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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 銅山川疏水事業

 宇摩郡民と銅山川疏水計画

 愛媛県東端の宇摩地方は、眼前に燧灘、背後に比高千数百メートルの法皇山脈がせまり、平野部は少ない。山脈の北麓は中央構造線が截断し、山麓から海岸まではいくつもの扇状地が重なりあって、緩やかな傾斜をもった平野が東西一二キロメートル、幅四キロメートル(狭い所では一キロメートル)にわたり帯状に広がっている。明治二三年当時、ここに関川・満崎・小富士・土居・津根・野田(以上現土居町)、豊岡・寒川・中之庄・三島・中曽根・松柏(以上現伊予三島市)、妻鳥・上分・金田・川滝・金生・川之江・二名(以上現川之江市)の一九か村があり、およそ五万余の人々が生活していた。
 この地方は瀬戸内型気候で元来降水量が少ない上に、法皇山脈の分水嶺が海岸に接近しているため、せっかくの雨も鉄砲水となって海へ出た。平時はほとんど流水がなく、飼谷池など四六の溜池を利用して水田を潤わせてきたが、旱魃の年には水争いが多くみられた。延宝二年(一六七四)の上分村と妻鳥村の間で涼川水源地よりの用水配分をめぐる事件では犠牲者も出た。川之江市には宝暦五年(一七五五)の金川村「惣改帳」が残され、村内を流れる川や湧水・溜池などの取水量を他村と協定した「水賦り場所」の規定もある。しかし協定が結ばれても、日照りが続くと自村内に降った雨は自村のものだとの主張により、協定が破棄される場合も多く、宇摩地方ではこうした水争いが明治・大正期を通して度々繰り返されてきた。
 法皇山脈の南側に位置する地域を嶺南と呼んでいる。別子銅山の西南笹ヶ峰に源を発する銅山川は、嶺南の別子山村や富郷村・金砂村(以上現伊予三島市)、新立村・上山村(以上現新宮村)を東流し、徳島県三好郡川口に至り、吉野川本流に合流する流路五三キロメートルの河川である。四国山地の森林に涵養された銅山川の豊富な水は、水不足にあえぐ宇摩平野の人々の心とは逆に徳島県へ流れ、吉野川下流域ではあり余る水に苦しめられることもあった。
 山腹に隧道をくりぬいて、銅山川の水を宇摩平野へ流れ込ませたいとの願望は江戸時代からあった。安政二年(一八五五)の凶作に際して、三島・中曽根・松柏の庄屋が銅山川の分水を今治藩三島代官所へ出願、時の代官松下節也はこれを藩庁へ進言し、慶応二年(一八六六)、分水事業の奉行として計画を進めたといわれる。しかしこの計画は幕藩体制の崩壊という政治改革の中で自然に立ち消えとなった。
 明治時代に入っても地元有力者によって計画が立てられ、明治一六年(一八八三)には「小川山エ掘抜概略見積」書が作成されたが資金難により中止され、その後も神戸の外国商社と三島の有志による分水と発電事業を兼ねた計画、大阪の実業家による計画もあったが、いずれも中止になっている。
 明治四〇年一月、元中之庄村長であった高倉要が技術者を招いて現地を測量、発電と耕地灌漑を目的に町村組合の経営を骨子とする「宇摩郡銅山川流水使用願」を、三島町長・中之庄村長・金砂村長連名で愛媛県知事に提出した。当時、県では大野ヶ原軍用道路の開鑿などが急務とされており、この分水建議は受け入れられなかった。しかし明治四二年には銅山川上流の別子山村で、住友別子鉱業所によってダム建設計画が進められ、新居郡角野村端出場(現新居浜市)まで隧道を掘って自家発電が行われるようになり、また上分村の薦田唯二郎らは、明治四三年七月、東予水力電気株式会社を発足させ宇摩郡一二町村・香川県三豊郡五か村への電力供給を目的として、銅山川に堰堤を設け大正二年(一九一三)には発電所を竣工させた。

 紀伊為一郎の計画と事業の遅延

 大正元年一二月、土居村の後藤国太郎が紀伊為一郎に疏水事業への協力を要請した。後藤は土居村の浦山鉱山の開発者で、銅山川疏水事業を進めると法皇山脈中に新たな鉱脈が発見できるかも知れないと考えていた。一方、紀伊は明治一三年川滝村で生まれ、岡山で美術倶楽部を経営する資産家の息子であった。後藤の要請を受けた紀伊は大正二年夏に帰郷して郡内を視察した。彼はこの時の心境を「水不足に苦しむ農民の労苦は全く言語に絶するものがありましたので、私もいよいよ銅山川疏水実現のために捧げたいと決意したのでありました。」(紀伊為一郎手記「銅山川疎水の思い出」合田正良著「銅山川疎水史」所収)と記している。疏水計画と設計図は東京の隠岐巳之助が作成し、これを愛媛県知事深町錬太郎に示して賛意も得た。
 大正三年三月、紀伊は疏水事業に関係する町村長や有志を集めて計画内容を発表し賛成を得た。計画は金砂村小川山字脇地先に取水口を設け、松柏村上柏まで一、四七七間(約二、六五九メートル)の隧道を貫き、銅山川から分水した毎秒四・二立方メートルの水を宇摩一二町村の灌漑に充てるものであった。ただ発電事業については調査の段階にあり、当初の計画書には含まれていなかった。この計画案は関係町村議会の賛同を得たが、工事資金五五万円の分担に逡巡して離脱する村もあり、県への許可申請は容易に進まなかった。結局、工事費は紀伊・後藤・隠岐の三人が負担することなどの条件で、紀伊らは大正三年八月、三島・寒川・中曽根・松柏・中之庄・妻鳥・金生・川之江の八か町村有志との間で契約を締結した。一〇月には投資者三名と町村有志連名で発電計画をも含めた「用水路開設願」を愛媛県へ提出し、翌年には豊岡・野田・津根・小富士の四か村有志もこれに加わった。また同五年には大阪の日本窒素社長野口遵もこの事業に参加して資本力を強化し、県や国への請願を推進した。
 法皇山脈より北側の疏水の恩恵を受ける町村は事業に賛成したが、嶺南の富郷村では筏による流木が不可能になるとして反対した。同じ嶺南の金砂村では隧道に道路を併設して交通の便を図ること、村内に車道を作ること、損害賠償として村内に公共施設を作ることを条件に出していた。また東予水力電気も大正四年四月、銅山川から金田村へ引水して発電量を増加したいとの願を県に提出して、水利権獲得の競合もみられるようになった。
 愛媛県は宇摩郡長に命じてこの事業の内容を精査し、諸問題の調整を進めて、大正五年、紀伊らの河水引用願を内務省に稟請した。また大正六年四月、知事若林賚蔵から内務省土木局長に「銅山川河水利用許可に関する件」を提出し、これは「宇摩郡ノ興廃ヲ制スル重要事業」であり、水田に地目変換可能の畑四七〇町歩、現在農業用水不足の水田八四〇町歩、合計一、三一〇町歩を灌漑し、また約一二〇メートルの落差を利用して発電を行えば地元の工業発展にも寄与する有望な事業であると説明し、下流にある徳島県側の水利に影響がないであろうから、県としてもこの事業への認可を希望すると申達した。
 愛媛県のこうした事業計画に対し、徳島県では激しく反対した。愛媛県知事から徳島県知事へ銅山川疏水に対する見解を求めたところ、大正七年二月、分水のために吉野川の水量が減り、流木・舟運・灌漑に支障をきたすので反対であるとの回答が寄せられた。徳島県の同意がなくては内務省の認可は不可能であり、紀伊らの疏水計画は進展しなくなった。
 事業の見通しが立たなくなると、出資者である隠岐・野口が事業から脱退した。中央では愛媛県選出の代議士に請願を続けたが、徳島県の同意がないため事態は進展しなかった。この頃の様子を紀伊は「書類が内務省に提出されてからは又々大変で、既設会社の反対に加えて、徳島県側の反対で全く血のにじむような苦労を致しました。其の間、遂に家庭を捨て(離婚)、いよいよ経済的にも行き詰まるという状態に立ち到ったのでありました」(前掲「銅山川疎水の思い出」)と述懐している。文中の「既設会社」は、経営不振に陥った東予水力電気を買収した愛知県の事業家千賀千太郎の経営する燧洋電気株式会社のことで、昭和初期まで地元住民と水利権を争った会社である。

 宇摩疏水組合の結成

 紀伊為一郎らの疎水事業計画には、水不足に悩む宇摩郡民を救おうとする意図は十分あっても、究極的には企業家の出資による営利事業であり、それを関係町村有志が後援するという形態をとっていた。個人の事業家に依存していたのでは、いつまでたっても認可は得られそうもない。その上、徳島県の反対・燧洋電気との利害対立が生じている。この難局を打開するため、大正九年九月、高倉要は「銅山川疏水公営期成会案」を作成して事業の公営化を訴えた。高倉には、明治四〇年・大正四年と二度に及び町村組合による疏水事業案を県に提出し、いずれも認可されなかった経緯があり、紀伊らの計画を傍観していた。彼は疏水事業は宇摩郡全体の共同公営として出願すべきであるとの宣言文を配布し、一八か条からなる疏水公営期成会規約書案も示した。しかし、この案に対する地元民の反応は少なく、これに対して、同年一二月には川之江町を中心に二町一〇か村有志が、紀伊出願の河水引用願の早期承認を内務省に請願した。
 大正一〇年から一二年にかけて、地元町村では事業進展を策して種々の協議が行われた。それが一応の合意に達したのであろうか、一三年一月には宇摩郡町村長が連署して、紀伊の河水引用願の承認を貴族院議員若林賚蔵(元愛媛県知事)に請願し、九月には有志四五〇余名が内務大臣に同様の働きかけをした。またこれらの請願と時期を合わせるように、九月一七日、関係一二町村長連名で、宇摩郡長を組合長とする町村組合設立の伺が愛媛県知事佐竹義文へ出願され、同月二〇日許可された。
 町村組合は正式には宇摩疏水組合と称し、事務所を三島町に開設した。組合の結成は、これまで疏水事業に身命を賭して活動してきた紀伊為一郎や彼を後援してきた有志との間に軋蝶を生じさせた。疏水組合では組織を固めるために、紀伊と歩調を合わせていた町村長に対し、紀伊との契約を破棄するよう申し合わせ、大正一三年(一九二四)一〇月六日、紀伊案とほぼ同じ内容の「銅山川河水耕地濯漑引用水路開設願」を愛媛県へ提出した。これに対し紀伊ら一六名も、同月一〇日再び「用水路開設願」を出して、両者は対立した。

 疏水事業の県営移管

 大正一三年も大旱舘に襲われ、一万石を大幅に超える減収となった。宇摩郡内では水争いが再発し、疏水事業の早期促進を希求する世論が高まっていた。大正一四年一月高知県営東豊永水力発電所落成式に招かれた佐竹愛媛県知事は、藤岡高知県知事から水力発電は三〇万円以上の歳入になり、経済的にも有利である旨の話を聞き、同席した小幡徳島県知事に、銅山川疏水事業を仮に県営で実施するとすれば、分水問題についてどう対応するかを尋ねた。小幡知事は、県で経営されるとなるとどうとも致し方なかろうと暗に分水に反対しないという返答をした。これによって佐竹知事の疏水事業県営化方針が決定的になったといわれている。
 帰県した知事は宇摩郡長で疏水組合長であった高木茂正、宇摩郡選出の県会議員で副組合長の山中義貞と会談した。疏水事業を県営で行えば、内務省・徳島県・燧洋電気との交渉が疏水組合の交渉よりは容易であり、補助金も多くなり地元負担が軽減され、事業の完成も早まるであろうとの見解で、県営に移管し、官民一体して分水実現に当たることとした。この会談をうけて二月二四日疏水組合常設委員会が開かれた。多くの議論が交されたが、結局無条件で県営に移譲することに決した。愛媛県では二月二八日、銅山川疏水を県営事業として遂行するため、内務大臣へ「分水認可稟請書」を提出した。申請書中、大正五年に県を経て申請している紀伊為一郎らの出願の件に触れ、巨額の資金を要するこの事業は個人共同経営としては至難の事情もあるので、県と関係町村が経費を支出してこの事業を遂行したいと述べている。
 愛媛県が本格的に事業に乗り出すと、大正一四年九月一四日、銅山川疏水事業期成同盟会が発足した。これは県の事業を側面から応援しようとするもので、従来の疏水組合員や地元有志を中心に構成されたが、名誉会員にはすべての県議や河上哲太・十河信二・若林賚蔵など東京在住の政財界人も名を連ねていた。
 事業の早期実現を図る宇摩郡民大会は、一〇月期成同盟会長尾崎博雄を座長として三島町公会堂で開かれた。大会では、愛媛県が申請書を出す前日の二月二七日に事業拡大のために「水利使用許可申請書」を提出して対立状態にある燧洋電気との交渉、分水に反対する徳島県との交渉など二つの難問に「挙郡一致」して万障を打破していくことを決議した。この難問には県当局でも折衝に努めたが解決に至らず、県は銅山川疏水県営化を諮る議案を大正一四年(一九二五)一一月の県会に提出することを見送り、宇摩郡では燧洋電気に対する電気代不払い運動が起こった。このような状況で、一二月宇摩郡選出の県議山中義貞(中立)・竹内鳳吉(政友会)は両者の政治的立場の相違を超え、共同で「銅山川水利に関する建議書」を県会へ提出し、早急に徳島県や燧洋電気と協定して県営計画の具体案を議案として提出するよう訴え、採択された。
 県会での決議をうけて、県当局は利害関係者との交渉を進め、大正一五年七月二六日、下流の燧洋電気に対しては許可相当水量を放流するという条件で、「県営銅山川引水計画中一部変更願」を内務省に提出した。この計画は、金砂村柳瀬に高さ四八・二メートルのダム堰堤を築き、吉野川の水位低下を防ぐため自然流量が毎秒二・七立方メートル以下の場合は分水しないで全流量を下流へ流すが、洪水期など流量が毎秒二・七立方メートル以上の場合はダムに貯水して毎秒四・四立方メートルの水を宇摩平野へ引水、発電と灌漑に供するとしていた。

 水没予定地金砂村への対応

 愛媛県から申請書が出されると、内務省は査定主査官内村三郎技師を現地調査に派遣した。内村は一五年八月一八日から二〇日まで銅山川一帯を調査し、その後松山を訪れ香坂知事と会談した。彼は、県計画中のダム堰堤や発電所の立地条件は良好だが、ダム建設により、金砂村の人家・山林の一部が水没することになり、これについて金砂村民がどのような態度をとるか危惧される。これは燧洋電気や徳島県の反対以上に重大なことであると語り、それまで水没地のことを知らされていなかった知事を驚かせた。ダム建設による人家立ち退きの件は設計者や疏水組合幹部では既に問題視されていたであろうが、燧洋電気の小規模な堰堤しか見たことのない宇摩郡の人々には人家水没を実感としてまだ把握されず、疏水認可を第一に考える風潮の中で、このことはまだ意識されていなかったのかも知れない。
 金砂村は戸数三三六戸・人口二、〇六三人(大正一〇年時)で、ダムが完成すれば約九〇戸(昭和二八年完成時にはダムの規模が拡大され一四五戸・八〇一人)をはじめ、役場・学校・郵便局なども水没するといわれていた。
 九月、香坂知事は疏水組合長になっていた県議山中義貞と相談、山中は副組合長の前谷武一・森実盛遠らに相談して、疏水組合で極力最善の対応策を講じることにした。森実らが金砂村の考え方を聴取し、問題点を分析していた一〇月五日、「内村技師は金砂村の水没問題をまだ(内務省土木局)課長に報告していない。」「燧洋電気の重役が土木局長を尋ねた際、局長は『君の方には許可出来ない、既に愛媛県へ許可することになっているから』といった」「本件はおそくとも一一月中旬頃には決定を見るであろう」との情報が地元に伝えられ、関係者を喜ばせた。しかし翌日の「伊豫新報」は村が全滅するとの理由で金砂村会は計画に反対すると決議したと報じ、水没の件を内々でしかも早急に解決しようとしていた県や疏水組合関係者を慌てさせた。内務省の認可が間近に迫っていた矢先だけに、補償問題をこじらせないように対応が急がれた。
 組合では情報収集のために関係者を金砂村へ派遣し、有力者への根まわしも行われた。村内では、立ち退きを前提として補償要求を検討する派、ダム建設阻止立ち退き反対を主張する派で、それぞれ会合が繰り返された。村会でも、「本村中枢部百余戸が水没するとすれば、残留家族丈では到底本村の維持は不可能のことと考えられ候、一村を挙げて犠牲に供さればならぬとすれば大問題で、有志の決議丈では直ちに回答するということは軽率の譏りを免れず。慎重なる考慮を煩わす余地充分なりとして解散せる次第」(「藤原村長より疎水組合宛書簡」「銅山川疎水史」所収)と問題に容易には進展しなかった。その後も疏水組合幹部を通して種々の工作が図られ、結局、一〇月二二日から二五日まで郡役所や三島町内の料亭で会合がもたれることになった。県から大橋吏員、疏水組合から山中・森実・前谷、金砂村から藤原正晴村長外一〇名が参会し、ダムの設計内容・補償問題などについて意見が出された。この時、村側が要求した補償金額は、山林四〇〇円(一町歩当たり)・田三〇〇円(一反当たり)・畑三〇〇円(一反当たり)・住宅一二〇円(一坪当たり)・宅地二円(一坪当たり)であり、県の腹案は山林八〇〇円・田八〇〇円・畑三〇〇円・住宅三〇円・宅地五円で、住宅以外は村の方が要求額が低かった。一一月九日、県土木課長も出席して再度交渉がもたれた。
 難行の末、山中らの説得で村側は、将来、村の存立を危くしないようにという前提条件で、(1)隧道内に人馬車道の併設をなし、嶺南と平坦部との連絡機関を開設すること、(2)貯水池の両側に道路を開設すること、(3)中ノ川、高知線道路を開設すること、(4)水没地域の補償については充分な考慮を払うこと、以上の四項目を希望条件として、ダム建設に同意し村会で決議することを約束した。県との交渉は成立したが、村会では簡単に決議されず流会を繰り返した。その後賛成派村議による反対派村議への工作が行われ、大正一五年(一九二六)一一月一五日の村会で県知事の諮問に対し、銅山川疏水事業を承認する答申を決議した。

 徳島県との分水交渉

 水没地に関する問題が一応の合意に達しても内務省の認可はおりなかった。昭和四年も大旱魃で郡内で平年より一万九、四八〇石の減収をみた。九月には疏水事業計画から発電事業を分離して、灌漑用水のみを県営とする案に縮小して内務省に変更出願した。しかし愛媛県の分水要請運動が具体化するにしたがって、徳島県の反対運動も強くなり、五年(一九三〇)八月には徳島県知事は愛媛県知事に銅山川分水不承諾を通告してきた。このころ疏水組合の書記長宮林理は元毎日新聞記者であった経歴をいかして、毎日新聞徳島通信部記者を介して徳島県の動向を把握することに努めていた。
 こうした中で、内務省が積極的に調停に乗り出し、六年三月、内村技師が再度来県して宇摩郡の旱害状況・灌漑用水の状態を視察、五月丹羽土木局長と笹井愛媛県知事・土居徳島県知事の三者会談で内村技師の裁定案が提示されたが不成功に終わり、八月にも土木局長の斡旋案が示されたが、徳島県はダム築造計画・放水量に納得できないとして反対した。このため内務省は再度徳島県を説得、一一月一一日に両県知事の間で「銅山川分水に関する覚書」が交された。これは″笹井・土居覚書″と呼ばれ、大正一五年の愛媛県の計画を内務省土木局で修正したものであった。灌漑期の分水量は毎秒二・二立方メートルに制限し、徳島県の灌漑用水を保持し、吉野川水位低下による潮水逆流防止の水門設置費を含め、愛媛県から一五万円の補償金を出すこととしていた。
 昭和六年一二月の徳島県会では、三木熊二・秋田実太郎らが土居知事の覚書に反対、来県した内務省技術課長にも「この問題はあなたがたのお感じになるよりももっとわれわれにとっては重大な問題である。一度ダムがつくられると、撤去を命ずることはできないのであるから最善の対策をたてねばならない」と述べ、吉野川水位低下によって灌漑水や飲料水が不足し、潮水が逆流すれば川魚に被害がでることを強調した。徳島県会は昭和八年から九年にかけて「吉野川保全に関する建議」・「分水反対意見書」などを採択して、知事や内務大臣に提出した。特に分水反対運動の先頭に立った県議三木熊二は銅山川分水問題調査会を組織し、昭和六年一二月初旬銅山川をさかのぼって宇摩地方の現地踏査を行い、また吉野川を筏で下って流量調査や漁獲・流木に及ぼす影響など具体的なデータを作成して、愛媛案や内務省調停案に対抗した。
 ″笹井・土居覚書″の交換は愛媛県側の疏水事業促進の動きを盛り上げた。県当局は銅山川疏水事業中用排水改良継続事業を立案計画し、昭和七年度予算の追加計上と併せて一二月一五日県会へ上程した。「海南新聞」も翌一六日に「懸案の″銅山川疏水″愈よ実現の日来る」の見出しで分水問題解決の経過を略述し、翌一七日の社説に「銅山川問題と笹井知事」を掲載し、歴代知事の労苦をたたえるとともに事業内容を報じた。
 愛媛県側の喜びはつかの間であった。土居徳島県知事は内務省と徳島県会の板ばさみになって、一二月には先に取り交した覚書の内容を変更してほしいと愛媛県に申し入れた。笹井知事はこれを拒否し、工事着手の準備を急いだ。しかしこの年満州事変が勃発、民政党の若槻内閣から政友会の犬養内閣に交代すると、内務大臣は一二月一三日、政府の財政上新規事業は見合わせるよう各県に通達して、疏水計画は再び後退した。
 政府の方針が変わると地元町村の固い結束にひび割れが生じた。疏水路の完成を期待して疏水組合に分担金を出していた町村の中に分担金を滞納するものがあり、これが問題化した。組合幹部は東京や松山への陳情旅費を自費で賄うなどして組合資金の不足を補い、脱退届を出した村には説得をして保留とし、疏水組合の崩壊を必死で防いだ。
 昭和七年、五・一五事件が起こり犬養内閣が総辞職、超党派で斎藤實内閣が成立すると、愛媛県知事も久米成夫から一戸二郎に代わった。一戸知事は長く内務省畑を歩んできた人で内務省内に多くの知己をもっていた。水利組合幹部は知事の赴任に際し、七月五日わざわざ神戸まで出迎え、松山への船中で事業内容を説明、陳情した。
 昭和八年一月一六日、一戸知事は落合徳島県知事と二度目の分水交渉のため松山を発って徳島へ向かった。汽車が宇摩郡に入ると線路沿いではムシロ旗を立てた宇摩郡民がこぞって声援を送り、交渉団を熱狂的に見送った。しかし会談は、吉野川水位低下による影響を慎重に調査しなければ分水に同意できないとする徳島側の意見の前に不調に終わった。この年、愛媛県選出の代議士武知勇記は国会でこの問題を取り上げ、事業の早期実現を要望、その後、松柏村出身の伊藤角一ら中央で活躍する愛媛県人も郷土の陳情を受けて関係機関に働きかけた。
 昭和九年(一九三四)も大旱魃に見舞われ、九月の臨時県会で宇摩郡選出の県議鈴木銀蔵は、「宇摩ノ農民ノ心理状態卜云フモノハ非常ニ尖鋭化シ、興奮ヲ致シ、トモスルト思想ニ動揺ヲ来タサントシツツアル状態」であること、この「悽愴悲惨ノ状況」をみかねた疏水組合員が八月七日に多数上京して政府へ陳情したことを述べ、政府当局の英断をもって直ちに分水認可を望む趣旨の意見書を内務大臣・農林大臣に送ることを提案して可決された。これに対し徳島県会は分水反対を決議して、速やかに分水不可の裁定を下し、吉野川沿岸住民のなお一層の生活安定を陳情して両県は対抗した。
 愛媛県に好意をもって分水実現を図る内務省は、昭和八年一二月から翌年三月まで四か月にわたる内村技師ら吉野川・銅山川測量調査班の調査結果報告書(九年七月)に基づいて、昭和一一年一月分水裁定案を作成した。これには徳島県の銅山川分水問題調査会の意見が盛り込まれ、表4―5のごとく、灌漑用水の使途は既存田の補給だけに限定された。また開墾田への引水・発電用水は認められず、笹井・土居覚書に比較すると愛媛県の計画を大幅に縮小したものであった。しかし愛媛県はこれを受け入れ、昭和一一年一月三〇日、内務省において愛媛県知事大場鑑次郎と徳島県知事戸塚九一郎との間で協定書に調印し、同日、内務省から事業が認可された。こうして第一次分水協定は「両県民の互譲妥協共存共栄のうるはしき精神の発露」によって成立したが、調印式に同席した疏水組合代表者の中には、地元負担率の増加のためか「歓喜の中に憂あり、何か心の底にしこりが残って、変に憂欝な気分」を抱く者もいた。

 疏水工事の進行と分水協定の更新

 徳島県との分水協定が成立すると、愛媛県では昭和一一年度予算案に銅山川用排水改良費該年度支出額を九万一、五〇〇円から一九万九、六八〇円に追加更正し、関係官庁との工事打ち合わせを行って諸準備を整えた。宇摩郡の地元では疏水組合長森実盛遠の努力で、分水協定成立という情勢の変化に即応して、疏水組合規約も改正され各町村の経費分担や償還方法などが決められた。一二年(一九三七)に入ると、森実らは、事業促進と国庫補助金の早期決定を農林省に、発電事業の認可を建設省に陳情し、翌年には宇摩疏水組合の名称も銅山川疏水組合と改称された。
 昭和一二年一二月四日、松柏村馬瀬谷隧道口で疏水工事地鎮祭が行われ、翌五日には三島小学校で農林大臣代理、愛媛県知事古川静夫らが出席して起工式が挙行された。「海南新聞」は宇摩郡創始以来の大事業の開始に際して郡民が欣喜雀躍しているとこの日の様子を伝えた。翌一三年八月馬瀬谷第二隧道(二、六〇〇メートル)の工事に着手し一一月には嶺南口からも掘削を開始し、その後第一隧道(一八二メートル)の工事も着手した。しかし前年に勃発した日中戦争が拡大したため徐々に資材と労務の入手が困難になり、また中央構造線の断層付近での工事は進まず、太平洋戦争勃発後は工事の中止を余儀なくされた。更に、昭和一七年九月四日、分水増量と発電事業許可を陳情すべく度々上京していた森実盛遠が過労のため急死し、地元の活動も一時停滞した。
 このような中で、昭和一八年一二月軍需省から軍需生産拡充のための電源開発地区として銅山川が指定された。開発計画には、食糧増産計画をも加えて、内務・軍需・農林省が素案を作成し、愛媛県も政府の意向を受けて徳島県と分水計画変更を打ち合わせた。翌一九年一二月内務省国土局で両県知事・関係三省の間で最終協議を重ね、昭和二〇年二月一一日、愛媛県知事雪澤千代治・徳島県知事野田清武の間で第二次分水協定を調印した。
 この協定では、「本分水は、愛媛県宇摩郡小富士村外七ヶ町の既存田一、二四六町歩の灌漑水の補給をなすと共に、同郡金砂村脇谷に堰堤発電所・同郡三島町上柏に分水発電所を設けて発電をなすを目的とす」とし、ダム貯水規定も自然流量が平水期毎秒四・八立方メートル以上、渇水期毎秒二・九立方メートル以上の場合はこれを貯溜し分水することなど、再び愛媛県に有利な条件となり、発電用使用水量・農業水利補給量などが具体的に協定された。また、分水は内務省において管理するが、工事の実施設計については常に両県の緊密な連絡を保持するように指示されていた。また追則では「本協定中発電関係工事は、本戦争中に其の実効を収むるに至らしむべきものとす」と規定し、軍の要請を受けて工事の早期竣工が期待されたが、戦時下にあってはそれを実現することができなかった。
 戦後、食糧増産、電源開発・復員者失業救済を目的とする疏水工事の再開要望が疏水組合長村上恒一らから起こり、三島町議井原岸高らは上京して経済安定本部(経済企画庁の前身)公共事業課長大平正芳に陳情、数度にわたるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との折衝の結果、工事再開の許可が出た。昭和二一年、疏水組合の資金立て替えによる灌漑用の幹線水路工事に着工(二九年度完了)、その後隧道工事も再開され二四年七月には掘削を完了、二八年三月までには内部のコンクリート巻立て作業を終えた。
 この間国土再建のため、電源開発に河水統制(治水)事業を含めた総合開発計画が打ち出されると、昭和二二年三月、第三次分水協定を締結、柳瀬ダムは建設省の補助事業となり堰堤の高さも五三・五メートルとその規模は大幅に拡大され、二三年から建設省に委託して工事が開始された。その後、発電余水の工業用水利用計画(二三年)水利権をめぐる農民と製紙業者の対立(二七年)という新しい局面が生じ、水没地の補償交渉(二七年まで)も難行したが、開係者の理解と協力によって解決が図られた。二八年八月からダム貯水が始まり、有効貯水量二、八八〇万立方メートル(従来の四六の溜池による貯水量合計九九万立方メートルの約三〇倍)の水は、二六年三月に結ばれた第四次分水協定に基づいて伊予三島市上松柏の分水発電所(二八年一〇月発電開始)へ送られ、同二九年八月からは待望の農業用水が毎秒一・三九立方メートルずつ宇摩郡の一、二四六町歩の水田を潤すようになった。
 昭和四二年、吉野川水資源開発基本計画が定められ、高知県の早明浦ダムの関連事業として多目的の新宮ダム(五〇年完成)も銅山川に建設され、柳瀬ダムの水とともに川之江市・伊予三島市・宇摩郡土居町・同新宮村の産業発展と生活安定に寄与している。

表4-3 愛媛県と燧洋電気による疏水事業の競願

表4-3 愛媛県と燧洋電気による疏水事業の競願


表4-4 銅山川分水問題をめぐる愛媛県・徳島県の動向(昭和3~11年)

表4-4 銅山川分水問題をめぐる愛媛県・徳島県の動向(昭和3~11年)


表4-5 分水協定対比表

表4-5 分水協定対比表