予四郡で、大正昭和期を通じて県下のほぼ八五%を占めた。大正一〇年の産高では喜多郡が首位で二八%であったが、その後は宇和島市の伸びが著しく、昭和五年産額では県下の三〇%を占めた。同年同市の製糸工場は三五あり、うち二七工場が大正一〇年以降の設立であった。工女は約二、六〇〇人、大正一〇年の同市の工業生産額中生糸は三七%であったが、昭和五年では六二%となり、第二位の綿織物の一九六万円をはるかに超えている。しかし県下全体も同様であるが、乱立点在する小工場の大規模化や組織改善と品質向上、原料高や原料不足に対する取り引き改善、労働面では技術の向上や待遇問題、また発展しつつある人絹工業への対処など、難問山積の状況であった。
 生糸の品質向上のために、政府は昭和二年七月「輸出生糸検査法」を施行したが、県でも同年四月「製糸講習所規程」によって、一七歳以上の女子に手当てを支給して技術を指導し、同年一二名、翌年二四名が受講した。昭和七年一〇月、「製糸業法」によって製糸工場を免許制として乱立を防止しようとし、業界でも帝国蚕業倉庫や帝国蚕業㈱を設立して、滞貨生糸の保管や糸価の維持に努めた。

 製紙地帯の形成

 本県の製紙は明治中期から戦前までほぼ全国生産額の一割を占め、高知県に次ぐ全国二位の産地であった。生産は大正初年までは手漉き中心で、農家の副業として県下に広く分布した。しかし明治三〇年代に、原料の三椏や楮の値上がりによってパルプが混用され、明治末期から機械漉きが増加すると大正二年(一九一三)まで四、〇〇〇戸あった手漉き製紙家が大正八年には三、〇〇〇戸を割り、同一二年では二、〇〇〇戸以下となった。生産額は大正初年ごろ機械漉きは全体の一割であったが、一一年では三一%、昭和元年では三八%となり、この期にようやく製紙工業も、農村の家内工業の域を脱して工場として専業化するとともに、宇摩郡の比重を増していった。これらの変化の契機もやはり第一次世界大戦である。昭和以降では改良半紙・塵紙・障子紙の伸びが著しく、四年以降の不況期には洋紙生産を開始した。
 宇摩郡の紙業発展の原因は立地や紙質の良さの上に、先覚者によっていち早く機械化、合理化が行われたためである。同郡の生産は大正一〇年では県下の四八%であるが、昭和初年では六〇%、八年以降は七〇%以上を占めた。大正一〇年でも同郡の生産額二五七万円は紡績一三五万円、綿織物業六万円に比していかにも大きい。機械漉きは大正二年に宇摩製紙が、スウェーデン製長網式抄紙機を移入したのが初めで、翌年には松柏村の大元商会も丸(円)網式の小幅抄紙機を導入した。大正九年以降の不況期にはこの抄紙機を入れる業者が多く、昭和元年(一九二六)には川之江町に県立工業試験場が設置され、二四インチ円網式抄紙機が入って本格的に技術指導が開始され、ようやく中小工場による機械漉き時代が到来した。昭和元年同郡三〇七工場の分布をみると、金生村一〇四、三島町六二、川之江町四〇、寒川村三二、新立村二六、松柏村一四と河川沿岸や海岸部に集中している。昭和二年でビーター(原料叩解機)を備えたもの五一工場、抄紙機を持つものは六工場であった。なかでも丸井製紙は職工数一四九人を擁する最大の機械製紙工場であった。
 宇摩地方は大正六、七年ごろから紙糸・油紙・封筒・紙製帽子などの紙加工業が東京市場の伸びで盛んとなり、同一〇年の産額は三五万円に達した。また明治末期に始まった元結・水引製造は、昭和三年に五〇万本の宮内庁御用によって有名となった。昭和四年以降、製紙は急速な景気後退で倒産もあったが、賃金抑制や一日一二時間労働などでこれに耐え、一〇年から再び景気上昇をみた。
 周桑郡や喜多郡では手漉き和紙も長く残存し、小規模ながら産地形成をみた。周桑郡は奉書紙の生産を中心とし、国安村と吉井村で大正期に約一八〇戸の業者があった。一戸当たり四、五名の規模が通例で職工数は七~八〇〇名であった。喜多郡では改良半紙を生産したが、紙漉き農家は山間に広く点在し、いずれも農閑期の冬季に数か月のみ婦人や老人が紙漉きに従事した。そのため機械化も共同化も遅れ、明治末年から大正七年までは漉き家約一、五〇〇戸があったが、大正八年から急速に減少し、昭和元年には二六四戸となった。しかし職工は他の漉き戸に吸収されて余り減らず、昭和初年では一戸当たり三、四名が従事していた。

 重化学工業の誕生

 大正期は一般に重化学工業への民間企業の進出が著しく、内需輸出ともに急成長した。なかでも造船・化学肥料・薬品などが発展した。しかし製糸・紡織など繊維工業が盛んであった本県ではその歩みは遅く、男子の労働力は呉・広島・因島などへの供給地の感があった。特に大正期の呉海軍工廠は常時二~三万の職工を抱えていたが、約三割を占める県外出身者の第一位は愛媛県であった。しかし昭和に入ると重化学工業の県下工業に占める職工比や産額も少しずつ増加し、一〇年代にはその地位も確定した。化学工業は昭和初年では全国産額の一%で一六位であったが、一〇年代に二・五%となり順位も一一位と伸びた。しかし機械工業は全国の〇・四%で二〇位、金属工業は〇・三%で二五位前後であった(「工業統計五〇年史」)。
 機械工業は特産地の形成期であり、川之江町・三島町では製紙関連機械、新居浜町・西条町では一般機械製作を特色とした。新居浜の機械工業は別子銅山用の機械製作・修理から始まった(明治二一年惣開熔鉱所に工作方設置、のち機械課)が、昭和初年の銅山の出銅量減少と品質低下による危機の時、肥料・機械製造による新発展の方策がとられ、昭和三年(一九二八)に住友別子鉱山新居浜製作所と改称して規模を拡大し、一般機械も製作した。大正以降この工場で技術を修得した従業者が独立して、次第に町工場群を形成した。
 明治末期から県下各所に中小造船所が創設され、小型の漁船や帆船、機帆船を建造した。しかし第一次世界大戦による物資流通の拡大や商船の徴発による船舶不足、交戦国の注文などから空前の活況を呈し、注文船舶が大型化すると立地条件のよい今治町、宇和島町・八幡浜町に集中した。今治の造船業は地元の海運業の発展と関連が深く、大正期には八工場が集中した。大正五年(一九一六)には六六〇トン型の大型機帆船や汽船も建造し、昭和二年から鋼船も建造した。発注は主として阪神からである。
 松山では背後の農村を市場として、農業機械やボイラーが製作された。明治までの農具は野鍛冶による注文生産であったが、明治末期に脱穀機が現れ、大正期に入って関谷農機㈱が籾摺機・麦摺機を製造した。農商務省も農機具の発明考案者への奨励金制度を定め、大正一〇年には温泉郡石井村(現松山市)で、本県最初の農機具展示会が開かれて農民の関心を集めた。同社では昭和七年に動力脱穀機を、九年には自動脱穀機を製作した。
 金属工業はそのほとんどが零細企業の職人的生産で、六〇〇工場一、〇〇〇人の職工が県下に広く分布した。製品は日常的な鍋釜などの鋳物、打ち刃物、ブリキや亜鉛加工などで地域的特色はない。県下の生産額は大正初年で二〇万円、大正末期から昭和一〇年までは六〇万円前後であった。
 化学工業の全国的地位は明治四二年に生産額では全国の〇・六%で二一位、大正九年○・八四%で一九位であった。成長の中心は化学肥料で、住友では煙害対策のため明治四一年から硫酸・過燐酸製造の本格的研究を始め、大正二年九月に惣開に直営の肥料製造所を開設し、四年一〇月から初出荷した。従業員は大正七年二〇九人であったが、同一三年には三七〇名となり、同年過燐酸は約七万トンで全国の一二%、配合肥料は約二万トンで五%を産した。大正一四年株式会社として独立し、昭和五年から硫安を、引き続きアンモニアなどの化学薬品も生産した。
 化学肥料は農家の需要増で好況であり、大正六、七年ごろには松山電気化学工業、松山電気軌道、松山ガス、伊予化学、西宇和郡の大阪アルカリなどでも製造を始めた。県下の生産額はチリ硝石など外国原料の入荷が途絶えた大戦期に増加し、大正五年の一九〇万円が八年では五一三万円となった。しかし大正九年と昭和五年以降の不況期には落ち込みが大きい。化学薬品は大正期は五、六〇万円であったが、昭和初年には一〇〇万円を超えた。

 発電とガス事業

 電力会社の競争で明治末期にはほぼ全県に送電網が整い、大正期に入って電力・電灯ともに需要が急成長した。大正二年(一九一三)には早くも電力需要が電灯需要を超え、同六年には工場の原動力で電力が蒸気力を上まわってエネルギーの主役となった。しかし大正期は小会社の乱立期で、好況下に各電力会社は激しい競争と合併を続けたが、結局は伊予鉄道電気㈱がほとんどの会社を傘下に収めた。
 中予では伊予水力電気が明治四四年に黒川発電所(一、二〇〇キロワット)を建設し、大洲以北波止浜以西の営業権を得たが、伊予鉄道と合併して伊予鉄道電気会社となり、競合関係にあった松山電気軌道を合併した。そして大正一一年(一九二二)三月第二黒川発電所(二、五〇〇キロワット)を増設して需要に応えた。今治の愛媛水力電気も、綿業の発展によって大正八年三月加茂川発電所(一、〇〇〇キロワット)を建設して新居浜地方へも供給した。翌年更に鈍川発電所(五〇〇キロワット)を建設したがなお電源不足であり、競争を避けるために伊予鉄道電気に合併した。
 南予では宇和水力電気が主力会社であり、大阪紡績川之石工場や愛媛紡績八幡浜工場からの大口申し込みのほか、織物・製材工場の申し込みもあって一般家庭の需要には応じきれない状況であった。諸社を吸収し、従来の野村発電所や小型の御内・槙川・僧都発電所のほかに、大正三年六月宇和島に火力発電所所を、大正一三年には横林(五六六キロワット)、惣川(六八〇キロワット)両発電所を建設し高知県へも進出した。しかしどうしても電源不足や料金高の問題が否めず伊予鉄道電気に合併した。
 宇摩では上分町の東予水力電気が銅山川に滝山発電所を建設した。しかし水路の崩壊で停電が多く、大正七年三島町に火力発電所を作ったが経営権は帝国電灯に売却した。その後銅山川の水力は、銅山川電気・金砂電力・燧洋電気の三社が分け合った。新居郡飯岡村(現西条市)の武田兼太郎らの創設した新居浜水力電気、上浮穴郡中津村の弘形電気や、久万町営電気などは比較的長期間営業を続けた。大正末期からは農作業にも電力が使用され、昭和三年の広島放送局のラジオ放送開始でも大きく需要が伸びた。火力では大正一二年高浜火力(二、〇〇〇キロワット)、同一五年今治火力(二、〇〇〇キロワット)、昭和二年三島第二(一、〇〇〇キロワット)、水力では昭和三年面河発電所(三、二〇〇キロワット)など大型の発電所が建設された。しかし昭和五年ころからは恐慌によって電力会社も初めての経営難を経験し、料金争議や値下げ競争も行われた。
 昭和三年県下各社の発電力は二・九万キロワット、電灯数は九三・九四万灯(一〇〇人当たり八二・八灯)であったが、昭和六年では四・五万キロワットと電力は増えたものの、電灯は八六・六万灯(一〇〇人当たり七五灯)と減少し、恐慌の深刻さを示している。この間電力会社の統合は更に進み、電力統制の必要から県内及び四国の電力会社の一本化が協議されるに至った。
 ガスは日露戦争前の好景気の中で灯用・熱源ともに需要が伸びたが、電力の普及はガスよりも著しく、大正初年は熱源のみがわずかに成長した。県下では松山瓦斯が明治四五年一月、今治瓦斯が大正二年四月の開業で、翌年には宇和島町と八幡浜町にもガス会社が設立された。しかし電力との競合の外に、大戦による石炭の高騰で経営は苦しく、宇和島瓦斯は宇和水電に吸収され、松山瓦斯は福沢桃介の日本瓦斯の系列下に入った。大正七年四月トン当たり一七、八円であった若松炭は八年一〇月には二五円以上となり、各社ともに事業を縮小し資材の鉄管を売却して経営難に耐えた。今治瓦斯は製氷会社を兼営し、松山瓦斯は化学肥料を製造し、ガス代を一割値上げした。しかし大正末期から昭和初期の不況期に、石炭が暴落したためガス事業は著しく進展し、今治では綿ネルエ場にガスエンジンが普及した。また政府も大正一四年「瓦斯事業法」を制定し、公益事業として保護した。


表3-41 愛媛県の工場と職工数

表3-41 愛媛県の工場と職工数


表3-42 愛媛県の工業生産額構成

表3-42 愛媛県の工業生産額構成


表3-43 愛媛県の種別規模工場数(昭和4年)

表3-43 愛媛県の種別規模工場数(昭和4年)


表3-44 県下の郡市別種別工業分布(上位3郡市のみ)(昭和元年)

表3-44 県下の郡市別種別工業分布(上位3郡市のみ)(昭和元年)


表3-45 別子銅山出銅量

表3-45 別子銅山出銅量


表3-46 愛媛県の工業生産(在来工業)

表3-46 愛媛県の工業生産(在来工業)


表3-47 愛媛県の綿織物業

表3-47 愛媛県の綿織物業


表3-48 温泉郡中島地方の伊予絣生産形態

表3-48 温泉郡中島地方の伊予絣生産形態


表3-49 伊予絣の生産

表3-49 伊予絣の生産


表3-50 今治地方の綿織物生産

表3-50 今治地方の綿織物生産