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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

結び

 『愛媛県史』近代編の性格

 『愛媛県史』全四○巻のうち、通史編「近代上」「近代下」、資料編「幕末維新」「近代1」~「近代4」及び「現代」の八巻は近・現代部会が担当した。通史編「近代下」を完結するに当たり、前記八巻の性格をまとめてみたい。
 昭和五四年夏、県史編さん事業が一〇年計画で出発すると、近・現代部会では八巻の構想を練るとともに、資料の収集に力を注いだ。特に当初計画された資料編五巻を通史編三巻(当初予定)を記述する基本史料と位置づけ、愛媛県庁や愛媛県立図書館所蔵の行政文書を中心に収録してきた。資料編「幕末維新」は嘉永六年(一八五三)から明治四年(一八七一)まで、同「近代1」は明治四年から同一三年(一八八〇)の岩村県政の終末まで、同「近代2」は明治一三年から同二二年(一八八九)の市制・町村制施行まで、同じく資料編「近代3」は明治二三年から大正一五年(一九二六)まで、同「近代4」は昭和元年から同二〇年(一九四五)までの資料を収録して、昭和五九年より逐次刊行した。
 これら資料編には、その時期の特徴を踏まえながら、行政文書のみならず、学校保存文書、個人所蔵文書をも適宜掲載した。また、国公立・私立を問わず、県内外の各文書保存機関の協力を得て、近代愛媛の政治・経済・社会・文化史に必要不可欠と思える史料を収録した。この間、通史編の内容構成と執筆分担の協議検討を重ね、近代愛媛を四時期に分けることとした。通史編「近代上」の第一章愛媛県の成立(明治四~二一年)、第二章地方自治制度の成立と愛媛県(明治二二~四五年)、同「近代下」(本巻)の第三章愛媛県の発展(大正元~昭和五年)、第四章戦時下の愛媛(昭和六~二〇年)、以上四つの章は、明治前期、明治後期、大正・昭和初期、昭和戦前期の愛媛を記述したものである。
 『愛媛県史』の特色の一つに一九巻に及ぶ部門史があり、それらは、県政、文学、教育、学問・宗教、芸術・文化財、社会経済(農林水産・商工・社会)、民俗、地誌、人物など、それぞれに独立して詳述されている。通史は、その性格上、歴史事象全体を網羅しなければならないが、通史編「近代上」及び「近代下」では、部門史との重複をできる限り避けることを基本方針とした。このため、産業経済・社会・文化面では概説的叙述にとどまっている。以下、近代愛媛の特徴を四つの時代区分に従って略述しておこう。

 明治時代の愛媛

 廃藩置県が断行された明治四年(一八七一)から「市制」「町村制」施行前の同二一年(一八八八)まで、本県では、政治・社会・産業経済・教育・軍事など各方面で、近代化のための諸改革が続いた。伊予八藩がそのまま八県になり、更に石鐵・神山県への統合に続いて、明治六年二月には両県が合併して愛媛県が誕生した。創成期の県政を担当したのは開明県令として知られる岩村高俊であった。当時の県政は、地方士族の県官登用、町村会・大区会・特設県会の開設、香川県の併合、三新法による郡町村の編成、地方税制の確立などに特徴づけられる。
 明治初期、新政府は、封建的身分制度を解体して四民平等の原則を打ち出し、「学制」を制定して近代的学校教育制度を創始する一方、近代の土地制度や租税制度の基本となった地租改正を実施した。こうした中央の動きに応じて、愛媛県でも四民平等の原則のもと、生活様式・風俗習慣の改善が令達され文明開化が徐々に浸透した。教育面では、県庁内に学務課を設置(明治八年)して小学校設立に努め、「教育令」公布(同一二年)後は、学務委員を介して教育の地方管理と自由化が進められ、愛媛県師範学校の開校や中学校の整備が図られた。本県の地租改正事業は、明治八年以降七五件を超える関係布令に基づいて実施され、明治一〇年代にはインフレとデフレ下で農村の小作地化は進んだ。
 諸産業の近代化は、国と県とを問わず明治初期の緊急課題であった。明治一〇年県下各大区に勧業掛を置き、農林業の近代化のみならず蚕糸業・綿業・製紙業・製蠟業などの発展が企図され、知事藤村紫朗は″蚕業知事″と称されて、その後の本県蚕糸業発展に尽力した。また喜多・東宇和・西宇和・北宇和・南宇和の各郡では、近世以来の伝統を更に発展させ、全国一の生蠟生産を誇った。この時期、金融会社を中心に諸会社が誕生し、明治二〇年代には各種製造会社が増加した。一方、住友別子銅山でも経営の近代化に成功し、洋式製錬所を建設して生産拡大を進めたが、後に煙害問題の解決に苦しんだ。
 明治七年以降、本県でも自由民権運動が展開された。大洲集義社、松山公共社が結成され、新聞を発刊してその主張を県下に示すとともに、土佐立志社から壮士を招いて政談会を催した。旧宇和島藩内で起こった無役地事件は農民民権の代表例である。その後、本県の民権派内にも分裂がみられ、四国新道の開削案などをめぐって県会でも対立した。大同団結運動の中で、本県の大同派と改進派の間で歩み寄り工作も図られたが、明治二一年の香川県分離後も、両者は対立を続けた。
 「市制」「町村制」の施行(明治二二年)、「郡制」「府県制」の施行(同三〇年)などによって、愛媛県下の地方自治制度も新しい展開をみた。各地で町村合併が進行し、松山に市制が施行された。また、郡制施行に伴う郡の統廃合が進められて、県行政機構も確立した。こうした中、勝間田稔・小牧昌業両知事の時代には国・県道改修計画、大庭寛一・本部泰両知事の時代には教育・土木・勧業の振興策が打ち出された。明治三七年本県知事に就任した安藤謙介は日露戦争後の県政推進に意を用い、教育・産業の中で急要事項に予算措置を講じる一方、二二か年継続の大土木工事を進めた。これらの各施策には政友会県支部と進歩派との利害対立がみられ、県会はしばしば紛糾した。伊澤多喜男知事の時期に摘発された三津浜築港疑獄事件は、その代表的なものである。なお、伊澤県政下では、大土木事業の更正、四阪島煙害問題の解決、公有林野の整理開発などが行われた。
 町村合併の実施により、旧来の自然村落は新しい行政町村に組み込まれ、ムラの体質も時の流れに応じて変貌していった。温泉郡余土村では盲目の村長森恒太郎の指導のもとに、村内の産業・経済・風俗・教育など各般にわたって改良を試み、「余土村是」に則る模範村を作りあげ、県下のみならず全国の地方改良運動の先駆となった。
 明治中期から後期にかけて、農林水産業の発展がみられたが、新しく電カ・ガス事業も興起し、製塩・窯業・織物などの在来工業も活発化した。生産の増大は商取引の活況を生み、商工会や商業会議所も確立し、明治三〇年代には銀行の乱立時代を迎えた。″坊っちゃん列車″で有名な伊予鉄道は明治二一年には開業し、陸上・海上の交通網も拡充された。
 このころ、小学校の整備拡充は一段と進み、県立中学校の増設、高等女学校の創設、県・郡立実業学校の設置が相次ぎ、明治四三年には愛媛県女子師範学校が開校した。このほか、正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子の近代文学史上に残した足跡は特筆すべきことである。社会生活面では、近代警察制度の確立に伴い消防組織も整備され、庶民生活に脅威を与えていたコレラに対する防疫体制も衛生思想の普及を伴いながら整備されてきた。洋服・牛肉・自転車・電灯などに象徴される近代的生活様式は、明治の後半期に県下に普及したが、それはまだ松山・今治・宇和島など本県の中核市町での現象であった。
 徴兵制実施により、本県の壮丁は丸亀営所に入ったが、明治一七年には松山に歩兵第22連隊が新設され、日清・日露戦争では多くの将兵が高浜港より出征し、朝鮮や満州(旅順・撫順など)方面で活躍した後、凱旋した。なお、日清・日露の両戦争に際し、松山市に俘虜収容所が設けられたことも、近代愛媛の特記すべき出来事である。

 大正・昭和時代(戦前期)の愛媛

 大正元年(一九一二)七月三〇日明治天皇の崩御で「明治の終焉」を迎え、「大正」と改元された。大正新時代の幕開けとともに第一次護憲運動が起こって非立憲的な桂内閣が打倒されたが、本県では地方政社の立場を堅持してきた愛媛進歩党の大部分が桂新党(立憲同志会)に参加するなど中央―地方の政党系列化が進み、護憲運動による覚醒はみられなかった。
 大正三年に勃発した第一次世界大戦は、我が国に空前の大戦景気をもたらし、本県産業界は活気づき、綿織物・製糸・製紙など在来工業は著しく躍進し、鉱山熱や造船ブームが起こった。農林水産業の基盤整備が進んだのもこの時期であった。全国各地で「成金」が出現する一方で、庶民は物価の高騰に苦しみ、やがて大正七年の米騒動で爆発した。
 米騒動で示された民衆の動向を背景に本格的政党内閣である原内閣が生まれると、政治の民主化を求めて普選運動が高まった。本県でも普選期成同盟会が結成されて県民の関心を引き起こした。同一三年の第二次護憲運動には、本県でも政治に目覚めた青年・学生が参加するようになった。
 大戦中の産業の発展やロシア革命・米騒動の影響によって勃興した労働・農民運動は、戦後恐慌で先鋭化し、労働組合・農民組合が結成されて、別子銅山・倉敷紡績松山工場のストライキや小作争議が頻発した。部落解放運動の全国水平社支部も組織され、部落改善のための推進団体が各地に発足した。失業・貧困は大きな社会問題となり、方面委員制度や社会事業協会が生まれ、種々の救護施設が設けられた。また、明治時代後期以来進められた町村自治と財政再建のための地方改良運動に代わり、思想善導・生活改善等を含めた民力涵養運動が展開されるようになった。
 大正時代の県政は七人の知事が担ったが、これらの地方長官は帝国大学卒業・高等文官試験合格の内務官僚で、二年程度で更迭を繰り返し、知事の個性を示す施策は稀薄になった。この期の県政施策は、国力の充実を背景に土木事業の推進と中等学校の拡充が図られた。本県でも二〇か年継続治水事業と三〇か年継続土木事業が計画施行され、三次にわたって県道の路線認定が行われた。中等教育振興策としては、郡立学校の整理と県立移管、中等学校拡張五か年計画が実行された。農政では米穀検査の実施や自作農創設維持事業が進められた。教育面で特記すべきことは、大正八年に官立松山高等学校、同一二年に私立松山高等商業学校が開校したことであった。
 この時期、産業の発展に伴う人口増で周辺村を合併編入して全国的に市が誕生した。本県では大正九年に今治、同一〇年に宇和島が市制を施行した。地方制度の法規である「市制」・「町村制」と「府県制」・「郡制」は情勢に応じて改められていたが、大正一〇年に「郡制」が廃止され、同一二年から施行された。これに伴い郡立中学校が県立に移管され、郡長・郡役所は廃止された。
 峠が多い本県の地形に阻まれて交通は容易に開けなかったが、県道の追加と継続土木事業による道路改修で次第に整備され、自動車の普及と相まって乗合バスが運行をはじめた。鉄道は伊予鉄道と松山電気軌道が激しい乗客争奪合戦を繰り広げたが、大正一〇年に伊予鉄電に一本化された。その後、伊予鉄による城南線の整備や高浜線の複線電化が進められた。また宇和島鉄道と大洲鉄道によって軽便鉄道路線が開通した。本土と連絡する海運は阪神・別府航路の大型船が高浜港に寄港したが、内海航路は国鉄の西進に伴い姿を消していった。国鉄予讃線は昭和二年(一九二七)に松山まで開通したが、南予への延長は遅々として進まなかった。
 この時期、防疫体制の強化と結核など蔓延予防の開始で保健衛生もようやく向上した。新聞・雑誌・書籍の普及やラジオ放送の開始、常設映画館の開設などで県民は大衆文化を享受し、野球などスポーツに親しむようになった。中央文壇では高浜虚子・河東碧梧桐など俳諧を中心に郷土出身の多くの文人が活躍した。
 大正一五年一二月二五日大正天皇が崩御し、摂政裕仁親王が践祚して「昭和」と改元された。大正後期の戦後恐慌は関東大震災による打撃が加わって昭和二年の金融恐慌になり、同四年の世界恐慌で輸出は大きく減少して企業操短・倒産が相次ぎ、農家は収入減で困窮が著しかった。日本経済は昭和の幕開け早々深刻な恐慌状態に陥った。政党内閣の人事で県知事はしばしば異動したが、その間緊縮財政と恐慌対策に苦慮し、市町村財政は窮迫して教員給の寄付を強要した。
 経済不況は昭和七年その頂点に達した。政府は救農土木事業・農山漁村経済更生計画を主体とした時局匡救対策をたて、市町村に自力更生への努力を求めた。本県でも救農土木事業が推進され、各町村で自力更生運動が展開した。またこの時期銅山川分水問題がようやく進捗して、昭和一二年渇水に苦しむ宇摩郡農民待望の疎水事業が起工した。
 ようやく恐慌を脱した諸産業は軍需工業を中心に再び活況を呈し、住友の街新居浜では重化学工業の発達が目覚ましく、また本県の海岸部には人絹工業が進出した。工業都市に躍進した新居浜をはじめ八幡浜・西条は昭和一〇年代に市制を施行、近代産業都市への脱皮を図る松山市は海への玄関口を求めて三津浜町など周辺町村を編入、市域を拡大した。
 昭和一二年七月日中戦争が勃発、同一六年一二月の太平洋戦争へと続く戦線拡大・長期化に伴い、歩兵第22連隊のほか郷土部隊が次々に編成されて、中国・太平洋・東南アジアの各戦場に動員されていった。
 国内では戦時体制が叫ばれ、年とともに強化されていった。産業報国会の結成、産業組合の拡充・統一などによる農民・労働者の再組織化が図られ、国民を時局体制に動員する国民精神総動員が展開された。昭和一三年には「国家総動員法」が制定され、経済統制があらゆる分野で強化された。新体制の下、同一五年には大政翼賛会が結成され、本県にもその支部が生まれて上意下達の機構づくりが行われた。戦時下の県知事は内務官僚の定期異動の座という様相が強かったが、同一八年四国地方行政協議会長を兼ねて本県知事に相川勝六が赴任した。相川は、その実行力と政治手腕で本県未曾有の台風被害を迅速に復旧するなど、決戦必勝下にふさわしい長官と称えられた。
 戦局が長期化の一途をたどる中で、生活の切り詰めが強化され、米の配給制、衣料などの切符制で日用品の統制が進んだ。農村では米麦の供出制が実施され、食糧増産と軍需工場への労働動員が強化された。国民の生活と労働は警察の監視下に置かれ、婦人による防空訓練が繰り返されるようになった。昭和二〇年本県でも米軍機による空襲を受け、やがて松山・今治・宇和島の三都市が焦土と化し、八月一五日に終戦を迎えた。

 近・現代史通史叙述の留意点

 『愛媛県史』通史「近代上」及び「近代下」は、県政史に叙述が偏り、産業経済・社会・文化の叙述がやや薄い傾向を持っていることは否めない。これは、通史という性格上、ある程度やむを得ないことといえよう。もっとも、県史であるから県の特色が浮き彫りにされなければならないことは当然である。そうした点に考慮はしたが、近・現代史の場合行財政の全国に共通した制度的枠組みがあり、それらの実施状況を綴った場合、県独自のものとして叙述することは困難である。いきおい通史「近代上」・「近代下」を通じて、政治偏重で、制度・事件などの推移・経過の現象面の叙述傾向が強いとの批判を受けることは仕方のないことと思う。愛媛県史は部門史に特色があり、産業経済・社会・文化・地誌・民俗に多くの巻数を割いているため、通史では主観を抑えて記述を客観・簡略化する必要があったわけである。また、近代に生きた人々の喜びや悲しみやその生活の実態などいわゆる民衆史については、主として民俗編に譲った。
 太平洋戦争以後の現代史の取り扱いは、県史を編さんしている諸県の共通の悩みであり、その難しさについては愛媛県史編さん委員会の近・現代史編顧問小西四郎先生が寄せられた次の所見に明らかである。
 「戦後すでに四○年以上を経過した。普通、現代史という場合、それはこの戦後の時期を指すものである。四〇年というのはかなり長期であり、しかも現在の人々の生活ともっとも密着している時期である。この間の叙述を欠くことは近・現代部会という名にふさわしくないという意見もあろう。しかし戦後史を述べることはきわめて困難であり、この間の叙述は今後の問題として残した方がよいと私は考える。その困難さとは何かといえば、第一には戦後史料編纂の方法論がまだ確立していないし、戦後史研究者もほとんど生まれていないからである。したがって、まずこの問題が解決されなければならないのであり、それは容易なことではない。第二に戦後の諸事件や諸問題に対する歴史的な評価は非常に難しく、まだ一定の学問的評価の定まっていないものが少なくない。そのような際、敢えて叙述を行うとすれば、それはただ単なる事件の羅列となったり、あるいは執筆者の主観が濃厚となったりする。これは避けなければならないことである。このような主として第一・第二の要因のほか、現代史叙述の場合、多くの当事者が現存しており、客観的叙述上、各方面で支障をきたすこともあげられよう。」
 こうした現代史叙述の難しさに加えて、本県史の場合、前述したように多くの部門史で現代の部分的断面が取り上げられており、それらとの重複も問題にしなければならなかった。とりわけ部門史「県政」には、現実に戦後の県政を担当した多くの実務者が結集しており、戦後県政史叙述の成果が期待される。近・現代部会では協議を重ねた結果、これら部門史の成果に立った現代通史を後日に託することにして、今回は県政部会関係者との緊密な協力体制の下に、戦後行政史料を中心に可能な限り史料収集・整理に努めて、資料編「現代」として刊行することに意見の一致をみた。資料編の対象とする時代は終戦(昭和二〇年八月)~第四次白石県政(昭和六一年)であり、六三年度刊行を期して編集作業を続けている。