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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

近世〔宝永1(1704)~享保20(1735)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1704(宝永1 3.13・甲申) 
  8―23   今治藩領暴風雨のため、潰家344軒あり〔今治拾遺〕。
  8―23   松山藩領内大風雨、損米3万3,888石、潰家1,200軒となる〔叢談〕。
  この年   幕府、別子・立川銅山を天領とする〔予州別子立川両御銅山仕格覚書〕。


1705(宝永2・乙酉) 
  10―4   地震により道後温泉涸渇する〔湯神社再興日記〕。
  この年   今治藩領宇摩郡柏村、上柏・下柏に分村する〔宇摩郡地誌〕。


1706(宝永3・丙戌) 
  1―29   湧出を願い祈禱が続けられていた道後温泉が湧出する〔湯神社再興日記〕。
  2―9   湯神社再興の請願が出され、普請の見分を行う。3―6普請開始、4月普請完成する〔湯神社再興日記〕。
  2―15   温泉湧出を祝う氏子神楽を奉納、以後例年奉納する〔湯神社再興日記〕。
  3―9   今治藩大坂蔵屋敷普請開始、山脇勘左衛門が担当する〔今治拾遺〕。
  3―12   大洲城下裏町より出火、455軒を焼失する〔加藤家年譜〕。
  4―    神尾外記、『大成郡録』を編ず(高間八太夫編の宝暦7年本もあり)〔同書写〕。
  7―27   今治藩、財政難のため向こう10年間、藩士の禄米を借り上げる〔今治拾遺〕。
  10―22   今治藩、溺死の雀1羽を幕命により和田倉番所に保管する(生類憐みの令による)〔国府叢書〕。
  この年   幕府、宇摩郡津根・野田の2か村を西条藩に与え、同郡西上野・東上野両村を天領とする〔西条誌〕。


1707(宝永4・丁亥) 
  3―17   宇和島藩領宮下村猿ヶひて池普請に際し、古銭470文入りの小壷を発掘する〔記録書抜〕。
  8―18   大洲藩領、洪水のため潰家1,782軒〔加藤家年譜〕。
  8―23   宇和島藩領大洪水、田地1,333町痛、損毛1万9,061石、流畑194町余、損毛高670石余となる〔記録書抜〕。
  10―4   諸国大地震、大洲城の石垣崩れる〔加藤家年譜〕。
  10―4   大地震、高汐のため宇和島藩領樺崎付近大破する〔記録書抜〕。
  10―13   幕府、藩札通用を停止する〔常憲院殿御実紀〕。
  10―30   宇和島藩、鬼ヶ城深山に入り、薪取商売することを禁止する〔記録書抜〕。
  10―    大地震、西条藩領深の洲外新田水没する〔西条市誌〕。
  この年   宇和島藩領内で、藩札通用禁止が布達されたため農民が騒ぐ〔伊予百姓一揆〕。


1708(宝永5・戊子) 
  1―4   宇和島藩、藩札通用を停止する(享保19・2―22再開)〔伊達家御歴事記・記録書抜〕。
 閏1―9   今治藩領越智郡下弓削村土生の農民、今治城下へ出訴する。11―11頭取五郎左衛門追放となる。その後弓削村の農民再度騒動をおこし、宝永7年5―12軽罪の者処分、10―14庄右衛門ら8人斬首となる〔今治拾遺〕。
 閏1―13   宇和島藩領松崎新田経営7か年の鍬下年期終了のところ、宝永大地震により大破、当年より8か年の鍬下年期延長を願い出て許可される〔記録書抜〕。
  1―17   松山藩、銀札の引き替えを月末で停止すると布達する。〔諸事頭書控〕。 
  3―    松山藩、御城米1,500俵を大敗へ回送する〔松山手鑑〕。
  4―1   道後温泉が湧出しはじめたのでこの日より入場を許可する〔諸事頭書控〕。
  4―21   松山藩領内の煎茶の売買を松山・久万山の茶仲間のみに許可する〔諸事頭書控〕。
  10―11   松山藩、材本商人の願いによって鑑札のない者の商売を禁じる〔諸事頭書控〕。
  11―27   松山藩領三津浜大火、360軒余を焼失する〔諸事頭書控〕。
  12―2   宇和島藩、諸物価高騰のため、日用大工賃銀の値上げを認める〔記録書抜〕。


1709(宝永6・己丑) 
  2―27   宇和島藩、高価な呉服類の売買を禁止し、他所商人の領内入り込みを禁止する〔記録書抜〕。
  3―    松山藩、酒運上を免除する〔松山手鑑〕。
  4―12   松平定直、幕府から前将軍綱吉の霊廟普請の助役を命じられる〔文昭院殿御実紀〕。
  この秋   高潮のため、西条藩領深の洲内・外新田水没する〔西条市誌〕。
  この年   西条藩領、中之庄組できる(野田・長田・西寒川・東寒川・中之庄・上分・金川の7か村)〔西条誌〕。


1710(宝永7・庚寅) 
  5―24   幕府巡見使、宮崎七郎右衛門・筧新太郎・堀八郎右衛門、松山領へ入る〔本藩譜〕。
  8―13   松山藩、幕府の紅葉山普請などへの出費多く、本年より正徳4年までの5年間、知行取・切米取ともに1割6分の減俸を行う〔増田家記〕。
  8―    高潮のため西条領内の新田地帯被害大〔西条市誌〕。
  9―    大山為起の『日本書紀』全巻の注釈書『味酒講記』が完成する〔同書〕。
  10―13   宇和島領内の人口、9万8,665人〔記録書抜〕。
  10―27   宇和島藩、塩座を廃止する〔記録書抜〕。
  12―12   宇和島藩、仙貨紙類の領外移出を禁止する〔記録書抜〕。
  この年   松山藩家老奥平貞虎が領内の庄屋・村役人を動員して編集した『予陽郡郷俚諺集』成立する〔同書写〕。


1711(正徳1 4.25・辛卯) 
  1―7   幕府、諸国村々に対し高200石につき2両を上納するよう命じる。松山藩では3,000両を藩が代納し、その後百姓から徴収する〔常憲院殿御実紀〕。
  2―26   松山藩領浮穴郡久万町村大火、196軒を焼失する〔増田家記〕。
  2―28   松山藩領温泉郡味酒村より出火、220軒余を焼失する〔松山編年記〕。
  4―1   大洲藩領大洲中村より出火、侍屋敷99軒、百姓家93軒を類焼する〔加藤家年譜〕。
  5―6   宇和島藩主伊達伊織、若年のため幕府より目付として野々山源八郎・木下清兵衛が派遣される旨通知がある〔記録書技〕。
  11―3   宇和島藩内で疱瘡流行し、一宮・八幡・山王社で神楽執行、三島・和霊神社では祈禱が行われる〔記録書抜〕。
  この年   宇和島藩、人口・牛馬数・船数を調査する(人口9万9,372人・馬6,300疋・牛4,222疋・船93艘)〔宇和島城内之覚〕。


1712(正徳2・壬辰) 
  2―7   宇和島藩桜田監物屋敷裏長屋より出火、侍屋敷御目見以上153軒・足軽屋敷47軒、町家・百姓家を合わせて258軒焼失する〔記録書抜〕。
  3―    松山藩、能太夫宇高喜太夫・同四郎三郎父子を召し抱える[叢談]。
  6―    大洲領伊予郡南神崎村のうち1,500石、幕領となる〔江戸御留守居役日記〕。
  8―    宇和島藩、向新町など城下に入り込む他所商人、目付の許可により商売を許可する〔記録書抜〕。
  10―18   宇和島藩、倹約令2か条追加を発す〔記録書抜〕。


1713(正徳3・癸巳) 
  2―5   松山城下代官町より出火、333軒焼失する〔津田家記〕。
  2―15   宇和島藩、米雑穀の領外移出を禁止する〔記録書抜〕。
  3―17   もと阿沼美神社祠官大山為起死去する〔味酒講記〕。
  5―2   松山藩儒、大高坂芝山没する〔叢談〕。
  5―    松山藩、領内に対し石手川瀬掘人足を町方2万人・郷方1万人徴集する〔県編年史7〕。
  8―    宇和島藩、財政難のため、200石以上は半知とする。同時に12か条の倹約令を発布し、家中・町・在に徹底を図る〔記録書抜〕。
  10―    宇和島領内の人口、10万136人〔記録書抜〕。


1714(正徳4・甲午) 
  9―2   宇和島藩、宇和郡日土村今出銅山の発掘を大坂和泉屋吉左衛門に許可する〔記録書抜〕。
  この年   坂上羨鳥編『花橘』全2巻刊行される〔同書〕。


1715(正徳5・乙末) 
  9―3   宇和島藩、薪伐出による深山の荒廃を防止するため、ほんとや・たかつく・おく鬼ヶ城の3か所峰通りでの樹木伐採を禁止する〔記録書抜〕。
  11―    遊行上人(49代一法)伊予を廻国する。
  12―13   松山藩、従来町奉行管轄であった寺社統制のために、寺社奉行を独立設置する〔松山手鑑〕。
  12―13   松山藩、社家制度を再編し、味酒神社神主重松右京亮を社家頭に任ず〔高知八幡神社史料〕。


1716(享保1 6.22・丙申)
 閏2―7   宇和島藩、野村庄屋緒方与治兵衛が開発した新田の3分の1を無年貢地として与える〔記録書抜〕。
  2―13   宇和島藩、町方困窮を救うため、浦里における商札の新規発行を停止する〔記録書抜〕。
 閏2―18   松山城下杉谷より出火し、武家・町家189軒を焼失する。世に安東火事という〔津田家記〕。
  3―29   大洲藩、幕府から大洲城石垣の修理を許可される〔北藤録〕。
  5―7   宇和島藩領大雨、田方損毛1万1,173石、畑方404石となる〔記録書抜〕。
  6―27   大洲藩、当年より5か年の間定免を命じる〔加藤家年譜〕。
  6―    松山藩領内の諸神社書上(社号帳)が作成される〔周布郡社号帳ほか〕。
  8―13   徳川吉宗将軍となる(享保の改革はじまる)。
  9―16   宇和島領延野々村と吉田領吉野村との間に起こった境界争論が解決する〔不鳴条〕。
  この年   西条藩領大暴風により、凶作となる〔西条市誌〕。


1717(享保2・丁酉) 
  1―    吉田藩江戸上屋敷類焼する〔藤蔓延年譜〕。
  3―5   豊前国中津城引き渡しのため幕吏出張し、松山藩主松平定直・宇和島藩主伊達宗贇に乗船用務を命じる〔松山府要〕。
  4―13   幕府巡見使、津田外記・駒井求馬・大久保源右衛門、松山領に入る〔御先祖由夫記〕。
  7―4   幕府、田地質流禁止を布告し、伊予国天領にも徹底を図る〔預所年代記〕。
  7―11   大洲藩主加藤泰統、幕府から火災焼失の神田鍛冶橋御門普請助役を命じられる〔北藤録〕。
  8―    大洲藩、正徳2年に上地した1,500石を新田にて償うことを認められる〔新編物語藩史〕。
  10―    松山の人小倉正信、『予州二十四社考』を著す〔同書〕。
  11―    宇和島藩、領内在浦に対して守るべき心得12か条を示し、倹約の徹底を図る〔記録書抜〕。
  12―17   宇和島藩、婚礼時の石打ち・年始の水祝を禁ずる〔宇和島・吉田両藩誌〕。
  この年   石手川筋浚えのため新親に普請組150人を召し抱える〔本藩譜〕。


1718(享保3・戊戌) 
  4―    松山藩、町家へ、武家に対する礼式を申し渡す〔予陽老諺集〕。
  5―9   松山藩、道後温泉囲養生湯の入浴規定を公布する〔松山政法編集〕。
  8―2   大洲城下中町より出火、452軒焼失する。大洲藩主加藤泰統、米50俵・塩20俵を出して救済する〔加藤家年譜〕。
  8―11   宇和島藩、穴井浦のうち大島に新網を許可する〔大島井上文書〕。
  10―27   宇和島藩、本年より物成の銀納を廃し、物納とするよう布達する〔記録書抜〕。
  この年   山井崑崙『七経孟子考文』を著す〔西条市誌〕。


1719(享保4・己亥) 
  1―22   宇和島藩、江戸城内溜池の浚渫助役を命じられる〔有徳院殿御実紀〕。
  3―    松山藩、幕命により抜荷調査をする〔明神佐五右衛門御用日記〕。
  4―4   今治藩、幕府の金銀通用法改正や江戸屋敷類焼再建のため財政に苦しみ、藩士の引米を増加し5年間継続すると布達する〔今治拾遺〕。
  4―11   宇和島藩領内下灘浦百姓62人、出訴のため船で樺崎に来たので、郡方役人が説得して帰村させる〔記録書抜〕。
  4―27   宇和島藩領日土村の今出銅山、製銅を開始する〔記録書抜〕。
  7―2   宇和島藩領野村組農民困窮し、藩は彼らを土本工事に出夫させ、大麦300俵を出して救済する〔記録書抜〕。
  9―13   今治藩、朝鮮通信使を接待する〔今治拾遺〕。
  10―22   宇和島藩領内の人口、9万8,477人〔記録書抜〕。
  12―6   今治藩領越智郡大島宮窪村で大火事があり70軒を焼失する〔鈴木永頼見聞録〕。
  この年   重見右門述作『河野予陽盛衰記』刊行される〔同書〕。


1720(享保5・庚子) 
  2―    松山藩、石手川瀬掘人夫1万5,000人を領内に割り当てる〔松山手鑑〕。
  4―27   今治城下町のうち室屋町3丁目より出火、100軒を焼く〔鈴木永頼見聞録〕。
  8―27   大洲藩士の間に馬飼育のための頼母子が始まる〔加藤家年譜〕。
  10―24   松山藩主松平定直、次男定章に1万石を分知したい旨を願い出る。12―11幕府より許可される〔有徳院殿御実紀〕。
  12―25   松山藩領和気郡三津大工町より出火、180軒を焼失する〔本藩譜〕。


1721(享保6・辛丑) 
  3―15   松山藩和気郡三津浜の大市始まる〔味酒神社年代記〕。
  4―24   今治藩主松平定基、宮窪沖で鯛網を見物する〔今治拾遺〕。
  5―27   今治領越智郡国分村と松山領同郡登畑村との水論について、今治藩家老より松山藩家老へ書状を出す。7―11関係者の処分を実施する〔今治御在城日記〕。
 閏7―5   宇和島藩、洪水により田畑7,030石の損毛を出す〔記録書抜〕。
 閏7―6   大洲藩領大洪水、肱川の水位2丈9尺5寸となる〔加藤家年譜〕。
 閏7―15   松山藩領、石手川洪水により、3万5,065石余の損毛、889軒の家屋流失、72人の死者を出す。―21復旧のため城下町へ1万5,000人、三津町へ5,000人の出夫を命じ、家中からも100石につき10人の人夫を出させる〔本藩譜〕。
  7―    今治領の人口4万2,275人、田畑3,655町歩余、新田畑700町歩余〔国府叢書〕。
  7―23   松山藩、幕府勘定所へ領内の田畑面積を報告する(田は1万3,203町余、畑は5,054町余、新田は974町余、新畑は335町余〔本藩譜〕。
 閏7―23   松山藩、宇摩・新居・伊予3郡のうち1万1,000石の幕府領を預かる〔叢談〕。


1722(享保7・壬寅) 
  1―20   今治藩、拝志町の困窮を救うため、牛馬市・人形芝居を許可する〔今治御留守居日記〕。
  2―28   宇和島藩、米価騰貴のため、上納物の銀納を許す〔記録書抜〕。
  3―27   松山藩、藩士に対し女子の出生も男子と同様に届け出るように命じる〔松山政法編集〕。
  3―28   大洲藩、幕府より大洲城本丸塀下石垣の築直しを許可される〔北藤録〕。
  4―9   西条藩主松平頼渡、周敷郡の周敷神社を祈願社として高2石を寄進する〔松平頼渡黒印状〕。
  6―23   宇和島藩領洪水、損毛高1万4,914石となる〔記録書抜〕。
  6―23   今治藩領暴風雨、総社川は蔵敷村実入新田付近決で決壊、浅川も氾濫して城下町も被災、損毛高8,000石余・潰家480軒となる〔今治拾遺〕。
  6―23   松山藩領暴風雨のため、領内の被害甚大、流家307軒、潰家1,171軒、死者88人、川成砂入などの田畑3,262町余となる(~6―24)〔御先祖由来記〕。
  7―3   幕府の命により、松山藩、当年より享保15年まで1万石について100石を上米する。これにより参勤在府期間半減となる(他藩も同様)〔本藩譜〕。
  7―5   松山藩、領内に楮を植えさせる〔明神佐五右衛門御用日記〕
  12―17   宇和島藩、酒の密造を禁止する〔記録書抜〕。


1723(享保8・癸卯) 
  1―20   松山藩、和気郡三津浜富場所の請元を入札によってきめる〔相良永代録〕。
  1―23   宇和郡四郎ヶ谷村農民ら、宇和島城下に出て飢饉の救済を訴える〔記録書抜〕。
  2―15   西条藩、在中倹約要項を布達する〔小野家文書〕。
  2―20   松山藩、石手川普請の着手につき心得方を指令する〔松山政法編集〕。
  5―15   松山藩、西条浪人大川文蔵を河川修復普請のため召し抱える〔本藩譜〕。
  6―18   幕府、足高の制を定める。
  7―    西条藩、新居郡黒島表干潟開発中断のところ、備後国より天野喜四郎らが来て開発再開される〔岡本家文書〕。
  12―2   今治藩、家中の困窮を救うため、俸禄借上率を減少するとともに米を貸し付ける〔今治拾遺〕。
  12―6   松山藩、浮穴郡窪野・久谷両村を、里分から久万山分に所属替えさせる〔浮穴郡二五か村手鑑〕。
  12―6   大洲城下大火、437軒類焼する。大洲藩主加藤泰統、米50俵・塩10俵を出して救済する〔加藤家年譜〕。
  この年   仙波盛全『伊予名所奉納和歌五十首』1巻を伊予稲荷神社に奉納する〔同書〕。


1724(享保9・甲辰) 
  4―19   今治藩、総社川瀬掘普請始まり、領内の農民のうち15歳より60歳までの者に出役を命じる〔今治拾遺〕。
 閏4―22   宇和島藩、山奥組の春漉仙貨他領移出願を却下する〔記録書抜〕。
  5―    大旱魃、天領宇摩郡天満天神で雨乞い、その後伊予郡南神崎村・浮穴郡大雨となる〔御預所年代記〕。
  この夏   宇和島藩、大旱魃、損毛6万200石〔記録書抜〕。
  9―7   松山領松前浜と大洲領郡中浜の入会について、万治元年の先格が再確認され、他所網の入漁は許されないこととなる〔松前浜村庄屋日記〕。
  12―    吉田藩江戸上屋敷類焼する〔吉田町誌〕。
  この年   松山藩領旱魃の被害が多く、70年来の旱魃との口碑あり〔松山編年記〕。
  この年   大旱魃〔西条市誌〕。


1725(享保10・乙巳) 
  3―    天領宇摩郡浦山村で山火事おこる〔御預所年代記〕。
  9―26   西条藩領多喜浜塩田開発者天野喜四郎ら6人、黒島前塩浜11軒を分かち持つ〔天野家文書〕。


1726(享保11・丙午) 
  3―20   今治城下片原町下に防潮のため石垣普請を許可する〔鈴木永頼見聞録〕。
  3―    三津浜町問屋、松山町方が生綿・竹木などの商売を独占しようとしたのに対し、町奉行所に願い出てこれを中止させる〔相良永代録〕。
  5―6   今治藩、領内の人口を報告する(総数4万7,915人、うち町方4,553人)〔今治拾遺〕。
  5―21   今治藩領越智郡椋名村の久左衛門ら、朝鮮国へ漂着する〔今治藩在城日記〕。
  11―9   宇和島藩、日土村今出銅山経営を喜多郡五百木村高橋吉右衛門に10か年請負で許可する〔記録書抜〕。
  11―13   今治藩、家中へ5か年間の引米を布達する(知行100石の者は5割引)〔今治拾遺〕。
  11―15   松山藩、倹約令を出す。家中には減俸を布達し、町方より借用の5年賦銀は返済を延期し、本年は利子のみの支払いとする〔松山政法編集〕。
  12―    松山藩、質入れについての心得を布達する〔相良永代録〕。
  この年   西条藩儒官山井崑崙の『七経孟子考文・補遺』刊行される〔同書〕。


1727(享保12・丁未) 
  1―    御城米1,000石、松山藩預所より幕府に納入する〔御預所年代記〕。
 閏1―12   今治藩、武術の復興を図り、剣・槍術の師範役を任命し、稽古に精出すよう布達する〔今治拾遺〕。
  2―1   大洲城下で大火、御城類焼、家中数百軒焼失する〔記録書抜〕。
  4―7   松山城外堀土居の竹が枯れたので、松に植え替えたい旨願い出、9―19竹藪を取り除き松を植樹する〔本藩譜〕。
  5―27   松山藩、借家についての規則を定める〔松山手鑑〕。
  6―7   松山藩の越智与八郎、大三島へ帰参し大山祇神社大祝職に復帰する〔増田家記〕。
  6―15   宇和島藩、近年打ち続き稲の害虫が発生するため、古稲株を焼かせる(その褒美として領内に米300俵を下す)〔記録書抜〕。
  6―    松山新田藩松平定章、駿府城番を命じられ、松山より足軽・中間60人を派遣することとなる〔御先祖由来記〕。
  10―15   松山藩、翌年4月に実施される将軍吉宗の日光社参の警衛を命じられ、入用銀を郷町に割り当てる〔相良永代録〕。
  11―3   今治藩、城下片原町下、高汐のため石垣破損、修復費捻出のため入津商船より出銀させることとなる〔今治拾遺〕。
  11―18   宇和島藩、風雨・虫付による損毛2万4,000石となる〔記録書抜〕。
  12―6   宇和島藩、植樹の成果を調査する〔記録書抜〕。
  この年   吉田藩、宇和俵津境界を明確にするため木彫立体模型できる〔明浜町史年表〕。


1728(享保13・戊申) 
  3―25   松山藩、領内より石手川瀬掘人足を徴集する。越智郡からは700人を出す〔朝倉武田文書〕。
  3―28   小松藩領、周布郡今在家村新田竿入する〔小松藩会所日記〕。
  5―    松山藩、石手川洪水時における町方の水防場所を割り付ける〔松山手鑑〕。


1729(享保14・己酉) 
  3―23   今治藩、心中者の法要や石塔建立を禁止する〔今治藩御留守居日記〕。
  4―1   宇和島藩、類焼した江戸屋敷再建のため、藩士・百姓・町人に出銀を求める〔記録書抜〕。
  4―    松山藩、諸物価の引き下げを命じる〔遠山日記〕。
  5―14   小松藩、町郷中へ諸色値段引き下げを布達する〔小松藩会所日記〕。
  9―14   今治藩領内風雨洪水高汐のため、越智郡の損毛3,389石余、宇摩郡385石余〔今治拾遺〕。
  9―14   松山藩領内暴風雨による被害を受ける〔味酒社年代記〕。
 閏9―18   松山藩、藩士の減俸率を増加し、知行取り200石以上の者は6割引きとする〔遠山日記〕。
  9―21   松山藩、財政困難のため領内に倹約を命じ、郷町より御用金を借用する〔遠山日記〕。
  9―    吉田藩領内で大洪水がおこる〔藤蔓延年譜〕。
  11―22   宇和島藩、洪水・虫付による損毛4万5,314石〔記録書抜〕。
  この年   小松藩、当年不作、本途物成3,703石余となる〔小松藩会所日記〕。
  この年   石田梅岩、心学を広める。


1730(享保15・庚戌) 
  5―17   宇和島藩、領内の飢人1万3,372人に米・大麦など893俵余を支給して救済する〔記録書抜〕
  5―    大洲藩、紙方本座連中を定める〔大洲商家由来記〕。
  7―28   幕府が6―4に藩札の通用を解禁したので、松山藩、本年より15年間の銀札通用を届け出る〔本藩譜〕。
  10―21   松山藩、藩士に本年の引米を中止すると布達する〔松山政法編集〕。


1731(享保16・辛亥) 
  12―3   宇和島藩、山奥組・野村組・川原渕組に楮の栽培を奨励する〔記録書抜〕。
  12―12   宇和島藩、米価変動にともない、召使い・職人の賃金を引き上げる〔記録書抜〕。


1732(享保17・壬子) 
  1―16   大洲藩、藩士救済のため銀札貸借の規定を布達する〔加藤家年譜〕。
 閏5―7   宇和島藩、当春の井川普請、夫数15万5,173人、米1,044石余〔記録書抜〕。
 閏5―10   松山藩領雨天続き、諸河川増水し、この日から久米郡和泉村では石手川増水のため対岸との交通が途絶、温泉郡畑寺村大洲原池が決壊する〔西岡家記〕。
 閏5―12   大洲城下町に大火があり、侍屋敷37軒・無足屋敷23軒・町家300軒余を焼く〔加藤家年譜〕。
  7―1   松山藩諸郡とも稲虫(うんか)の害発生し、道後八幡宮にて祈禱、続いて諸郡でも虫祈禱を実施する〔西岡家記〕。
  7―11   大洲藩、儒者川田雄琴を20人扶持で抱える〔加藤家年譜〕。
  7―16   松山藩領伊予郡の農民100人余り、袖乞と称して松山の町家へ押しかけ、米屋を打ちこわす〔伊予百姓一揆〕。
  7―13   松山藩、他所米買い入れについて三津町に指示を与える〔相良永代録〕。
  7―19   今治藩領内稲作虫付損毛につき、米雑穀の他所売を禁止する〔今治拾遺〕。
  7―20   松山藩、領内不作のため藩士に人数扶持を行う〔増田家記〕。
  7―25   宇和島藩、領内米雑穀払底につき、他所米・雑穀の移入は自由と布達する〔記録書抜〕。
  7―25   今治藩、農作の減収を予想して藩士に対しては引米増加を布達し、8―3には町方・村方へ援助方を依頼する〔今治拾遺〕。
  7―    大洲藩主加藤泰温・新谷藩主加藤泰広、領内の虫付損毛状況を報告する〔虫付損毛留書〕。
  8―3   大領宇摩郡・新居郡村々の稲作虫付損毛、中稲・晩稲に被害が出始めた旨、松平伊豆守へ報告する〔虫付損毛留書〕。
  8―5   松山藩の買い入れ米1,000俵、尾道より三津に着く〔相良永代録〕。
  8―11   松山藩、諸郡難渋者のため、銀札1匁につき米5合の割合で廉売を実施する〔西岡家記〕。
  8―26   宇和島藩、虫付損毛により、収納の見通しが立たない旨を幕府に報告する〔記録書抜〕。
  9―1   宇和島藩、飢饉のため藩士に養扶持を支給する〔御年譜微考〕。
  9―23   松山藩領伊予郡筒井村農民作兵衛(義農作兵衛)、餓死する〔監察所記録〕。
  9―24   松山藩、藩士救済のため銀札を給与する〔遠山日記〕。
  10―7   松山藩、幕府から飢人救済のため今治へ差し回しの米を買い入れる〔遠山日記〕。
  10―    吉田藩、虫付損毛による被害を1万1,332石余、風雨による損毛を797石余と報告する〔虫付損毛留書〕。
  10―    小松藩、虫付損毛につき、畑方本途物成407石余、田方は皆無である旨を幕府に報告する〔虫付損毛留書〕。
  11―2   今治藩領、越智郡上弓削村で大火事があり、百姓本家36軒・無給本家11軒・納屋牛屋44軒ほか焼失する〔鈴木永頼見聞録〕。
  11―7   幕府、伊予国天領松平隠岐守預かり所へ、飢人夫食米として701石余を囲籾にて渡す〔虫付損毛留書〕。
  11―8   幕府、松山藩(1万2,000両)・松山新田藩(2,000両)への貸付金を翌9日に渡すことを決定する〔虫付損毛留書〕。
  11―27   宇和島藩、飢人救済のため、これまでの籾支給に加えて、この日より施行所を設置して粥を支給し、領内の免租を布告する〔記録書抜〕。
  11―28   宇和島藩、飢饉のため幕府より1万両を借用する〔虫付損毛留書〕。
  11―    吉田藩主伊達村豊、虫付損毛のため幕府より3,000両を借用する〔虫付損毛留書〕。
  11―    西条領虫付損毛のため大減収、本年の取箇高本田は6,057石余、新田は1,099石余で、平年作の半分以下となる〔虫付損毛留書〕。
  11―    今治藩、領内の飢人高9,896人、餓死人113人と報告する〔虫付損毛留書〕。
  12―7   幕吏井戸平左衛門、御用米改めのため松山へ来る〔増田家記〕。
  12―12   宇和島藩、町人に御用金上納を命じる〔記録書抜〕。
  12―19   松山藩主松平定英、領内から餓死者を多く出したため幕府から差し控えを命じられる〔松山政法編集〕。
  12―    大洲藩主加藤泰温、幕府より5,000両を拝借する〔虫付損毛留書〕。
  12―    小松領内の飢人4,841人、幕府より購入の米500石を救済に当てる〔虫付損毛留書〕。
  12―    松山藩、餓死人5,705人と報告する。伊予国の餓死人は享保18年1月までで5,818人となる〔虫付損毛留書〕。
  この年   西条藩領宇高組、郷組となる〔西条誌〕
  この年   宇摩郡天領の農民、飢饉のため減租を嘆願する〔伊予史談84号〕。
  この年   天領宇摩郡川之江村長野家、飢人救済のため米200俵を出す〔御預所年代記〕。
  この年   享保の大飢饉、西日本にうんかの被害甚大となる。


1733(享保18・癸丑) 
  1―5   松山藩目付山内久元ら、藩命により飢饉の被害状況を調査する〔西岡家記〕。
  1―25   幕府より松山藩に、御城米7,000石のうち6,300石を大坂に回米し大坂城代に渡すよう指令あり、家老奥平弾正・勘定奉行新村七太夫・目付三浦正左衛門上京する〔西岡家記〕。
  1―    松山藩、奉公人・寺社・町方に対し昨年の屋敷年貢を免除すると布達する〔相良永代録〕。
  1―    松山藩、諸郡へ救済のため、塩・味噌・あらめ・薪などを支給する〔西岡家記〕。
  2―    幕府、松山藩主松平隠岐守預かり所20か所、5,138人分の夫食米として270石を貸し渡す〔虫付損毛留書〕。
  5―1   松山藩、本年の越智郡別府村の年貢を軽減する〔越智久栄所蔵文書〕。
  5―2   宇和島藩、日土村今出銅山の採掘を西条領の平右衛門に許可する(5―11磯崎浦の丸山銅山の開発を阿波の八郎右衛門が願い出る)〔記録書抜〕。
  7―16   小松藩主一柳頼邦大飢饉による飢餓の解消を幕府に報告する〔虫付損毛留書〕。
  8―15   宇和島藩、当年は本百姓一人につき1斗6升ずつ免税する〔記録書抜〕。
  8―    宇摩郡・新居郡のうち松山藩主松平隠岐守預かり所18か所の富農・寺社など、飢人救済のためこれまでに米72石余・雑穀66石余を拠出した旨、報告書が出される〔虫付損毛留書〕。
  9―5   松山藩、飢饉に際して適切な処罰を執らなかったとして、家老奥平貞継・久松庄右衛門らを処罰する〔山内家記〕。
  9―16   飢饉下の今治藩で稲盗人が盛行し、刈り入れ終了まで、昼夜、藩士が警戒にあたる〔今治拾遺〕。
  10―3   宇和島藩領の紙漉409人、小桁中折2,834束余を納入する〔記録書抜〕。
  11―11   松山藩、寺社奉行を廃し、町奉行管轄に復する〔松山手鑑〕。
  11―17   宇和島藩、郷中へ貸付けの金穀返済を免除する〔記録書抜〕。
  12―16   松山藩河合理兵衛・吉田忠八屋敷を召し上げ、郡会所とする〔本藩譜〕。
  12―27   松山藩諸郡の代官を廃し、郡奉行5人が兼務することとなり、各々へ役料40俵を支給する〔本藩譜〕。
  この年   松山藩、札の辻に目安箱を設ける〔松山政法編集〕。
  この年   西条藩、大飢饉による難民救済のため、黒島前干潟の干拓を実施、この時より多喜浜の呼称はじまる〔西条誌〕。
  この年   宇摩郡上野村半左衛門・豊田村宇兵衛・惣代勘平ら減租を直訴して逮捕される〔御預所年代記〕。


1734(享保19・甲寅) 
  1―25   松山藩、道後御茶屋・丹原御茶屋を売却する〔増田家記〕。
  1―26   宇和島藩、2―1より目安箱を設置する旨布達する〔記録書抜〕。
  2―4   松山藩領和気郡三津町の富商売許可される。大富は月3回と規定される〔相良永代録〕。
  3―4   『燕居偶筆』の著者、松山藩儒者大月履斎没する〔千秋寺大月履斎墓碑銘〕。
  4―17   西条藩領東多喜浜干拓工事、築堤成る〔西条市誌〕。
  4―    大洲八幡宮の兵頭守敬、玉木正英より橘家神道許状を受ける〔神道許状〕。
  5―12   大洲城下裏町から出火、400軒余類焼〔加藤家年譜〕。
  5―    松山藩、山奉行を郡奉行の支配とする〔北条高橋文書〕。
  6―    大洲藩儒者川田雄琴、塾則をつくる〔大野文書〕。
  9―28   大洲藩、当作不作のため、幕府に5,000両借り入れを願い出る〔加藤家年譜〕。
  9―    宇和島藩、高持制採用について役人より意見を聴く〔不鳴条〕。
  10―    松山藩領三津問屋、入津する生綿へ口銭を課するため、入船が減少するとして、綿歩の免除を嘆願する〔相良永代録〕。
  11―11   松山藩、道後湯之町にて富くじ・芝居・遊女を許可する〔増田家記〕。
  この年   吉田領大洪水、田地688町歩余、畑地813町歩に被害を受ける〔三瓶町誌〕。

1735(享保20・乙卯) 
  2―9   大洲城下中町で出火、163軒焼失する〔加藤家年譜〕。
  3―6   大洲藩、諸役所の入用を節約するよう通達する〔加藤家年譜〕。
  5―    越智郡朝倉銅山請負人善蔵、勘定所へ太銅を持参、善蔵へ金200疋、吹大工弥治兵衛へ鳥目500文を祝儀として渡す〔鈴木永頼見聞録〕。
  6―1   今治藩、太鼓櫓を完成させ、時太鼓を打ちはじめる〔今治拾遺〕。
  11―18   宇和島藩、当年4月・7月の洪水による損毛、1万5,619石となる〔記録書抜〕。
  この年   松山藩、年貢率を減じた代償として差上米を要求する〔浮穴郡25か村手鑑〕。