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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 国民精神総動員運動の展開

 国民精神総動員運動の開始

 昭和六年(一九三一)九月の満州事変勃発以降、政府及び軍部は準戦時体制を敷き、政治経済の統制を次第に強化していった。とりわけ言論思想に関しては、準戦時体制に対する内外の批判を封じるため、一段と厳しい統制が加えられ、昭和八年の滝川事件、同一〇年美濃部達吉の天皇機関説への排撃問題にみられるように、「国体明徴」の名の下に学問・思想の自由が奪われていった。昭和一一年(一九三六)の二・二六事件以後、軍部の政治に対する介入は一層激しくなり、「広義国防」・「庶政一新」のスローガンの下に、国内世論の指導統一・国策上必要な産業並びに貿易の振興、国民生活の安定、国民体力の増強、国民思想の健全化、航空・海運事業の発展の方策などの具体的施策が掲げられ、銃後における国民の戦争協力体制も軍部主導の方向で着々と進められていった。
 愛媛県下においても、昭和一一年一月三〇日、松山市にあった歩兵第22連隊城北練兵場に県下各地から一万五千人の婦人会員を招集し、大日本国防婦人会愛媛県本部発会式を挙行した。この発会式において、本部長烏谷とみは、「国防の第一線に立つ方々の後顧の憂ひを除き、強き銃後の力となる」と宣言、銃後における官民一体の戦争協力体制が発足した。一方、新聞報道に対する統制もこの年一月から実施され、これまで県下の各新聞社にニュースを供給していた日本電報通信社や新聞連合の松山支局が同盟通信社に併合され、ニュース供給源も政府の統制の下に一本化された。「海南新聞」・「愛媛新報」・「伊豫新報」の紙面も戦勝記事や銃後の戦争協力記事一辺倒となり、外交や社会経済に関する記事は紙面から次第に姿を消していった。
 昭和一二年七月、蘆溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)が勃発すると、第一次近衛文麿内閣は国民の戦争への積極的参加をより一層進めるため、「国民精神総動員要綱」を閣議決定し、同年一〇月、「国民精神総動員中央連盟」の創立を機に国民精神総動員運動を全国的規模で展開させようとした。この精神運動は、国民に戦争の重大性を認識させ、戦争完遂のために全面的な協力を要求するという精神教化運動であった。本県においても、昭和一二年(一九三七)に入ると、神社を中心とする社会教化運動や国防婦人会による労力奉仕、献金活動が活発に行われるようになった。六月には、県下全農山漁村を教化するため教化要綱が発表された。要綱は、(1)農業報国精神の涵養 (2)愛村心の養成 (3)自治観念の発揮 (4)公共生活の覚醒 (5)迷信の排撃 (6)勤倹の奨励 (7)農村の維持及び発展 (8)婦人の覚醒など八項目からなり、部落常会(町内会)や講習会・懇談会などを通じて戦争遂行の基盤となる農山漁村への教化が展開された。
 九月二五日には、「国民精神総動員中央連盟」の結成に先駆け、愛媛県知事古川静夫を会長とする「国民精神総動員愛媛県実行委員会」が組織され、市町村長・貴衆両院議員・県会議員・主要官公庁職員・各種団体代表者など約五〇名が委員に任命された。委員会では、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍不抜」の精神を軸とする社会風潮の一新、銃後の後援の強化持続、非常時経済政策への協力、各種資源の愛護などの運動目標を掲げ、具体的な実践事項や実践計画などの答申作業や、市町村への実行委員会の設置促進などの作業が行われた。一〇月一日、古川知事は、「困苦欠乏に耐へ、銃後の護りを強化せよ」との趣旨の「国民精神総動員運動の告諭」を発し、県民の理解を求めた(資近代4二五四~二五五)。
 一〇月四日には初の国民精神総動員愛媛県実行委員会が開催され、実施方針、実施要綱、実施計画などが答申された(資近代4二五五~二六五)。一〇月一三日から一九日までの一週間、全国一斉に第一回国民精神総動員強調週間が実施されたが、古川知事は強調週間の初日の一三日、「県民各位に望む」と題したメッセージを発表し、「今次事変に於て我が帝国が最後の勝利を獲得致す為の鍵は結局国民精神の緊張にあるのであります。政府並に県が国民精神総動員運動に熱中する所以も実に此処に存するのであります。申すまでもなく本運動の趣旨とする所は挙国一致、尽忠報国、堅忍不抜の精神を以って現下の難局に対処すると共に、今後に於て来るべき時艱を克服して皇威の宣揚を扶翼し奉る為、官民一致して一大国民運動を捲き起さんとするものでありまして、その眼目は日本精神の顕現と之が実践とにあるのであります。どうか県民各位は政府並に県の意のあるところを体し、此の運動が天晴れ美果を収め得らるるやう御努力を御願ひする」と述べ、県民に対してこの運動の趣旨を理解するよう求めた。
 強調週間中は、県下各地の市町村や官公庁で神社への参拝、皇居・神宮遙拝、出征兵士の武運長久祈願、出征家族の慰問、勤労奉仕、心身鍛錬、慰問袋の調製などの行事が実施され、県民の精神総動員運動に対する意識の高揚が図られるとともに、「日の丸弁当」・「国民服・モンペ」の奨励など県民の消費生活に対する意識の改革も図られた。松山郵便局では、一三日には皇居・神宮遙拝、一四日には局員中より出征した九兵士の家族慰問、一七日には各自が最寄りの神社への参拝、一八日には勤労報国のための勤務時間の延長、最終日の一九日には心身鍛錬のためのラジオ体操などを実施した。また、教育現場に対しても、精神総動員運動の趣旨を徹底させるため、一二日県公会堂に学校長五〇〇余名を集め、学校において行う運動方法や本運動と学校職員の責務などについて指示した。
 古川知事は、強調週間の最終日の一九日に、「精神総動員で真面目に緊張し努力気分を作ったのを実行するのが今後の目標となるわけである。今度の強調週間は覚悟を決めたもので矢張り第二段は国家総動員を行はなくてはならぬ」(「海南新聞」昭和一二・一〇・二〇付)という談話を発表し、国民精神総動員運動は国家総動員体制を精神面から補強するものであることを強調した。

 国家総動員体制の進展

 昭和一三年(一九三八)一月、「爾後国民政府ヲ対手トセズ」の近衛声明が出されるに至り、日中戦争は長期戦に発展した。国内での軍需動員は逼迫し、国民一丸となって戦争に集結・動員させることが必要となってきた。このような状況を背景に二月八日、第二回国民精神総動員愛媛県実行委員会が県会議事堂において開催された。委員会における懇談事項は、運動実施の方法、時局認識の徹底、銃後後援の強化持続、適正なる消費節約の徹底、勤労報国精神の徹底、生産力の拡充強化など六項目で、長期化した日中戦争に対応する銃後の具体的方針案が決定された。特に、市町村総合委員会(市町村長、市町村会議員、区長、小学校長、宗教家、実業家、各種団体代表者などで構成)の活動を中心に部落常会(町内会)の開催に重点を置き運動を推進すること、勤労奉仕班による軍人遺家族への生業扶助を徹底すること、消費節約と貯蓄の徹底を図ることなどが答申された。
 これを受けて、第二回国民精神総動員強調週間が同年二月一一日の紀元節を第一日目として一週間にわたり実施された。初日の二月一一日には、県下各所で建国祭が挙行されたが、特に松山城北練兵場では、軍人・在郷軍人・青年団員・国防婦人会員・中学生・女学生・小学校児童約三万人が参集した大式典が催された。今治市でも約八千人の市民を動員した建国祭・国威宣揚式典が吹上公園において盛大に挙行された。また、時局宣伝のために四班の映写班が組織され、「支那事変」「総動員講演会」「日出ずる国」「地上の楽園」などの映画を県下各地で上映し、県民の時局認識に努めた。愛国婦人会愛媛県支部では、強調週間に当たり紀元節の奉祝、敬神崇祖の実践、国史美談の回顧、国債購入の勧奨、社会奉仕の実践、出征軍人及び遺家族の慰問などの実践事項を県下の会員に配布しその実践を促した。
 その後、国民精神総動員運動は、国家総動員体制が本格化するのに伴い一層強化され、愛媛軍友会県本部(一三年一月結成)、在郷軍人会・国防婦人会・愛国婦人会などの中核銃後後援団体により積極的に推進された。在郷軍人会は、松山市の春の市と並行して国防展を開催するなど、県民を国家総動員体制に組み込んでいった。四月には、松山市の高等女学校が中心となって愛国子女団が結成され、愛国婦人会の下部組織として銃後の後援活動に取り組むことになった。県民挙げての飛行機献納運動もこのころから盛んとなり、二月二〇日には第一愛媛号報国一九一号(八五式水上偵察機)と第二愛媛号報国一九二号(九四式水上偵察機)の献納式が温泉郡三津浜町(現松山市)の梅津寺飛行場で行われ、三月五日には第二愛媛号愛国一六三号の命名式が城北練兵場で挙行された。
 昭和一三年(一九三八)五月、軍部が強く要求していた「国家総動員法」が施行されると、国民精神総動員運動も従来の「戦争意識の高揚」という精神面の運動から「戦時統制」という実質面の運動に転換していった。六月二一日から全国一斉に行われた貯蓄報国強調週間には、国民あげての貯金を奨励した。愛媛県のこれまでの貯金額は約二億八千万円であったが、この期間中の責任貯蓄額は五千万円と決められ、県や銃後後援団体の強い働きかけもあってほぼ目標を達成した。強調週間中の松山郵便局での貯蓄動向は、二一日五〇〇口 一、六〇〇円、二二日六〇〇口 二、六〇〇円、二三日一、五〇〇口 三、五〇〇円、二四日一八〇口 九七四円、二五日二四〇口 一、四七〇円、二六日二二七口 四五五円であったが、零細な個人預金者を顧客とする郵便局と貯蓄銀行が貯金獲得の主力となった。また、銃後の後援活動も実質面を中心に活発化し、軍事寄付金や遺家族の経済的援助に力が入れられた。軍事寄付金は、事変以来六月二〇日までに総計九九七件 三一万一、九一四円七〇銭となり、飛行機献納運動とともに県民の銃後後援の中心となった。遺家族救護については、無料診察、無料助産、無料理髪のほか、各会社の応召従業員に対しては給料面での優遇処置がとられた。井関農機㈱では応召中は半額支給、伊予鉄道電気㈱は三か月全額支給、松山向陽社は八割支給、四国モータースは三か月全額支給、住友関係工場では家族持ちには八割・独身者には五割支給などの処置がとられていた。
 日中戦争勃発から一周年、長期戦が確定的となった昭和一三年(一九三八)七月七日には、松山市などで事変一周年記念式典が大々的に挙行された。このころから「一汁一菜」の非常時料理や一戸一品献納運動などが提唱され、国民の犠牲的精神の発揚が要求された。こうして国民生活は国家総動員体制の名の下に日増しに圧迫される状況となった。古川知事は事変一周年に当たり告諭を発表し、経済戦に突入した事変に対応するため、貯蓄の徹底、物資生産の増強、節約による新生活様式の確立、物価の抑制、重要物資の廃品回収を徹底することなどを強く県民に求めた(資近代4二八七~二八八)。これを受けて、県では非常時における合理的県民生活を樹立させるための新生活運動を提唱することにした。その内容は、衣食住のあり方について次のように細々と指示したもので、県民に耐乏生活を強制するものであった。

  △服装の改善
   一、輸入品軍需品関係並に輸出関係製品の節約 二、新調の停止 三、死蔵品の総動員 四、ハイヒールの廃止とモンペ服の使用奨励 五、合オーバー、夏インバ、首巻類の廃止など
  △飲食物の改善
   一、白米使用廃止 二、調理法の改善 三、青少年の禁酒禁煙 四、高級飲料の使用節約 五、宿屋料理屋に於ける膳部の節約 六、子供の買食抑制 七、味噌等の自家製造
  △住宅の改善
   一、灯火管制用電灯力バー、懐中電灯・ローソクの常備 二、堀井戸の保存愛護と消費の節約
  △集会社交儀礼の改善
  △祝祭仏事儀式の改善
  △郷土生活の改善
   一、健全なる娯楽休養 二、共同施設の改善 三、部落常会の開催
  △公衆道徳作法等に関する改善

 次いで一〇月二六日には、「愛媛県非常時生活運動要項」が発表され、新生活運動が行政組織を通じて末端にまで周知徹底されるようになった(資近代4二九七~二九九)。生活物資は代用品がもてはやされ、政府は補助金を与えて代用品研究を奨励した。本県でも、「ウツボの加工品」、「ウツボのなめし皮」、「古ズック加工靴」が優秀な研究として補助金を受けた。
 昭和一三年一一月七日から一三日にかけて、「国民精神作興ニ関スル詔書」渙発一五周年を記念して国民精神作興強調週間が設定され、精神総動員運動の総点検と一層の徹底が図られた。強調週間中は、時局認識と生活刷新の徹底に力点が置かれ、県・市町村・学校・会社・各種団体それぞれが実践項目を設定し、その実行に取り組んだ(資近代4二九五~二九六)。一二月一五日からは、長期建設強調週間が実施され、総力戦へ向けての貯蓄報国、生活刷新、物資節約が推進された。県・市町村では貯蓄組合の拡大強化やボーナスの国債での支給、郵便局や銀行では取り扱い時間の延長、各学校では貯蓄の奨励に関する訓話がなされた。また、各家庭には野戦料理が登場、会社では贈答品や忘年会・新年会が廃止されるなど多彩な取り組みがなされた。このほか、工場での産業報国会の結成も盛んで、県下の大工場(職工三〇〇名以上)六一工場中三六工場で報国会が結成され、全国一の結成率を誇った。
 国民精神総動員運動も事変二周年を迎えた昭和一四年六月には、長期戦に備える新たな展開を余儀なくされ、組織の改組や実践方法の検討が必要となってきた。六月二八日、国民精神総動員愛媛県実行委員会改正規程を発表し、従来置かれていた副会長三名を廃止するとともに七六名の委員を四三名に整理した。新しい実行委員会には顧問と常任委員会が置かれ、実践活動の円滑化が図られた。また、実践を徹底させるため、部落常会や町内会指導者の教育や実践組織の整備拡充が行われた。