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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 昭和初期の県政と恐慌対策

 大正から昭和へ

 大正一五年(一九二六)一二月二五日、湘南の葉山御用邸で静養中であった天皇が崩御された。直ちに摂政宮裕仁親王が践祚し、「昭和」と改元された。「昭和」は、中国の古典『書経』の「堯典」の一節「百姓昭明万邦協和」からとったもので、そこに込められた理念は、「世界平和」と「君民一致」であった。しかし、「昭和」の幕開けの現実は、累積する国際危機と経済恐慌に裏打ちされた多難の舞台であった。
 大正一四年八月から昭和七年五月までの政党内閣の時代、いわゆる「憲政の常道」によって、政友・憲政(民政)両党が交互に政権を担当した。その反面、各党は互いに党勢拡大にしのぎを削ったため、政争の波は地方政治の末端にまで及んで、極端な政党人事が行われる時期となった。人事に政党の色彩が加われば、地方官のうちには、栄進、保身のために政党幹部の意向、更にその圧力に巻き込まれる者を生じて、その結果、自ら欲すると欲せざるとにかかわらず、いずれかの党勢力の拡張に協力するようになった。このことが最も端的に現れるのが選挙対策であり、知事はその職権をもって警察権による各種の選挙干渉を行っている。また地方人事のみならず、道路その他土木工事、鉄道敷設、学校建設などを動かし、これが党利党略の具となるなど、政党政治の悪弊を生んだのである。
 このいわゆる政党内閣時代に本県の県政を担当したのは六人の知事であった。これらの知事の本県在任は、香坂昌康一年八か月、尾崎勇次郎一年、市村慶三一年六か月、木下信九か月、笹井幸一郎一年四か月、久米成夫が六か月といずれも短く、その地位は、時の政党内閣の意のままに翻弄される「浮草稼業」と化した。すなわち、香坂は加藤高明・若槻礼次郎憲政会内閣、尾崎・市村は田中義一政友会内閣、木下・笹井は浜口雄幸民政党内閣、久米は犬養毅政友会内閣によってそれぞれ本県知事に任命された内務官僚であった。

 昭和初期の県庁機構

 「地方官官制」は、大正一五年六月三日の大改正以来、毎年部分改正が行われた。改定の内容は主として官吏定数の増減であった。昭和三年(一九二八)七月二日の一部改正で地方警視・警部の定員増が認められると、愛媛県は同月二二日処務細則を改定して、警察部に思想警察と社会運動・出版などの取り締まりに当たる特別高等課と犯罪の調査検挙などに当たる刑事課を加え七課とした。また、昭和四年七月三〇日の「地方官官制中改正」で警察部事務に「健康保険法施行ニ関スル事項」の項目が追加されると、八月一日から健康保険課が新設された。
 内務部関係では、地方技師・技手の定員増に伴い、昭和三年六月三〇日に耕地課、同四年四月一日には水産課が新設され、勧業課は農商課と改称された。なお、同四年四月一日の処務細則中改定で学務部学務課は教育課と改称した。昭和七年一〇月一五日の一部改正で「各府県ニ商業組合監督官及商業組合監督補ヲ置クコト」となり、一一月一二日に内務部に産業組合課が新設された。
 
 尾崎・市村知事

 昭和二年(一九二七)五月一七日、尾崎勇次郎が本県知事に就任した。尾崎は、明治六年三月一日、片山新三郎の次男として兵庫県多紀郡篠山町で生まれ、同一一年に尾崎文七の養子となった。明治三二年七月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業して内務属に任じ、文官高等試験に合格後、和歌山県参事官に任命された。以後、宮城県参事官、福島県警察部長、香川県警察部長を歴任、同三八年八月に樺太民政署事務官となり民政・事業部長を経て、同四〇~四二年に欧米視察、帰朝後に専売局主事に任じ、大正二年一二月樺太庁内務部長に転じ、同三年一〇月休職を命ぜられた。大正七年一月北海道庁内務部長に起用され、同一〇年九月青森県知事に就任、同一二年一〇月再度休職となったが、清浦内閣によって大正一三年二月に台湾総督府警務局長に抜擢され、昭和二年に愛媛県知事となった(資近代4二~三)。
 尾崎の本県赴任は、田中義一政友会内閣の地方長官大更迭によるものであり、愛媛県では内務部長・警察部長も同時に交替した。従って、尾崎知事をはじめとする県首脳は、就任当初から政友会系と評せられ、事実、昭和二年九月の県会議員選挙、翌三年二月の衆議院議員選挙、いずれも普通選挙法による第一回選挙には官憲あげての選挙干渉を行って政友会を勝利に導いた。なお、尾崎自身もまた、この衆院選に出身地である兵庫県五区で政友会候補として出馬したが、落選した。このように政友会系知事として自他ともに認められる尾崎は、昭和二年の通常県会に政友会の絶対多数を背景として、一千万円にのぼる一五か年継続土木事業を提案するなど、恐慌の打撃救済を目的に産業基盤の充実を図るため土木・勧業方面に積極策をとり、更には県庁舎の設計変更を行い、新築工事にとりかかった。また、金融恐慌後の銀行合同の促進に努め、昭和三年中には卯之町銀行と多田銀行、八幡浜商業銀行と漸成銀行、大洲銀行と新谷銀行、芸備銀行と愛媛・伊予三島・西条銀行の合併を実現したほか、休業していた今治商業銀行への特別融資に尽力、その再開を導いた。
 尾崎は在任一年、昭和三年五月二五日に新潟県知事に転出した。その評価は当然のごとく政友会と民政党で大きく分かれた。その後、愛知県知事を経て昭和七年六月休職、退官して実業界に入り、東京運河土地㈱の社長となった。
 後任知事には市村慶三が就任した。市村は、明治一七年二月二八日、古川専太郎の三男として京都府で生まれ、のち市村貞蔵の養子となった。同四三年七月に東京帝国大学法科大学法律科を卒業して北海道庁属に任じ、文官高等試験合格後は同庁警視に就任した。以後、神奈川県橘樹郡長、千葉・兵庫県理事官(視学官)、大正八年四月奈良県警察部長、同一〇年皇宮警察長兼内務省参事官兼宮内事務官、同一三年六月神奈川県内務部長に転じ、更に警視庁書記官・官房主事を歴任し、大正一五年八月に福井県知事に就任した。昭和三年五月二五日本県知事となり、翌四年一一月八日三重県知事に転出、本県在任は一年六か月であった(資近代4 六~七)。その後、同六年に鹿児島県知事となり、同一〇年一月退官、五月に京都市助役に推挙された。
 政党内閣時代にあって、市村の党派性は比較的薄く、昭和二年五月の田中内閣成立時に行われた地方長官大更迭の際には留任組三人の一人として福井県に留まり、同四年七月末の浜口内閣による地方長官大更迭の対象にもならずして本県に留任、同年一一月朝鮮総督府局長補充に伴う異動で三重県に転じた。こうしたことから、市村知事については、「政党政派に超然」「公平無私」「手腕の人であると倶に一面人格の士」との人物評がなされていた(「愛媛新報」昭和四・一一・八付)。
 市村の在任中は、今治市のタオル工場操業短縮、製糸業界の一斉休業など県下の不況は続いていたが、一方、今治商業銀行の再開など産業界に一時的小康状態が生じはじめた時期であった。彼の対応した昭和三年通常県会は平穏で、六九万円余の県立学校移転拡張及び設備充実を図る六か年継続教育事業や三津浜港・三瓶港修築継続土木補助事業などの新規施策を成立させた。また、昭和四年(一九二九)四月、総工費一〇五万円をかけて建設を進めていた県庁舎が完成して盛大な落成式典を挙行し、市村は新装なった知事室最初の主人となったのである。

 一五か年継続土木事業の開始

 昭和二年通常県会において、従来から実施されてきた三〇か年継続(明治四一~昭和一九年度)土木事業が昭和二年度限りで廃止され、代わって新たに一五か年継続(昭和三~昭和一七年度)土木事業の開始が決議された。この背景には、金融恐慌処理に当たった田中政友会内閣の登場があった。政府は、恐慌対策として産業基盤の拡充を意図して積極財政に転換、土木・勧業などの振興促進に乗り出した。そのため、地方財政についても、起債による新規事業は従来の緊縮抑制方針から緩和する方針に転換した。また愛媛県では、県知事には政友会系の尾崎勇次郎が着任、一方、県会は九月に行われた普通選挙制に基づく第一回県会議員選挙に政友会が圧勝、三年半振りに絶対多数を擁して臨む状況であった。
 継続土木事業の改廃理由は、施工中である既定計画(毎年四〇万円支出)では、当時県政上急務中の急務である府県道の改善整備は到底不可能であり、国家の進運に伴うことができないということにあった。すなわち、当時本県には、総延長五三七里余に達する国道及び府県道があり、そのうち三二九里余は大正九・一〇年の認定路線、二〇八里余は郡制廃止後に県へ移管したものであった。ところが、このいわゆる新府県道の改善は従来、土木継続費に編入せず、単に道路改良費として別途施行してきたため、財政関係、地元負担関係、道路規模など不統一、不均衡となっており、抜本的に手直しする必要があった。
 県会における尾崎知事の趣旨説明によると、基本方針として、(1)新府県道一一〇路線を計画に編入する、今後改築・拡張を要する道路延長は一九〇里余である、(2)従来半額寄付としてきた地元負担はこれを改め、将来は地元三分、県七分負担とする、というものであった。改修の内容については、(1)未改修のものは全部改修、幅員は原則として一五尺ないし一八尺とする、(2)改修済み幅員一二尺以上のものは必要により拡張改良・隧道開設を行う、(3)幅員九尺以上一二尺未満については、実情に応じて適当の改良を図る、(4)橋梁については、新・改築とも一件一万円以上の経費を要するものは、計画に編入して耐久築造とするというものであった。ただし、旧県道に対する負担関係については、当時までの沿革により幅員一三尺まで地元が敷地寄付を行う方針を踏襲するとしていた。なお、従前計画に含まれていた「河川海岸改修事業」については分離し、別途に従来費額相当分を計上した。この結果、土木継続事業は道路整備事業計画と改変されることとなった。
 ところで一五か年継続、総経費一、〇一五万円に及ぶ事業の資金計画については、昭和三年度から一二年度までの一〇か年は毎年八〇万円、計八〇〇万円の事業費で、財政困難のため毎年五〇万円、計五〇〇万円を県債により、以後五か年間は財政に余裕を生じるので一般会計によると説明された。なお、尾崎知事は、政府は全国府県道のうち一、五〇〇里について三分の一(隧道三分の二)の補助計画をもち、今後一〇年間に六、〇〇〇万円に及ぶ国庫補助金を支出する見込みで、差し当たり来年度二〇〇万円の計上を予定していることを明らかにした。
 審議では、「尾崎県政」の目玉政策であり、これまでの緊縮政策を転換した積極政策推進の柱であるため、野党民政党は強力な反対の論陣を張った。特に武知勇記(伊予郡)は、北宇和郡松尾坂のトンネル工事計画について政友会党勢拡張の具であると反対党攻撃を展開し、第二読会での民政党批判に対しては議員席から野次で応酬し退場を命ぜられるなど騒然たる場面がしばしば演じられた。また、松田喜三郎(温泉郡)は、原案は長期に過ぎるとして、一〇か年継続、七〇〇万円計画に修正する動議を提出し抵抗したが、否決され、圧倒的多数を占める政友会により原案が可決、確定議とされた。
 なお、本県会には知事から二つの諮問案が提出された。一つは、府県道富郷三島線ほか五府県道の認定変更であり、他の一つは上分川之江停車場線ほか三九路線の新たな府県道認定の件であった。多数派の政友会は、両諮問を適当として答申するとともに、加えて土居駅蕪崎港線ほか一三路線を認定すべきと附帯させ、民政党提出の削減答申案を一蹴した(第六節「交通運輸の発達」″道路″参照)。
 このほか土木関係では、治水継続事業で期限を六年延長して昭和一四年までとし、総額を一二二万一千余円増額して二一八万余円とするとともに、難工事については今後県が直接施行する方針に改めたほか、継続土木補助に関し、長浜港補助を二か年延長繰り延べ、今治築港を三か年延長繰り延べ、宇和島港関連の須賀川付け替えを一五万円増額、八か年延長するとともに、新たに川之江港・吉田港の修築、三津浜港浮桟橋建設を加え、事業の拡大を図った。また、港湾施設の充実を図るために二四港の準備調査費を計上していた。
 その他、盲啞学校の県立移管などによる教育費、水源涵養林補助など林業振興を中心とする勧業費など、土木の積極的拡大とともに政友会の積極財政策が、昭和三年(一九二八)度予算案に反映していた。
 しかし、こうした積極政策は、やがて訪れる大恐慌の嵐の中で、財政緊縮・財源難のため、整理削減、繰り延べ、打ち切りの運命をたどっていくのである。
 
 県庁舎の新築

 県庁舎改築の動きが出たのは、大正一五年通常県会であった。大正一六年度当初予算案審議の第一読会において、まず織田義一(政友会)が県庁舎改築の新規計画について質問し、更に松田喜三郎(政友本党)からも、不況対策に土木工事の施行を求めて師範学校の移転計画と県庁舎の改築が提案された。これに対し香坂知事は、郡役所廃止に伴う県吏員の増加のため商品陳列所(大正九年一〇月、物産陳列場を商品陳列所に改称)の楼上、公会堂、県会議事堂まで県庁舎に利用し、狭い所で議事を開くのやむを得ない状態で気の毒である、県当局としても庁舎改築の必要を認め、目下慎重に検討中であると答え、にわかに県庁舎の改築問題が脚光を浴びることとなった。
 ところで、この発言があった二週間前、「海南新聞」一一月二六日付はこの問題を取り上げていた。それによると、大阪・広島・高知・福井などの府県が本県と同様の事情で庁舎を改築したと報じ、本県での庁舎改築の問題点を列挙したあと、「緊縮方針の財政を行っている時に、県庁どころではない」との内務部長坂間棟治の談話をのせて、「今期県会での追加予算として提出されることは早まった沙汰であると観られている」と結論づけていた。こうしたことから改築の件は将来の問題と考えられたが、会期末から事態は一転して、一挙に計画が具体化することとなった。
 すなわち、会期をわずか一日残した一二月一五日、県庁舎改築に関する意見書が提出された。提出者は先の松田喜三郎ほか、憲政会の宇和川濱蔵、政友会の村瀬武男・清家吉次郎といずれも各政派の中心議員で、二九名の議員を賛成者に仕立て、丁寧にも財源措置を盛り込んだもので、異議なく確定議となり、知事あて送付された。翌日、通常県会は閉会となったが、その日に、県庁舎及び警察庁舎改築の件についての臨時県会の開会告示が発せられた。
 大正一五年(一九二六)一二月一九日、第一〇五回臨時県会が開かれた。県庁舎及び警察庁舎建築に関する五議案が提出され、わずか二時間の一括審議で第一読会を終了、全議案は原案どおり異議なく読会を省略して確定議となった。主たる内容は、県庁舎が大正一五年度から、警察庁舎が一六年度(昭和二年度)からそれぞれ事業を開始し、同一七年度(昭和三年度)に完成する予定の総額七五万円の事業であった。参考書に示された両庁舎の建築費内訳は表3―84のとおりである。
 提案理由の説明に立った香坂知事は、庁舎新築の理由を次のように述べた。第一に、庁舎の大部分は明治一一年の建築で腐朽甚だしく、全体に旧態そのままで執務上、一般民衆の利便上甚だ不便であること、第二に、郡役所廃止によりにわかに庁員が増加して現庁舎で対応できず、公会堂、県会議事堂を事務室に充当して急場をしのいでいること、第三に、先日閉会の通常県会で改築意見書が満場一致で採択されており、その要望に応えたことなどであった。全体計画としては、現庁舎の位置に鉄筋コンクリートの新庁舎を建築し、別に商品陳列所(現庁舎の東側、楼上を県公会堂・県会議事堂として使用)の東の空地に木造仮議事堂を建築するとし、議事堂建築については本建築の希望をもって検討したが、財源その他の関係上困難なため当面仮議事堂を建て、本建築については第二期計画としたと説明していた。
 財源については、基金の繰り入れ、基金の運用、前年度繰越金及び国庫下渡金、旧建物売却代金を充てていた。このうち、最も多額を占めたのが特別会計「市町村立小学校及び公立実業補習学校教員恩給基金」の廃止(第三号議案)に伴う基金繰り入れ、二七万八、三二五円であった。これは大正一二年四月「恩給法」が公布され、その規定により同基金の対象となった小学校教員、実業補習学校教員の恩給負担は、府県となったため、市町村からの分担金を含む同基金は必要がなくなったことによる。そのほか、他基金の運用一五万六、〇〇〇円、不用土地売払代一五万円、前年度繰越金一三万一、五〇五円、国庫下渡金二万四、一七〇円、旧建物売払代一万円となっていた。このうち国庫下渡金は、警察庁舎建築費予算高の六分の一が見込まれていた。いずれにしても一般会計からの持ち出しを極度に圧縮した苦心の財源捻出であった。
 新築計画書によると、県庁舎の総延坪数二、二四〇坪、有効坪数一、六一三坪余、うち地下室五五四坪、一階五七八坪、二階・三階は各五五四坪であり、室の内訳は知事室・知事応接室・予備室・正庁・参事会室・会議室のほか、知事官房四室、内務部二四室、学務部七室、警察部一五室、雑八室であり、警察庁舎は県庁舎に包含されていた。設計を担当したのは工学士木子七郎、構造担当は顧問工学博士内藤多仲であった。木子は、明治四四年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、大阪に建築事務所を開設、主として関西方面で活躍した。松山出身の実業家新田長次郎の女婿となったことから松山地方で多くの近代建築を設計した。昭和二年七月、木子は内藤とともに来県し、設計書に基づき尾崎知事ら県当局者と協議を行ったが、技術上の問題から経費膨張は避けられない状態になった。「海南新聞」七月一三日付は、その額は一五万円ないし二〇万円と見積もられ、その調達については、旧藩主久松・伊達・加藤の三家をはじめ、勝田銀次郎・新田長次郎・山下亀三郎など本県出身実業家や伊予鉄・別子鉱山会社、五十二・農工銀行からの寄付、県下各町村への分賦によるべしとの案があるとの報道をしていた。
 その後の経過をみると、既定額七五万円に加えて五回の参事会で四一万六、六四六円を追加し、合計予算額は一一六万六、六四六円に膨れあがっている。なお総決算額をみると、三〇万一、〇八六円余の増加で、総事業費は一〇五万一、〇八六円余となっていた。このうち寄付金は二七万六、七六〇円で、残りは繰越金が充てられていた。追加費の使途は、電気・電話・給排水・昇降機・ガスなどの工事、門・庭園などの外構工事などであった。昭和四年段階の新築設計図に書き入れた各室の配置は図3―16のようである。なお、この図では計画書でいう地下室は一階、以下計画書の一~三階は図で二~四階と称されている。
 昭和四年(一九二九)四月一九日、春光注ぐ青空の下、白亜に輝く新県庁舎の落成式典が盛大に挙行された。午前一〇時から新庁舎本館屋上西側のバルコニーで神式による祭典、続いて一一時から同所において七〇〇余名の来賓列席のなか、落成式があげられた。工事報告、市村知事式辞、田中首相(斎藤内務部長代読)・望月内相(坂内務書記官代読)、山下徳島県知事ら来賓祝辞、祝電披露など滞りなく進行した。式後、仮議事堂階上及び旧本舎階上から撒餅を行った後、新館屋上東側バルコニーにおいて祝賀会が開かれ、余興として南宇和郡家串の荒獅子舞、宇和島青年団の八つ鹿踊り、生石青年団の万歳、松山芸妓の手踊りが演じられた。また一般県民のためには、商品陳列所前の舞台で先の芸能が続いて演ぜられたほか、仮議事堂前の土俵で青年角力が行われ、十重二十重に観衆が人山を築き非常な盛況であった。新県庁舎は四月二一日から三日間、終日一般に公開され、各室では各課がそれぞれ趣向をこらした県勢展覧会を開催、これまた連日人波があふれたと報ぜられた。
 ところで、新庁舎は工事の概要報告によると、建坪数は県会仮議事堂四〇八坪、庁舎二、六四八坪、その工費一〇二万二、四二四円、使用した延人員は六万二、四八三人であった。建物は中央に鉄筋ドームの塔を配し、総体を左右対称の比翼の形にまとめ、正面の車寄せから広い階段で直接二階ロビーに達し、ロビーから更に白い大理石の階段が配され、踊り場から左右に分かれて三階の貴賓室、四階の正庁に導かれるなど全体に荘重なデザインにまとめられている。また、外部の窓まわりや車寄せにはギリシャ風のアカンサスの葉が細部意匠として取り入れられ、内部正庁など儀典室には柱から柱へ美しいアーチの垂れ壁が重畳して架構されている。近代建築構造の骨格に折衷主義の装飾を施す、つまり古典的技法を踏まえながら更に建築近代化を目指した跡がしのばれる(河合勤「愛媛県史だより」愛媛県庁本館の建築について)。県下では、大正後期以降、同じく木子七郎設計になる久松家別邸(萬翠荘・現県立美術館分館)・石崎汽船本社、越智中学校(現今治南高校)本館など鉄筋コンクリート造りの建造物が生まれてくるが、この県庁舎は壮大な規模、デザインなどあらゆる点において愛媛を代表する近代洋風建築であり、当時の県政の充実をしのばせるものであるといえよう。

 県財政の緊縮

 昭和四年七月二日、浜口雄幸を首班とする民政党内閣が成立した。浜口内閣は、組閣早々新内閣の施政方針として「十大政綱」を発表し、その中に財政緊縮・国債整理・金解禁の三項目からなる金輸出解禁政策が中心政策として織り込まれた。蔵相井上準之助はこの施策の第一着手として、昭和四年度予算を実行予算をもって再編成し、これを極力縮減する方針をとり、当初予算の一割近くを節減した実行予算案が七月二九日の閣議で承認された。
 同日、政府は井上蔵相・安達謙蔵内相の連名で各府県知事に対し、地方財政緊縮について訓令を発し、第一、昭和五年度府県当初予算を昭和四年度当初予算に比して少なくとも一割五分減で編成すること(各費目にわたり整理節約を行い極力その減額を期すること、新規施設は計画しないこと、既定計画については打ち切り・中止・減額または繰り延べなどを実行すること、課税については昭和四年度の程度以下とし新設・増徴を避けることなど)、第二、昭和四年度及び同五年度とも追加予算を避け、やむを得ない場合は前項(第一)の趣旨に準ずること、既定予算の実行に関しても第一項の趣旨に準ずることなど、厳しい指示であった。
 これを受けた市村知事は、早速、昭和四年度歳出予算の見直しを指示し、実行予算の編成を行った。この結果、当初予算の経常部で一一万五、九四〇円(二・六%)、臨時部で七七万四、三六九円(一六・五%)、合計八九万〇、三〇九円(九・八五%)を減じた実行予算となった。内訳をみると、整理節約額三三万三、七五〇円、打切り中止額五万七、四七九円、繰り延べ額四九万九、〇八〇円となり、九月一五日から実施された。
 次に昭和五年度当初歳出予算案は、経常部で一五万五千余円、臨時部で一六四万七千余円、合計一八〇万三千余円を前年度当初予算より減額するという大手術を施した緊縮予算として編成された。これは、前年度当初予算に比して二一・六%、実行予算と比して一二・九%の大幅減で、内務・大蔵両大臣訓令にいう一割五分以上減を忠実に実行したものであった。このうち当然減を除き、整理による減少額は一〇七万三、〇〇〇円で、うち九二万七、〇〇〇円が整理節約額、一四万六、〇〇〇円が繰り延べ額であった。主なものをあげると、整理節約では、四三人の人員減などで一六万円余、教育継続費八万六、〇〇〇円など教育関係一一万円余、土木継続費四〇万円など土木関係八六万円余、補助打ち切りによる勧業関係五万円余であり、繰り延べ減では、治水費継続費九万八、〇〇〇円や土木補助費継続費三万円などであった。新規事業は、政府訓令を守って商船学校機関科設置八、〇〇〇円などわずか六件、経費二万六、〇〇〇円を計上したにとどまっていた。
 予算案の知事査定を終え、通常県会開会告示を示達した直後、市村知事は転任となった。後任の木下知事は開会三日前に初登庁し、県政野党政友会が絶対多数を占める県会に、この緊縮予算案をもって臨むこととなった。県会審議では、政友会が土木・教育・産業各方面において既に計画されているものを縮小するのは県民の意思を無視するものであり、現内閣が金解禁を即時断行しようとして緊縮節約を地方自治体にまで強要するのは根本観念を誤っているときめつけて、浜口内閣の緊縮政策を論難、更に県の実行予算・緊縮予算を厳しく批判した。これに対して県政与党である少数派の民政党は、予算案礼賛演説をもって応酬した。なかでも、両政派の論客である清家吉次郎(政友会)と武知勇記(民政党)の論戦は、「県会座」の名物として新聞を賑わし、連日大入りの傍聴席を沸かした。
 第二読会では、民政党全議員の発案になる「議員手当削減案」が動議として提出された。この議員発案権は、昭和四年四月一五日の「府県制中改正」で認められたもので、愛媛県会最初の適用となった。しかし、動議は、売名行為、動機不純と非難する政友会の反対にあって廃案となった。舞台裏では、政友会側が土木・教育・勧業・社会事業費などを通じて八万九千余円の増額修正案を提示して県当局と交渉を始め、風雲急を告げる事態が想定されたが、結局木下知事が二万余円の増額修正を応諾して妥協が成立した。この結果、政友会は臨時部の教育補助費で二、一九三円、勧業補助費で一万七、四二〇円、社会事業補助費で一、三五〇円の増額修正案を多数で可決し、確定議とした。

 木下・笹井・久米知事

 昭和四年一一月八日に本県知事に就任した木下信は、明治一七年二月八日、長野県上伊那郡中箕輪村に生まれた。同四二年七月、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、同四四年一一月に文官高等試験合格後、長野県属を振り出しに熊本県鹿本郡長、同県上益城郡長、大正六年郷里長野県の小県郡長となり、翌七年同県理事官となった。以後、秋田県警察部長、北海道庁拓殖部長を経て大正一一年警視庁刑事部長に転じ、同一三年一月同庁警務部長になり、同年六月に加藤高明内閣により鳥取県知事に任命された。任わずか四か月で台湾総督府に転任し、内務局長兼土木局長、更に交通局総長を務めた。田中政友会内閣が成立すると昭和三年七月免官となり外遊、浜口民政党内閣により同四年一一月に本県知事に任ぜられ、同五年八月二六日長崎県知事に転ずるまで九か月在職、その後同六年には台湾総督府総務長官に任命された(資近代4八~九)。
 木下はその履歴から民政党系と見られ、伊澤多喜男と同郷、「今日あるは伊澤君に負うところ多く、その直系である」と評された。本県赴任早々、昭和四年通常県会に臨場するあわただしさであったが、多数を占める政友会の攻勢をかわし、前任者の査定した緊縮予算案をわずかな修正で落着させた。県内経済界では、懸案の銀行合同を促進し、西南・実業・吉田商業の三行が第二十九銀行に、伊予高山・五反田・三机の三行が八幡浜商業銀行に、伊予長浜銀行が大洲銀行にそれぞれ吸収合併あるいは買収された。対県交渉では、高知県との漁業問題を解決し、宮崎県との漁業問題に努力、銅山川分水問題で徳島県と折衝を続けるなど精力的に活動した。しかし、不況と緊縮財政下で積極的な施策を推進することはできず、また製糸・織物・製紙など産業界の休業、失業の激増、公務員・教員の減員・減俸要求と行政整理に十分に対応しきれないまま、昭和五年に本県知事を離れた。
 昭和五年(一九三〇)八月二六日、前奈良県知事笹井幸一郎が本県知事に任命された。笹井は、明治一八年一〇月二八日に新潟県中頸城郡斐太村に生まれた。明治四三年七月に東京帝国大学法科大学政治科卒業、同一一月文官高等試験に合格し、翌年岐阜県属、同警視に任ぜられた。一年志願兵主計生として入隊の後、大正二年熊本県玉名郡長となり、以後山口県・和歌山県理事官、佐賀県警察部長を経て警視庁保安部長となり、時の警視総監亀井英三郎の女婿となった。大正一三年八月復興局経理部長に任じたが、昭和二年五月田中内閣により休職となり、欧米各国への外遊や復興局史編纂嘱託で二年間の浪人生活を続けた。昭和四年八月、浜口内閣による地方官異動で奈良県知事に就任、翌五年八月本県知事に転じた(資近代4一一~一二)。
 笹井は赴任と同時に予算査定に没頭して緊縮予算案を編成、なお一層の削減を求める県会側と対決、精力的に政友・民政両派と協議を進めるとともに、懸案の大谷川用排水改良事業については政友派の強い反対で否決されると、会期を延長して再議に付し、再度の否決に対しては原案執行を断行して伊予郡農民の悲願に応えた。また、翌六年には行き詰まっていた継続土木事業の更正を行うなど財政多難の時期、苦心の県政運営に当たった。
 更に着任早々、本県の重要問題の一つである東予地方煙害賠償の更正期に直面、住友側と農民側との交渉斡旋の労をとってこれをまとめ、次いで暗礁に乗り上げていた銅山川分水問題の解決に心血を注いだ。昭和五年一一月、土居徳島県知事を説得して両県分水協議会を再開、翌六年には内務省を動かして丹羽土木局長と両県知事との三者会議で内務省の分水裁定案が提示されるまでに交渉を発展させた。一一月一一日、両県知事の間でついに分水覚書が交換された。早速、通常県会には昭和七~一一年度継続銅山川用水改良費三七万余円が提出され、超党派で可決された。この解決は笹井知事最大の功績とたたえられたが、のち、分水覚書が徳島県会で否決され、交渉は再度振り出しに戻った。笹井知事離任後のことであった。
 笹井は本県在任一年四か月、昭和六年(一九三一)一二月一八日、犬養政友会内閣成立の早々に断行された地方長官大異動に際し、更迭組の対象とされ、休職に追い込まれた。翌七年一月依願免となり、のち昭和九年に長崎市長に推されて就任した。
 昭和六年一二月一八日、久米成夫が本県知事に任命された。久米は、明治一五年一二月一日に鹿児島県薩摩郡山崎村に生まれた。同四三年七月、東京帝国大学法科大学を卒業、文官高等試験に合格後、千葉県属・県試補を振り出しに神奈川県愛甲郡長、同県理事官、秋田県理事官、岩手県警察部長、神奈川県警察部長を歴任、大正一一年一〇月に山形県内務部長となり岩手県内務部長を経て大正一四年九月休職となった。昭和二年五月田中政友会内閣により広島県内務部長に復活、翌三年六月大分県知事に就任したが、同四年七月浜口民政党内閣の地方官更迭で再び休職となった。昭和六年一二月犬養政友会内閣により再度復活して本県知事に就任した(資近代4一五~一六)。
 久米知事は本県在任わずか六か月、一度の県会も経験せず、事績をあげる暇もなく、離任に際し「県民の熱心さに動かされ種々産業方面の調査をした」と語るにとどまった。五・一五事件で犬養首相が倒れ、斎藤實挙国一致内閣の成立による地方官更迭で、昭和七年(一九三二)六月奈良県知事に転じていった。

 笹井知事と県会政友派の対立

 昭和五年通常県会は、会期定例三〇日のところ知事の指令で三日間延長され、波乱の状態で閉会となった。着任以来、査定に没頭した笹井知事が提出した昭和六年度予算案は、ほぼ前年度当初予算額と変わらない緊縮予算であった。整理節約による減額は二一万円、うち繰り延べ額が一万一、〇〇〇円であった。一方、新規事業計上予算額は失業対策を考慮した土木継続費の一〇万円増、南伊予村外三か町村の用排水改良事業費(大谷川貯水池工事費)該年度支出額三万円など計一四万円であった。
 不況が深刻化するなか激増する失業者救済に苦慮した政府は、昭和六年度予算編成に当たり従来の非募債主義を緩和、失業救済事業費の財源を道路公債でまかなうことにし、府県予算でも失業者救済に対し地方債の発行を認めた。愛媛県ではこの例外措置を早速適用して、土木継続費五〇万円について四五万円を起債、五万円を一般会計から支出しようとしていた。また、同時に昭和五年度追加予算として、災害復旧土木費四〇万円を計上した。これは天災地変の場合、例外的に地方債に財源を求めることが認められており、県当局はこの災害復旧土木費に経常部・臨時部土木関係費減額分の相当を転移して、巧妙に切り盛りしていた。これについて「海南新聞」は、関係土木費は一六四万余円に達し、二割五分の物価下落を勘案すると二〇〇万円相当の事業となり、失業者救済のために土木事業は俄然活気を帯びると論評している。
 ところで県会の構成は、県政野党の政友会は衆議院選挙と県会議員選挙で敗退したものの、二六議席を保有し、民政党一一名、中立一名に対し依然絶対優位にあり、翌六年九月定期改選を前に波乱含みであった。
 予算案第一読会では、まず、先の衆議院議員選挙などで警察官の取り締まりに不公正があったとして政友派二四名が連名で安原警察部長糾弾の意見書を内相に提出する動機が提出され、たちどころに可決された。これに対し笹井知事は翌日、府県制第八二条第一項により議決取り消しを命令した。そこで議長清家俊三は、取り消し指令無効の提起を行政裁判所(東京にあった政府の行政機関)に行うと提議し、起立多数で可決した。
 つづく第二読会では、政友・民政両派とも県職員・警察官・教員などの人件費をはじめ土木・勧業関係費などで削減修正の意向が強く、各款項の逐条審議は行われず、主な款項の採決は後日にまわされた。この間、両派は各々修正案作成作業を開始していたが、一二月四日にいたって両派三名ずつの代表委員による修正協議会に発展、以後断続的に協議を行った。しかし大谷池問題で妥協が成らず、第五回目の会合でついに決裂し、両派はそれぞれ修正案を提案することとなった。一二月八日午後、会期最終日の九日、人件費及び事務費一割減をはじめその他事業費合わせて二九万七、三五九円に及ぶ政友会削減案が各款項採決で可決、これに伴い歳入各科目の減額修正案が提出、可決された。
 第三読会の冒頭、知事から会期延長通知があり、つづいて民政党の二三万一、七四七円に及ぶ減額修正案が提出された。動議成立の段階でこの日は閉会となった。会期の延長については、三者三すくみの状況のため、知事は再議の形式ではなく政民両派に再考を求めた。それは合理的な修正ならば県として聴従するにやぶさかでないとの雅量を示したものであると評された(「海南新聞」昭和五・一二・一〇付)。
 翌朝、内務部長室で県当局と政・民両派の折衝が開始された。午後に入って、県側赤土内務部長から一七万円の削減案が提示され、民政党は承認の意向を表したが政友会は二四、五万円説をとって応ぜず、今度は知事室に会場を移し笹井知事を交えて交渉を継続、午後六時に至って知事は打開策として六万円減額の積み増しを提示した。すなわち、一七万円は民政党修正説の精神に従い俸給令に抵触しない方針で賞与の減額その他消耗品費・備品費などで減額し、六万円は宇和島・今治高等女学校移転改築費を繰り延べるもので、その代わり大谷川貯水池事業は断じて撤回しない考え方であった。両派は回答を明日に約して退去、同夜、政友派は二番町梅の家、民政派は三番町大谷旅館で、いずれも全議員に禁足を命じて県提示案への対応策を協議した。
 一一日午前、政友派元老で町村長会長の岩崎一高が、入れ違いに民政党代議士村上紋四郎がそれぞれ知事と懇談、午後三時に政友派が大谷川貯水池事業を分離して県の妥協案に応ずる旨を回答、午後四時に村上民政党支部長と幹事長西村兵太郎が笹井知事と折衝、六万円の捻出方法を変更する同意を取り付けた。このため、県当局は土木補助費・教育補助費・勧業補助費の減額による削減案を作成し、翌一二日午後一時三〇分、知事室で両派代表に二三万円減額修正案を手交した。
 こうして延長県会最終日の県会が再開された。まず歳入歳出予算の第三読会で、第二読会可決の政友会修正案が可決確定議とされた。ここで笹井知事から「右は県政運用を阻害し明らかに公益を害するものと認むるに付き(中略)府県制第八十三条第一項によりこれを再議に付す」との再議指令が出され、第二読会再議となった。政民両派が予算修正に関する意見書を提出、宮田愛明(政友会)が代表して三者妥協に基づく修正案について説明、満場一致で可決した。しかし、この予算案とともに再議に付された大谷川貯水池事業が政友会の反対で再び廃案となったので、第三読会で関係款項の修正動議を可決、確定議とした。こうして紛糾した昭和五年通常県会は閉幕したが、大谷川用排水改良費は後述のように県知事の原案執行で復活することになる。
 笹井知事と県会の対立第二幕は、昭和六年八月臨時県会であった。問題となったのは県会議員定数条例の改正の件であった。原案は、国勢調査の人口移動に伴い、今治・宇和島両市の議員定数を各一名増し、北宇和郡を一名減じて、総定数を従前の三七名から三八名に増員しようとするものであった。
 政友会では、定員減となる北宇和郡選出議員、人口比で議員定数が少ないとする西宇和郡選出議員から修正案提出の要求があって幹部が同調する動きとなったが、今度は原案より定員減となる宇和島・今治市選出議員が納得せず、結局党議としてまとまらず、各議員の自由意志にまかすこととなった。これに対し民政党は、当初静観したが、来るべき県議改選では改正は同党に不利であるとして、政友派有志の修正案に同調する動きが強くなった。修正案は議員定数を西宇和郡三人を四人、北宇和郡三人を四人、今治市・宇和島市各二人を各一人に減ずるもので、原案は関係市郡での議員一人当たりの人口が不公平であることを理由としていた。これに対し井田地方課長は、根拠はともに府県制施行規則第三条であるが、議員数を人口に比例してとあるのは各選挙区の議員一人当たりの人口に比例することではなく、県の総人口に案分比例する意味であって県当局の算出方法が正しいと抗弁した。
 無記名投票の結果、原案賛成一五票、修正説賛成二一票で修正説が可決、三読会を省略して確定議となった。投票内訳は、修正説が政友一〇票、民政一〇、中立一で原案説は政友一四、民政一であった。休憩後、笹井知事は議決は法令に違背するとの理由で再議を指令した。再議では再び先の修正意見が議題となり、記名投票の結果、原案説一七、修正説一九で再度原案が否決された。原案説二票の増加は民政派のくら替えのためであった。
 民政派の切り崩しで逆転勝利を予期した県当局の思惑ははずれ、知事は閉会を宣しようとした議長を制止して休憩を命じ、再開後に決議取消命令を伝達した。清家議長らと県当局は善後策を協議し、その結果、法令解釈に双方疑義があり慎重研究を要すとして、議案取り扱いは県参事会に権限委託し、解釈は内務省の意見を徴すこととなった。県会は、参事会委任動議を満場一致で採択した。県は、八月一三日付電報で原案と修正案を内務省に報告、その裁定を仰いだ。内務省からは原案支持の回答が届いたので、八月二六日に県参事会を開催して原案を認めさせた。ここに臨時県会で紛糾した議員定数条例案は事実上原案執行の形となったのである。
 こうした笹井知事と県会の対立は、昭和六年通常県会では一転して解消している。これは同年九月、第二一回県会議員選挙の結果、民政党二四人、政友会一四人となり、二〇年振りに県政与党の民政党が絶対多数を獲得したためであった。

 大谷川貯水池県営事業

 大谷池は大谷川の上流、伊予市上三谷、原の谷口に造られた農業用の溜池である。昭和六年に県営用排水改良事業として起工、一四年の歳月を要して同二〇年三月に完成した。堤高三五・三メートル、堤長一九八メートル、水深二六メートル、貯水量一八〇万立方メートル、灌漑面積五七〇ヘクタール、水害防止受益面積八〇〇ヘクタールの溜池で、皿ヶ嶺連峰県立自然公園に含まれ、近年「えひめ森林公園」の一部として整備活用されている。
 ところで、この県営排水改良事業とは、農業水利事業の強力な推進を図るため、政府が大正一二年四月農商務省通牒「用排水改良事業補助要項」によって大規模地区の改良について技術面、費用面に強力な助成を行うとしたものであった。補助対象は府県の行う用排水幹線または用排水設備の改良事業で受益耕地が五〇〇町歩以上のものとし、毎年度予算の範囲において事業費の二分の一以内の補助金を交付するものであった。愛媛県では、この補助を得て既に、大正一四~昭和四年度継続で新居郡西条の室川・渦井川用排水改良事業を終了、昭和三~七年度まで五か年継続で喜多郡新谷・大洲の矢落川用排水改良事業を施行中であり、この大谷川貯水池を含めて当時県下農業上の三大事業と称せられていた。
 地域住民切望の南伊予村外三か町村用排水改良費案は緊縮予算下唯一の新規事業として昭和五年通常県会に提出された。事業目的及び内容は、大谷川を堰き止めて溜池を築造し、用水補給により年来の旱害を除去するとともに、豪雨による水害の緩和を図ることで、対象地域は南伊予村・北伊予村・郡中町・松前町の四か町村受益耕地六五〇町歩、堤高一一六尺の溜池貯水量は二九万六、六〇〇立方坪であった。事業費総額五九万六、〇〇〇円、うち二分の一が国庫補助、残りを地元と県が折半することとし、昭和六~九年度の四か年継続としていた。県会開会の当日、農民代表八五名が笹井知事の提案理由を傍聴し、いずれも感涙にむせんだと、南伊予村長であり、大正一二年発起し翌年四か町村耕地整理組合を組織して該事業の実現に奔走し、精魂を傾けてきた武智惣五郎は大きな感慨をもって語っている。
 先述のように、当初予算案審議と並行して舞台裏で続けられた政民両派の予算削減交渉では、この大谷池問題が争点となり決裂した。審議において民政派は、旱害、水害の実情をあげて切々と訴え、笹井知事もまた十分な調査の上で国の補助の見込みもつき、国、県、地元の三者が負担面で合致した「潮時」であると主張したが、事業の必要性を認めるが調査不充分、時期不適当、設計が杜撰との理由を掲げる政友派の多数により廃案とされた。県当局は会期を延長して政民両派と妥協を試みたが、結局、大谷池問題は折り合わないまま二三万円予算原案削減で落着した。そこで笹井知事は本案関連三議案について再議指令を発したが、変更されることなく再議読会で再び廃案となった。
 県は県会閉会後の一二月一三日付で内務省に県会会議諸件を電報報告し、更に笹井知事が上京して事情説明の上、原案執行の指導を仰いだ。年が明けて一月一〇日付で「昭和五年通常県会顚末報告」を報告、大谷川用排水改良事業の否決は党派的感情に基づき著しく公益を害するものと認められるので原案執行を申請する見込みであると付記していた。原案執行認可を得た県当局は、昭和六年(一九三一)四月四日、県告示で示達し、難産ながら懸案の大事業が陽の目を見ることとなった。
 昭和六年一二月一四日、笹井知事らが出席して盛大な起工式が挙げられ、翌七年一月から導水路工事、同八年から溜池築堤工事が開始された。ところが現場は地質がもろく地盤が弱いため予想外の難工事となり、そのうえ昭和九年の室戸台風など数次の災害が重なり工事は難航することとなった。このため継続年期の延長、予算追加を重ね、更には戦時下とあって労務・資材不足に悩まされた。村民の奉仕を含め従事者延べ三七万三千余人にわたった事業は、終戦間近の昭和二〇年三月ようやく完成した。
 なお、東西両支線水路は、耕地整理組合が事業主体となって補助事業として行い、昭和七年着工、同一五年完成した。また新たに一九・八ヘクタールの開田が施工された。

 継続土木事業の更正

 昭和七年度歳出予算案は、前年度当初予算に比して四万二千余円を減ずる一層厳しい緊縮予算であった。このうち、県当局が整理対象の最大の焦点としたのは継続土木事業であった。既定計画は昭和二年政友会全盛時代に時の尾崎知事が立案したもので、昭和三年度から同一七年度までの一五か年継続で、事業費一、〇一五万円により一一〇線の国・府県道及びそれにかかる橋梁を改修しようとするものであった。これは政友会の積極政策によるものであり、党勢拡張のための政治路線もかなり含まれていたが、その後の財政緊縮のため既定計画の執行が困難となった。すなわち、既定どおり支出できたのは計画第一年の昭和三年度八〇万円のみで、翌四年度四〇万円、同五年度五五万円、六年度四五万円と他は定時繰り越しを重ね、更正の必要が生じてきた。
 しかし、民政党内閣下の木下・笹井知事は継続事業費総額を昭和五年度に九七五万円、同六年度に九四五万円と削減したが、県会で絶対多数を誇る政友会の壁にあたって根本的更正を果たすことができなかった。ところが、昭和六年九月の県会議員定期改選で与党の民政党が二〇年振りに絶対多数となり、笹井県政は時を得て懸案の根本更正に踏み切ったのである。県は当初、年期を五年短縮、五〇~六〇路線を対象に総額七〇〇万円程度に縮減する意図であったが、起債陳情を受けた内務省は一層の縮小を要求していた。その結果出来上がった案は、昭和七年度から同一一年度までの五か年継続、事業費一〇八万円(七・八・九年度各二〇万円、一〇・一一年度二四万円)、改修路線は土居垣生線・西条新居浜線・久万小田町線・川之石長浜線・野村中村線・宇和島宿毛線の六線に限定するもので、大土木事業は事実上打ち切りの厳しいものとなった。
 これには中立系の「海南新聞」も「愛媛県予算評」で、「あまりに荒療治」「あまりに消極」と非難、更に「六線はいずれも付属線のみで、殊に此の内久万小田町線と川之石長浜線の如きは世に之を民政党の政友会に対する復讐線だといっている」と指摘、このほか、三津浜・三瓶港湾修築補助の廃止に対し宮窪・川之江・柳原港湾修築補助の新規計上は党色事業のそしりを免れないと批判した。また政友会機関紙「伊予新報」は、「政友会全盛時代に企図された事業なるが故に、之を根本より覆へしたに外ならず、実に最も露骨な党利党略的予算」と酷評していた。
 提案理由として笹井知事は、継続土木事業は国庫補助の廃止・起債不許可・県財源の減少などにより執行困難であり、財政の堪え得る範囲にしたこと、三津浜・三瓶港修築については両町の財政計画が立たないので県費補助義務負担を廃止すると説明した。つづいて失業対策事業にふれ、継続土木事業の大削減による六路線限定の代わりに、はずれた路線を起債で財源が得られる失業救済事業対象路線に振り向け、年度年度の財政事情に従って漸次改修していこうとし、昭和七年度については二五万円を計上して継続土木事業削減額に見合わせたことを言外に示した。施行箇所として公表された府県道三八路線は次の表3―85のとおりであった。
 関連議案はいずれも多数派民政党の賛成により原案どおり可決、読会を省略して確定議となった。大正三年度から昭和一七年度にわたる継続治水費も同時に、総額二六万三千余円を減じる更正がなされた。





表3-84 県庁舎建築費内訳表

表3-84 県庁舎建築費内訳表


図3-16 県庁舎新築設計図①(昭和4年)

図3-16 県庁舎新築設計図①(昭和4年)


図3-16 県庁舎新築設計図②(昭和4年)

図3-16 県庁舎新築設計図②(昭和4年)


表3-85 昭和7年度失業救済道路改修路線

表3-85 昭和7年度失業救済道路改修路線