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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

五 専門学校の新設と高等教育制度の改革

 新居浜高等工業学校の設立

 時局下における産業の発展を担う技術指導者養成機関の充実が、産業界から強く要望されたので、文部省は既設の一六高等工業学校のほかに、一〇校近くの高等工業学校を新設する計画を進めた。県下最大の工業都市の新居浜市では、官立高等工業の誘致の意図を固め、県選出の国会議員・知事・住友本社などに協力を求めて運動を展開した。また県会にも強力な誘致運動の推進方を要望したので、昭和一三年(一九三八)一二月の通常県会で同校設置要望に関する意見書が満場一致で可決された。この意見書を文部・大蔵・商工・海軍・陸軍・内務の各大臣に送付するとともに、県会が一丸となって誘致運動に尽力することを申し合わせた。
 県側も知事をはじめ市当局が、関係官庁に陳情し、在京の国会議員も文部・大蔵大臣に対し、地元の強固な要望を伝え、政府の決意を促した。同一四年三月になって、文部省は新居浜市に高等工業学校を設置することに決定したので、地元から八〇万円と校地三万坪の寄付、六〇〇人収容の寄宿舎建設、官舎一〇戸の敷地及び建設費を提供することになった。その資金としては、住友本社に一〇〇万円の寄付を要請したところ、同社は別子銅山開坑二五〇周年記念事業として出資を快諾した。これによって、県は八〇万円を政府に寄付し、残額の二〇万円及び県費二〇万で寄宿舎の建設費に充てた。新居浜市会では、三〇万円で校地と官舎の敷地及びその建設を施行することに決定した。つづいて市当局は市内庄内の三万坪を校地に当て、地主側との交渉も妥結した。
 新居浜高等工業学校の設立は、同年五月二二日の「文部省直轄諸学校官制中改正」で、新設七校のうちの一校として、正式に公表された。
 五月二三日に「新居浜高等工業学校規程」が定められ、この規程に基づいて「新居浜高等工業学校規則」が制定された。それによると、同校は「実業学校令及専門学校令ニ拠リエ業ニ従事スベキ者ニ必要ナル高等ノ学術技芸ヲ授クルト共ニ、兼テ心身ノ鍛錬及国体観念ノ養成ヲナスヲ以テ目的」とした。同校は機械・工作機械・電気・採鉱・冶金の各科が置かれ、各学科の修業年限は三年で、入学を許可する者は品行方正・志操堅固な男性で中学を卒業した者、専門学校の入学に関して無試験検定の指定を受けた者、専門学校入学者検定規定による試験検定に合格した者とし、入学検定は志願者の学力と性行及び身体について行い、学力検定は試験検定とした。同規定は学科課程・学年学期及休業日・入学在学退学・賞罰・修業及卒業・入学検定料授業料実習費・研究生・選科生・寄宿舎などにつき、六三か条に及んでいる。
 これらの規則に基づき六月一七~一九日に、新居浜と東京において入学試験が施行され、六七七名の志願者のなかから一九六名の入学を許可した。入学式・開校式は七月一一日に挙行され、授業は仮校舎の新居浜市立第二尋常小学校で施行された。

 専門学校令の改正

 教育審議会では、昭和一五年(一九四〇)九月に高等教育に関する件の答申において、専門学校制度の改革を論及し、目的・教授・教職員構成などについて改善方策をあげた。この答申に基づいて、同一八年一月付で「専門学校令中改正」が行われた。これまで実業学校令において規定されていた実業専門学校に関する事項が、専門学校令に包含されることになった。その他の点については、時局が緊迫したため、教育審議会の提示した改革を実現するには至らなかった。
 翌一九年三月に「文部省直轄諸学校官制」で、四月から農林専門学校・経済専門学校・工業専門学校と称するようになった。同時に「官立経済専門学校規程」・「官立農業専門学校規程」・「官立工業専門学校規程」などが相次いで定められ、各専門学校ごとに設定されていた各種専門学校規程は廃止されて、すべてこれらに統一された。

 県立農林専門学校の設立

 官立高等農林学校は東京をはじめ八か所に存在したが、四国地方には設置されていなかった。昭和一三年(一九三八)一二月の愛媛県会において、高等農林学校を設ける要望意見書が満場一致で可決され、これを文部大臣をはじめ三大臣に提出した。県当局も関係官庁に官立高等農林学校の誘致を陳情した。将来四国に高等農林が設立される場合には、時局下の財源不足から、優秀な農業学校を選定して昇格する可能性が予想されたので、県立松山農業学校の整備充実に全力を傾けた。同一六年に農林土木科、翌一七年に獣医畜産科を増設したのも、その現れであった。しかし、文部省は時局柄高級技術者養成のために高等工業学校の増設を図っていたので、高等農林の新設については極めて消極的であった。
 そのため同一八年一一月の県会では、県立松山農業学校が二五〇町歩余の演習林野を持ち諸設備が整っているので、同校を高等農林学校に昇格するようにとの意見書が可決された。そこで、県当局は県立高等農林学校の設立を決意し、翌一九年一一月の県会に松山農業学校を改組昇格して、修業年限三か年の専門学校とすることを公にし、特別教室の増築、内部設備の充実などに要する臨時費六九万余円を計上した。県会がこれを承認したので、松山農業を県立農林専門学校に改組する願書を提出した。翌二〇年一月に文部省はこれを認可したので、県は農・林・農業土木の各科各四〇人の生徒募集を実施した。定員のおよそ二倍の志願者があり、そのなかから第一次選考を行い、その選抜者について身体検査・口答試問・筆答試問からなる第二次選考を実施して、三月末に合格者の発表をした。暗雲の漂う戦時下の昭和二〇年四月に、県立農林専門学校は開校した。学校の運営は「官立農業専門学校規程」に準じて作成された学則によった。

 松山高等商業学校(松山経専)の発展

 松山高等商業学校では、校舎・講堂・図書館など諸施設の充実、校地の拡大・整備するに従い、入学志願者も年々増加して四倍を超えた。しかも名声が高くなるにつれて、県外の志願者が激増し、その割合は昭和一一年には五割七分に達し、入学者の素質も向上した。
 これより先、学校では志願者の増大に対応して、昭和六年(一九三一)に定員二五〇名を三〇〇名に、同一三年に四五〇名、同一五年に六〇〇名とした。本科の課程は一般実業専門教育を授ける第一部と、卒業後に大陸方面の就職にそなえ特別の教育を施す第二部(東亜科)に分けられた。講習夜間部(のち講習部に改名)は廃止され、代わって修業年限一か年の別科が設けられた。
 同校校長加藤彰廉は、同八年九月に逝去し、教授渡部善次郎が就任したが、健康にすぐれず、また事故もあってその職を去った。その後、教授田中忠夫が同九年一〇月に校長に就任して、気風の刷新と経営の積極化を図った。
 同一二年七月における日中戦争の勃発は準戦時化の進展を促し、学校教育の指導面にも大きい影響を与えた。八月に出された文部省訓令「学校報国団体制確立方」によって、松山高等商業学校にも報国隊が結成され、学生たちも銃後の戦士として生産活動に従事しなければならなかった。学生たちは広島陸軍兵器補給廠に出動したのをはじめとして、山林・農地などの開墾、木炭増産への勤労奉仕に励んだ。毎週授業時間にも作業や肉体的訓練などの実践が多くなり、教科内容にも著しく軍事色が強められた。同一六年一二月に太平洋戦争の開始に伴い、文部省の指示によって同一七年三月の卒業予定者は卒業期を三か月繰り上げ、また以後の卒業予定者については、六か月短縮することになった。このように教育統制が強化され、国家的要求が顕著となるに並行して、教員の思想監視も厳重を極め、同校教授のなかに非協力的自由主義者との理由で学園を追放された者もあった。
 昭和一九年に、文部省は文科系学校の定員を半減し、理科系学校の拡充を図る方針を明らかにした。松山高商は創立の歴史も古く、全国有数の学校として知られていたので、京都府の私立福知山高等商業学校を吸収合併して、現状を維持することができた。四月に福知山の学生二八〇名の編入学式が、松山高商で挙行された。
 これと時を同じくして、「官立経済専門学校規程」によって、高等商業学校がすべて経済専門学校と改称されることになった。そこで松山高商では、同一九年二月に校名変更申請書を同校学則とともに文部省に提出し、三月末に認可され、四月から新校名が施行された。同年の入学志願者は二、三一九名あり、そのなかから二一五名を選抜した。翌二〇年は本土決戦が叫ばれたにもかかわらず四、一五六名の願書が提出され、同校では三七七名を合格者とする異例の措置を講じた。

 松山高等学校の同盟休校事件と学徒動員

 大正一四年(一九二五)四月に松山高等学校長由比質栄転のあと、橋本捨次郎が来任した。橋本は自由主義を統制しようとした文部省の方針に忠実な実行者であった。そのため同校内部の変革によって、将来紛争が起こることを憂慮するものもあった。
 翌一五年四月に、松山高等学校学則及び細則が制定された。学則は先の規則を全面的に改訂増補したものであって、全般にわたって規定が詳細化するとともに、一層厳格となり、統制化されていた。一一月に学生のなかから、学生の雑誌「啓声」の発売禁止、弁論部に対する抑圧などを理由として同校長排斥を叫ぶものがあり、ついに同盟休校に発展した。学生たちは、同校の先輩団の後援を受け、両者は相対峙する結果となった。学校側は父兄会を通じて打開策を求めたが成功せず、県知事香坂昌康・井上要・秋山好古らの調停委員の斡旋によって、一二月ようやく解決した。
 昭和二年八月に橋本は依願免官となり、金子幹太が校長に任命された。学校は文部省からストライキ後の生徒の思想善導を指示され、「大家族主義」の美名のもとに統制された。それは校長・教官が親となり、生徒をいつくしむという家族制度的親子関係に擬したものであった。
 昭和五年六月、恋愛問題で退校処分を受けた生徒に同情した同級生が、学校にその取り消しを要求したのに始まり、学校の強硬な態度に対して、全生徒が同盟休校を行った。学校側の招集した父兄会では、調停委員五名を選んで、両者の交渉を依頼した。ところが運動部員のなかから、同盟休校が長引けば夏期の対抗試合に出場できないとして、これから脱落する動きがあり、そのため生徒側は態度を軟化しなければならなかった。生徒側から交渉の白紙委任を受けた先輩・父兄側は、校長に陳謝することによって、解決を図った。学校側は登校した生徒を講堂に集め、校長から訓示を行った。こうして第二回の同盟休校は、生徒側の敗北に終わった。時代はもはや大正末期のような生徒の要求が貫徹される社会情勢ではなかった。
 昭和一〇年(一九三五)八月に校長金子幹太の栄転のあと、西沢富則が校長に任ぜられた。彼の任期中には軍国主義が強化され、松高家族主義を唱える必要もないほど教育環境が画一化され、また国民精神総動員運動によって、職員も生徒も銃後奉公に励まなければならなかった。同一二年から出征軍人遺家族農家の稲刈り奉仕を行い、翌一三年から本格的な勤労奉国運動に取り組み、翌一四年八月に奈良県橿原神宮に勤労奉仕、上浮穴郡小田深山・大野ヶ原の開墾に出動した。同一六年から軍需工場への勤労動員が始まり、広島兵器補給廠へ、翌一七年に東洋レーヨン、翌一八年に兵庫県飾磨の山陽製鋼へそれぞれ出動した。

 高等学校令改正

 教育審議会の高等学校制度案は、既に昭和一四年九月の中等教育に関する答申のなかで明らかにされた。高等学校に関し改善を要する方策として、修業年限三年の高等科のみを置いて他を廃止し、入学資格の範囲を拡げて男子中等学校卒業者とすることなどがあげられた。
 この教育審議会の答申に基づいて、文部省は高等学校制度改革の準備を進めたが、各高等学校は独特の伝統的な性格を多分に備えていること、大学と中等学校との間に密接な関係を保持していたこと、軍部からの圧力を加えられたことによって、容易にその成案を得ることができなかった。しかし、既に臨戦体制を確立する必要に迫られていたので、同一六年一〇月に高等学校の修業年限を半年短縮する臨時措置がとられた。
 文部省では翌一七年三月に「高等学校規程ノ臨時措置ニ関スル件」を定め、高等学校の学科課程を改定した。それによると、文科の学科目を道義科・古典科・歴史科・経国科・哲理科・自然科・外国語科・体錬科とし、理科のそれを道義科・古典科・数学科・理化学科・博物科・人文科・外国語科・体錬科とし、従来の学科目を大きく変更した。これらの学科目の教授要項及び教授上の注意事項を詳細に指示するために「高等学校高等科臨時教授要綱」を定めた。
同一八年一月に、「高等学校令中改正」が発せられ、三月に「高等学校規程」の全文が改正された。この高等学校令は一層軍国色を濃厚にしたもので、高等科の修業年限を二か年に短縮し、高等学校の教科課目を前記(「臨時措置ニ関スル件」)の通りとし、四月から実施された。しかし当時は軍需工場への動員の連続、勤労奉仕などの拡大に伴い、新しい規定を実施することが容易でない非常事態に突入していた。