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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 公私経済緊縮運動と市町村財政の窮迫

 公私経済緊縮運動の展開

 金融恐慌以降の経済難局の克服に取り組む浜口内閣は、昭和四年(一九二九)八月首相浜口雄幸自らが「全国民に訴ふ」という文書を出し、「奢侈浪費の風」を改善して消費節約を呼びかけた。この「消費節約」と「財政緊縮」を国民的規模で図るために公私経済緊縮運動を繰り広げることになり、八月一六日「公私経済緊縮運動に関する件」の内務次官通牒が発せられた。それによると、この運動の骨子は、(1)財務の緊縮、公債の整理、金輸出解禁が財政経済建て直しのために急務であることを説き国民の理解を求めること、(2)個人経済と財政並びに国民経済との関係を明らかにし、国民全般が協力して消費節約をなす必要を自覚励行させること、(3)質素勤勉貯蓄を奨励し、生活を簡素にし、社会生活における各種の弊習を矯正し、進んで消費経済の各方面に工夫を加えること、という三点であった。
 本県では、知事を会長とする公私経済緊縮愛媛県地方委員会を設置して、市長・郡町村長会長・各産業組合長・新聞社々長・教化団体長など四二名を委員に委嘱した。同委員会は、九月一〇日に第一回の会合を催し、次の具体的運動方法を決定した。

  一、生活改善
   1、衣―木綿類の奨励、経済・衛生を本位とすること、衣類の種類の減少
   2、食―節酒・節煙の奨励、滋養本位と経済上の節約
   3、住―実用簡易を旨とし、台所・便所などの改善
   4、社交―虚礼廃止、形式的な贈答に注意、宴会の節約改善、時間の励行、冠婚葬祭は質素を旨とすること
  二、消費節約
   1、国産品の愛用 2、予算生活の奨励(家計簿の記帳など) 3、貯金の奨励 4、奢侈浪費の戒め 5、流行華美に流れない 6、薪炭・電気・瓦斯の経済的使用 7、廃物利用 8、盗難・火災・疾病など災厄の防止
  三、能率増進
   早起き勤労を奨励し、時間・労力の無駄に注意
  四、各種団体の経済の整備緊縮

 県はこの実行事項を市町村長に送付し、容易に実行し得るものを選定すること、改善事項の実行申し合わせを各地区ごとに行うことを指示し、市町村の状況に応じ公私経済緊縮委員会などを設置するとともに各種教化団体と連絡提携して趣旨の徹底に努めるよう命じた。この依命通牒に従って、各市町村では公私経済緊縮運動を展開した。その二、三の例をあげると次のようであり、他の町村でもこれと大同小異のスローガンを掲げている(「公私経済緊縮運動の概況」愛媛県)。

  温泉郡新浜村(現松山市)
  一、日常生活の改善に関する事項
   イ、日常生活を規則正しく簡易にすること ロ、衣類は華美を避け質素を主とし、止むを得ない場合以外は新調しないこと ハ、大人並小児の買食を大いに減少すること ニ、舶来品を斥け国産品を用いること ホ、日常使用の物品を粗末にしないこと
  二、酒宴に関する事項
   イ、酒宴の機会を減少すること ロ、食膳の分量はその席で食べる程度に止めること ハ、盃の献酬を廃し無理強いしないこと ニ、節句遠足運動会などの弁当を質素にすること
  三、贈答に関する事項
   イ、形式的手土産を廃すること ロ、饒別は特別親交ある者に限ること ハ、交換的の贈答を廃すること ニ、出生・節句・諸見舞の物品贈答は親族の外は差し控えること
  四、入退営に関する事項
   イ、入営の際の酒宴を廃すること ロ、入退営祝旗の贈呈を廃すること ハ、入営者に対する饒別は近親者に限ること ニ、退営者は土産品を絶対に配付しないこと
  五、結婚に関する事項
   イ、結婚の支度及び披露を質素にすること ロ、歓は近親者の外は差し控えること
  六、葬儀に関する事項
   イ、香奠は五十銭以内とすること ロ、通夜は近親者に限ること ハ、葬儀の手伝い人数を減ずること ニ、香奠返しを廃すること
  七、貯蓄に関する事項
   イ、各地区において五人組を設け毎戸一日一銭以上の貯金をすること ロ、貯金は五年間継続すること

  東宇和郡貝吹村(現野村町)
  一、生活改善
  1、衣―質素、簡易衛生を旨とし、新調は出来る限り見合すこと
  2、食―イ、節酒節煙 酒は保健と経済上適量を守ること、煙草は格安品を用い巻煙草をなるべく喫わぬこと ロ、未成年者の禁酒禁煙を厳守すること ハ、昼、酒焼酎を飲む習慣を廃すること ニ、祭客祝宴などの肴は魚類購入を節減し、自家生産の蔬菜類で簡単にすること
  3、住―実用簡易を旨とし、台所便所などの改善をして保健衛生上の注意をすること、新築はなるべく見合すこと
  4、社交儀礼―イ、祭客の往来は近親者の外絶対にしないこと ロ、年賀の祝宴を廃止すること ハ、婚礼は厳粛な儀式にのみ止め、披露の宴を開かないこと ニ、各種宴会の度数と経費を節減すること ホ、部落集会などの酒食費を節約すること ヘ、葬式は厳粛を旨とし、酒食は近親者及び葬儀関係者に限ること、霊前の供物は質素を旨とし香奠返しは廃すること ト、贈答は機会を少なく、虚礼にわたる交換的贈答を廃止すること
  二、消費節約
  1、ぜい沢品の購入防止 2、いたずらに流行品・投売品を買わない 3、日用品の購入消費に注意 4、自家生産品の活用 5、肥料の節約、施用の改善 イ、自給肥料の施用 ロ、肥料の共同購入 ハ、自家配合と使用の研究 6、国産品の愛用 7、予算生活家計簿使用の奨励 8、貯金の励行 9、盗難・火災・疾病などの災厄防止
  三、能率増進
  1、時間の励行 2、時間空費の戒め 3、勤労の奨励と労力の無駄に注意
  四、各種団体の径費節約

  宇摩郡川瀧村(現川之江市)
  経済生活の改善を図り国力を培養すること
   イ、朝早く起きませう ロ、仕事を速く片付けませう ハ、家族の健康に注意しませう ニ、身分不相応の生活を避けませう ホ、婚礼の費用を節約しませう ヘ、葬式は冗費を省き精神的に致しませう ト、虚礼の贈答は止めませう チ、時間を守りませう

 県では、県内各地で講習会を開催して公私経済緊縮運動の趣旨徹底を図る一方、庁内でも(1)用紙・電気・茶その他一般消耗品の節約 (2)電信・電話の節約 (3)酒・煙草の節制 (4)宴会の縮小 (5)会合時間の厳守 (6)着用品・所持品の質素化 (7)国内品の愛用 (8)形式的贈答の廃止 (9)規約貯金の励行などを庁員に求めた。また、愛国婦人会愛媛支部など二〇婦人団体は、次の事項を申し合わせた。

    申 合 事 項
  (1) 勤倹の主旨を理解して自力的に家政を治むること
   (イ)朝は早く起きませう (ロ)女中は置かぬように家族協同で働きませう (ハ)順序よく働いて能率を上げませう
  (2) 家政一切をひきしめて生活一割の節約を実行して貯金すること
   (イ)衣服 廃物利用の道を研究しませう、必要の外衣類の新調を見合せませう、何時も質素を忘れぬ様にしませう
   (ロ)食物 経済的に栄養食を取りませう、栄養の大切なことを理解して之を研究しませう
   (ハ)住居 能率増進のため台所を改良しませう、衛生上に注意しませう
   (ニ)社交 来客接待は簡略質素にしませう、会合は時間を励行して進行を敏速にしませう、葬儀は厳粛にしまして飲食をやめませう、婚儀は質素を旨と致しませう、
  (3) 国産品を愛用して出来る丈け輸入品使用を見合すこと

 こうして公私経済緊縮運動が官民挙げて展開された。市町村では、この運動を、国体観念の明徴と国民精神作興を意図する教化総動員運動や国産品愛用運動と結び付けて実行する場合が多かった。両運動とも公私経済緊縮運動と同様、内務省・文部省など政府機関の通牒に基づく県の指示で行われており、この意味では、大正期の民力涵養運動の延長線上にある官製的な国民運動であった。しかし、久しい伝統的慣習となっている冠婚葬祭の儀礼などは容易に改められず、「私」経済緊縮の実行要目を日常生活の中に具体化し実施することに民間では必ずしも積極的ではなかった。

 昭和初期の市町村財政

 経済恐慌の中での昭和初期の市町村財政歳入を示すと表3―90のようである。義務教育費などの重圧に苦しむ市町村に対し、政府は義務教育費国庫負担金を増額し、また大正一五年三月に地方税制を改正して市町村に戸数割・反別割の独立税を新設するなどしたが、その財政窮乏の解決にはならなかった。賦課額人員に対する滞納者が昭和二年度一五%、同五年度二五%、同六年度三〇%に達する状況下で税収入の増徴は望めず、歳入財源に占める税収入比率は年々下降し、いきおい市町村債やその他の収入で補充しなければならなかった。そのうえ、昭和四年七月二九日の内務・大蔵両大臣による通牒「地方財政整理緊縮に関する件」で、市町村も府県に準じて一割五分程度の予算節減が求められたから、財政運用にいよいよ逼迫して小学校整理や教員給の寄付強要問題が持ち上がった。

 教育費緊縮と小学校統合・教員整理

 窮迫する市町村財政の中で歳出面で最も重い負担は教育費であった。表3―91に見られるように、昭和元、二年時の町村費中教育費の占める割合は四一・七%に達していた。そこで、町村は教育費緊縮の方針を打ち出した。小学校の整理統合、高齢・共稼ぎ・代用教員の整理、教員給の寄付と減俸などの措置によって教育費の削減を図った。
 小学校の整理統合は、校舎の老朽化や児童の増加に伴う校地の狭隘などを理由に進められた。しかし、その断行に当たっては、学校位置と学校通学の便をめぐって地域住民の利害がからみ、必然的に反対派が生じ合併派との間で激しい紛争を起こした。伊予郡南山崎村(現伊予市)・宇摩郡川滝村(現川之江市)・喜多郡柳沢村(現大洲市)・東宇和郡石城村(現宇和町)・西宇和郡三机村(現瀬戸町)・伊予郡中山町などでこうした合併紛争が起こり、裁定を行う県当局もこれの処置に苦慮した(資近代4九〇・九一)。これら紛糾した町村のうち、町村当局の意図した学校統一が成功した地域は石城村と三机村及び一応統合の線で落着した南山崎村に過ぎなかったが、統合が円満に進められたところもあって、昭和元年度四六三を数えていた市町村立小学校は、同八年度には四四〇に整理されていた。
 高齢・共働き教員の整理と代用教員の大量解雇は、昭和二年から同七年にわたり断行された。最初に整理の対象となったのは代用教員であった。昭和二年三月時において県内小学校教員総数四、一二○人中六七五人の代用教員が含まれており、南予方面では教員の三分の一を占めている地域もあった。この代用教員のうち同二年四月に一〇〇人以上、同四年三月に二五〇人近くが解任された結果、昭和六年度には二四二人に激減した。県と市町村は教員平均給切り下げと師範学校新卒者受け入れのため昭和五・六年に高齢教員の淘汰と共稼ぎ教員の退職勧奨を積極的に進めた。同七年には県下約三〇〇組の共稼ぎ教員の片方を整理する方針を立て、これを市町村当局に指示した。これにより、高齢者・共働き教員など二一四人が年度末に整理された。しかし、こうした処置をもってしても男女師範学校卒業生のうち、昭和五年八〇人、同六年七〇人、同七年五〇人という正教員資格者が、年度初めに教職に就くことができず、新卒教員の就職難時代を現出していた。

 教員給の寄付問題

 昭和恐慌下、県内小学校教員の月俸額は昭和三年一月時本科正教員男七三円・女四八円で全国平均を上回り、同五年二月には男七七円・女四八円と、経済不況による一般社会の賃金引き下げをよそに平均額は上昇していた。財政逼迫にあえぐ市町村としては、教育費の大部分を充当している教員給の根本的な引き下げを断行しなければ当面の財政難緩和は望めないという意見が強くなった。
 昭和五年五月二三日、宇和島市南予会館で開かれた県下町村長会議は教員初任給引き下げを県に請願することを可決した。次いで同年一二月一日には松山市道後で臨時総会を開き、教員給の一割引き下げを県に要望することを決議した。同月四日には早くも北宇和郡町村長会は教員給を一割逓減し、これを教員給から寄付させる形をとった。この動きは隣接する宇和島市と南宇和郡にも波及する形勢を示した。寄付問題がまだ具体化しない他郡市では、三分の一の市町村が教員の年末賞与を中止し、賞与を支給した町村も前年度の半額にとどめるところが多かった。
 昭和六年一月七日、県下町村長会は幹事会を松山市で開き、教員給寄付実施の運動方針について協議した。翌八日同会会長岩崎一高以下一一名の役員は、県庁に知事・学務部長を訪ね、町村会では町村の窮状を救済するために各教員から自発的な寄付を要望しているので、県は黙認の態度をとってもらいたいと陳情した。県は検討を約束しながらも態度を保留したので、二月九日に町村会の役員と知事との会談が再度もたれた。県知事笹井幸一郎は、教員給の寄付は県としては強要も中止もしない、ただ教員に対し寄付を強要するのは穏当を欠くので、町村当局と教員間で十分協議してもらいたいとの態度を示した。そこで、町村長会幹事会は各郡町村長会に対し寄付採納を郡校長会に申し入れ折衝を行うよう通知した。
 各郡町村長会では一月中に校長会との交渉を開始した。校長会は不満を示しながらも寄付問題を協議して、一月一二日に温泉郡小学校長会が寄付を受諾したのを最初に三月までに他郡の小学校長会でもこれを受け入れた。松山市では二月四日番町小学校での市内校長会議で俸給五分寄付を決定し、市当局にこの旨申し入れた。今治市と宇和島市の各小学校長会でも五分前後の寄付をすることにした。一般教員の不満は大きく、昭和六年四月二三、二四日の愛媛県教育会総会では非難が続出した。しかし市町村財政の窮迫状態からみて協力的に寄付を行うのはやむを得ないとする意見も多く、激論の末、教員給は全額国庫支弁に頼るほかないとの結論に達した。このため総会は、「市町村義務教育費国庫負担金ヲ増額シ且市町村立尋常小学校教員俸給ハ全額之ヲ国庫支弁トセラレタキコト」の建議を政府に行うことを決定した。
 このような状況下にあって、ひとり新居郡町村長会のみは慎重審議の結果、初等教育の重要性と教員使命の重大性にかんがみ、この問題で教員に犠牲を強いるのは忍びがたいとして、寄付を強要しないことを申し合わせた。四月の県下町村長会で岩崎会長らがこの決議を非難したので、新居郡町村長会は声明書を発表して県下町村長会を脱退した。新居郡を例外として、県下の小学校教員は昭和六年四月から俸給の一部寄付を始めた。その寄付率は、郡市により異なり、松山市五分一律、今治市七分~四分、宇和島市六分~四分、温泉郡一割六分六厘~三分、越智郡・周桑郡・東宇和郡一割一律、宇摩郡一割四分厘~五分、上浮穴郡一割~五分、伊予郡一割三分~五分、喜多郡一割五分、西宇和郡八分一律、北宇和郡一割七厘一律、南宇和郡一割~二分五厘、全体平均七分二厘といった状態で、多くの郡市で俸給の高低によって寄付率に格差を設けていた(「愛媛新報」昭和六・六・一二付)。
 教育費の節減を目的とした教員給の寄付強制や不払いあるいは学級整理は、全国的に見られた現象であった。これを重視した文部省は昭和五年六月一五日に次官通達で憂慮すべき現象であるので厳重監督するよう指示した。また同年六月に「小学校令施行規則」中教員俸給額表を改めて一〇〇円以上の月俸収得者を一割方減俸した。既に本県では同六年四月から本科男子五〇円を四七円、女子四三円を四〇円に初任給引き下げを実施していたが、七月一日の「市町村立小学校教員俸給旅費及諸給与規則中改正」で新月俸表を示し、一〇〇円以上の高給を減俸した。
 減俸令が施行されると、教員給の寄付と減俸との関係の調整が必要となった。県下町村長会は、同六年六月一一日に市長を交えて温泉郡自治会館で総会を開き、月俸一〇〇円以上の教員に対しては改正俸給令による減俸額を控除した差額を、一〇〇円以下の教員に対しては減俸が適用されないから従来通り寄付を履行してもらうことを決議した。教員側も、一年間の寄付行為を契約している郡市が多かったので、仕方なくこれに応じた。ところが、翌七年一月一〇日、県知事久米成夫と町村会幹事との会談がもたれ、七年度教員給寄付の継続については各郡町村長会と小学校長の折衝に任せ、これとは別に一般教育費を一割~五分節減することで了解に達したことが報じられると、寄付を前提としたこの取り決めに教員側は強く反発した。各郡市小学校長は相次いで寄付を拒否する方針を打ち出し、寄付率を下げてでも寄付行為を続けさせようとする町村長会との折衝においても、断固としてこれを受け付けなかった。
 このため、各郡市町村長会は寄付継続をあきらめ、高齢教員と共働き教員の整理、昇給見送りや二~三円の小刻み昇給(当分給制)の実施、賞与・旅費・宿直料の引き下げなどによって教育費の節減を図った。県もこれに対応して師範学校卒業生の初任給を男四五円・女三八円に引き下げたので、新教員はもとより一般教員も前年度に引き続き受難時代が続いた。当時の県下小学校教員平均月俸は、昭和五年が男六二円三一銭・女四四円七八銭、同七年が男六〇円七銭・女四三円七二銭で、高給教員淘汰と当分給制の実施などで漸次減額していた(「愛媛新報」昭和七・一〇・一付)。こうした教員の受難は、昭和八年に至り経済状態がようやく落ち着きを取り戻してきたことでやや緩和された。四月の新年度には県下小学校教員四、五〇〇余人の半数に近い二千余人に二~五円の増俸が実施された。

 学校給食の開始

 恐慌による生活難で、小学校に就学する貧困児童を増やした。県はこれらの学齢児童の救済策に取り組む必要に迫られ、昭和四年(一九二九)二月「児童就学奨励規程」を改正して、県補助金の増額とその支給基準を示すとともに、市町村は県補助金に同額以上の支出金を加えて貧困児童就学奨励のための経済的援助の強化を促した。昭和四年の奨学金支給該当児童は八、一五九人で、県は一万八、六〇一円の補助をしている。同六年になると、就学奨励金の交付を受ける貧困児童は九、二七六人に達した。
 この時期には、生活窮乏のため児童を就学させないで家業の手伝いや中小企業に就職させる保護者が多くなる傾向にあったが、一般の貧困家庭では生活にあえぎながらも親の義務意識から児童を就学をさせた。これらの児童の中には、昼食時になると教室を出て付近に隠れ昼食をとらない者、弁当を持参しても粗悪であるため学友に秘して食する者が少なくなかった。教育関係者の間では、貧困児童や栄養不良児を対象とした学校給食の実施が論議されはじめた。
 欠食児童の増加を重視した文部省は、昭和七年九月に「学校給食臨時施設方法ニ関スル件」を発し、給食施設に要する費用の一部を国庫で支出することにした。これを受けて愛媛県は、一〇月四日には「学校給食臨時施設費補助規程」を定め、貧困児童の学校給食を奨励して、一人当たり一食分四銭の補助金を交付することを明らかにした(資近代4二二二~二二三)。この年一二月時で県内市町村立小学校四四五校のうち給食施設は一六二校、給食を受ける児童一、五五九人であった。

表3-90 昭和初期の市町村歳入とその主な財源(決算)

表3-90 昭和初期の市町村歳入とその主な財源(決算)


表3-91 昭和元~同8年度の愛媛県内町村教育費

表3-91 昭和元~同8年度の愛媛県内町村教育費