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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 戦時統制と県民生活

 切符制・配給制の実施

 日中戦争が勃発した昭和一二年(一九三七)以降、非常時の名の下に重要物資を軍需優先とする経済統制が本格的に開始された。昭和一二年九月には、「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル法律」が公布され、次いでウイスキー・化粧品の輸入禁止や鉄・銅・ガソリン・綿などの使用制限と価格の統制が行われた。更に一〇月には、内閣資源局と企画庁が統合され、非常時体制下における「物資動員計画」の計画作成に当たる企画院が設置され、経済統制は一段と強化された。昭和一三年三月には綿糸・ガソリン・重油の切符販売制が、同年七月にはゴムの配給制が実施された。
 昭和一二年段階では、戦争の早期解決を予想して、あくまで「臨時」という応急措置であったこれら統制も、一三年の近衛声明を契機とした長期戦必至の状況下で「国家総動員法」という形で急速に恒久化された。国内産業は急速に民需から軍需中心へと切り換えられ、生活必需品も、六月末に発表された国内向け綿糸・綿製品の製造及び販売禁止措置を皮切りに、マッチ・ロウソク・石鹸など日用雑貨類が急速に不足し始め、軍事費の膨張に伴うインフレと相まって物価の騰貴に拍車をかけた。切符制・配給制による石油や綿糸の供給制限の結果、巷では木炭自動車、竹製家庭用品、スフや人絹などの代用品全盛時代となり、また品不足に乗じて闇取引が横行した。
 愛媛県でも昭和一三年三月に燃料規正委員会が設置され、石油の配給統制が開始された。知事を委員長とするこの委員会の設置により、自動車・工場・船舶漁業関係の石油消費は配給制の下に制限され、事業規模も次第に調整されるようになった(資近代4三七九~三八〇)。戦争の長期化に伴い石油の供給は更に制限され、昭和一五年三月からは石油配給統制規則により商工省指定の石油共販㈱を通じて、本県唯一の卸売会社である愛媛県石油販売㈱(石販)に毎月割り当てられた。需要者は、県内九か所に設置された石油共同販売組合から警察署交付の購買券で配給を受けるようになった(石油に対する統制六七一~六七五参照)。同一五年五月の本県への石油割り当て量は、揮発油四四万リットル、重油二一万リットル、軽油四三万リットルなど全需要量の七割強程度であったため、輸送関係を中心とする中小事業所は合併や転・廃業を余儀なくされた。
 石油消費規制の強化の波をかぶったのは自動車業界であった。バス部門では三共自動車や宇和島自動車の路線の統廃合が進められ、トラック部門では喜多貨物自動車、久万運送、八幡浜トラック合同運送、周桑貨物自動車運送、松山貨物自動車、松山合同運送、伊予商運などが合併を余儀なくされた。石油の供給は太平洋戦争の勃発とともにますます逼迫し、供給規制は一段と強化された。石油不足が深刻化した昭和一八年には、バス業界やトラック業界の合併が県の強力な指導で促進された。
県内の中小バス業界は、東予では瀬戸内運輸、中予では三共自動車(後の伊予鉄道バス)、南予では宇和島自動車に統合され、トラック業界も県下一六の貨物自動車業者が四社に統合された。このような事態は、輸送力の弱体化を招き、そうでなくても不足気味な消費物資の円滑な流通を阻害した。また厳しい消費規制の下に置かれた石油は、水産県愛媛の漁業にも大きな影響を与えた。石油不足による操業の縮小によって魚介類の生産が減少し、「海岸カラ少シ離レタ地方ノ人ハ殆ンド鮮魚ノ影ヲ見ルコトガ出来ナイ」(昭和一八年通常県会における赤松勲議員の発言)という状況となった。
 生活必需品である綿糸や羊毛などの繊維製品も日中戦争の長期化に伴って不足し始め、県民の消費生活や今治・松山を中心とする綿織物業界に大きな影響を与えた。「伊豫新報」昭和一四年六月四日付は、県内の繊維製品の不足ぶりを次のように報じている。

  ◇まだ松山市内の各洋服店には麻のストック品はあるにはある。絶対にないのではないが、白麻黄麻とも純粋なものになるとチョッキなしの上下で二四、五円から三五、六円といふわけだ。事変前だと一三、四円から二四、五円のものであった。
   毛の色物となるとポーラーの上下が最低で五、六〇円、最高は七、八〇円である。これも以前は最低三四、五円から四四、五円どまりのものがこの暴騰ぶりで、人絹やスフの混紡品が大部分であるが、これが純毛とあまり違はず最低四〇円、最高六、七〇円である。
  ◇とにかく夏服は勿論今冬の冬服は純毛があることはあるが、一般サラリーマンには高嶺の花で、結局裏返しや、染替や、上着とズボンの他人丼で我慢するの外はあるまい。

 また絣木綿・綿ネル・タオル・肌着用綿布などの綿製品は、昭和一三年(一九三八)三月より実施された綿糸の切符配給制や六月二八日に発表された純綿の内地向け供給を禁止するという「綿製品非常管理」措置によって一般消費者向けが極端に不足するようになり、県下各地で「買いだめ」や「売り惜しみ」が横行し価格が暴騰した。このような情勢に対応するため愛媛県地方物価委員会では昭和一三年七月二五日、第一回委員会を開き繊維製品を中心とした公定価格を決定し価格の抑制を図ったが、慢性的な品不足は如何ともし難く、昭和一四年九月一八日の「物価停止令」の発動にもかかわらず価格の上昇は続いた。昭和一三年九月を一〇〇とする繊維製品の価格指数は、翌一四年九月一八日には一二九に上り、更に九・一八価格停止令後も上昇を続け、同一五年四月には一四八となった。一般消費用の繊維製品の配給量はますます減少し、特に綿製品の配給は、昭和一五年には綿ネル及び肌着用綿布は六月一日以降出生の幼児に限り各一反、絣木綿は小学校男子五年生用として一人一反、手拭は抽選により配給という状況となった。また、同年七月には「奢侈品禁止令」(七・七禁令)が発動され、呉服・洋服・寝具・装身具など衣生活の隅々にまで制限が加えられ、一般県民も戦時体制の厳しさを肌で感じるようになった。昭和一七年(一九四二)二月一日には、太平洋戦争突入によりますます不足を来した繊維製品の供給を最小限にとどめるため、衣料品の総合切符制が実施された。この制度は、一人一年間一〇〇点(郡部は八〇点)の点数切符を受け愛媛県繊維製品配給会社を通じて必要衣料を購入するというもので、背広一着五〇点、袷四八点、ワイシャツ一二点、パッチ一二点、手拭三点などの点数(点数は時期及び場所により若干差異がある)から考えると相当厳しい供給制限であった。しかし、国民学校児童服・中等学校以上の生徒・学生の学生服は学校で配給され、工場・鉱山・農山漁村向けには労働作業衣類が配給された。なお、昭和一九年以降は「決戦下の衣生活を戦ひ抜く」ため、所与の点数が一段と削減された。このような状況下、昭和一八年七月に、松山市内の服装点描を「愛媛合同新聞」は次のように紹介している。

  午前十時半より同十一時までの市内一番町電車停留所にてまづ目につくのは女性の簡単服、男性の上衣なしの半ズボン、いづれも下駄をはいて―ハイヒールや靴をはいている女性は十人に一人、男で靴は十人に三人くらゐ、半ズボンも十人に三人―カラコロと街を往ってゐることで、翼賛会県支部が「戦時における執務能率向上と戦時下貴重なる資材労力の節約に資するとともに貯蓄源泉の造成を目的とするため非礼にならぬ限り夏は簡易な服装でよろしい」とのお達しが十二分に徹底してまあまあ及第点を与へてもよいが、残念なことには女性の簡単服七、八に対してモンペ着用一人割合ひの御婦人しか見受けられなかった。モンペ着用は女学生だけといふ有様。これでは身軽に活動出来るためにとい ふ自覚から簡易な服装態勢を整へてゐるとはいひ難い。秋ともなれば満艦飾に着飾る気配が濃厚に漂ってゐる。夏羽織と称するものを時期だからと無理して着用に及び、おまけに白足袋まで履いた男女が三十分間に六人も停留所にフウフウいっては現らはれたのには驚いた。

 昭和一五年(一九四〇)以降になると、切符制・配給制の波は日常生活必需品全般に及んだ。同年六月、六大都市を皮切りに砂糖とマッチの切符配給制が実施され、続いて大豆・木炭・紙なども配給制となり、これらの配給品が隣組組織を通じて各戸に配られた。翌一六年四月には六大都市で米穀の配給制が開始され、更に麦類・生鮮食料品(魚・肉・青果)・清酒なども切符制・配給制となった。翌一七年には衣料品・味噌・醤油・水産物など日常生活必需品のほとんどが切符制・配給制となり、物資欠乏時代が到来し、裏では闇取引が横行した。
 愛媛県下における砂糖の切符配給制は、消費量の多い松山市が七月二〇日をもって市産業課が切符を発行し松山市砂糖小売商業組合が一か月一人半斤を配給するという形で実施に踏み切った。温泉郡・伊予郡郡中町(現伊予市)・八幡浜市・周桑郡壬生川町(現東予市)などもこれに続いて実施した。一一月一日からは砂糖やマッチに対する法的切符制が全国的に実施され、本県は砂糖にしてもマッチにしても自治的切符制で十分機能しているという理由から、法的切符制の実施は当分見送られた。野菜・魚介類などの生鮮食料品は、昭和一六年より配給制となったが松山市を中心とする都市部では供給が需要に伴わず、買い出しや情実販売などの横行で配給機能が停滞するという状況が続いた。特に生鮮魚介類は、石油不足による漁業の不振が大きく影響して、都市部に限らず農村部でも鮮魚の姿を見ることが珍しくなった。そこで県水産課では、県下に四四の鮮魚介配給統制組合を結成させ、一八年三月一日より共同配給制度による計画配給を実施したが、需給の不均衡は如何ともし難く、根本的解決とはならなかった。
 主食の中心である米穀については、日中戦争勃発以来その価格の高騰が特に著しく、その抑制が政府の物価政策の最重要課題となった。農林省は昭和一四年(一九三九)八月二六日、「米穀配給統制法」を発動し玄米三等一石の最高価格を三八円一三銭(愛媛県は三八円四三銭)に決定し、米価の抑制に乗り出した。同年一一月からは米穀の強制買い上げが開始された。ちなみに、愛媛県における米穀の生産量は約九五万八千石(大正二年~昭和一六年の平均生産量)、消費量は平均約一〇六万石で、常時一〇万石前後の不足を生じていた。このため愛媛県では、昭和一五年三月より北宇和郡吉田町を皮切りに米穀の切符・通帳制による自治的配給制度を実施した(資近代4三八六~三八八)。その後、昭和一六年四月一日から政府は通帳による米穀の配給制の実施に踏み切り、一般消費者一人一日二合三勺を基準として配給割り当てを行った。本県でも従来の自治的配給制度を改め、県下平均一人一日一合六勺(最高二合、最低六勺)を消費基準として各市町村に米穀の配給割り当てを行ったが、全国基準を切る不足分は麦類芋類などの補助食糧で充足した。昭和一八年に入ると本県の食糧事情は朝鮮米の移入がほとんど停止したため一段と悪化し、九月分からは麦を四割以上または甘藷・乾麵・馬鈴薯をそれに代替する総合食糧配給制が採用された。全国的に食糧事情が悪化するなかで、食糧自給率の低い本県の食糧事情は特に悪く、主食の配給すらままならぬ状況に陥った。「愛媛合同新聞」昭和二〇年一月一五日付け当時の窮状を次のように紹介している。

  まづ一番に逼迫を態してゐるのは蔬菜、味噌、醤油、漬物などの食料品で、つぎは薪炭から作業衣や地下足袋など、これを地域的に見ると松山地方は蔬菜、薪炭などで、蔬菜不足の原因はまづ○(マル)納(農産物などを公定価格で公的食糧管理機関へ納入すること)の増加と人口増加、甘藷増産による秋季蒔付遅延や種子不足、または消費者の産地買出し、農繁期による出荷不振が蔬菜不足の原因となっている。
  一方、東予の中心新居浜地方でも松山と同様の状況を呈してゐる。また東端三島地方では味噌、醤油などが人口増加などで減少してゐる。これは徹底的な人口調査で配給の円滑に資する意向であるが、醤油会社の燃料確保から勤労奉仕などで労力不足も補ひ醤油生産の増産につとめる一方、農業労務者の労働作業衣や地下足袋の不足を今治地方でうったへてゐるので、出来得る限り増配方と重点配給を中央へ要請する。


 戦時下における言論思想統制

 日中戦争の勃発により、国家総動員体制がとられ物心両面にわたる統制が一段と強化されることになった。昭和一二年(一九三七)一二月一五日、全国一八府県の日本無産党・日本労働組合全国評議会・全国農民組合などの関係者を一斉検挙するといういわゆる第一次人民戦線事件や、翌一三年二月一日には労農派学者の検挙という第二次人民戦線事件が起こり、戦時下の言論思想統制の厳しさが浮き彫りにされた。戦争の長期化に伴い「治安維持法」も拡大運用されるようになり、自由主義的な言論や文化活動も取り締まりの対象となった。また「治安維持法」の拡大運用は、思想とは無縁な一般民衆の生活をも制限することとなり、「口は禍のもと」の時代を迎えることになった。「治安維持法」も昭和一六年には全面改正され、罰則の強化、特別刑事手続きの採用、予防拘禁の導入など国民の一挙手一投足まで徹底的に監視するものとなった。その後、「国防保安法」や「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」「戦時犯罪処罰特例法」などの戦時特別法が公布され、特別高等警察(特高)や憲兵によって平時には問題とならなかったような言動が不敬・不穏・反戦・反軍などの理由で取り締まられるようになった。
 愛媛県下における言論・思想統制も日中戦争突入を契機に厳しくなり、共産主義者・社会主義者の中には転向して思想報国会愛媛支部を結成して活動する者も現れた。代表的な無産政党である社会大衆党愛媛県連合会も昭和一二年一一月七日の県連大会において「時局認識に努むるとともに、組織の充実を図る」という方針を打ち出し、事実上、事変を支持する姿勢をとった。同党も昭和一五年七月、党本部の方針に従い県連合会、同党松山支部、同伊予郡支部、同東予支部(党員一八八名)を解散した。農民組合や労働組合の活動も愛媛県では極めて低調で、取り締まりの対象となるような事件はほとんどみられなかった。大日本農民組合県連合会(社会大衆党系)や愛媛県農民連盟準備会(日本農民連盟系)も積極的活動はほとんどなく有名無実の存在であった。労働争議も昭和一三年に一四件、翌一四年に一七件の発生をみたが、生活必需品の不足や物価の騰貴に端を発するもので、反権力的な色彩はみられなかった。
 県下の宗教活動に対する取り締まりは、昭和一〇年、翌一一年の大本教及びひとのみち教団(現パーフェクト・リバティー教団)が不敬罪で摘発されたことに関連するものであった。大本教もひとのみち教団も教祖や教団幹部が愛媛県出身者であったため、県下に信者が多く、警察当局による結社禁止の処分は宗教関係者を動揺させた。大本教は県下に約二〇〇名の信者と系列団体の会員約一、五〇〇名を擁していたが、県警察部特別高等課の指示により昭和一一年三月までに信者・会員の大多数が転宗あるいは脱会した。ひとのみち教団は教祖御木徳一が松山市出身のため特に信者が多く、松山・今治・西条・新居浜を中心に約一千名の信者がいた。この教団関係者も、昭和一二年四月の結社禁止処分によってほとんどが転宗した。その他天理本道教団も、昭和一四年五月の県内関係者の一斉検挙により姿を消すことになった。昭和一七年になるとキリスト教関係者に対する取り締まりも厳しくなり、同年六月には日本ホーリネス教会派の宣教師や信徒が「治安維持法」に抵触するとして検挙されるなど、「治安維持法」の網は民衆の正当な信仰活動をも縛った。
 日中戦争の長期化、太平洋戦争への突入など戦局の泥沼化に伴い、県下の銃後を守る民衆の間にも厭戦感や生活必需物資の不足からくる不平不満感が増大するようになった。昭和一五年(一九四〇)時の農村では、「旱害農村ヲ除ク純農村ニアリテハ米価ノ統制ヲ受ケツヽアリト雖モ雑穀類ノ昻騰副業ニ依ル収入増加ニヨリ生活ノ余裕ヲ生ジ貯蓄増加ノ傾向ニアリ、然レ共農村ハ労働カノ不足並諸物価ノ昻騰、物資不足ニ悩ミ、殊ニ肥料不足ニ対シ大ナル不満ヲ持チ、無智ナル農村ノ一部ニアリテハ政策ニ対シ詛呪的言辞ヲ弄スルモノアリ」といった状況で、都市部では、「有産階級並殷賑産業部面ヲ除ク外、時局認識低下シ表面平静ヲ装フモ統制政策並飯米不足等ニ対スル不平不満ハ何時爆発スルヤモ難計ク憂慮スベキ状態」(資近代4三三九~三四〇)にあった。このような状勢を背景に不穏言動が増加し、流言飛言の内容も次第に反軍反戦的なものになっていった。昭和一三年四月から一五年三月までの県特別高等課が検挙した流言飛語事例は表4―33のようである。
 昭和一四年(一九三九)、今治市内には「反戦反軍、軍部の独裁政治」「戦闘中止、悪ニ永久ノ勝利ナシ」の落書きが見られ、同一七年ごろには「支那事変ヲ東亜再建設等ト称スルモ支那侵略ニ外ナラズ、国民ガ軍部ニ欺カレテ居ルノダ」、「ファッショノ台頭ニ依リ支那事変ハ発生シタルモノニシテ今事変ハ人道上赦ス可ラザルモノナリ」、「事変以来総テ自由ハ制限セラレ、勤労大衆ハ生活ニ苦シンデ居ル、為政者ハ無責任極マル」といった反戦反軍的言辞で検挙される者もいた。また「政府ハ増産増産ト奨励スルガ、農村ニ肥料ヤ地下足袋ノ配給ガ不円滑デハ幾等奨励シテモ増産ハ出来ヌ」(一農民)、「我々ハ仕事後二合位ノ酒ヲ呑ム事ガ唯一ノ楽デスガ、得意先以外ハ売ツテ呉レマセン、今後共品ハ不足シ統制ハ強化スルト思フガ、早ク戦争ガ済ンデ平和ニナッテ呉レルノヲ待ツテ居マス」一日稼ぎ労働者)といった厭戦気分が漂い、「息子ガ戦死シタノハ軍ヤ村役場ガ早ク帰シテ呉レナイカラ戦死シタノデ、何モ名誉ダナドト考ヘテハイナイ」、「二人ノ子供ガ一人ハ戦死シ一人ハ戦傷不具ニナリ、死ンダ子モ可愛想デスガ、不具ニナツタ子ガ可愛想デ戦争サエナカツタラト思フ」などの遺家族の切実な叫びが聞かれるようになった。

図4-20 揮発油券

図4-20 揮発油券


表4-33 検挙された流言飛語の種別と件数

表4-33 検挙された流言飛語の種別と件数