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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 重化学工業・化学繊維工業の発達

 新居浜重化学工業地帯の発展

 別子銅山で使用する各種機械類の製作、修理のために設けられていた機械課は、昭和五年、住友別子鉱山㈱新居浜製作所と改称し、社外からの需要にも応じて独立採算制がとられることになった。更に、同製作所は、昭和九年一一月一日、住友機械製作㈱として別子銅山より独立し、一五年九月には住友機械工業㈱と改称した。その間、一三年に資本金を一、〇〇〇万円に増加し、住友機械工業と改称するとともに、更に二、〇〇〇万円に増額し、工場の増築や施設の充実を進めた。
 発足当初における住友機械は、起重機、鉱山機械、電気品、その他一般産業機械の製造及び販売を業とした。しかし、産業界の戦時体制化が進められる中で、住友機械も軍需産業部門への進出を開始し、昭和一一年には呉海軍工廠における「超大型戦艦」建造のための作業機械を受注した。これを契機に呉海軍工廠からの注文が続くようになり、昭和一五年(一九四〇)一一月、正式に海軍管理工場に指定された。一方、一二年一二月二八日には小倉陸軍工廠新居浜出張所が開設され、新居浜を中心とした県内軍需工場の指導監督に当たった。こうして、同社の生産中産業機械部門は減少していき、軍需品部門は増加の一途をたどるようになった。
 生産品の内容は、海軍関係として特殊大型鋳物、鋳鉄弾、魚雷、航空機用射出機など、陸軍関係では横型圧縮機、起重機などの工作機械、その他軍需関係工場の製鉄設備、南方資源開発に要する鉱山用諸設備など多岐にわたり、昭和一六年度の生産高一、二〇〇万円中軍需関係は八〇%に達した。
 大正二年(一九一三)設立された新居浜肥料製造所は、大正一四年、資本金三〇〇万円の株式会社に改組され、昭和五年に資本金を一、〇〇〇万円に増額、昭和九年には住友化学工業㈱と改称した。その間、昭和三年には、アメリカのナイトロゼン=エンジニアリング=コーポレーションよりアンモニア合成法を導入し、従来からの硫酸、過燐酸石灰、各種配合肥料に加えて、昭和五年より合成硫安の製造を開始した。ナイトロゼン=エンジニアリング社からは、その後、メタノール、ホルマリン、次いで同社の後身であるケミカル=コンストラクション社より接触硫酸、硝安の製造技術を導入し、工業薬品分野の充実を図るとともに、後には、染料、医薬品の分野にも進出した。化学肥料の分野では、昭和一二年の硫安生産は二〇万トンにのぼり、日本窒素肥料、昭和肥料、東洋高圧工業に次いで全国四位にランクされるようになった。こうして、銅製錬の付属事業として出発した住友化学工業は、独自の総合化学工業会社としての地位を確立するに至った。
 銅製錬以外の金属工業分野では、昭和九年七月に住友アルミニウム製錬㈱が設立され、一一年より操業を開始した。当時の我が国のアルミニウム箔製造は手作業で行われており、機械による生産は最初の試みであった。
 一方、新居浜における住友系各社の発展に伴って、これら各社に電力を供給するための電力事業が興された。大正八年、住友別子鉱業所電気部を独立させて土佐吉野川水力電気㈱が設立され、昭和九年に四国中央電力㈱、一八年に住友共同電力㈱と改称した。創立以来、吉野川上流の電源開発を進めてきたが、昭和一四・一六年、電力の国家管理によって水力発電設備の大部分と主要送電線路を日本発送電㈱に出資または譲渡した。
 住友各企業の中心体である住友総本店は、大正一〇年、住友合資会社となり、会社組織に改組された。以後、これに伴って、系列企業の分離、独立、株式会社化が進められていった。また、大正~昭和にかけて、住友では盛んに外国からの技術導入、外国との資本提携を進め、傘下に電気、金属、化学、板ガラス工業を成長させた。昭和前半期における新居浜住友系企業の重化学工業化の動きも、このような住友財閥の動きの一環として推進されたものであった。

 造船業・機械工業の発展

 今治地方の造船業は、同地方及び島しょ部の木造機帆船による海運業の盛況を背景に、その建造、修理を中心に発展してきた。その中で、明治三五年創業の波止浜船渠㈱(後の来島ドック)は、当初木造船の建造に当たっていたが、大正一三年以降、汽船を中心とした営業に切り替えるとともに、鋼鉄船の建造、修理を開始した。同社は、昭和五年に呉海軍工廠の下請指定工場となり、同一二年(一九三七)一〇月以降、本格的な軍需建造に入った。更に、軍需産業化が進む中で、昭和一五年、住友鉱業㈱と住友機械工業㈱が同社の株式を取得し、以後は住友財閥傘下の造船所として経営が続けられることとなった。この住友による買収を機に、同社は増資、設備拡張を行い、三、五〇〇GT(総トン数を表すグロストンの略)、二、五〇〇GTの乾船渠各一基を建設して甲種造船所に指定され、戦時標準船D型船(総トン数が二、三〇〇~二、五〇〇までの船)の建造を行った。同社は、住友の力を背景に、越智郡大井村(現大西町)海岸に大造船所建設を計画し、工事に着手したが、終戦とともに工事は中止された。昭和一八年、伊予木鉄造船㈱(後の波止浜造船)と今治造船㈱が波止浜町(現今治市)に設立され、木鉄船、上陸用舟艇、戦時標準船D型船の建造に当たったが、戦争末期には木造船の建造が中心であった。
 松山市における農業機械工業は、昭和期に入って本格的な発展をみた。関谷農機㈱は、既に大正の初め、籾摺機や麦摺機の製造を行い、昭和七年に動力脱穀機、九年にそれを改良して自動脱穀機を製造した。
 大正一三年に北宇和郡三間村(現三間町)で創業した井関農具商会は、一五年、松山市に進出した。最初、籾摺機の販売に当たっていたが、昭和一一年(一九三六)、井関農機㈱を設立し、全自動籾摺選別機の製造を開始した。

 石油精製工場の建設

 昭和一六年一二月の太平洋戦争開始とともに、我が国は南方原油の確保を目指してボルネオ、スマトラなどの油田地帯を占領した。この南方原油の産出量は、当初計画を上回って昭和一七年約四一〇万~四七〇万キロリットル、一八年約七九〇万~八五〇万キロリットルに及んだ。昭和一七年に松山市大可賀町に設立された丸善石油㈱松山製油所は、この南方原油処理を目的とするものであった(『丸善石油の半世紀』)。
 松山市には既に、石油関連施設として、昭和一五年一月、石油輸入の国策会社である共同企業㈱が、市内大可賀町の埋立地に、貯油タンク二基と倉庫五棟の貯油所を建設し、一七年には更に施設拡張を進めていた。
 丸善石油は、松山市からの誘致に応じ、この貯油所に隣接して六六万平方メートルの敷地を買収し、昭和一七年九月から、当初月間処理能力一八万バレル、次期三八万バレルの処理を目標とした最新式装置の製油所建設に着手した。また、都市に所在する製油施設への強制疎開、転用などの命令により、大阪製油所や横浜製油所の主要装置の大部分も松山に移され、一九年二月、減圧蒸留装置の操業を開始した(『丸善石油の半世紀』)。製油所の設置とともに、原油を輸送する大型タンカーのための港湾施設の整備も急がれた。一八年一月、丸善石油は、国の港湾工事(予算九三〇万円)の一部を依託代行する形で、予算四五〇万円、工期二か年計画の工事に着手した。しかし製油所建設、港湾建設の両工事とも、終戦によって未完のまま中止のやむなきに至った。

 化学繊維工業の発展

 我が国の化学繊維製造の歴史は、大正四年一一月、鈴木商店翼下の東レザー㈱(同年一二月に東工業㈱と改称)が、山形県米沢市に分工場として米沢人造絹糸製造所を設立し、翌五年からビスコース法による人造絹糸の製造を行ったことに始まる。同製造所は現在の帝人㈱の前身である(『帝人の歩み』)。大正末~昭和初期にかけて、化学繊維の質の向上及び需要の広がりの中で、当時不況に苦しんでいた綿紡績資本が相次いで化学繊維工業部門に進出し、同工業は本格的な発展期を迎えた。特に、昭和六年の金輸出再禁止に伴う円価の急落は、我が国の化学繊維製品の輸出を飛躍的に増大させ、内需の拡大と相まって、いわゆる「人絹黄金時代」を現出するに至った。このような背景のもとに、瀬戸内海上交通の便、豊富な労働力と工業用水を求めて、県内海岸部にも大規模化学繊維工場が進出してきたのである。
 県内最初の化学繊維工場は、既に大正一五年(一九二六)に倉敷絹織を設立して人絹生産に当たっていた大原孫三郎と、新居浜に別子銅山以来の地盤を持つ住友との共同出資により、昭和七年(一九三二)、新居郡新居浜町に設立された日本化学製糸㈱であった。同社は、翌八年一一月より操業を開始し、人絹の生産を始めた(『クラレタイムス』一九八六年六月号)。日本化学製糸は、翌九年、倉敷絹織㈱に吸収合併され、同社新居浜工場として生産が続けられることになった。同工場は、その後施設を拡張し、一二年一一月以降はスフの生産も行った。昭和一三~一四年当時における生産高は、人絹が日産一六・八トン、スフが同一三・四トンであった。その後、同工場は、戦時統制による企業整備のため昭和一七年一〇月生産を停止し、翌一八年、大日本麦酒㈱に売却された。そして、大日本麦酒出資による新居浜化学工業㈱が新設され、終戦に至るまで、軍部の要請に応じてブタノールを製造した。
 昭和九年に明正紡積㈱の子会社として設立された明正レーヨン㈱(昭和一五年に明正紡積に合併)は、同年、周桑郡壬生川町(現東予市)に工場を新設した。また、既設の明正紡績川之江工場にも人造繊維紡績機及び撚糸機を新設した。壬生川工場は一三年に施設を拡張し、一六年における生産高は日産三二・六トンに達した。同工場は、昭和一六年、明正紡績㈱と富士瓦斯紡績㈱が合併し富士瓦斯紡績㈱が設立されたことにより、同社壬生川工場となった(『富士紡績株式会社五〇年史』)。
 倉敷絹織㈱は、既設の新居浜工場に関して、将来の工業用水確保に不安を持っていた。そのため、新設の工場用地を探していたが、新居郡西条町からの誘致運動の結果、昭和八年西条への工場新設が決定された。同工場設置に先立って、同社新居浜工場長高橋雄吉が西条の水質検査を実施して、それが良好であることを確認しており、西条町への進出については、豊富な加茂川の伏流水を得られることが考慮されたものと思われる。同工場は、敷地の埋立工事完了を待って、一〇年八月より工場建築に着手、翌一一年七月、人絹日産五・九トンの生産を開始した。更に、一二年四月より、日産一四・六トンのスフ生産も開始された。一三~一四年当時の生産高は、人絹が日産一一・八トン、スフが同二六・八トンであった。その後、産業の軍事化が進む中で、倉敷絹織倉敷工場、岡山工場は人絹、スフの生産を停止して合板及び木製飛行機の製造に転換し、一八年一二月には社名を倉敷航空化工㈱に変更した。その中にあって、西条工場は、陸軍製絨廠、陸軍被服廠、四国軍需監理部の監督下に置かれて軍需衣料の生産に当たり、倉敷絹織(倉敷航空化工)の主要工場中一か所だけ、化学繊維の生産を継続した。
 伊予郡松前町は、町勢の発展を図るため、昭和一〇年より工場誘致運動を進めた。その結果、日本レーヨン㈱との間で工場設置の交渉がもたれたが、翌一一年一二月に至って、同社工場の松前町進出は中止となった。
 次いで、松前町が工場誘致を働きかけたのは、東洋絹織㈱であった。同社は、昭和一一年、東洋レーヨン㈱と東洋綿花㈱との共同出資によって設立され、当時、国内各地で新工場設置の侯補地を調査中であった。そして、北九州からの石炭輸送に対する海上交通の便、松前町の熱心な誘致運動なとがら、一二年三月、新工場の松前町設置が決定された(『東レ50年史』)。当時の同町年間予算は四万円程度であったが、新工場進出に関連して同町が組んだ土木費予算は実に五五万円であった。工場誘置に対する町当局の積極的な姿勢が察せられる。
 新設の東洋絹織㈱愛媛工場は、スフの生産及びその紡績、機織、染色の一貫作業を行う工場として、一三年四月より操業を開始した。一二年一二月現在での生産設備は、スフ紡績五万四〇〇鍾、同織機七四八台で、一日で四二・二トンのスフを生産した。同工場は、その後順調な発展をみせ、一六年七月、東洋絹織が東洋レーヨンに吸収合併されたのに伴って、東洋レーヨン㈱愛媛工場となった。合併直後の一六年一二月、愛媛工場のスフ生産高は最高を記録したが、このころから戦時体制の影響が及ぶようになり、企業整備による設備の供出、主要軍需産業への徴用強化による軽工業部門の労働力不足のため、生産は次第に縮小されていった。一六年八月以降、同工場からも、紡績機械三万八、二四八鍾を供出し、織機も瀬田工場と合わせて八七二台を供出した。また、一八年九月には、軍の命令によって瀬田工場を売却し、残存設備を愛媛工場に移設した。こうして、二〇年七月のスフ生産高は約五九トンとなり、それは一六年同月比一三%にしかすぎなかった(『東レ50年史』)。