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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔天慶2(939)~寛仁3(1019)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

939(天慶2・己亥) 
  2―9   伊勢大神宮に神宝物を納めて、純友の党類ら追討のことを祈る〔大神宮諸雑事記〕。
  6―21   東西の兵乱に備え神仏への祈禱と警固に勤めるよう、東山道や山陽・西海道の諸国に太政官符を下す〔本朝世紀〕。
  9―26   南海道の海賊平定を祇園社に祈願する〔公記抄〕。
  12―17   純友が紀淑人の制止をふりきって海上に進出しようとしているので、早く純友を召喚されるようにという伊予国からの申請がある〔公記抄〕。
  12―19   諸卿、陣頭において純友乱悪の事につき評議する。
  12―21   伊予国の解文にもとづき、純友を召喚すべき旨の官符を摂津など7か国に下し、藤原明方らを使者として派遣する〔公記抄〕。
  12―25   京都法琳寺などで南海の海賊を祈伏させる〔公記抄〕。
  12―26   摂津国須岐駅(藁屋駅ともいう)で藤原純友の郎等藤原文元らが、備前介藤原子高および播磨介島田惟・らを捕える〔紀略・公記抄〕。
  12―29   平将門と純友が提携しないように、東西両方面へ固関使、警固使を派遣する〔本朝世紀〕。
  この年   空也、坐禅練行を始める。


940(天慶3・庚子) 
  1―6   東西の兵乱平定祈願のため諸国名神に位1階をすすめる〔公記抄〕。
  1―14   右近衛少将正五位下小野好古、山陽道追捕凶賊使をかねる〔紀略〕。
  1―16   小野好古、京都を出発。播磨、讃岐などで船200余艘を調達したのち、2月ごろ伊予へ向かう〔公記抄〕。
  1―19   東西兵乱の事により、山階以下5陵に山陵使をたてる(1―24、4陵に派遣)〔公記抄〕。
  1―20   海賊が横行するので修法が行われる〔公記抄〕
  1―21   これより先東西兵乱の鎮定を祈るため、諸社に奉幣する。この日伊勢幣帛使出発する〔師守記〕。
  1―30   純友に対し、従五位下に叙するよう議奏がある〔公記抄〕。この日、東西兵乱により、石清水など諸社に臨時幣帛使が派遣される〔師守記〕。
  2―1   去る承平5年の海賊平定のための祈禱により、伊予国伊曽野神、野間神にそれぞれ正二位を叙する〔長寛勘文〕。
  2―3   藤原明方が帰還し、伊予国解と純友の申文を進達する。この日、純友の従五位下の位記を携え、蜷渕有相が伊予に遣わされる〔公記抄〕。
  2―5   淡路国から、海賊が襲来し、兵器が奪取された旨報告がある〔公記抄〕。
  2―13   平将門、藤原秀郷らとの戦いで敗死する〔紀略〕。
  2―22   小野好古から、純友が海上に船を漕ぎ出したとの連絡がある〔公記抄〕。
  2―23   純友の海上進出に備え、山崎、川尻、備後などの警固使を定める〔公記抄〕。
  2―25   山崎関に兵士を派遣するが、翌日山崎は焼亡〔公記抄〕。この日仁王会を修し、夷賊征圧のことを祈る〔紀略〕。
  3―2   純友に位記を与える使者蜷渕有相が帰参し、純友が悦んだ由を伝える。この日伊予国から解文が進められる〔公記抄〕。
  3―4   追捕南海凶賊使を定める〔紀略〕。
  4―10   東西の凶賊を平定するために、伊勢大神宮以下諸社に幣帛をささげる〔公記抄〕。
  6―18   追捕山陽道凶賊使をして、純友の暴悪な士卒を追捕させるべき旨の官符を発することになる〔公記抄〕。
  6―    『将門記』成る。
  8―20   南海凶賊藤原文元等討滅のため、石清水八幡宮など12社に奉幣して祈願する〔紀略・師守記〕。
  8―22   阿波国の賊徒を討滅するため、近江国から兵士100人を徴発する。
  8―26   伊予・讃岐・阿波国などより飛駅使が到来し、18日から賊船400余艘が襲来し、伊予、讃岐両国があいついで攻撃をうけたこと、備後国兵船100余艘が焼き払われたことなどが報告される〔公記抄〕。
  8―27   純友を追捕するために諸国の兵士の徴発を決定する。宇治・淀・山崎の警固使を定め、右近衛少将小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使とする〔師守記〕。
  8―29   紀伊国より海賊襲来が報告される〔紀略〕。

  9―2   讃岐国が、海賊の党類紀文度を捕え、進上する〔師守記〕。
  9―13   伊予国大山積神に封戸5戸を施入する〔新抄格勅符抄〕。
  10―22   安芸・周防国より、大宰府の兵が海賊のために撃破されたことが報告される〔紀略〕。
  11―7   周防国より、鋳銭司が海賊の攻撃をうけ焼かれたとの報が入る〔紀略〕。
  11―21   摂津国住吉神宮寺で、純友鎮圧を祈願するために毘沙門天調伏法を修する〔扶桑略記〕。
  12―19   土佐国より、幡多郡が海賊の攻撃を受け、焼亡したことが報じられる〔紀略〕。


941(天慶4・辛丑) 
  1―15   諸卿御前に召され、純友追討の事が決定する〔北山抄〕。
  1―16   追捕南海凶賊使から解文が到来する〔紀略〕。
  1―21   伊予国、前山城掾海賊藤原己辰を討ってその首を京都に送る〔師守記〕。
  2―9   讃岐国より、兵庫允宮道忠用・藤原恒利らが伊予国にむかい、海賊を撃ったことが報告される〔紀略〕。
  5―19   小野好古より、純友軍が大宰府内を虜掠したとの報があり、参議右衛門督藤原忠文を、征西大将軍に任ずる〔紀略〕。
  5―20   小野好古、純友の軍を筑前国博多津に撃破する〔本朝世紀〕。
  5―23   純友追討のため仁王会が行われる〔師守記〕。
  6―6   純友撃破の報が追捕使より都に届く〔紀略〕。
  6―11   備前国などの飛駅使、純友らが響灘より舟を捨てて逃走、入京の疑いもありと報ずる〔吏部王記〕。
  6―20  純友ら大宰府より伊予国に敗走するが、伊予国警固使橘遠保との合戦で、その子とともに斬殺される〔本朝世紀・師守記〕。
  6―29  純友討殺を伝える伊予国解文が届く〔本朝世紀〕。
  7―7  橘遠保、純友とその子重太丸の首を都に進上する〔本朝世紀・紀略〕。
  8―7  小野好古、凱旋入京する〔紀略〕。
  8―9  石清水八幡宮などに臨時の奉幣使が派遣される。その宣命の中に、純友次将藤原文元は未だ逃走中で、最近伊予国に潜入した様子であるという指摘がある〔本朝世紀〕。
  8―18  純友次将佐伯是基ら日向国を襲撃、前日からの合戦となるが藤原貞包らに敗れ、捕縛される〔本朝世紀〕。
  9―6  賊首桑原生行ら、豊後国海部郡佐伯院を襲撃するが追捕凶賊使源経基らに敗れて負傷、8日に死亡する〔本朝世紀〕。
  9―10  伊予などの諸国に太政官符が発給される〔本朝世紀〕。
  9―22  海賊三善文公、播磨で討たれる〔本朝世紀〕。
  10―18  但馬国朝来郡で、北陸路へ逃亡途中の海賊藤原文元らが討たれる〔本朝世紀〕。
  10―23  山陽・南海両道諸国の警固使などを停める太政官符が出される〔本朝世紀〕。
  11―29  大宰府、純友の党類を討伐平定した旨を奏する。佐伯是基の身柄と桑原生行の首を左衛門府に護送する〔本朝世紀〕。
  12―29   兵乱がしずまり、諸国に大赦が行われる〔紀略〕。


942(天慶5・壬寅) 
  4―11   東西賊乱討滅の祈禱により、天下諸神に神階1階を加増する〔本朝世紀〕。
  4―14   東国南海賊徒伏誅により、伊勢大神宮に奉幣する〔紀略〕。
  4―27   東西賊徒討平により、宇佐八幡宮などに奉幣する〔紀略〕。
  4―29   天皇、上下賀茂社に行幸、兵乱平和によって神宝幣帛などを奉ずる〔紀略〕。
  6―21   東西賊乱の時の祈願に対し、祇園社に東遊走馬十列を奉ずる〔紀略〕。


944(天慶7・甲辰) 
  2―6   美濃介橘遠保、帰宅途中に斬殺される〔紀略〕。


948(天暦2・戊申) 
  6―4   伊予国の隠納米につき、山城国山崎宅に検非違使を送って調べさせる〔公記抄〕。
  7―18   伊予国から、海賊平定に功のあった越智用忠への叙位の願い出があり、認められる〔公記抄〕。
  12―3   伊予など4か国の国司が、例不堪としてみとめられている10分の1をこえる不堪佃田を言上したので、その罪状を勘申させる〔政事要略〕。
  この年   『貞信公記』の記述終わる。


950(天暦4・庚戌) 
  11―20   東大寺の伊予国内の封戸として200戸、その封物の内容、および荘園として新居郡新居庄の田地93町などが記録されている〔東南院文書〕。
  この年   延暦寺講堂を改造する。


951(天暦5・辛亥) 
  3―20   伊予国から仁王会の供米として150石を進上することになる〔西宮記〕。  
  この秋   空也、六波羅蜜寺十一面観音像を作る。


953(天暦7・癸丑) 
  2―23   伊予国の封25戸を山城国石清水八幡護国寺にあてる〔扶桑略記〕。
  3―20   権少僧都明珍、療養のため伊予の湯に来る〔扶桑略記〕。


960(天徳4・庚申) 
  9―28   火災による内裏の復興にあたり、伊予国は南面廊の造営を分担する。〔扶桑略記〕。


961(応和1 2.16・辛酉) 
  6―5   妙香院別院の1つとして伊予国三昧院がみえる〔門葉記〕。
 
     
964(康保1 7.10・甲子) 
  この年   伊予国などの加挙米を、山城国勧修寺三僧供料にあてる〔勧修寺旧記〕。
 
     
969(安和2・己巳)
  7―7   山城国法勝院が焼け、寺領伊予国宇摩郡豊村庄などの公験を失う。庄の面積は19町9段128歩であった〔仁和寺文書〕。


970(天禄1 3.25・庚午) 
  6―14   祇園御霊会を官祭として初めて行う。
  9―8   伊予国から秋季御読経料の油を毎年6月中に進納することになる〔小野宮年中行事〕。
  この頃   伊予国から春米400斛の貢進が命じられている〔別聚符宣抄〕。


973(天延1 12.20・癸酉) 
  2―27   大和国薬師寺が焼亡する。
  5―3   伊予など10か国に命じて薬師寺を再建させる。伊予国は東南僧房の造営を分担した〔紀略・薬師寺縁起〕。


982(天元5・壬午) 
  2―7   この頃海賊が蜂起し、調庸物の海漕などが困難になっているので、早く追討すべきことが命令される〔小右記〕。
  2―23   伊予国、海賊の首能原兼信ら15人を追討した旨を奏する〔小右記〕。
  この頃   源高明『西宮記』を著す。


984(永観2・甲申) 
  3―21   これより先、伊予国宝蔵寺に来住していた播磨国書写山の僧性空らの請により、伊予国三島社の桜会の祭の際における生贄の鹿を停める〔同社縁起〕。


992(正暦3・壬辰) 
  この年   東大寺、伊予国の封物進米および未進米の数量を勘申する〔正倉院文書〕。


993(正暦4・癸巳) 
  7―26   伊予国相撲人越智常世、上洛して内裏相撲に参加する〔小右記〕。常(経)世の名は『与州新居系図』にもみえる。


995(長徳1 2.22・乙未) 
  10―18   大宰大弐藤原佐理、官を解かれる。そののち帰京の途中伊予国にとどまり、三島明神の額を書いたと伝えられる〔紀略・大鏡〕。
      

996(長徳2・丙申) 
  10―13   温泉郡少領伊与連時兼、大領となる〔小右記〕。
  この頃   清少納言、『枕草子』を著す。


997(長徳3・丁酉) 
  7―30   伊予の相撲人越智常世、内裏相撲に参加、和爾部久光と対戦する〔権記〕。


998(長徳4・戊戌) 
  12―16   伊予国、鈎文を奏する〔権記〕。
  この年の諸国東大寺庄家田地目録に、新居郡の荘田は96町6段余と記載されている〔東大寺要録〕。
  この頃   伊予守藤原知章、任国に下って延暦寺僧皇慶に普賢延命法を行わせる〔古事談〕。


999(長保1 1.13・己亥) 
  12―15   伊予国采女の死闕続文が議せられ、その失誤が指摘される〔権記〕。
  この年   衛門府案主凡河内利致、伊予国大糧使となる〔北山抄裏文書〕。


1000(長保2・庚子) 
  6―24   伊予国の進米20石を仁王会料に用い、その残りを左大臣藤原道長の修法用にあてる〔紀略〕。
  7―27   伊予の相撲人越智常世、相撲に加わる。ついで8―12一条院内裏の相撲にも出、大鹿文時と対戦する〔権記〕。
  9―15   大江以言、伊予の楠本道場の勧学会に列して法華経の講義を聞く〔本朝文粋〕。
  10―10   前伊予守藤原知章の解由状を進める〔権記〕。
  この頃   伊予国諸郡の郡司ら上洛し、伊予守源兼資の重任を申請する〔権記〕。


1001(長保3・辛丑) 
  10―18   施薬院の伊予の去年分庸米84石の返抄を薬王寺僧延胤に与える〔権記〕。


1002(長保4・壬寅) 
  3―10   伊予守高階明順、昇殿を許される〔権記〕。
  3―12   前守源兼資の推挙により、越智為保、伊予追捕使となる〔権記〕。
  4―10   伊予守高階明順、国中に疫病流行し、人民が疲弊しているので調庸の免除を申請する〔権記〕。
  5―4   伊予国などの封物を敦康親王家政所にあてる〔権記〕。


1004(寛弘1 7.20・甲辰) 
  3―9   伊予守高階明順ら、東宮昇殿を許される〔御堂関白記〕。
     
1005(寛弘2・乙巳) 
  1―22   参議藤原行成、世尊寺修正会に伊予国の俸料米をあてる〔権記〕。
  11―17   左大臣藤原道長、伊予の国からの別進米1,000斛のことを奏する〔小右記〕。
  12―25   伊予守ら、私物で内裏の殿および廊を造った功によって、2か年の延任を許される〔御堂関白記〕。


1006(寛弘3・丙午) 
  8―1   越智常世、母の喪によって内裏相撲の出場をやめる〔権記〕。
  12―15   伊予守の解由状が進められる〔権記〕。


1007(寛弘4・丁未) 
  8―20   越智常世、臨時相撲に参加する〔権記〕。


1010(寛弘7・庚戌) 
  2―26   伊予介藤原広業、任国に赴く〔権記〕


1011(寛弘8・辛亥) 
  1―1   伊予国法楽寺の尼安楽没する。この頃僧清禅、伊予国法界寺に住む〔拾遺往生伝〕。


1013(長和2・癸丑) 
  8―1   伊予の相撲人越智常世、7―25に都に到着、この日内裏相撲に加わるが、身体の衰えが目立ったという〔小右記〕


1015(長和4・乙卯) 
  5―2   相撲使を定め、伊予国などへの派遣を決定する〔小右記〕
              
1017(寛仁1 4.23・丁巳) 
  10―2   南海道神宝使、大山積神社に神宝、幣帛を納める〔左経記〕。
  10―3   仁王会に用いる料米150石が伊予国から未進となっているが、うち60石を早く納めさせることとする。翌日伊予国の船が到着、使者が遣わされる〔小右記〕。
  11―10   山城国賀茂社僧権律師成秀、伊予温泉に来る〔小右記〕。


1018(寛仁2・戊午) 
  4―8   この頃源頼光伊予守となる。大糧使拘留を免ずるように命ぜられる〔小右記〕。
  6―20   伊予守源頼光、前摂政藤原道長の土御門第を造り、家具を献じて人々を驚かせる〔小右記〕。


1019(寛仁3・己未) 
  7―21   伊予相撲人4人が、藤原実資のもとに参上する〔小右記〕。
  7―27   伊予の相撲人越智富永ら内裏相撲召し合せに加わり、伴勝平と対戦する〔小右記〕。
  12―13   伊予・土佐の両国が内裏の築垣工事を怠ったので取調べられる〔小右記〕。