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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 太平洋戦争と歩兵22連隊

 開戦時の郷土編成部隊の配備

 昭和一六年(一九四一)一二月八日未明、我が南方軍の先鋒である佗美支隊は、英領マレーのコタバル奇襲上陸に成功し、つづいて海軍機動部隊はハワイ島真珠湾を空襲することに成功した。大本営は米英蘭諸国と交戦状態に入ったことを報道し、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んだ)の火蓋は切って落とされた。
 この時期に郷土編成部隊の中には、大陸の駐留警備に任じたもののほか、新たな南方作戦発起位置に配置されたものが多かった。その内訳は次のようになる。
 歩兵第22連隊は第24師団の隷下にあって、対ソ作戦の優秀な装備を誇り、東部満州の西東安に駐屯して警備と訓練に励んでいた。
 独立歩兵第15大隊は独立混成第4旅団の隷下にあって、北支の石太線一帯の警備と治安維持に任じていた。
 歩兵第62連隊は第21師団の隷下にあり、青島付近において南方転進のための訓練に専念していた。
 第40師団は第11軍の隷下にあり、中支の咸寧付近に駐留して、既に数次の作戦に従事していた。太平洋戦争の開始とともに、南支軍(第38師団基幹)は香港攻略作戦に踏み切ったが、第11軍はその背後の中国軍を吸引牽制するため第二次長沙作戦を敢行し、師団もこの激戦に参加した。
 第55師団は第15軍の隷下にあり、昭和一六年一一月、内地を出航して仏領印度支那のハイフォンに上陸し、西貢に向かう南進を準備中であった。また歩兵第143連隊を基幹とする一部は、マレーに上陸した佗美支隊につづいてタイ国領マレー半島東岸に上陸した。
 南海支隊(第55師団の一部)は大本営直轄となり、グアム島攻略の任務を与えられて、その船団はグアム島北方洋上にあった。一二月一〇日、支隊はグアム島に上陸、これを占領した。
 歩兵第122連隊は第65旅団の隷下にあり、昭和一六年一一月、内地を出港して台湾に上陸し、比島作戦に備えて猛訓練を行っていた。
 これら各部隊はその後の苛烈な戦局を戦い抜き、中には軍旗を奉焼して玉砕したもの、あるいは孤島に取り残されて飢餓との戦いに明け暮れたものもあった。この間終戦までに内地に帰還または復員した部隊は皆無であった。その概要は表4―31の通りである。

 歩兵第22連隊第32軍に編入

 昭和一九年七月、サイパン島の守備部隊は玉砕し、つづいてグアム・テニアンにも連合軍の上陸が開始された。この戦況の下で沖縄は、日本列島と台湾を連鎖する防波堤の中核としての戦略的地位がいよいよ重大さを加えてきた。沖縄及び近辺の航空基地は、九州・台湾・華南沿岸の基地と相まって、太平洋方面から進攻する洋上連合軍に対しこれを撃滅する布陣となり得るからであった。
 大本営は沖縄諸島の防衛に第32軍(司令官・中将牛島満)を充て、地上師団三個と独立混成旅団五個を配備することにした。
 同月、第24師団(長・中将雨宮巽)は満州警備の任務が解除され、大本営の直轄となった。師団は一度北九州各地に移駐し、南方戦線の戦備を整えた後、沖縄に転進して第32軍の隷下に入ることになった。第22連隊は熊本に移駐し、輸送中の海没に備えての避難訓練などを行ったが、防諜上外部との交渉は一切許されなかった。師団主力は八月一日、下関及び門司港を出港し、同月五日~七日沖縄上陸、第22連隊(長・大佐田中幸憲)は八月六日、鹿児島を出港し翌七日、沖縄本島那覇に上陸した。この時先にメレヨン島に抽出された第1大隊はなお欠けたままであった。連隊は夜行軍も行って八月一一日、中頭郡北谷村良久得に到着集結した。
 沖縄本島には第9・第24・第62師団及び独立混成第44旅団が配備され、新たに防御区域が定められた。第24師団は北飛行場(現読谷基地)及び中飛行場(現嘉手納基地)のある中部地区に位置し、防御の重点を西及び北海岸正面にして陣地構築作業を開始した。第22連隊の守備地区は中飛行場を含むその周辺であった。九月一六日、飛行場整備に関する軍命令があり、師団の戦闘兵員もその設定作業に不眠不休の努力をして、同月末には予定以上の目的を達成することができた。この月末、グアム及びテニアン部隊は玉砕し、戦局は一段と急迫した。
 一〇月一〇日、沖縄全域は延べ九〇〇機、五次にわたる米軍機の大空襲を受け、那覇市街の九〇%は焼失し、集積軍需品や船舶に大きな被害を受けた。つづいて一二日から一六日にわたり台湾沖航空戦が展開された。
 一一月一三日ころ、大本営は沖縄から地上一個師団を抽出し、台湾に転用する指示を発した。この案に反対し続けて来た第32軍もついに抗しきれず、第9師団を転用することに決定した。この抽出は、築城や訓練の成果が逐次向上し必勝の信念を高めつつあった沖縄の諸兵団に対して、精神的にも大きな打撃を与える結果となった。沖縄本島に対しては、その後補充兵団は来着せず、改めて防御区域計画が大きく変更されることになった。第24師団は今度は那覇より南方、沖縄本島南端一帯の防備に当たることになった。隷下諸隊は一二月一〇日、四か月にわたり営々と構築した陣地や自活態勢を捨て、那覇南方に転進を開始した。22連隊は小禄飛行場を含むその周辺地区に配備され、改めて西海岸正面に対する陣地構築作業に取り組んだ。築城はセメントの不足に悩んだが、洞窟拠点式陣地を採り、兵器・弾薬・糧秣ほか諸資材について、一トン爆弾に堪えることを目途として進められた。
 昭和二〇年(一九四五)二月一一日、師団の各歩兵連隊とも欠けていた一個大隊を補塡する編制改正が実施された。22連隊においても第1大隊が復活し三個大隊編制となったが、歩兵大隊は歩兵中隊三、機関銃中隊一、大隊砲小隊一になり、歩兵砲大隊は分解されて歩兵砲中隊(四一式山砲×四)と速射砲中隊(速射砲×四)に、通信隊は通信中隊に改められた。
 このころ、比島に上陸した連合軍はマニラに侵入し、この方面の作戦は絶望的となった。
 昭和二〇年に入ってから大型機の偵察と艦載機の空襲を頻繁に受けはじめていたが、三月一日には艦載機六七〇機が七波にわたって連続来襲し、連合軍の上陸企図が近いことを示していた。この時機に第62師団長や歩兵第22連隊長の人事異動が行われた。連隊には中佐吉田勝が新たに着任したが、その二週間後に連合軍が上陸した。連隊長は部下の掌握、地形の認識などが極めて不十分なままでこれを迎え撃つことになった。

 連合軍の上陸

 四月一日早朝、北・中飛行場一帯は壮絶な砲爆撃に包まれ、西方海面には数百の上陸及び支援艦船が充満していた。〇八〇〇過ぎ、米軍の地上二個師団、海兵二個師団を第一線とした強大な兵力の上陸が開始された。この正面を守備していた飛行場大隊を改編した守備隊は、三月三〇日以降、両飛行場を破壊してこれを迎えたが、戦力差は如何ともしがたく、上陸第一日目に北・中飛行場とも米軍の占領するところとなった。
 上陸した米軍は戦車を伴い、優勢な砲爆撃支援の下に南下し、四日には西海岸沿いの第62師団の陣地に迫っていた。持久防御か攻勢移転か、百万論議の末、第32軍は第10方面軍(台湾)や海軍に押された形で八日夜から総攻撃発起の決心をした。第24師団もこれに基づき六日朝、22連隊・89連隊などに北方第一線へ進出の準備を命じた。22連隊は62師団作戦地域の東側と那覇及びその北東地区にそれぞれ一個大隊を進出させる準備を行った。この総攻撃に呼応して陸海軍とも航空機特攻、戦艦大和以下の海上特攻、海上挺進攻撃など可能な限りの手段を尽くし、軍砲兵もこの時初めて企図秘匿のための沈黙を破って北・中飛行場の制圧射撃を開始した。しかし七日朝になって沖縄本島南部地域は、多数の米艦船に囲まれ激しい艦砲射撃を受け始めた。軍はこの状況を見て新しい上陸企図が那覇北方浦添地区に指向されていると判断し、八日から総攻撃の計画を断念し、陣前出撃により上陸軍を撃滅する方針に切り換えた。
 四月八日夜、第62師団は一部の兵力をもって陣前出撃を行ったが格別の成果もなく、逆にその戦力は損害を被って低下した。九日以降も米軍は全線にわたって攻撃を継続し、各所に激戦が展開された。
 一〇日、第24師団は第62師団の右に並列して攻撃に参加する計画が立てられたが、その後これも変更され、22連隊が第62師団に配属されて攻撃に参加することになった。連隊は一一日朝、辨ヶ岳(首里東北一キロメートル)地区に到着して攻撃を用意したが、米軍の妨害と地形未熟のため準備は十分でなかった。連隊長は一一日夜第1大隊に、一二日夜第2大隊の一部に挺身斬込みを命じたが、第1中隊長以下数十名を失って攻撃は成功しなかった。
 四月一三日、軍司令官はそれまでの攻撃失敗の状況から、戦略持久作戦に移る決心をした。このころ第62師団の戦力低下は著しく、その態勢を建て直すため22連隊は各大隊ごとに分割され、同師団隷下の諸隊に配属されて戦線整理が行われた(独立歩兵第15大隊の項参照)。
 一七日、第24師団主力は運玉森(首里東方三キロメートル)付近の第一線に進出し、同地区の防衛を担任することになった。22連隊も第62師団配属を解かれ本来の建制に戻ることになったが、分割配属されていた第2大隊が連隊長の指揮下に復帰したのは二二日ころとなり、第3大隊は復帰の暇もなく、二〇日には再び同師団第64旅団長に配属され、急迫した安波茶付近の戦闘に投入された。新たな攻撃準備を整えた米軍の猛攻は一九日早朝から開始され、第62師団は死力を尽くして善戦したが、その守備陣地は次第に蚕食され始めていた。
 第24師団は昼夜を分かたぬ艦砲射撃に苦しめられながら軍の右翼となる所命の線に進出し、二四日朝までに概略の配備に就いた。歩兵第22連隊(第3大隊欠)は師団の左翼で第62師団と境を接し、翁長から幸地及びその西方高地にわたり首里防衛の陣地を占領した。米軍も逐次師団の守備位置正面に攻撃をかけて来たが、二六日、艦砲射撃の直撃弾を受けて第1大隊長(少佐鶴屋義則)が戦死した。師団の各連隊はほとんどの兵力を第一線に配置し、激しい防御戦闘が続いた。

 中突進隊

 このころ第32軍においては、軍の戦力が消磨するのを待つことなく、攻撃戦力を保有している時機に攻勢を採り、運命の打開を策すべきであるとの方針が決定された。この軍命令により師団長は三突進隊を編成して攻撃を準備した。
  右突進隊 歩兵第89連隊基幹
  中突進隊 歩兵第22連隊(第3大隊主力欠)基幹
  左突進隊 歩兵第32連隊基幹
 突進隊は五月四目黎明、砲兵群の支援射撃と煙幕に援護されて米軍中に滲透し、昼夜連続随所にこれを撃破せよとの任務が与えられた。我が航空部隊は北・中飛行場と海面の艦船を攻撃し、二隊の逆上陸部隊は米軍占領地区背後に奇襲上陸を敢行した。これに呼応して各突進隊とも果敢に前進したが、初め虚を衝かれた米軍も直ちに頑強な抵抗を開始し、正午ころから各隊とも攻撃が進展しなくなった。22連隊においても第11中隊が攻撃したが、米軍戦車の出現で中隊長以下全滅し、数組の後方潜入班が幸地北方一キロメートルに潜伏し得たにとどまった。また積極的に陣地を推進して支援射撃を行った砲兵群も、その多くが所在を暴露し多くの損害を受けた。連隊正面の米軍側史料には次の記述がある。

  我が軍は太平洋地域におけるその長期にわたる戦闘において、五月三日夜のような砲撃はかつて経験したことがなかった。日本軍砲兵はあらゆる火砲を用い、その夜の中に師団に対し五、〇〇〇発以上の弾丸を射ち込んだ。暗黒の中を日本軍兵士たちは我が第一線に向かって前進を開始した。我が軍の衛兵は敵がその砲撃の中を通って攻撃するとは思わなかった。しかし敵はそれをやったのである。少数の日本兵が頂の上に現われて軽機を構えた。間もなくA中隊が活動に移り、敵を頂から駆逐した。日本兵は三挺の軽機と四門の迫撃砲とそれらの弾薬を遺棄して後退した。しかし他の幾つかの隊は幸地付近の我が戦線の背後九〇〇メートル以上も突破していた。四日の日没後これら諸隊はその連隊に復帰するよう命令された。五日未明、敵は戦車に支援されて大隊兵力で攻撃して来た。間もなく六台の戦車は撃破されたが、歩兵は我が軍と近接戦を行うため砲兵及び迫撃砲弾の中を前進し、擲弾筒と重機を我が第一線近くに据え、連隊砲まで推進しようとした。全線にわたって激しい銃砲撃戦が始まったが、敵の一隊は谷地を短間隔の縦隊で進み、某中隊の正面に達した後、自動火器で撃滅された。大部分の日本兵は白兵戦を実行することが出来ず、溝の中に避難した。正午頃まで手榴弾戦及び自動火器射撃の交換が続いたが、我が軍戦車が幾つかの溝に沿って進み敵を射撃したので、生存者のある者は煙幕で身を隠し自分の戦列まで何とかして退却した。五月四日のこの戦闘で初めて敵砲兵の全容が判明した。日本軍はその野砲を射界の良い開豁地に引き出し、発射の閃光を隠すため発煙筒を用いたが、我が小型観測機は多くの敵砲兵陣地を指摘し、精密射撃に資することが出来た。海兵隊や水陸両用戦車によって撃滅せられた逆上陸部隊を含め、日本軍はこの攻撃で約五、〇〇〇人を失った。

 軍司令官は翌五日も突進隊の攻撃成果を期待したが、到着する戦況報告は不利なものが多く、一八〇〇に至ってこの攻撃を中止する命令を発した。師団の各突進隊は再び攻撃前の持久防御の態勢に復することになり、22連隊も幸地南方五〇〇メートルの高地一帯に後退し陣地を占領した。先に第64旅団に配属されていた第3大隊が連隊に復帰したので、第1大隊と交替配備する準備がとられた。
 幸地南方の高地一帯にも七日以降、戦車を伴う有力な米軍の攻撃が開始されたが、連隊は健闘してこれを撃退した。八日夜、連隊長は第一線の第1大隊と復帰した第3大隊とを交替配備する部署を採ったが、翌九日朝、昨日に続く強力な米軍の攻撃を受け、重複配備していた両大隊とも多大の損害を受けた。この日、後方の独立整備隊・航空修理廠などの要員が到着したので、各大隊に増加して戦力の増強を図った。一〇日、連隊長は昨日米軍が進出した一高地に対し奪回の逆襲を決行したが、激しい火力に妨げられ、多数の死傷者を生じ失敗に終わった。このころ連隊の第1・第2両大隊はそれぞれ一〇〇名以下、第3大隊は大隊長(大尉田川慶介)以下多くの将兵が戦死し残存兵員十数名の戦力となっていた。連隊長は編制の一〇分の一に満たない残存兵力を指揮して懸命の抵抗を続けたが、一四日には要地一五〇高地の一角に米軍が進出し、連隊の戦力はまさに尽き果てようとしていた。これを見た師団長は、独立第29大隊と独立速射砲第3大隊主力を連隊に配属した。これらの諸隊は米軍と至近距離に相対して高地の争奪を繰り返したが、我が軍の損害は更に増加した。二八日、師団長は輜重兵の駄馬大隊の兵員までも22連隊に配属し、次の辨ヶ岳一帯の防衛を強化させた。しかし幸地南方の高地は米軍戦車が背面に進入し、各頂上付近は米軍に占領され、洞窟陣地はその馬乗り攻撃を受けるに至った。師団長は洞窟内に残存兵員が封鎖される惨状を見て、二〇日夜、22連隊に脱出を命じ、その後これを師団予備隊とした。この時独立臼砲第1連隊第5中隊(長・大尉緒方眞治)が配属されたので、連隊長はこの中隊(兵力数十名)をもって第3大隊を再編成した。連隊は一部兵力で辨ヶ岳一帯の陣地に拠って米軍の前進を拒止しながら、師団予備隊としての位置に脱出した模様であるが、混戦のため詳しい資料が残されていない。

 喜屋武半島に後退・玉砕

 軍司令官牛島中将は、各戦線にわたり米軍に圧倒されはじめた状況から、熟議の末喜屋武半島に後退し、軍最後の戦闘態勢を取ることに決定した。師団は二九日夜から撤退を始め島尻南部に集結する行動を開始したが、この時師団予備であった歩兵第22連隊は、友寄付近饒波川の線に第二収容陣地を占領し、主力の退却を援護した。
 連隊は六日までよくこの線を保持したが、主力撤退の後、真壁(那覇南方一三キロメートル)に後退、再び師団の予備隊となった。
 六月一〇日、師団長は国吉付近で急を告げる歩兵第32連隊に、22連隊の第3大隊を配属し守備陣地左翼を補強した。しかし米軍の攻撃は休むことなく、一二日には国吉台地の一角に侵入するとともに、糸満南方には水陸両用戦車が上陸し、西海岸沿いに我が左翼の突破を準備中と判断された。師団長は、師団予備隊の22連隊(第3大隊欠)を32連隊西側の真栄里地区に展開し、同連隊と連繋して左翼防備の強化を命じた。連隊は最後の力を振り絞って真栄里を占拠し、一三日から一七日まで、孤立しながらも同地を死守し続けた。
 このころ、米軍戦車は軍司令部所在地摩文仁東方数百メートルに迫り、同司令部と各兵団間の連絡はほとんど断絶する状況となった。軍司令官は一九日、軍の組織的戦闘力が終了したことを認め、生存者は各局地において最後まで敢闘すべき旨を訓示した。
 第24師団長もまた統一指揮不可能の現状にかんがみ、各部隊は現陣地付近を占領し、最後の一兵に至るまで敵に出血を強要すべきこと、いやしくも虜囚の辱めを受けることのないようにと訓示した。この末尾には「最後の忠節を全うすべし。隣接部隊と合流するを妨げず」の指示が加えられた。
 これより先、吉田連隊長(六月一〇日大佐進級)は戦局の成り行きを洞察し、六月一四日、本田副官に命じて軍旗を宇江城付近の師団司令部の壕に護送させた。一七日夕、連隊本部は真栄里南東七三高地鐘乳洞窟において爆雷攻撃を受け、連隊長吉田勝大佐以下は全滅した。第1・第2大隊も同様に米軍の馬乗り攻撃を受け、連隊本部と命運を共にした。第3大隊は配属連隊とともに与産岳付近に出撃していたが、混戦の末全滅の悲運をたどった。これら将兵のうちなお戦闘に耐える者は、平素の教育に従い、あるいは洞窟に潜伏し、あるいは隣接部隊と合流し、局地的抵抗を継続した。歩兵第32連隊主力に合流した者は、終戦二〇日後の九月四日、友軍連絡将校による終戦の告知を受け、初めて米軍に収容された。
 宇江城付近の師団司令部に護送された軍旗は、六月二三日、同司令部洞内において師団長・参謀長・副官ら立会の下、全員敬礼の内に奉焼せられた。拝受して六〇年、度々の外征を物語るかのように外房だけになっていた軍旗は、太平洋戦争最後の激戦地となった沖縄において日本陸軍とその運命を共にした。

表4-31 昭和郷土関係軍事年表(二)

表4-31 昭和郷土関係軍事年表(二)


図4-11 第9師団抽出後の第32軍の配備

図4-11 第9師団抽出後の第32軍の配備


図4-12 昭和20年4月26日ころの戦況『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』による

図4-12 昭和20年4月26日ころの戦況『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』による