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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 労働力運動の勃興と発展

 労働組合の結成と争議発生の概況

 第一次世界大戦による、重化学工業を中心とする産業の発展に伴って労働者が急増し、労働問題が起こってきた。この時期諸物価殊に米価騰貴により、労働者の実質賃金は低下し、生活条件が悪化したので、それを改善するため賃金値上げを主とする諸要求を掲げて、労働運動が勃興するようになった。大正七年(一九一八)八月に起こり、全県下を台風のように巻き込んだ米騒動は、暴動の中心となった労働者たちに大衆行動の力とその必要性を印象づけ、労働運動の展開に大きな刺激を与えた。第一次世界大戦後は、経済恐慌の襲来による生産の停滞・縮小によって起こった労働者の首切り・賃下げを阻止し、生活条件を維持しようとする労働者の運動が盛んとなった。
 表3―73によって、県下に起こった大正年間の労働争議状況をみると、米騒動直後をピークとして起こっていることが分かる。つづいて労働争議に当たって結成される労働団体の状況(大正二年~昭和一〇年)を表3―74によって見よう。
 愛媛県下において労働団体が結成されはじめたのは、大正五・六年ごろからであり、これらの団体は相互扶助・親睦を主な目的として組織されたもので、労働争議などの場合でも、賃金引き上げ、生活条件の改善・擁護に当たって一致団結する程度にとどまり、労資協調主義をとる穏健な団体であった。本県の場合、このような性格をもった労働団体が全組合数の七三%余を占めており、米騒動後に創立されたものが多かった。
 一方、大正一一年ごろから「階級闘争によって労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会建設を期する」という綱領を決定発表した日本労働総同盟傘下の各労働組合の動向に刺激されて、県下にも中央と連絡をもった階級闘争主義の労働組合が結成され始めた。
 大正一三年一〇月一日には日本労働総同盟系として別子労働組合が、翌一四年一月一日には今治労働組合が結成された。また、日本労働組合評議会系のものとして大正一五年五月八日に松山合同労働組合、昭和二年九月三日に今治一般労働組合、翌三年一〇月七日には西宇和郡印刷工組合がそれぞれ結成された。これらの労働組合は、資本家階級を攻撃し、労働争議を通して組合勢力の拡大を図ろうとしたが、大正一四年春、過激社会運動を取り締まる目的の「治安維持法」が成立公布されたので、労働運動の取り締まりが強化され、また同年中央労働組織である日本労働総同盟が分裂し、左派は日本労働組合評議会を創立した騒ぎが影響するなど、組合発展上の障害が生じた。大正末期から昭和初期にかけての数年間の本県の労働運動は、このようなきわめて困難な条件のもとに、正常な発展を遂けることができなかった。

 別子労働組合結成への動き

 第一次世界大戦後、住友経営の別子鉱山では、戦時好況期の生産拡充に伴う労働災害や労働強化による犠牲者を中心に、戦後不況の中で大量解雇が行われた。後に残った労働者の間では、人員整理後の労働強化で、災害を受けたり病気にかかったりすると生活は苦しくなり、その上不況になると解雇される不安が広がっていた。せめて療養手当・休業扶助料・退職金を増額してもらいたいという要求が、次第に強くなっていった。
 次に労働強化によって安全施設の整備がおろそかになり、作業安全度が低下していて、労働災害頻発の不安があり、被災労働者の処置に適切を欠くものがあって、労働者に不平不満を抱かせた。また職員と労働者との間の待遇、身分差が大きく、絶えず労働者の反感をそそっていた。
 別子における組合結成の動きが出始めたのは、大正一三年(一九二四)三月からであった。公傷による解雇を言い渡され、退職手当の増額を要求して拒否された谷口直市と疾病休業扶助料の増額を拒否された仁尾忠五郎は、五月上阪して、日本総同盟大阪連合会に実情を訴えたところ、総同盟から鈴木悦次郎(新居郡角野村出身)が派遣された。鈴木は公傷病者の要求を組織的な労働運動として盛り上げるため、別子銅山に労働組合を結成しようと計画した。
 この組合結成の動きを察知した会社側は、早速療病手当・休業扶助料の増額を発表して対抗措置をとり、六月以降傷病者懇談会を開催して、組合運動に惑わされないよう説得するとともに、鉱山内にある東平・端出場などの坑夫部落の有力者座談会を開いて、組合運動に関係する者があれば忠告し、部落の秩序を維持するよう要望した。七月中旬には組合加入を阻止するため、坑内労働者の休業扶助料最低額の引き上げを発表した。
 この会社側の牽制にも屈せず、鈴木を中心とする労働者側は、日本農民組合小松支部長林田哲雄らの応援を得て活動を続け、八月中旬には、組合員が約二〇〇人に増加した。会社はこれらの組合運動を根絶させるため、八月二〇日組合運動の中心人物とみられていた一二人を解雇した。この抜き打ち解雇は、公傷病者に大きな衝撃を与え、労働者相互の同情を呼び起こした。
 八月二四日になると、総同盟大阪連合会から大矢省三や山内鉄吉(新居郡中荻村出身)らが応援に駆け付け、不当解雇の取り消しと解雇手当ての増額、組合運動の圧迫干渉の中止を会社側へ要求したが拒絶された。そこで二六日から組合員一〇〇人が参加して、解雇反対デモを行った。九月に入ると山内や鈴木らが争議指導部をつくり、解雇反対運動と組合加入運動を続けながら組織の拡大を図った。会社は解雇反対運動がそのまま組合運動に盛り上がる情勢にあるのをみて、解雇運動を阻止するため労働者代表と交渉し、九月一四日組合側の要求する解雇手当ての増額をのんだ。組合側は会社側のこの異例の譲歩を労働者の団結と組合の力による成果であると宣伝し、組合加入者を拡大し、労働組合を結成して待遇改善を勝ち取ろうとした。こうして公傷病者の問題を契機として広がった組合運動は、その後別子銅山の労働者を数多く組織する段階にまで進んだ。

 別子労働組合創立と改善会

 大正一三年一〇月一日、「日本総同盟大阪連合会別子労働組合」の創立大会が、新居郡角野村(現新居浜市)山根瑞応寺下の畑を会場として、約八〇〇人の出席を得て挙行され、組合の創立と各支部の設立を決定し、綱領・宣言の決議が発表され、組合長に山内鉄吉、会計に鈴木悦次郎が選出され、組合員数は別子銅山全労働者の約三分の一に当たる一、四六四名であった。
 発表された宣言では、「……吾々労働者ノ地位及人格ノ向上、識見ノ開発、労働条件ノ改善ヲ計ルモノハ、吾々労働者自身ノ組織セル組合デアリ、又夫レカ全国的ニ総同盟セル日本労働総同盟ヲ置ヒテ他ニ何者モナイ、吾々ハ茲ニ別子労働組合ヲ組織シ、日本総同盟ニ加盟シ、労働階級全体ノ立場ヨリ、最大多数ノ最大幸福ヲ得ル為ニ、今後勇敢ニ而モ着実ナル方法ヲ以テ益々此ノ運動ヲ続ケン事ヲ宣言ス」と決意を披瀝し、
また綱領では、「一、吾等ハ、団結ノ威力卜相互扶助ノ組織トヲ以テ、労働階級ノ全体ノ人格ノ向上、組織ノ発達、経済的福利ノ増進ヲ期ス。二、断乎タル勇気卜有効ナル戦術ヲ以テ、資本家階級ノ抑圧迫害瞞着ニ対シ、徹底的ニ防衛センコトヲ期ス。三、労働階級ノ組織アル威力ニヨリ、穏健着実ニ而モ合理的手段ニヨリ、労働階級ノ解放ト自由平等ノ新社会建設ヲ期ス」と述べている。この綱領は、前年の階級闘争を正面にうたった総同盟の綱領からみると、大きく後退していて、左右両派に分裂した総同盟の中間派の立場が示されている。
 会社側では、別子労組員の増加は鉱山の秩序、労働条件の維持上障害となるとして、組合の発展を阻止しようとしたにもかかわらず、大正一四年(一九二五)一月末で、労組員の数は一、六五八名にも達した。そこで別子鉱山の副支配人鷲尾勘解治は、同年二月一五日から三月末にかけて、各坑夫部落の穏健派あるいは組合脱退の意志を表明した者を集めて、三六回に及ぶ精神講話を行った。講話の主旨は、「住友家は国家社会の為という観念を根本にし、労働者の為という精神をもって事業経営の根本精神としている。労資は唇歯関係にあることに着目し、共存共栄をしなければならない。」というもので、労資協調を力説し、組合運動を批判し、その切り崩しを図ったものであった。彼は思想善導・生活向上改善のための「改善会」を、各坑夫部落ごとに結成させ、会員になると組合員より有利な特別待遇を与えることとした。その結果、同年三月には改善会は、全鉱山で一、六〇〇名を擁する組織となった。
 この改善会の発展は、組合の衰退を招いて、組合を脱退する者が続出し、わずか二か月の間に組合員は約二八〇名に激減した。このように組合の切り崩しに成功しつつあった会社は、組合運動の根絶を図って、同年八月公傷休暇中の別子労働組合幹部(住友肥料製造所労働組合支部長)飯尾金次を、一〇月には労組員二名を解雇した。

 別子労働争議の発生

 大正一四年一一月一日別子労働組合は、創立一周年記念大会を、総同盟会長鈴木文治、足尾銅山の高橋長太郎、日本農民組合香川県連の前川正一、同愛媛県連の林田哲雄らを迎えて開催した。この大会で名称を日本鉱夫組合別子鉱山支部と改称したのをはじめ、負傷者虐待と不当解雇反対、臨時雇制度の反対などの諸要求を含む一〇項目にわたる決議を行った。一一月二〇日以降、この大会決議事項を会社に申し入れるため、連日にわたって面会を求めたが、拒否され続けた。
 そこで組合側は、一二月一日新居郡泉川村(現新居浜市)喜光地の組合本部で、六〇〇名の労働者を集め住友糾弾大演説会を開いた。労働総同盟中央執行委員加藤勘十らの激励演説に続いて、(1)臨時雇い制度の廃止、公傷者に賃金の八割支給、(2)解雇者のうち健康者に賃金の二〇〇日分、負傷者には三〇〇日分を支給すること、(3)組合加入の理由で解雇しないことなど一二項目にわたる要求を決定し、翌日からこの要求書への署名運動を始めた。
 これに対して改善会では、部落ごとに集会を催し、鷲尾副支配人も出席して組合対策を協議し、組合の一二項目要求署名運動に対し、一二月二日から署名取り消し運動を開始した。両者は激しく競り合いながら、同月五日までに組合側の署名者数は約四四〇名に達した。組合代表は、翌六日署名簿を添付した嘆願書を鷲尾副支配人のもとに提出しようとしたが、「別子鉱業所従業員一同」の名義であったから、会社側は別子鉱山全労働者の嘆願と認めず、書類受け取りを拒絶した。同月八日組合代表は、再び嘆願書を提出しようとして面会を強要し、惣開鉱業所前に座り込み動かなかった。翌九日午前三時会社側は退去を求め、座り込みを排除しようとして、組合代表との間にトラブルが起こったが、警察の解散命令で一応静まった。
 ところが同日午後六時半ごろ、改善会員約二四〇名が泉川村喜光地の日本鉱夫組合別子鉱山支部事務所に押しかけ、「今回の住友鉱業所に対する嘆願書には、別子鉱業所従業員一同となっているが、我々改善委員会は賛成していないのだから取り消せ」と詰問し、事務所へ投石したので、たちまち組合員約三〇名と乱闘状態となった。その結果、改善会員一六六名は騒擾現行犯として検挙され、組合員二〇名、改善会員五名の重軽傷者を出した。
 この改善会員の組合本部襲撃は、会社側が暴力によって争議の切り崩しを始めたという緊迫した印象を組合員に与えた。「争議暴力化ス多数負傷ス 警察力駄目応援急クコイ」(日本総同盟大阪連合会宛)、「酒ニ酔ッパライタル暴漢五百 今夜組合事務所ニ襲撃シ一大紛争ヲ惹起ス 警察ハ恰カモ暴行ヲ黙視ノ態度ニテ吾等自衛上最善ノ策ヲ執ル 内務省ヲ糾問セヨ」(東京日本労働総同盟本部宛)の至急電報は、そのことを物語っている。
 翌一二月一〇日、組合は三〇〇名の組合員を招集し、臨時大会を開催して、敵視している改善会員が多数暴力行為で検挙され、一般人の同情が組合側に注がれているこの時機に、「一挙に全鉱山の作業を麻痺させ、会社の死命を制すべくストライキを断行する」という重大決議を行った。一四日には同事務所に争議団本部を設置し、加藤勘十が団長となった。当時の組合員は、全鉱山労働者の約七分の一に当たる三〇〇名にしか過ぎない劣勢にありながら、ストライキ敢行を決議したのは、事態の深刻切迫感によるものであろう。

 ストライキ突入と争議の結末

 スト突入とともに、組合は全国の労働団体や友誼団体に檄を飛ばし、応援を求めた結果、労働総同盟から麻生久・水谷長三郎・小岩井浄、因島から近藤武一・金光平らが応援に駆け付け、一五日には住友電線・住友製鋼・尼崎伸銅所などの労働者が集まって、別子争議支援を決議し、地元では組合本部で激励演説会が開かれた。一七日には周桑郡小松町の農民組合から争議応援の白米四俵・野菜二〇俵が届けられた。組合は組合員の結束を固め、宣伝ビラの配付、家庭訪問、入坑阻止の示威運動、会社への面会要求など、あらゆる手段方法を講ずるとともに、連日ピケを張って全労働者にスト参加を呼びかけた。
 これに対し会社側は、一二月一五日以降出勤の労働者に対し、日給の半額を奨励金として増給し、一八日以降組合員の鉱山鉄道乗車を禁止し、一九日以後組合員及び労働運動者の部落内立ち入りを禁止し、二四日には改善会員だけに適用される諸給与を制定するなど、ストライキ参加防止と組合員切り崩し策をとった。更にスト参加者約三〇〇名中約半数以上の者が公傷休業者であるところから二七日にはスト参加者のうち四八名を仮病と認められるとして、治療の打ち切りを宣告、同時に素行不良と認められる者として七一名を解雇したが、この際会社は組合員に対して、「従来いわれなき運動に参加されたる諸君は、この際深く反省せらるべし。諸君の将来を思い、勧告す」という勧告状を発した。この解雇に引き続き、会社側は不穏分子を鉱山から一掃する方針を固め、素行不良と認められる者四、五名ずつを解雇していった。
 更に会社側は、組合の活動を阻止するため、本県警察部に警官の派遣方を要請したので、一一月二五日から延べ二五五名にのぼる警官が全山に警戒網を敷いた。一二月二五日には角野警察署から警官四六名の増派があり、二六日には県警察部長自ら出張して、全警官隊の指揮をとり、松山憲兵分隊からは隊長以下七名の憲兵が派遣され、善通寺第一一師団からも特務曹長が来て警備に当たり、会社側からも一六七名の警備員を繰り出し、全山の警備に当たった。労働争議に当たって、このような警戒体制を敷いたことは未曽有のことであった。
 このような会社側の大がかりで徹底した組合攻撃によって、スト参加者は時日の経過とともに減少し、組合脱退者が続出して、一二月末日には脱退者は四五名にのぼった。あせり気味の組合側は、争議の早期かつ有利な解決を図る目的で、大正一五年(一九二六)一月一日を期して大阪の労働者と相呼応して、住友関係の要所を一斉襲撃しようと計画した。当日午前四時過ぎ、組合員一五〇名が二隊に別れて、新居浜町惣開の住友鉱業所を襲撃しようとしたが、警戒中の警官に阻止された。一方、上阪組は同日午前一一時大阪本店小倉理事の私宅を襲撃し、同日午後二時半ごろ兵庫県にある住友男爵邸に乱入して暴行を働き、それぞれ検挙された。
 大阪での組合員の暴行は、総同盟本部を動揺させ、一月五日別子争議団長加藤勘十は、総同盟中央委員西尾末広からの至急電報によって上阪し、争議解決の方法を協議し、総同盟本部と官庁・住友本社との直接交渉によって解決の道を見いだすこと、現地の争議団は中央交渉を有利に導くため最後まで闘うことなどを決めた。
 一方会社側は、ストライキを根絶させるため、組合員の根こそぎ解雇を実行した。同月一八日まず二名の組合員の治療打ち切り・給与打ち切りを通告し、その翌日にはこの二名の解雇と組合員三一名の治療打ち切りを発表し、以後逐次数名ずつを同様の方法で解雇し続けた。
 二月一日までに、治療打ち切り・給与打ち切り・解雇の処分を受けた組合員は九五名にも達した。このような解雇は、二〇日間にわたって波状的に行われたため、自分が解雇されるより先に組合を脱退しておけば、解雇されないだろうという心理が働いて、組合を脱退する者が続出した。
 こうして組合が壊滅寸前の状態になった二月五日、別子の組合本部に来た西尾末広は、中央交渉では争議解決の見込みがないことを明らかにした。そこで組合幹部会は、「住友が屈服するまで、別子労働組合は徹底的に抗戦する」という決意を固め、今後組合運動を妨害された場合、警察官であろうと会社側であろうと関係なく、強力な闘争を敢行するという方針を決定した。
 そして二月七日以後は、二〇~三〇名ずつが一団となって連日デモを行い、組合加入とストライキ参加を呼びかけ、これを制止しようとする警官隊と各地で衡突を繰り返した。だが組合側は、闘争資金の欠乏・組合結束の乱れ、警察の取り締まり強化などによって、争議解決の見通しを失ったままであった。こうした状況下で別子争議の外来応援者として別子に来ていた栃木県足尾銅山労働支部員ら九名は、二組に別れて二月一三日未明、一組は端出場発電所の貯水池のある石ヶ山丈に登り、南方一キロメートルの地点で水路を破壊し、同時刻他の一組は大保木発電所から千々野発電所に通ずる水路を破壊し、発電力減退あるいは不能に陥れる損害を会社に与えた。
 争議団は、この日西尾末広を愛媛県庁に派遣して、翌一四日香坂知事に争議の無条件調停を一任した。知事は直ちに会社側代表松本別子鉱業所長・鷲尾副支配人を招いて、組合側代表西尾末広との間に調停を開始した。知事は二月一六日、「今回の争議により入監者その他多数の犠牲者を出したのは気の毒であるから、事業主から争議団へ慰謝料として金一封(七、〇〇〇円)を贈与すること」の調停条件を提示し、労使両者の同意を得た。更に知事が調停に当たって、希望事項として提示したものに、争議団側に対しては、「労働組合が今回の争議において執った方法・態度は不穏当であり、殊に一月一日の住友男爵邸その他の暴行事件のような不法行為は、将来決してないよう行動を慎み、穏健なる発展に努むるよう注意すること」、事業者側に対しては、「今後といえども合理的で穏健な労働組合に対しては、干渉・圧迫を加えることがないようにし、被解雇者で退山する者に対しては親切な取扱いをし、給与その他に就て出来る限り優遇して退山させること、争議解決後は、争議に参加した故を以って差別し圧迫を加えるなどのことをしないようにされたい」というようなことであった。こうして大正一四年一一月一日争議が勃発してから一〇八日を経過して、組合の完全な敗北のもとにようやく解決した。二月一七日争議団の解散式が行われたが、組合脱退者が相次ぎ、三月には数名の組合員が残るだけとなり、組合結成以来二か年にして崩壊消滅したのである。
 別子争議は、全国に所在する住友経営の各工場・鉱山の労働者に大きな影響を与えたばかりでなく、全国の労働者によって組織された日本労働総同盟の動向を左右するほどの注目された争議であった。総同盟はこの争議を重視し、大正一五年一月一一日この争議指導のため、本部を東京から大阪へ移したり、争議期間中鈴木文治会長はじめ幹部及び全国の労働運動家たちを別子に送り込んだり、争議資金を送付したりして、争議を指導・支援した。これに対して住友側は、終始組合運動に対決的姿勢をとり、あらゆる手段・方法をとって徹底的に組合を弾圧し、壊滅にまで持ち込もうとした。このため別子争議は、単に一地方に起こった労働争議であったばかりでなく、労働総同盟対全国有数の大資本家住友との大争議という感が強かった。

 今治の労働組合の争議

 今治では、労働組合結成の気運を発展させるため、大正一三年(一九二四)一一月一八日、日本労働総同盟会長鈴木文治らの一行を招いて、新世界館で第六回国際労働会議報告大演説会を開催した。同年六月スイスのジュネーブで開かれた労働会議に日本労働者代表として出席した鈴木は、我が国では労働者の団結権が認められていないことを指摘し、これから労働者は団結し組織をもたねばならぬ、政府もまた労働者の団結権と労働組合を公認すべきであると演説し、約三〇〇名の労働者聴衆を刺激した。
 組織結成の動きを警戒しはじめた会社側のうち、合同紡績は、この年の末、組合結成運動の中心人物とみられていた二名を解雇した。これがきっかけとなって、一一月の演説会以降高まってきていた団結の気運に乗って、急速に組合創立の動きがみられた。大正一四年一月一五日、日本総同盟因島労働組合今治支部の創立式が旭館(朝日劇場)で開催され、前年一〇月に創立された別子労働組合と因島労働組合から各三名の代表者が出席し、支部長に一色清光が推された。創立当時の組合員は約六〇名で、綿業労働者と仲仕であった。
 労働組合の結成は会社側に大きな衝撃を与え、各会社は組合加入者を解雇して、組合運動の中止、切り崩しを始めた。合同紡績は、組合創立直後の一月一九日、組合加入者三二名(男工)の大量解雇を行った。続いて丸今綿布は、四月八日、組合運動の指導者とみられていた三名を解雇した。組合は相次ぐ解雇に反対の争議を起こし、丸今綿布の労働者五四九名のうち二九七名が、争議団に組織された。会社は組合の力に押されて、解雇を取り消すに至った。
 丸今綿布争議が、組合の力でうまく解決したことは組合の評価を高め、組合加入者の数が増加して約一〇〇〇名になった。この勢いに乗って、五月一日四国最初のメーデーが、因島労働組合今治支部の主催により吹揚公園で行われ、参加者は約八〇〇名もあった。参加者のうちには、白のエプロンをかけた約三五〇名の女工が人目をひいた。メーデー後、組合加入者は更に増加し、単独の組合として自立するだけの力ができたので、六月一日因島労働組合今治支部を日本総同盟今治労働組合と改称した。
 六月二日、組合長が勤めている木原織布工場で、本工場・分工場の男工の入れ替えに反対して労働者全員四一八名が参加した争議が起こったが、今治市有志の調停で六月六日解決した。
 一〇月二〇日、丸今綿布晒工場で職場主任が死亡したあと、後任を外部から入れようとしたのに反対して、副主任の昇格を要望し、併せて労働条件の改善を要求して争議を起こし、労働者全員五一名が二五日間のストライキに入った。会社側は争議の切り崩しを図ったが、今治労働組合の強力な支援を受けた丸今綿布の労働者の結束が固く、争議を切り崩せないとみて、全員を解雇し、新しく労働者を雇用したうえ、操業を開始しようとした。これは大変なことになると考えた今村労働組合主事は、上阪して丸今綿布の資本主である大阪田附本店と直接かけ合い、全員復職・争議期間中の賃金支払いを条件として争議を妥結させる内諾を得て今治に帰ったが、この間に会社は、丸今綿布争議指導のため総同盟大阪連合会から派遣されていた委員を説得して、全員解雇・退職金額三、〇〇〇円で妥結させることに成功し、争議は終了した。
 総同盟本部から派遣された争議の指導者が、組合員の争議目的に背反する全員解雇を承諾して争議を妥結させたことは、組合員の組合に対する信頼を失墜させ、資本家・警察の圧迫とあいまって、組合脱退者が続出することとなった。これは、各会社が脱退者に一~二割の昇給を行うなど組合脱退を勧奨したことにもより、一二月になると今治労働組合は実質上壊滅状態となってしまった。このような状態に陥ったのは、この年の春「治安維持法」が制定公布され、労働運動に対する弾圧が強化されていた当時の社会情勢の反映であろうか、労働運動を指導し得なくなっていた総同盟の性格によるところも多かった。
 大正一五年一二月、総同盟に見切りをつけた今治労働組合幹部数名は、新たに日本労働組合評議会に加入して、組合の再建を図り、今治一般労働組合を組織した。これまで名目上存続していた総同盟今治労働組合は、消滅した。次いで今治一般労働組合の幹部らは、昭和二年一月一六日、小松町の林田哲雄らと労働農民党越智今治支部を創立し、続いて三月一七日、織物工・印刷工・鍛冶工ら約六〇名からなる労働組合今治工親会を結成した。工親会員はすべて労農党越智今治支部員であった。こうして評議会系の労働組合として再建された今治一般労組・工親会は、労働農民党と表裏一体の関係にあり、左派急進的であったから、昭和三年三月一五日の共産党・労農党・評議会系労働組合への大弾圧以後は、壊滅状態となり、今治の労働組合運動は終息した。

 倉敷紡績松山工場争議

 大正七年六月、松山紡績(松山市三津口町)が倉敷紡績に合併吸収されて、職工約六五〇名・社員約四〇名を擁する県下四番目の規模を持った倉敷紡績工場として経営されていた。会社は、昭和二年初めの不況深刻化の中で合理化を理由に職工を大量解雇した。三月三日の解雇者の中に労働評議会系の松山合同労働組合員がいたので、同組合が立ち上がり、大争議の発端となった。松山合同労働組合は大正一五年(一九二六)五月八日結成され、組合員はわずか四一名に過ぎなかったが、印刷工・紡績工などの各種産業の労働者が企業を越えて参加しており、松山地方における労働運動の中核的役割を担っていた。
 松山合同労組は、工場内部に非常時特別活動委員会を組織して職工に働きかけ、解雇職工の復職・解雇手当の支給・賃金値上げ・待遇改善などの諸要求を二五か条の嘆願書にまとめ、男工・女工四〇〇名余りの署名を集めて工場長へ提出した。嘆願書を拒否された職工たちは、三月二四日次々と寄宿舎を出て、工場近くの萱町の天理教会に集まり、職工大会を開催、嘆願を要求に改め、要求貫徹まで団結して闘うことを決議した。この要求書も翌二五日再度拒否されたので、職工全員(男工約二五〇名・女工約四五〇名)がストライキを決行、工場を退出して木屋町の長久寺に集結し、争議団を結成した。職工の会社糾弾演説は深夜まで続き、寄宿舎女工はその晩寺に泊まり込んだが、二六日午前三時数十名にのぼる松山警察署員が寺に踏み込んで退去を命じた。深夜雨の中を追い出された女工は、付近の民家に分宿させてもらって、松山市民の同情をよんだ。
 会社側は二六日朝出勤した職工に、賃金を支給するなど争議切り崩しを始めたが、争議団は本部を三津口町の工場前に設け、職工の出勤を監視する一方、東京の日本労働組合評議会・松山合同労働組合をはじめ、県下の友誼団体に支援を要請した。二七日会社側は操業開始を通告し、欠勤者は解雇する方針であると脅し、通勤男女工の家庭を訪問して出勤を促したりしたが、予期した成果はあがらなかったので、二九日争議団の男工一六名に解雇通知を出す一方、本社から職工五八名(男工七名・女工五一名)の派遣を得て、争議団の閉め出しを目論んだ。
 四月一日会社側は、本社からの派遣職工一五一名(男工二〇名・女工一三一名)による操業再開を強行、争議団は派遣職工の帰途を待ち構えて衝突し、負傷者を出したり、女工の寄宿舎目掛けてデモを行い、就業拒否とストライキへの同調を呼びかけた。四月五日警察は、会社との交渉経過を聞くために集合した争議団に対し、無届け屋外集会として解散を命じ、抵抗した幹部一三名を検束拘留した。六日には、不当検束だという争議団のビラに対して、警察は出版法違反という理由をつけて、争議団本部を家宅捜査し、本部に泊まり込んでいた女工二六名を検束して取り調べた。
 この公然たる警察当局の介入で、事態を重視した弁護士高須峰造や市民有志は、会社側と交渉して会社の妥協を要望した。しかし会社側の態度は終始強硬で、設備の改善には応ずるが、給与の改善は拒否すると回答した。会社側の態度に反発した争議団幹部は、四月九日全員退職を決めるに至った。全員退職に反対する一部の男工は、「争議は解決した。全員復職すれば、給与に関するものを除いてその他の要求を容認され、各個人別に争議手当を支給されるから、調停者に一任するように」と偽って、一一日深夜から女工を説得して回った。この工作が功を奏し一一日正午までに争議女工の八割は工場寄宿舎に帰ってきて、争議はあっけなく終わった。男工全員、女工の九割までが職場に復帰し、操業が開始された。同日会社は争議団幹部一八名を解雇し、一五日も復職した男工九名・女工四名を解雇し、また自発的に退社したものは五〇余名、全職工中一割以上の犠牲者を出して、二一日間にわたった倉敷紡績松山工場の争議は終結した。
 この争議は、ほぼ同時に行われた海南新聞社・松山工作所・木原興業会社などの争議に影響を与えた。労働運動は更に広がり、この年だけでも、周桑郡の千原鉱山・合同紡績今治工場・東宇和郡野村町の製糸女工などのストライキがあった。しかし昭和三年(一九二八)三月以降、全国的に労働運動や無産政党運動が抑圧されるにつれ、県下の労働運動は終息した。

表3-73 大正2年~同15年愛媛県下の労働争議発生状況

表3-73 大正2年~同15年愛媛県下の労働争議発生状況


表3-74 大正2年~昭和10年愛媛県下の労働組合結成状況

表3-74 大正2年~昭和10年愛媛県下の労働組合結成状況