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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 師範学校教育の推移

 師範学校規程中の改正

 大正六年九月に発足した臨時教育会議は、我が国最初の教育諮問機関であって、同八年三月に至るまでに、従来の日本における教育制度全般について討議を重ねた。
 その会議の答申の一部を実現させるため、文部省は同一四年四月に「師範学校規程」中の改定を断行した。改正された要点は、まず「本科第一部ノ修業年限ハ五年」とし、その入学資格を「修業年限二年ノ高等小学校ヲ卒業シタル者、若クハ(年齢十四年以上ニシテ之卜同等以上ノ学カヲ有スル者)として、師範学校を高等小学校と接続させ、かつ女子の入学資格についても、特に男子との格差を設けなかった。公費・私費それぞれの卒業生に対する教員奉職年限について、前者は修業年限の一倍半、後者は修業年限の二分の一に相当する期間とした。更に本科卒業生あるいはこれと同等以上の学力を有する者で、「精深ナル程度ニ於テ、本科所定ノ学科」等について一層深く学習するために、新しく修業年限一年の専攻科を設けた。

 愛媛県両師範学校学則中改正

 大正年間における愛媛県では、明治四三年(一九一〇)三月に愛媛県師範学校学則、四月に愛媛県女子師範学校学則が制定されて以来、両師範学校の学則の全文改正は行われず、学則中一部改正が数回実施されるにとどまった。
 愛媛県師範学校では大正二年(一九一三)二月に、給費生に支給する学資の名目が修学旅行費となり、その支給額が二回にわたって増額された。また生徒定員の規程が、同八年一月と同一二年七月に改正され、前者では第二部生が四〇人から八〇人に、後者では第一部生が三二〇人から四八〇人にそれぞれ増員されている。女子師範学校学則では、大正二年二月以降二回にわたって学資支給額を改め、同八年一二月に第二部の修業年限を従来の二か年から一か年とし、生徒定員を八〇人から四〇人に減員した。
 このほか愛媛県師範学校学則中の大きな改正は、同一〇年二月にこれまでの大原則であった全寮制が一部緩和され、第一部第三・四学年生は校外から通学するとしたことである(『愛媛県教育史』資料編四八七~四八八)。その理由として、(1)生徒を数年にわたって拘束するのは、退嬰的な気分を醸成するので、その弊害を払拭すること、(2)寄宿舎の収容人員が密であるため、衛生上からすれば結核患者の発生を助長するきらいがあるので、これを防止しようとしたことがあげられる。
 同一四年七月の同校学則中の改正では、卒業者の奉職義務年限を第一部公費卒業生は五年、私費卒業生は二年半、第二部公費及び私費卒業生は各々一年とした。また、本科第一部の生徒定員を四八〇人から六〇〇人に増員した(『愛媛県教育史』資料編五四五~五四九)。女子師範学校においても学則中改正が行われ、第一部の修業年限を五年、生徒定員を二〇〇人、第二部の修業年限を一年、生徒定員を八〇人とした。卒業生に対する奉職義務年限を男子と同様に改正した。

 入学志願者の漸減

 愛媛県における入学志願者のうち、第一部は大正前期から中期にかけて減少し、女子の第一部においても同八・九年は激減した。その原因は臨時教育会議で指摘されたように、生徒に対する給費を減額したこと、また大正初期の大きい経済的変動のなかで、給費の経済的価値が下落し、在学中の学費が中学校修学中に要する費用と同等であったこと、小学校教員の待遇の低さと、これに伴う教員の社会的地位の低下したことにあった。

 愛媛県師範学校代用附属小学校の設置

 臨時教育会議の師範教育に関する答申事項を受けて、農村を中心とする小学教育・補習教育・自治教育を実習するため、大正九年四月に温泉郡余土尋常高等小学校を、代用附属小学校として発足させた。
 余土代用附属小学校は、小学校ばかりでなく補習学校をも包含していた。しかも余土補習学校が男子のみであったのを、同九年度から女子部を併置した。同年一〇月の全国師範学校長会議で、文部省は「愛媛県師範学校が余土小学校を併置したように、代用附属小学校を設け、それに実業補習学校をも付設して実際に適切な教授法を研究」することを要望した。これによって、愛媛県師範学校が全国に先駆けて模範的な代用附属小学校を経営していたことが明らかである。
 その後、余土代用附属小学校は、更に昭和初期には郷土教育実践の中心校として名を知られたが、昭和一〇年(一九三五)三月に愛媛県師範学校が創立六〇周年記念事業として、附属小学校の学級を増設したので、それに伴い代用附属小学校を解消するに至った。また女子師範学校では、昭和四年四月に温泉郡三津浜小学校に依頼して、これを代用附属小学校としたが、充分な活動をしないで、同七年三月に解消した。

 女子師範学校の軍事教練

 第一次世界大戦は、国民の尚武的精神を刺激し、国民皆兵の実をあげようとするとともに、軍事的訓練によって生徒の剛健な気風を起こす意図から、兵式体操を再興することが問題化した。これを背景として、文部大臣と陸軍大臣との間に、軍事教練に対する意見の交換がなされた。その結果、同一四年四月に「陸軍現役将校配属令」が公布せられ、陸軍現役将校が中等学校に配属され、そのもとで軍事教練が施行された。これより先、県では女子師範学校に兵式教練を予備的に実施して、世間の注目を浴びた。同一三年四月には松山市にあった歩兵第22連隊の援助によって、本格的な軍事教練へと発展した。

 愛媛県両師範学校の専攻科新設

 両師範学校に専攻科を新設することを明示したのは、大正一五年五月の「愛媛県師範学校学則中改正」と「愛媛県女子師範学校学則中改正」においてであった。それらによると、各々生徒定員を四〇人とし、学科目・教授時数などが制定された(『愛媛県教育史』資料編五六五~五六九)。
 専攻科生徒の初年度の入学状況を見ると、男子では受験生全部が専攻科へ無試験同様で入学を許可された。これでは専攻科希望者を厳選する意義がないと批判された。第二年度における入学希望者は、男子募集人員七〇名に対し六〇数名、女子にいたっては三〇名に対しわずかに六名という少数であった。入学試験の結果、男子は五〇名が合格した。女子は希望者全員が入学を許され、また再募集を行ったが、さきの入学者を合わせても一〇名に達しなかった。
 両師範学校における専攻科、殊に女子専攻科が不振に陥ったのは、専攻科に学んだとしても、修了後これに見合う身分や、経済的な面での保証が全くなかったことによる。これは全国的に共通した問題であって、全国の女子専攻科に学ぶ女子生徒数は、同一五年度八〇三人であったのが、昭和三年五〇六人、同五年三七二人、同七年二七八人と年々減少の一途をたどった(桜井役著『女子教育史』)。