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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 日中戦争と歩兵第22連隊

 第一次上海事変

 昭和六年(一九三一)九月、奉天北部の柳条溝に端を発した満州事変は急速に各地に拡大し、関東軍はまたたく間に奉天・営口・安東・吉林などを占領し、錦州を爆撃した。
 翌七年一月、戦火は上海に飛び、同地にあった少数の海軍陸戦隊は苦戦に陥った。二月二日、第9師団と混成第24旅団の同地派遣が下令され、二〇日から中国軍に対する攻撃を開始したが成功しなかった。二三日には大将白川義則(松山市出身)を司令官とする上海派遣軍の編成・動員が決定され、第11・第14師団が増派されることになった。
 歩兵第22連隊(長・大佐山脇正隆)に動員が下令されたのは二四日〇〇五〇(〇時五〇分の意)。戦時編成をとり装備を整えた連隊は、二七日未明、営門を出発し三津浜沖に停泊待機中の第2水雷戦隊(旗艦神通以下駆逐艦一二隻)に分乗した。上海付近の戦況が急迫していたので、輸送艦隊は荒天の玄海灘を強行航行し、二八日早朝には呉淞沖に到着、呉淞鉄道桟橋から上陸した。このとき連隊は第11師団主力から離れ、既に上海付近で戦闘を行っている第9師団を増援する任務が与えられていた。上陸後更に第3大隊のみは混成第24旅団長の指揮下に分遣され、連隊主力は第9師団の予備隊となった。
 三月一日、連隊主力は第9師団の右翼隊・左翼隊の中間に進出して同師団の総攻撃に加入した。午後になって廿三周村落に拠る中国軍を激戦の後撃破し、同村内を掃討占領した。二日、連隊は追撃に移ったが、午後になって混成第24旅団長(このとき南翔支隊となる)の指揮下に入り、南翔に向かい追撃すべき師団命令を受けた。連隊は同支隊主力の遅れを意とせず大場鎮(上海西北一〇キロメートル)を経て南翔に向かい急進した。夕刻、謝家宅の既設陣地に拠る中国軍を攻撃占領した後、連隊長は引き続き追撃を部署したが、このとき師団司令部からの伝騎により、連隊のみが孤立突出していることを知り、同部落一帯を占領して夜を徹した。
 先に混成第24旅団に分遣された第3大隊は、同旅団の右翼隊となり、一日朝から周行(上海北郊部落)に拠る中国軍を攻撃し、一一〇〇にはこれを占領し、同地を堅固に守備してその後の旅団主力の攻撃を援護した。二日からは追撃に移り、馬柳宅・大場鎮を経て三日末明には謝家宅に達し、連隊主力に復帰した。
 三月三日、連隊長は南翔支隊の集結を積極的に援護するため、謝家宅を出発し前進を開始したが、将校斥候の報告によって南翔付近の中国軍が遠く西方に退却したことを知り、急進して一〇〇〇には南翔に入城した。連隊長は配属された碇大隊を併せ指揮し、同地北側から西側に陣地を占領して警戒及び捜索を行った。正午、嘉定方向に対し警戒しながら馬陸鎮に前進すべき第9師団命令があり、一五〇〇馬陸鎮付近に達したころ、更に嘉定に向かい前進し、同城に向け南下中の第11師団長の隷下に復帰すべき前記師団命令に接した。
 第11師団主力は上陸作戦兵団の面目を発揮し、三月一日未明、揚子江の呉淞上流三五キロメートルの七了口に敵前上陸を敢行し、その後劉河鎮・婁塘鎮で所在の中国軍陣地を抜きながら背後から嘉定に迫っていた。
 連隊は一七〇〇過ぎ嘉定城南門に達し、六メートルの城壁をよじ登って城門を開きこれを占領した。つづいて一部兵力で西門を、次いで北門・東門も手中に収めた。二〇〇〇ころには師団通信無線班を介して第11師団長との連絡に成功し、その指揮下に復帰した。
 嘉定を占領した第11師団は、三月四日朝から追撃戦に移る態勢を整えていたが、前日声明された上海派遣軍の停戦が命令として第一線に届き、作戦行動は中止された。このとき第一線部隊や幕僚の中に、後二時間の追撃により戦果を更に拡大し得るものとして、戦闘の継続を懇請する者もあったが、白川軍司令官は断固この要請を抑制した。当時の陸軍の気風の中にあって、国際世論を配慮したこの決断は一際の光彩を放つものであった。
 歩兵第22連隊のこの戦闘については、『上海付近第九師団戦記』の中で、僅少の兵力と弾薬糧秣とをもって孤立挺進、欣然として任務に向かったことに関して賛辞が寄せられている。
 三月一四日、城北守備隊となった連隊は徐家行・登橋鎮に移動した。二二日には守備地を撤退、二四日呉淞にて乗船、二九日朝松山市高浜に上陸して帰営した。
 上海事変の戦闘が終わり、五月五日に停戦協定が成立したが、その直前の四月二九日、上海虹口公園で日本官民合同の天長節祝賀会が催された。席上暴漢の投じた爆弾によって白川軍司令官・野村司令長官・重光公使・村田総領事などが重傷を負い、白川軍司令官はついに上海で死去した。

 装備の改善

 第一次世界大戦中からその戦後にかけての兵器の急速な発達は、日本にもその影響を与えずにはおかなかった。
 日露戦争において露軍に痛めつけられた機関銃については、我が国においても国産化を急ぎ、三八式(明治三八年制定の意)機関銃が完成し、大正一〇年一二月、連隊内に独立機関銃隊が新設されてこれを装備した。
 翌一一年制定された一一年式軽機関銃は、歩兵第一線分隊に一挺宛装備する自動火器で、これにより第一線の火力は著しく増強されるものであった。連隊には同一二年以降順次装備されていった。
 翌一三年には平・曲射歩兵砲各一門が支給され、これが連隊の保有する歩兵砲の端緒となった。
 これらの新しい兵器は、先の第一次上海事変にも実戦に使用され、その威力を発揮した。
 昭和九年になって連隊に通信機材(電話機・交換器・回光機)や経路機が支給されて指揮連絡の機能が向上し、また八九式(皇紀二五八九年昭和四年制定の意)重擲弾筒が支給されて、火力装備は更に強力となった。
 翌一〇年には対戦車砲として九四式(皇紀二五九四年昭和九年制定)37ミリ速射砲一門が支給され、歩兵砲隊が新設される運びとなった。また新式の九二式重機関銃六挺が支給され、各大隊ごとに一機関銃中隊を編成した。歩兵砲隊はその後逐次拡充されて、連隊砲(四一式山砲)三門、速射砲三門の編成となった。

 日中戦争の上海派遣(第二次上海事変)

 昭和一二年(一九三七)七月七日夜、北京西郊蘆溝橋付近で日中小部隊が衝突し、これが長期にわたる日中全面戦争の引き金になった。北支にあった支那駐屯軍はたちまち付近一帯を占領したが、一一日には華北の実権を握る宋哲元との間に停戦協定を結んだ。
 陸軍中央部は支那駐屯軍に事件不拡大を指示していたが、一〇日には情勢悪化に対応するため、三個師団と航空兵団の増派を内定準備した。部内に慎重論と積極論との対立もあったが、両者とも中・南支まで拡大する意志はなく、事件は「北支事変」と名付けられた。七月二四日、再び北京南東約五〇キロメートルの郎坊で起きた小部隊の衝突から、事変は再燃した。蔣介石は中国軍を戦争態勢下に置き、中央直系軍の北上を開始し、我が軍も新たに動員した三個師団を加えて一挙にこれの早期撃滅を図った。しかし既に国共の合作はなり、中国人民の戦意は高まっていた。
 八月一三日、抗日運動の燃え上がっていた上海にも戦端が開かれた。一五日、九州から飛び立った海軍渡洋爆撃機隊は、嵐の支那海を越えて首都南京を空襲した。
 陸軍作戦部は中支への出兵を頑固に拒んだが、杉山陸軍大臣の強い要請によって、八月一五日上海派遣軍(司令官・大将松井石根、第3・第11師団基幹)の派遣が発令された。同日近衛首相は「今や断乎たる措置をとるのやむなきに至れり」と声明し、北支事変を「支那事変」と改めた。明らかに中国と全面戦争に入ったのであるが、諸外国との関係悪化を危惧する我が国は、宣戦を布告することなく、事変解決を名目として兵を進めた。
 第11師団(長・中将山室宗武)に応急動員が下令されたのは八月一四日。一八日には動員完結したが、平時欠番の第4・第8・第12中隊(各大隊毎の末尾中隊)は編成になお日数を必要とした。師団の各部隊は多度津・小松島・三津浜において海軍軍艦に乗艦し、上海に急派された。
 歩兵第22連隊(長・大佐永津佐比重、防諜上永津部隊と呼ばれた)は師団の第2梯団となり、戦艦陸奥に乗艦して二〇日、三津浜出航、二三日、駆逐艦などに移乗し、二四日、上海北々西四〇キロメートルの揚子江南岸(川沙鎮―貴腰湾の間)に上陸した。
 第1梯団は前日、同地区に敵前上陸し前進していたので、連隊は直ちに前線に追及し、羅店鎮の攻撃に参加した。この地帯は悪路に加えてクリークが網の目にめぐらされ、山砲の砲弾などの補充がつかず、陣地の推進も思うに任せなかった。また師団司令部と第一線連隊間の電話線もしばしば切断され、指揮連絡は不十分で初戦の欠陥が露呈した。中国軍の戦意は旺盛で逆に我が軍に対し夜襲を仕掛けることも多く、22連隊も二八日未明、背後に一個大隊の奇襲を受けたが、連隊長自ら指揮してこれを撃退した。同日早朝、海軍機の爆撃の支援を得て攻撃を再興したが、既設の堅陣に拠る守兵は頑強な抵抗を続けた。第一線部隊はクリークや沼地に悩まされながらも前進し、午後には羅店鎮を占領、22連隊はその西側に進出した。
 この戦線を守備する中国軍は要地羅店鎮を奪回すべく続々と増援部隊を送り込み、連日のように逆襲をかけて来た。九月始め、連隊には編成の遅れた欠番第4・第8・第12中隊が追及し、師団第二次輸送部隊となった騎兵・工兵・輜重各連隊も師団長の隷下に到着した。また、重藤支隊(歩兵五個大隊基幹、台湾守備隊をもって編成)も師団に配属され、師団の戦力はようやく充実した。その反面、コレラ患者が続発しその対策に忙殺される事態も発生した。
 ここで師団長は羅店鎮南側の中国軍に対し打撃を与え、戦局の転換を計ろうと決心した。22連隊はその守備位置を重藤支隊と交代し、新たに左翼隊(長・第10旅団長少将天谷直次郎)に属して羅店鎮東南四キロメートルの陣地の攻撃を命じられた。九月二一日、陸軍機の爆撃によって攻撃が開始されたが、22連隊は交替・移動に手間どり、攻撃準備の期間が十分とれず、他連隊に比して攻撃が進捗しなかった。この間、右翼隊にあった歩兵第44連隊は「白壁の家」の頑強な抵抗に遭遇し、二〇日間も攻めあぐねた末ついには坑道を掘進して二三日、決死隊がこれを爆破占領した。22連隊も都家宅・周家心などの陣地を抜いて前進した。
 このころ上海派遣軍は戦闘開始後一か月にして非常な損害を被り、逆に中国軍は六〇万の大軍を集結し、我が軍を包囲する態勢にあることを知った。このため新たに新鋭三個師団をこの戦場に投入し、一挙に大場鎮(上海北西一〇キロメートル)を奪取して上海に迫る計画を立てた。この作戦において第11師団は軍主力の主攻撃の右側を援護する目的で、南翔(大場鎮西方一〇キロメートル)に向かい中国軍を圧迫する任務が与えられた。22連隊は天谷旅団長の下で右翼隊となり、万年橋付近に展開し攻撃を開始した。しかしその前面には幅一五~三〇メートル、両岸は四メートルに及ぶ揚涇運河があり、中国軍は巧みにその崖に側防重火器の射撃陣地を設けていた。連隊は渡橋を架設し、あるいは夜間泳いで対岸に迫ろうとしたが、鉄条網や地雷に妨げられ、手榴弾の投てきによって被害が続出した。この攻撃は一〇月九日から連続一〇日間繰り返されたが、44連隊正面の一部が渡河に成功したのみで、他の三個連隊はいずれも成功したところがなかった。しかしこの牽制作戦が効を奏し、軍主攻撃方面の大場鎮は一〇月二六日、陥落した。
 その後師団は南翔に対する攻撃に移行したが、この時22連隊は永津支隊となって既占領地の守備に任じた。
 一一月五日には新鋭の第10軍(柳川兵団)が杭州湾に上陸し、上海の側背を衝くべく太湖南方を西進し始めていた。
 上海派遣軍は常熟を攻略して戦局の進展を図ることになり、22連隊を重藤支隊長の指揮下に入れ、白茆口に上陸する命令を下した。一一月七日、連隊長は幹部と共に砲艦で揚子江上を往き来して上陸地点を偵察した。一二日夜、呉淞を出航した連隊は海軍艇の誘導により揚子江を溯上し、第3大隊右第一線、第2大隊左第一線、一三日〇三三〇を期して一斉に敵前上陸を敢行した。上陸用舟艇が接岸するにつれ、中国軍から激しい射撃を受け、第3大隊長以下多数の死傷者が出たが上陸作戦は成功した。連隊長、つづいて重藤支隊長も部下を率いて上陸し、江岸に部隊を掌握した後、常熟に向け追撃を開始した。常熟の前面には既設の堅固な陣地があったが、重藤支隊は後続の第16師団と協力してこれを突破し、一九日に常熟を占領した。
 このころ中支那派遣軍(司令官・大将松井石根)が編成され、上海派遣軍及び第10軍がその隷下に入った。また一一月二〇日設置された大本営は、南京攻略の戦略的可能性を検討し、一二月一日、南京攻略を発令した。
 師団はしばらくの間、無錫付近にあってその後の作戦に備えていたが、一二月四日、第10旅団は軍の直轄となり、天谷支隊(山砲一個大隊・工兵一個中隊配属)として揚子江南岸の鎮江の攻撃を命じられた。鎮江は揚子江と江北大運河の合流点で、水陸交通の要衝であるほか、戦略的にも南京守備の江岸関門である。支隊は常州・丹陽を経て鎮江に迫った。鎮江の三方は丘陵が取り囲んでいたが、それらにはトーチカ・掩蓋銃座が構築され、散兵壕と鉄条網が無数に張り巡らされた堅固な陣地であった。攻撃は七日朝から開始され、八日朝からは砲兵・戦車の支援を得て前進が続けられた。戦場は壮絶な修羅場と化し死闘が繰り返されたが、昼ころには守兵が退却し始め、一四〇〇ころ第12・第22連隊とも相次いで鎮江市街に突入占領した。守兵は鎮江の町を捨て、舟艇で揚子江北岸へ敗走した。同市街は被害が少なく電灯も点灯し、久し振りに宿営についた兵士たちを喜ばせた。
 鎮江での休養はわずか一日、支隊には揚子江を渡河し北岸の揚州攻撃が下命された。この攻略のためまず揚子江中洲の焦山島(高さ七〇メートル、別名獅子山)の要塞を制圧し、一一日には一部兵力をもってその山頂砲台を占領した。これによって揚子江の航行権は確保され、下流に待機していた海軍艦艇は軍艦旗をはためかせながら南京へ向かい溯上した。
 一三日夕、第22・第12連隊は相前後して鎮江を出発、夜陰に乗じて揚子江を渡航し一斉に北岸に上陸した。散発的な抵抗を排除しながら揚州に向かって突進したが、揚州南方五キロメートル地点で堅固な防御陣地に遭遇した。我が軍にも損害が続出したが、この時も歩兵砲を第一線に招致し、これら拠点を砲撃して前進した。夕刻には中国軍の逆襲を撃退した。一四日未明から総攻撃を開始し、激しい砲撃戦に続いて歩兵戦闘が繰り広げられた。我が軍は次第に中国軍を圧迫して城壁に達し、縄梯子を登った決死隊員が城門を開き、午後には城内一帯を占領した。
 この前日、一二月一三日、中支那派遣軍は、首都南京を大きな抵抗を受けることなく攻略した。
 天谷旅団長は一五日、揚州に入城し、支隊は付近の警備と宣撫工作を行いながら昭和一三年の新春を迎えた。
 一月八日、支隊は南京に移駐してその警備を担任することになった。揚州からは船舶輸送により、揚子江を溯上した支隊は一六日南京に到着、兵営などに舎営し、市内外の警備を担当した。
 三月中旬、旅団は突然内地帰還の命令を受けた。南京警備を第3師団と交代し、三月二〇日、同外港下関で乗船、二九日坂出港に入港し官民の熱狂的歓迎を受けた。22連隊は同夜松山に帰還し、四月一一日復員を完結した。また第10旅団を除く師団主力は前年一二月以降、南支作戦に備えて台湾に集結していたが、同様の帰還命令を受け、一足早く三月二三日から相次いで坂出港に上陸していた。
 この第二次上海事変において、第11師団は約一万人の死傷者を出した。また厳しい報道管制も敷かれ、新聞紙面には伏せ字が充満し、華やかな戦果のみが紙面を飾る時代となっていた。

 第11師団後備歩兵大隊ほか

 第11師団の上海派遣に引き続き、師団の留守各隊において後備の名称を冠した歩兵大隊などが編成され、つづいて出征した。これは後備歩兵第1・第2・第3・第4大隊・後備山砲(工)兵中隊・後備兵站(輸送)などの諸隊で、初めは中支那派遣軍や第11軍それぞれ直轄の後備隊に属し、本隊の後を追って各地に転戦しながら占領地の治安維持・鉄道警備の任務に就いた。
 その後これらの部隊は、昭和一四年(一九三九)及び同一八年の編制の改正により、独立混成旅団や師団の新編成に吸収され次第に大陸内部に移動しながら、討伐と地区警備・鉄道警備に任じて終戦を迎えたものもあった。

 第11師団の満州派遣

 昭和一三年三月、欧州ではナチス・ドイツはオーストリアを合併し、チェコにも勢力を拡大し始めていた。大本営はこの時ならば中国戦線を強化しても、ソ連が対満進攻を行うことはないと判断した。同年五月、中国軍に決定的打撃を与えるとともに、北中支を直接連絡するために徐州会戦を決行したが、我が兵力不足によって中国軍主力は西方に逸走した。次いで陸軍は九月から一〇月にかけて漢口攻略・広東攻略の二作戦を同時に強行した。国民の血のにじむような総動員の努力に支えられて、戦線は中国全土に広がり始めた。
 この間、七月一二日には朝鮮の東北端ソ連との国境に近い張鼓峰にソ連兵が進出し、外交交渉でも解決に至らず、両軍の間に死闘が演じられた。漢口・広東両作戦を準備中の大本営は事件の拡大を恐れて、兵力の増加や航空機の戦闘加入を許さなかった。事件は我が国の譲歩により、八月一〇日モスクワで停戦協定が成立した。
 当時陸軍の主力(約三〇個師団)は中国に出征し、対ソ在満兵力は九個師団に過ぎなかった。更に内地には近衛師団と、年始めに上海戦から凱旋した第11師団の二個師団を残すのみであった。第11師団は本来上陸作戦用師団として訓練を積み、過去の作戦においてもその真価を発揮したが、この情勢の緊迫下にあって、大本営はこれを満ソ国境に派遣し警備の任務に就かせることに決定した。
 九月二四日、満州派遣第11師団と同留守部隊の編成が下令された。歩兵第22連隊の派遣部隊は一〇月二日、営内練兵場において出陣式を行い、四・五の両日松山駅を出発、乗船地坂出港に向かった。駅までの沿道には見送りの群衆がつめかけ、家族の中には坂出まで出向いて別れを惜しむ人もあった。師団兵力を載せた輸送船団は七日午後坂出港を抜錨、九日釜山港入港、直ちに鉄路北上した。22連隊は京城・奉天を経て、一三日、錦州省錦県に到着し、北大営に宿営し約一か月の訓練を行った。満鮮国境通過時点で師団は関東軍の隷下に入っていた。
 訓練の成果を見て師団は東安省密山県に移駐し、東満警備の第一線に就くことになった。22連隊も一二月五日から逐次移動を開始し、同月一九日、密山県密山に到着、連隊本部と第2大隊は平陽鎮に、第一大隊は半截河に、第3大隊は西東安に駐屯して国境警備の任務に服した。現地は湿地帯を挾んでソ連軍の守備地域があり、互いに監視哨を設けて相手側の動向を監視し、克明に調査するものであった。
 翌一四年五月、師団の警備地区内の当壁鎮(密山前方三〇キロメートル)にあった第2監視哨が、ソ連軍の不法射撃を受け、機関銃が直ちに応射して一時は緊迫したが、両軍ともに自重しやがて平穏に帰した。これ以降師団の防衛区域においては銃声の聞こえることはなかった。この間師団の将兵は湿地帯通過の研究訓練を重ね、関東軍又は師団の行う大演習に参加した。

 ノモンハン事件応急派兵

 当時の満州とソ連の国境は、清国と帝政ロシアの間で締結された愛琿条約や琿春条約で決められたもので不明確な地点が多かった。伝統的な東進政策を強行するソ連と、満州を国防の第一線とする我が国との間には、昭和一〇年(一九三五)ころから国境紛争が頻発した。同一四年四月、関東軍はこれら紛争処理について、「侵さず、侵さしめず」の方針を定めていた。
 昭和一四年四月、ノモンハン方面に外蒙部隊の侵入を知ったハイラルの第23師団は一部兵力をもってこれを撃退したが、優勢なソ連軍の砲火と縦深抵抗に遭って攻撃は停滞した。その後両軍とも兵力を増加して死闘を繰り返し、ついには参加総兵力一八万人を超える大規模な戦闘に発展した。この間航軍作戦においては、新鋭機を装備していた航空部隊が華やかな戦果をあげたが、地上作戦においては、ソ蒙軍の優勢な戦車と砲兵によって厳しい打撃を受けた。
 七月中旬、関東軍は全満州陸軍の対戦車砲を作戦地に集中することにした。このため第11師団の各歩兵連隊からも臨時の速射砲中隊が仮編成された。これは歩兵砲中隊(当時は連隊砲・速射砲各三門で構成)から速射砲(九四式対戦車三七ミリ砲、駄馬編制)のみを抽出したもので、鉄道輸送によりハルピン・白城子を経て終点ハロンアルシャンに応急派兵された。各中隊毎に第一線展開の諸隊に分属され、22連隊からの派兵中隊(長・中尉夷子建樹)は第2師団第15旅団(片山支隊)に配属された。この支隊は、八月二〇日以降のソ連軍の大反撃の後、戦線建て直しのため新たに戦闘参加した部隊で、九月に入ってから侵入するソ連軍と交戦した。この戦闘で巧みに秘匿陣地についた速射砲中隊は、第一線を踏みにじった中型戦車を四〇〇メートルに引きつけて射撃を開始し、初弾からこれに命中させた。不意を衝かれたソ連軍戦車は急きょ返転して退却し、支隊司令部は危く難を逃れることができた。
 将兵は補給の途絶はもとより、飲料水さえ欠乏するという惨状を極める戦局の中で、草原の朝露を飯盒蓋でしごき集めて生命をつなぎながら陣地を固守した。九月一五日、両軍の間に停戦協定が成立、同二五日、応急派兵は解除され、派兵中隊も原隊に復帰した。

 第24師団に編入

昭和一四年五月、「在満軍備改変要領」が下令された。これは第8・第11の両師団を四単位師団(歩兵四個連隊制の師団)から三単位師団(歩兵三個連隊制)に改変し、それぞれから余剰一個連隊を提出させ、これを基幹として第24師団を新設しようとするものであった。第11師団からの提出連隊は歩兵第22連隊と輜重兵第11連隊第3中隊がこれに充てられた。
 第24師団(兵団符号「山」)は表4―28の諸隊をもって同年一〇月、編成を完結した。師団は関東軍隷下の第5軍に属し、三単位の野砲編制師団であったが、これは将来も満州駐屯師団を予定されていたからである。
 また師団の各歩兵連隊の編制は表4―29の通りで、特に火力装備に関しては、当時の陸軍の中では最も優れたものとなっていた。
 またこの時、第11師団においても第10・第22旅団の制度が廃止され、第11歩兵団司令部が新設されて隷下歩兵三個連隊を統轄することになった。
 第24師団の隷下に入った歩兵第22連隊は、その後も東部満州の西東安に駐屯して警備と訓練に当たったが、このころは自他ともに関東軍の精鋭と許す高い練度を保持していた。しかし同師団の兵員補充が、昭和一五年徴集以降は北海道から行われるようになったため、幹部を除く兵員は次第に同地の壮丁で占められることになった。
 県下の壮丁は第11師団の特科部隊(歩兵を除く他の兵科)や第40・第55師団その他に充当された。このため松山の補充隊に入隊せず、直接善通寺などに応召する場面が多くなった。また松山に在った留守部隊の中から、昭和一六年一一月、歩兵第122連隊が編成され、比島戦線に出征した(「歩兵第122連隊」の項参照)。
 昭和一八年七月、「臨時編成甲」によって、歩兵第22連隊の第1大隊が建制のまま南方戦線に抽出されることになった。同大隊は翌一九年一月、防諜のため演習を装って密山を出発し、南下を開始した。大隊は同年四月、カロリン群島のメレヨン島に上陸し守備に就いた(「独立歩兵第333大隊」の項参照)。
 第一次上海事変から昭和一四年に至るまでの郷土部隊の動きの概要を年表で示すと表4―30のようになる。

図4-9 第一次上海事変当時使用された地図(50万分の1)

図4-9 第一次上海事変当時使用された地図(50万分の1)


図4-10 連隊の攻撃進路図(はじめ重藤、後天谷支隊)

図4-10 連隊の攻撃進路図(はじめ重藤、後天谷支隊)


表4-28 第24師団の編成担当表

表4-28 第24師団の編成担当表


表4-29 第24師団歩兵連隊編制表

表4-29 第24師団歩兵連隊編制表


表4-30 昭和の郷土関係軍事年表(一)

表4-30 昭和の郷土関係軍事年表(一)