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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 軍備制限計画と所管の変更

 第一次軍備整理(山梨軍縮)

 第一次世界大戦の教訓に基づき、陸軍は飛行機・戦車・火砲・通信機など装備の近代化に意を注いだ。しかし戦争の悲惨な体験・戦後財政の建て直し・社会主義思想の影響などにより、反軍反戦思潮は世界的傾向となった。
 大正一一年、歩兵第22連隊にも各中隊に軽機関銃三挺が、また連隊に平・曲射歩兵砲各一門が支給され、更に機関銃隊一隊(一二挺)が新設され火力量は増強された。その反面、四個中隊編制であった各大隊の末尾中隊(4・8・12中隊)を廃し、各大隊とも三個中隊に縮小された。これによって全国で約五万九、〇〇〇の兵員、一万頭の軍馬が整理され、節約した軍事費を新兵器の充実に向けたものであった。この欠番中隊は戦時編成では復活するものとされ、大演習などの際は標旗を用いて標示して訓練した。
 大正一三年には温泉郡小野村(現松山市)に小野演習場(約九・六ヘクタール)が購入され、連隊の演習場として用いられることになった。

 第二次軍備整理(宇垣軍縮)

 大正一四年(一九二五)、陸軍大臣・大将宇垣一成は更に四個師団を廃止し、全国で約三万四、〇〇〇人の兵員を整理した。このとき一部に編制替えも行われ、五月一日第22連隊は再び第11師団の所管に復した。このときの編制概要は次の通りである。歩兵第62連隊はこの軍縮により廃止されたが、昭和一三年再編され、終戦まで活躍した(本巻第四章第三節の歩兵第62連隊の項参照)。(図表 「編成概要」 参照)
 この軍縮による兵員不足を補うため、新たに配属将校の制度が設けられ、中等学校以上の各校に配属された将校が生徒に基本的軍事教練を行うことになった。これは一四年四月、文部・陸軍両省令によって「陸軍現役将校配属施行規定」が定められたことによるもので、現役将校の配属を受けようとするときは、陸軍及び文部大臣に申請書を出すことになっていた。小銃その他の教育資材は陸軍から貸与あるいは無償譲与された。
 この訓練に成績優秀な者は、兵役入隊後、一年志願兵に採用され、予備役の初級将校に任官する途が開かれていたので、これを目指して学校教練に励む者も少なくなかった。一年志願兵制度は後に幹部候補生制度(甲種は予備役将校に、乙種は下士官に進んだ)に改められた。

 天津守備

 昭和四年(一九二九)六月一一日、天津守備派遣隊の交代として、第5中隊(長・大尉徳本光信)一四四名が天津に派遣され、同地の治安警備に任じた。この中隊は一年間の任務を終え、翌五年六月二四日、原隊に帰還した。

図表 編成概要

図表 編成概要