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伊予市誌

四、戦後の金融の状況

 太平洋戦争終結後の国内経済は非常な混乱に陥り、金融面でも急激なインフレに襲われ、生産の不振、通貨と物価は悪循環をくり返しながら膨張していった。ここに政府は、一九四六(昭和二一)年二月、金融緊急措置令、日本銀行券預入令を含む金融非常措置を断行した。しかし、このような措置もインフレの防止に十分効を奏さなかった。更に政府は軍需補償、その他各種の補償の打ち切りなどの政策、その後の米国政府の指令に基づくドッジ・プランの実施などによって、経済界の立ち直りが図られた。こうしたディスインフレ政策が実施されるとともに、一九五〇(昭和二五)年六月からぼっ発した朝鮮動乱、それに伴う特需などによって経済界は安定期に向かっていった。
 翌一九五一(昭和二六)年一一月、伊予合同銀行は創業一〇周年を記念して伊予銀行と改称された。伊予合同銀行郡中支店は伊予銀行郡中支店となり、その後店舗を新築・移転して現在に至っている。
 なお、前年の一九五〇(昭和二五)年八月には、一九二〇(大正九)年以来の第173図に見るような芸備銀行郡中支店は広島銀行郡中支店となり、その後、現在地に移転された。
 一九五一(昭和二六)年、相互銀行法によって、同年一〇月愛媛無尽会社は愛媛相互銀行として発足した。同月二〇日、郡中町に愛媛相互銀行郡中常務取次所が設置され、翌年四月には郡中支店となった。
 その後、一九八九(平成元)年二月愛媛銀行郡中支店となり今日に及んでいる。また一九五二(昭和二七)年三月には香川相互銀行郡中支店が置かれ、一九六四(昭和三九)年二月現在地に新築されたが、香川銀行郡中支店(名称変更)二〇〇四(平成一六)年六月、店舗廃止により松山西支店に継承された。
 一九五二(昭和二七)年八月には、信用金庫法(前年六月公布施行)により、郡中信用組合は郡中信用金庫と改称し、伊予市発足に伴い伊予信用金庫となり、その後、営業区域を拡張して伊予市・松山市及び伊予郡をその地区とし、地元の金融機関として営業を続けたが、二〇〇〇(平成一二)年一〇月愛媛信用金庫と合併し愛媛信用金庫郡中支店となった。なお、一九八四(昭和五九)年には米湊に港南支店を設置、更に二〇〇四(平成一六)年二月上吾川に移転した。
 一九五四(昭和二九)年当時の金融機関には、郡中信用金庫及び伊予銀行郡中支店、愛媛相互銀行郡中支店、広島銀行郡中支店、香川相互銀行郡中支店があり、また郡中町・北山崎村・南伊予村・南山崎村にもそれぞれ郵便局が置かれて、金融面での貯蓄及び保険業務を取り扱った。
 そのほか、各村の農業協同組合や質屋(公設質屋を含む)及び個人経営による金融業者もあった。郡中町には日本生命保険郡中支店及び東京生命保険株式会社中予支局も置かれた。
 一九五八(昭和三三)年四月、東邦建物無尽KK郡中会場が東邦相互銀行郡中出張所に昇格し、一九六一(昭和三六)年一〇月には、東邦相互銀行郡中支店となったが、一九九二(平成四)年五月伊予銀行と合併した。
 なお、一九八九(平成元)年以降の金融機関の変動をまとめると次のとおりである。
 一九八九(平成元)年二月一〇日普通銀行転換により、香川相互銀行は香川銀行に、愛媛相互銀行は愛媛銀行となった。一九九二(平成四)年五月二五日東邦相互銀行は伊予銀行と合併、一九九九(平成一一)年四月一日には、統合により伊予農業協同組合は愛媛中央農業協同組合となった。