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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 粛清選挙と政党の解体

 選挙粛正運動と第二二回県会議員選挙

 昭和三年最初の普通選挙実施後、同七年二月までに三回の衆議院議員普通選挙が施行されたが、選挙運動が激しくなるにつれてその腐敗を論ずる声が大きくなり、選挙の粛正を中心とする選挙法の改正が要望されるようになった。こうした情勢を背景として、昭和九年(一九三四)六月二三日「衆議院議員選挙法」が一部改正され、(1)選挙運動は立候補の届け出後でなければ出来ないこと、(2)選挙事務所は候補者一人につき一か所を原則とすること、(3)選挙公営を実施して、地方長官が候補者の政見などを掲載した文書を発行し、公立学校その他公共営造物で演説会を開催することにしたこと、(4)買収罪その他罰則及び連座制が強化されたことなどであった。この選挙法改正と同時に「衆議院議員選挙運動取締規則」が内務省から発布されて、取り締まりの徹底が期された。
 衆議院議員選挙法の改正に伴い、昭和一〇年七月三日「府県制」「市制」「町村制」が一部改正されて、国政選挙法の改正に準じて地方議会選挙制度が改められた。選挙運動についても、(1)立候補前の選挙運動の禁止、(2)選挙運動は議員候補者と選挙事務長・選挙委員に限る、(3)選挙運動のために使用する文書図画の頒布は郵便に限定する、(4)戸別訪問・個別面接や電話での選挙運動は違反、(5)選挙事務長が買収犯罪で刑に処せられた時は候補者の当選無効など、選挙違反条項が厳しくなった。
 時の岡田内閣は、国体明徴とともに選挙粛正を施政の重点に掲げ、昭和一〇年五月道府県ごとに選挙粛正委員会を置いて官憲による選挙粛正を進めることにした。愛媛県は、井上要・岩崎一高・金子幹太ら三〇名を委員に委嘱して、六月二二日に本県選挙粛正委員会第一回会合を開いた。会長の大場知事は、「選挙の粛正は法規の運用のみによって期することは至難なので、官民一致して国民の覚醒と反省を促し正しい選挙の実現をはかることが必要であります」と挨拶した。同委員会には、選挙粛正に関し有効適切な方策如何などが諮問された。井上ら政治にかかわった委員から選挙のざんげ話が出たりしてその弊害が年をおって著しくなっていることが指摘されたが、選挙粛正に関する名案は出なかったと新聞は報じている。
 選挙粛正が叫ばれる中で、昭和一〇年九月県会議員の定期改選が施行された。立候補届け出は九月一八日に締め切られたが、立候補者は定員三八名のところ六七名となり、無投票区は今治市・周桑郡のみで他はいずれも乱立の激戦を展開することになった。候補者の新旧別は、現議員二三・新人三七・元議員七となり、新顔が半数以上を占めていた。党派別には民政党二九・政友会二七・中立八に加えて右翼政社明倫会一と養正会二であった。こうした新人の台頭と各区乱立の激戦は、政党凋落で威令が行き届かなくなったことを物語るものであり、鳴物入りの選挙粛正運動の影響でもあった。
 選挙運動は、選挙法の改正で戸別訪問などが許されなくなったため気勢があがらず、乱立と相まって各候補者の事務所でも得票予想が全然出来ない有り様であると新聞は報じていた。投票日当日の「海南新聞」九月二五日付は、「初めて適用されし改正選挙法の欠陥乃至効果の再検討に迫られし好機として、又鳴物入りで宣伝した選挙粛正運動の洗礼を受けて往年の如き買収戸別訪問等の悪質犯罪が漸減し選挙ブローカーを絶滅し得るか、併せて従来の選挙干渉の弊を排してあくまで厳正公平を期する警察当局の取締方針は事実となって現はれるか、これ等幾多の成果を窺ふべき種々重要なる意義を包蔵するので注目されると共に既成政党信望失墜の折柄政党沈衰の機を窺ふ新興勢力、新人の進出は大なる興味を以て見られてゐる」と、今回の選挙の性格を総括した。更に社説「清き一票の力」で、「選挙粛正は選挙民自らが愕然として心の底から目覚めたものでなければ断じてその効果はない、自治体の興廃は今や選挙民各自の行使すべき一票によって左右される。われらは選挙を正しくすることによって自治体を救ひ、政治の品位を進めねばならぬ。しかして清き一票の行使をこそ真に意義あらしめよ」と論じて、選挙民の自覚を促した。
 投票日九月二五日は夜来の豪雨が上がったのと県当局及び各町村が棄権防止に躍起となって鳴り物入りで出足をそそったので、有権者数二一万五、二四四人中投票数は一六万〇、四九八人、棄権率は二割五分にとどまった。二六日市部、二七日郡部開票の結果、表4―9で示す人々が当選した。党派別には政友一八・民政一七・中立三となった。
 選挙の結果は、政・民伯仲していずれも多数を得ることができず、選挙後の役員選挙などで紛糾を重ねたが、中立系議員の仲介で正副議長などの主要役員は政・民交互に選ぶことにして妥協がなり、議長には政友会から清家俊三、副議長には民政党から池田昇平が就任した。以後、中央政界の影響や政党の地盤沈下を背景に、各派互譲協調の下に挙県一致の動きをとる機会が多くなった。

 第一九・二〇回衆議院議員選挙

 昭和一一年(一九三六)一月、岡田内閣は政友会の不信任案を受けて議会を解散した。前回の選挙から三年を過ぎていたから、各政党とも解散は予期されたこととして直ちに選挙運動に入った。
 この時を待機して議席奪還を図るために早くから候補者を予定していたのは民政党で、第一区は現職の武知勇記と元議員の松田喜三郎、第二区は現職村上紋四郎に元議員の小野寅吉と前回惜敗した安藤音三郎、第三区は元議員の本多眞喜雄に新人の医師古城貞を公認した。これらの候補予定者は一月二二日の武知勇記を最初に松田・小野が二四日、それ以外の候補者が二八日にそれぞれ届け出を済ませて、正式に選挙戦に入った。
 これに対して、政友会は中央政界での派闘争いを反映して無統制ぶりを露呈し、公認候補が容易に決まらなかった。幹部調整の結果、一区では現職の大本貞太郎と県農会副会長で農政にくわしい岡本馬太郎、二区では現職の河上哲太と森昇三郎を立て、第三区には二区を地盤として前回当選した現職砂田重政を回し、現職山村豊次郎と共に二人当選を期することになった。しかし砂田の転入を不満とする宇和島地方の政友会関係者は池下常五郎を擁立して支部幹部の方針に抵抗した。また第二区では前回出馬した弁護士の近藤敏夫と県会議員の織田義一が立候補を届け出、両者ともに政友会公認を求めたが、二月四日に至り公認候補の森が立候補を取り下げたのに伴い近藤が繰り上げ公認となり、織田は立候補を辞退した。ところが第一区で岡本に譲って一度は引退した形になっていた前代議士須之内品吉が、二月五日に至り突然立候補、八日には政友会を脱退して粛正選挙の精神にそって自己の主張を貫く自由な選挙戦を展開することを明らかにして、政友会に動揺を与えた。このほか、第二区から東京で日本農民新聞を発行する民政系の渡辺鬼子松が中立を標榜して立候補した。また、かねてから無産党候補として出馬が噂されていた農民運動の指導者林田哲雄が七日に至り供託金二、〇〇〇円を納入して正式に立ち、その選挙運動が注目されたが、九日に立候補を辞退した。
 一七名の候補に落ち着くまでの経過を報道した「海南新聞」二月九日付は、「政友会は無統制ぶりを如実に示し、民政党また統制を欠ぐの嫌ひを多分に蔵してゐる、従来におけるが如き地盤割とか地区割と言ふことは全く跡方もなく消え失せて同志打ちは到るところ、自党の候補も敵党もない、ただ自己本位で己が勝てばいいと言ふ我利的傾向を帯び」と解説している。政党内閣時代が終わったこの時期には、政党支部の統制能力が失われ、候補者にとっても政党公認が勝利への絶対的な条件でなくなったことを示している。
 今回の選挙では、県議選に続いて粛正選挙が叫ばれ、県当局・警察は選挙違反を厳しく取り締まるとともに二月一五日には棄権防止を呼びかける「有権者心得書」を発送した。この文書は、「憲政の興廃此の一票にあり、神明に誓って正しい選挙を行へ」の見出しで、「一、正しい一票の行使は国民の重大急務である。二、明朗な心事で選挙に臨まねばならぬ。三、最後迄確乎たる信念を持たねばならぬ。四、断じて棄権してはならぬ。五、投票を生かして用ひよ。」と箇条書きで選挙民の覚醒を促した。二月二〇日の投票日前日には、県は飛行機を使って粛選ビラを投下、松山市は投票日確認と投票励行のビラを戸別に配布、今治市は「二〇日にサイレンを鳴らすから棄権することなく投票されたい」と市民に訴えた。
 二〇日は天候に恵まれて選挙民の出足も良く、いつもながらの投票風景が展開された。有権者二四万九、三八七人中投票数は二〇万五、三一六人で、棄権率は一割七分七厘であった。二一日の市部、二二日の郡部開票の結果、第一区は武知勇記(民)、大本貞太郎(政)、松田喜三郎(民)、第二区は河上哲太(政)、村上紋四郎(民)、小野寅吉(民)、第三区は本多眞喜雄(民)、砂田重政(政)、山村豊次郎(政)が当選した。党派別には、民政党五・政友会四となり、選挙前の政友七・民政二を転じて民政党が勝利した。全国でも民政党が二〇五名の当選者を出して第一党になり、政友会は前回より一〇〇名以上激減して一七四名の第二党に転落した。社会大衆党は前回四名から一八名に増大した。
 総選挙後一週間足らずの昭和一一年(一九三六)二月二六日早暁、皇道派の陸軍青年将校が反乱を起こし、蔵相高橋是清、内大臣斎藤實らを殺害した。この二・二六事件で岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立した。軍の政治介入と政党の反発で広田内閣が短命に終わった後、元陸相の林銑十郎が組閣した。林内閣は、政友・民政両党からの入閣を求めず、昭和一二年三月政党の妨害による審議停滞を理由に議会を抜き打ち解散した。
 前回の選挙から一年余りしか経ていなかったので、民政・政友両党の愛媛県支部は、前代議士を中心に人選を進めた。かねてから老齢を理由に引退を明らかにしていた山村豊次郎を除き前代議士の立候補は確実と見られたが、三区の本多眞喜雄の辞意が固く、民政党では二区の村上紋四郎を三区に回すなど、調整が混乱した。
 立候補届は投票日一週間前の四月二四日に締め切られた。この日までに立候補と辞退がめまぐるしく続いたが、結局、第一区は当初噂されていた県農会会長の岡本馬太郎が立たなかったので、武知勇記(民政党)、松田喜三郎(民政前)、大本貞太郎(政友前)の無投票当選が決定した。第二区は小野寅吉(民政前)、村瀬武男(民政新)、河上哲太(政友前)、森昇三郎(政友元)、渡辺鬼子松(東方会)、林田哲雄(社大党新)、拝田正壽(中立新)、竹田安次(中立新)、第三区は砂田重政(政友前)、高畠亀太郎(政友新)、村松恒一郎(民政元)、村上紋四郎(民政前)がそれぞれ三議席を争うことになった。
 今回の解散は″食逃げ解散″といわれるほど不明解なものであり、総選挙は盛り上がらなかった。四月三〇日に実施された総選挙の有権者は一六万〇、五三〇人、投票者は一二万三、二六五人であり、高い棄権率二割三分二厘を呈した。開票の結果は、村瀬武男と高畠亀太郎が初栄冠を得た以外は前議員が再選された。党派別には民政五・政友四で、全国では民政党一七九・政友会一七五と既成二大政党が依然多数を占めた。社会大衆党は候補者六六名中三七名が当選し、本県二区の林田哲雄は次点であったが、新居郡の工業地帯で三、五〇〇票など七、九五一票を得て善戦した。選挙後、林内閣は政民両党の退陣要求で、軍部にも見捨てられて総辞職した。

 第二三回県会議員選挙

 林内閣が総辞職した後、元老・重臣は政局の混迷を収拾する切り札として近衛文麿を推薦し、六月初頭近衛内閣が成立した。近衛内閣成立後わずか一か月の昭和一二年(一九三二)七月七日蘆溝橋事件が起こり、やがて日中全面戦争に拡大していった。昭和一三年四月近衛内閣は戦時統制を一本にまとめた法律として「国家総動員法」を公布した。ドイツとの軍事同盟をめぐり閣内対立が起きると、かねて戦争の行きづまりに打開の道を失っていた近衛は、昭和一四年一月内閣を投げ出した。後継内閣は枢密院議長の平沼騏一郎が組織したが、この年八月の独ソ不可侵条約の締結で外交方向を見失って崩壊した。この後、陸軍大将阿部信行が組閣、この内閣成立直後の昭和一四年九月第二次世界大戦が始まった。こうした内外ともに深刻な情勢の中で県議改選期を迎え、九月二五日県会議員選挙が各県で施行された。
 愛媛県での県会議員候補者は、九月四日の告示後六日の大安を期して大半が届け出を済ましたが、時局下を反映して関谷勝利・小野馣・林田哲雄・佐海直隆・佐川清光・西一ら新人が続々名乗りをあげた。一八日の告示締め切りまでに六三名が届け出、そのうち二名が取り下げたため総数六一名で選挙戦を闘うことになった。ただし五市一二郡一七選挙区のうち新居浜市・宇和島市・北宇和郡・上浮穴郡の二市二郡が無競争であったので、結局五四名が三一の議席をめぐって政戦を続けた。
 選挙運動は、時局柄各区とも候補者の申し合わせで選挙の粛正を期し、演説は立会演説、挨拶状も共同という自粛を進めた。県・市町村当局は粛正選挙を呼びかけ、検察は違反防止に活動を続けた。投票日を二日後に控えた九月二三日には、県知事持永義夫が「時恰も我が国は未曽有の難局に際会し、国民は精神総動員の下自粛自戒に努めて居る秋でありますから、必ずや非常時局に相応しい理想選挙が行はれることを信じて疑はぬものであります」と訓令した。
 九月二五日に施行された投票の棄権率は二〇・八%であった。二六日市部、二七日郡部の開票が行われた。当選者を示すと表4―10のようであった。当選者の党派別内訳は、民政党二二・政友会一五・中立一で、前回の政民伯仲に対し民政党が大勝する結果となった。政友会は、本部の正統派と革新派の対立が支部に反映して統率が取れないままで選挙戦に臨んだため、支部幹事長三好庄太郎をはじめ宮田愛明らの幹部が落選した。議員新旧別は、前議員二六、元議員三、新人九、政界刷新が叫ばれている割には新人の進出が少なかった。職業別には、村長や農会など産業団体の役員を兼ねる地方政治の顔役が大半で、弁護士・医師などいわゆる名士も選ばれていた。
 県会議員の定期改選が行われた昭和一四年(一九三九)九月には、第八回貴族院議員中多額納税議員の互選会が行われた。前回の昭和七年九月の互選会では仲田傅之□(長に公)が無競争当選した。今回は佐々木長治と野間信凞がそれぞれ南予と東予を地盤にして立候補したため選挙となったが、時局柄粛選の名の下、派手な選挙戦は展開されなかった。両者とも無所属中立を標榜したが、佐々木は過去に政友会所属の代議士であったので政友会が支援、野間は半数の互選資格者を有する東予地盤を背景に民政党の支持を得て対抗し、勝敗の鍵は中予地方の選挙者の動向と見られた。九月一〇日互選会が行われた。開票の結果、知名度にまさる佐々木が五二票を得て四二票の野間に勝利した。

 政党の解体

 阿部内閣と米内内閣が陸海軍の対立で瓦解した後、昭和一五年七月第二次近衛文麿内閣が成立した。これより先、近衛は新体制運動を推進していたが、内閣成立前後の七月から八月にかけて社会大衆党を先頭に政友会正統派(久原派)、同革新派(中島派)、民政党、国民同盟、東方会などが相次いで解党、新体制促進同志会を結成して新体制への便乗を急いだ。昭和一五年一〇月一二日に発足した大政翼賛会は、政党が期待した新党ではなく、総裁が首相、地方支部長は各府県知事が兼任するという官製の上意下達機関であった。
 一二月六日、大政翼賛会愛媛県支部が結成された。これに先立ち、県下では翼賛運動強化のため諸団体の統合整備が行われた。県会議員一同は大政翼賛の実をあげるため一一月二二日愛媛県会議員団を結成して、「本団は大政翼賛の実を挙げ職分に奉公し協心戮力以て県政の強力なる運営と庶政の一新を期す」といった綱領を定めた。県会議員団は、県会議長相田梅太良を団長として、教育・衛生部門、勧業・土木部門、警察部門に分かれて県政に対する研究調査と県政の運営に協力することになった。

 第二一回衆議院議員選挙(翼賛選挙)

 昭和一六年二月、近衛内閣は非常時局を理由に「衆議院議員任期延長ニ関スル法律」「府県会議員市町村会議員ノ任期延長ニ関スル法律」を定めて、国会と地方議会議員の任期を一年間延長した。この結果、衆議院議員の任期は昭和一六年四月をもって満了となる筈であったが、翌一七年四月まで延期された。昭和一六年一〇月近衛内閣に代わって成立した東条英機内閣は、翼賛議会を強化するため御用議員で議会を固めることを意図して翌一七年二月「翼賛選挙貫徹運動基本要項」を決定、阿部信行を会長とする翼賛政治体制協議会を組織して候補者の推薦母体とした。翼協は三三名の各界代表からなり、三月三一日から詮衡を開始した。当初、政府・翼協は現議員の推薦候補を大幅に減らすつもりであったが、三一一名の議員を擁して同一六年九月に結成されていた翼賛議員同盟の巻き返しで、推薦候補者四六六名中現議員が二三六名(うち賛同議員二〇九名)と過半数を占めることになった。
 昭和一七年四月四日総選挙の公示があり、立候補者は二三日の締め切り日までに非推薦候補者を含めて一、〇七九名となり、昭和三年の普選以来最高となった。本県では、第一区で武知勇記・岡本馬太郎・堀本宜實、第二区で山中義貞・河上哲太・村瀬武男、第三区で野本吉兵衛・毛山森太郎・高畠亀太郎の計九名が翼協推薦候補者で、このうち武知・河上・村瀬・高畠が前議員であった。この九名に加えて、米田吉盛・馬越晃・薬師神岩太郎・林田哲雄・安藤音三郎・渡辺鬼子松・布利秋・高橋英吉ら一二名が非推薦で立った。選挙運動は官憲の完全な統制の下で行われ、四月三〇日の投票日には部落会・町内会・隣組を通じての投票狩り出しで、有権者二三万七、二二四人のうち一九万八、八二一人が投票した。棄権率は一割六分二厘で、全国の一割七分をやや下回った。愛媛県での翼協推薦候補者九名のうち八名が当選、堀本宜實のみ非推薦の米田吉盛に敗れた。全国では当選者四六六名のうち推薦候補は三八一名であった。この翼賛選挙の後、五月に翼賛政治会が結成された。これには推薦議員はもとより非推薦議員・貴族院議員のほとんどが参加して、我が国唯一の政治結社となった。
 衆議院議員の翼賛選挙に続いて、五月二一日には県下二二三町村で町村会議員選挙が行われ、六月一〇日には松山・新居浜両市で市会議員選挙が実施された。これらの選挙では、大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹の啓蒙運動が徹底し、道後湯之町など少数の町村を除いて大部分は部落会・町内会の推薦による無競争で議員が選ばれた。

表4-9 第22回県会議員選挙当選者

表4-9 第22回県会議員選挙当選者


表4-10 第23回県会議員選挙当選者

表4-10 第23回県会議員選挙当選者