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伊予市誌

2 明治期における交通・運輸

 明治維新となり、封建的な諸制限が撤廃されていったが、交通面でも、まず関所が廃止され更に居住、移転も自由となった。こうして交通上の制限は除かれ、人々の往来は自由になり、交通の発達も目ざましいものがあった。また、政府も殖産興業の一環として、交通通信面にも重点を置いたが、伊予路の一隅にある当地方はさして大きな変化はなく、江戸時代の交通機関がほぼそのまま引き継がれていた。
 一八七三(明治六)年には、郡中地方に人力車が走り始め、その軽快さと迅速さのために駕は急速にその姿を消して行った。人力車は、一八七〇(明治三)年の春、東京府下で乗用しはじめ、たちまちの内に広がり、翌年には松山へも伝わり数年もたたないで当地にも走り出した。こうして、人力車あるいは馬車・荷車などは年ごとにその数を増していったが、一方道路の改良は著しく遅れていた。

 道路
 一八七六(明治九)年全国の道路を国道・県道・里道の三種類に分け、国道は幅員を七間とするなどと規定された。しかし、当時の大洲街道は道幅が一間~一間半に過ぎなかったので、人力車・馬車なども限られた一部の人だけに利用された。旧大洲街道は県内の主要路線ではあったが、県道などと呼ぶには程遠いものであった。〝愛媛県に道路なし〟とは、明治初年から同二〇年ころにかけての本県の道路及び道路行政の実状を示している言葉であったが、愛媛県では一八七八(明治一一)年七月二二日、地方税規則が公布されて地方税から土木費を支出されることになり、翌一二年から実施されたが、当時は七~八万円程度であったので、小規模の修繕だけにとどまり、大規模な道路の改修などはできなかった。
 そのころ、県下の道路は三等国道が一本、一等県道が四本、二等県道が八本、三等県道が一本通っていたが、そのうち、伊予市に関する道路は、松山-郡中-大洲-八幡浜-佐賀関に通じる一等県道一本だけであった。
 一八八四(明治一七)年ころから土木費が県予算の四分の一およそ二〇万円に増え、道路開発に乗り出したのは、四国新道の工事に着手した一八八六(明治一九)年からであった。このころから道路熱は各地で高まり、各町村は県当局に道路の改修や新設を申請した。一八八八(明治二一)年の臨時県会では、伊予郡郡中より喜多郡大洲に至る県道改修の件について諮問されたが、県財政のひっ迫を理由に否決されるなど、多少の紆余曲折はあったものの地方における道路の新設や改修は世論を強めるようになった。
 一八九〇(明治二三)年には県の中央道として、松山-郡中-中山-内子-大洲に通じる道路の改修計画が立てられ、松山から郡中へと改修が進められた。翌一八九一(明治二四)年、勝間田知事は松山-郡中-大洲-八幡浜の線と、松山-桜三里-川之江の二路線を国道に編入し、国庫補助を得て七か年継続事業として六八万円の支出方を県会へ諮問したが、民力の疲弊を理由に否決された。しかし、これが動機となって一八九六(明治二九)年七月の臨時県会では、六か年継続土木費六四万七、四〇〇円が決議され、各地の道路改修に乗り出した。やがて、犬寄峠(南山崎村-佐礼谷村)も一九〇二(明治三五)年から一九〇四(明治三七)年にかけて改修が終わり、一九〇六(明治三九)年三月には中山・出淵両村に及び、更に引き続いて国道五一号線の改修が進められた。
 一方、松山-八幡浜間の県道海岸線の改修も行われ、一九〇四(明治三七)年に開通したので、双海町への交通も便利になってきた。中山街道の改修に伴い一九〇五(明治三八)年ころから、郡中-佐礼谷-中山間を、六人乗りの乗合馬車が走り始めて行き来が便利になり、更に内子・大洲方面への改修が進むにつれて一層便利さを加えてきた。
 当時、客馬車一里につき七銭程度で、中山-郡中(五里)間三二銭、中山-大平間二二銭であった。なお、これまでにも、客馬車が松山を起点として、砥部、松前、郡中方面に定期的に往来し、よく利用された。
 また、多数の荷馬車が内子・中山方面から郡中へ鉱石、木材、木炭、棕櫚皮などを積載し、寄峠を越えて搬出された。当時、三島にあった陶磁器工場へ原料を運んでいた荷馬車の状況について、次のように記されている。
 「松薪、石粉を積んだ荷馬車が大平街道から三島の町に運ばれると、通行に困る程、荷馬車で一ぱいになった。これに大瀬銅山の銅鉱馬車が加わるのだから、三島の町は、馬糞で苦労させられた。三島の町が坂道になっていて、丁度下りになる角に中井商店と向かいに散髪屋がありその南側の広場にカンカンと呼ばれる荷馬車の積荷の斤量をはかる所があった(近藤英雄著『伊予市三島陶磁器と風物誌』)。
 また、本郡の塩田から取れた塩俵を、背に乗せた荷馬は、本郡から馬道を通って尾崎に出て、それから市場で大洲街道(国道五一号線)に入り、大平-犬寄を経て大洲方面へ塩を運搬した。これら荷馬の往来も盛んで往還は人馬でにぎわった。一九〇五(明治三八)年七月二四日、南山崎村役場では、犬寄峠を往復する一日の交通量調査をしているが、それによると、荷馬車七〇台、客馬車一五台、駄馬六〇頭、旅人八〇〇人、人力車一五台、荷車一二〇台、牛車一〇台となっている。このように、明治から大正時代にかけて、荷馬車・荷車などが国道五一号線を盛んに往復していたが、一九〇七(明治四〇)ころからは、郡中を中心に村々でも自転車を利用する者が、次第に多くなってきた。また、伊予郡原町村から郡中町に通じる郡中街道の改修工事も一九一一(明治四四)年に着工され、一九一二(大正元)年に完工して街道の往来は一層便利になった。なお、上吾川八反地隧道は、既に一八九二(明治二五)年に貫通されたものである。
 明治時代末期の各町村別道路交通の概要は旧町村郷土誌に次のように述べてある。

 郡中村の交通
 近来までは甚だ不便であったが、一九一一(明治四四)年ころはだいぶ発達し国道・県道・里道すべて完備している。道路については、松山より来ている国道五一号線は岡田―松前を経て宇下吾川新川を通過して郡中町に入り、字米湊栄町を経て北山崎村三島に通じている。県道は郡中町湊町・灘町の境梢川の堤防を辿り、下吾川池田、本村を経て八反地川を隧道によって白水に至り、南伊予村に入り八倉を過ぎ、柳瀬より土佐街道(国道)に合している。里道以下は完備し、荷車の通過しない所はない。鉄道では、伊予鉄郡中線は下吾川を通り、牛子ケ原を経て郡中駅に至っている。近時、宇新川に夏季に限り停車場が設置される(『郡中村郷土誌』明治四四・一・三一)。

 南山崎の交通
 大字大平は松山より八幡浜に通ずる県道筋に当たり、道は字の中央を通じて犬寄峠の坂道を登っていたが、一九〇四(明治三七)年に国道五一号線の改修によって路径を一丈四尺(約四・二メートル)に改め、平坦なる勾配を取り旧線路を変更し、宇小手谷の谷間を迂回して犬寄峠に登るようになった。その他各大字を通ずる里道は旧来の通りである。国道改修以前は車力を利用することは少なく、中山村・佐礼谷村より輸送する貨物は、すべて馬の背によるのほかはなかったが、国道の改修に伴い大字大平の交通は変革を来たして、従来馬の背に頼っていたものはすべて荷馬車・牛車と変わり、明治三八年七月二四日以来、郡中町と犬寄峠とを往復する客馬車数両を設けたので、交通は頻繁となった。大字大平は前述のように大いに交通の便は開けたけれども、大平より分岐して大字下唐川・上唐川を経て佐礼谷村及び原町村に通じる里道そのほか、両沢・鵜崎間の路径はわずかに三・四尺(一メートル内外)に過ぎないうえ、屈曲と勾配のため車の通行に適していない。移出産物は皆、人の肩や背によるのが常であったので、多額の運送費を要して村の経済の上に多大の不利があるため、本年度(明治四三年)枢要地区の道路の改修を計画している。

   犬寄峠を往復する一日の交通量調査
  人力車…一五   客馬車…一五  牛 車…一○  旅人…八〇O
  荷 車…一二〇  駄 馬…六〇  荷馬車…七〇
                 (『南山崎郷土誌』明治四三・一二)

 北山崎村の交通
 三秋・中村は、もと車両を通ずるに足る道路がなく、荷物の運搬は非常に不便であったので、数年前両字協定して里道の改修を行い、中村より関塚を経て街道に通ずる道幅を広めた。それ以後荷車はもちろん、牛車をも通行することができるようになった。なお、本年(明治四三年)豊永橋(三秋中村間の橋)の改修を行ったので一層便利になった。
 大洲-松山間を連絡する街道が、三島・市場を貫通しているため、沿道の部落は運輸、交通上に利益を受けることが多いけれども、他の部落には狭小なる里道が通じているだけで、車両を通ずることができるのは、ただ村役場前より稲荷神社前に達する道路、三島より尾崎を経て中村に通じる道路、及び三秋より中村関塚を経て市場新道に連絡しているものなどの二、三の道路に過ぎない。また、海岸には漁船はあるが、交通運輸に使用しているものはない。通信面では、三島と市場に郵便ポストがある。三島には一日に四度の配達があるが、他の地域は一度に過ぎない(『北山崎村郷土誌』明治四四・一)。

 南伊予村の交通
 県道郡中村より大字下三谷字一ノ宮に来て、曲がって東に向かうこと一〇町(約一・一キロ)、上三谷字大替地より北折して、石の内に至っている。その間三町二〇間(約三六〇メートル)それより東に向かい、八町四八間(約九五〇メートル)大谷川を渡り、大字上野字郷に通じ、ここより曲がって東北に取り、大字八倉に至っている。延長一里二〇町(約六キロ)である。

 郡道 大字下三谷字一ノ宮にて県道より分かれ、岩崎堤防を東して上三谷に入り、大谷を経て原町に入る。延長二五町(二・七五キロ)である。
 里道 大字下三谷字一ノ宮より町永に入り、それより北進、北伊予村字原田に至るもので延長一四町二四間(約一・六キロ)本道はその中間において分かれ、西に向かい松前町大字南黒田に至るもので延長六町四〇間(約七三〇メートル)町永より近江を経て北進、北伊予村大字横田に至るもので延長五町三三間(約六一〇メートル)栗林より県道を横断し、岩崎堤上を経て原組に達するもので延長一〇町一八間(約一・一三キロ)近江より東進、大字上三谷石の内の県道に接続しているもので延長四町二六間(約五〇〇メートル)大字上三谷大替地より東進して大谷川を渡り、大字上野字郷に至るもので延長一一町六間(約一・二キロ)本通りは中間に分かれて東南客を経て、郡道に合するもので延長一〇町五〇間(約一・二キロ)字旗屋より平松を経て大字上野丸田に至るもので延長八町二〇間(約八五〇メートル)旗屋より分かれて北進、北の河原を経て北伊予村大字横田に至るもので延長四町四〇間(約五一〇メートル)大字上野字郷において県道より分かれて東に進み、本村の里道で延長六町(約六六〇メートル)その里道は分かれて南進し、上三谷字原を経て大谷郡道に合するもので延長一四町二八間(約一・六キロ)杭の本より高瀬を経て、北伊予村大字神崎に至るもので延長一一町六間(約一・二二キロ)、丸田より堤を経て、北伊予村大字鶴吉に至るもので延長一一町(約一・二二キロ)大字宮下北組より東南原町村大字田ノ浦に通ずるもので延長一〇町(約一・一キロ)新屋敷より北進して北伊予村大字徳丸に至るもので延長八町(約八八〇メートル)飛坂より北進して北伊予村大字徳丸に至るもので延長七町(約七七九メートル)大字八倉字西八倉より西北、北伊予村大字鶴吉中組に達するもので延長八町二〇間(約九〇〇メートル)西八倉より東進して重信河畔に至るもので延長一二町(約一・三キロ)がある。
 車輪 道路が開通しているので一般車輪の往来は自在であるが、馬車を駆使することについては、まだ完全であるとは言えない。現在(明治四四年)の車数を示すと次のとおりである。

  一、荷積中車 一九〇  一、客馬車  一  一、荷積小車   八
  一、牛車     一  一、猫車   八  一、人力車(渡世 三・自家用 一) 四
  一、荷積馬車   六  一、自転車 一四
                           計二三二
 通信機関 通信機関の設置はなく、郡中郵便局区内に属し、毎日一回の郵便物の集配を受けている(『南伊予村郷土誌』明治四四・六)。

 郡中町の交通
 沿革 当町は松山平野は北東に控え、西は波穏やかなる瀬戸内海に面しているから、交通は古より開け、人足はもちろん駕船舶にて、盛んに他と交通し飛脚をもって他地方と通信を行っていた。
 一八七三(明治六)年に人力車が使用されてから交通はますます便利となり、一八九六(明治二九)年になって南予鉄道会社が創立せられて、桧山郡中間に汽車が通じ一層発達を来した。同年、伊予汽船会社が設けられ、四艘の蒸気船で大阪・日向・細島間の航海を行い、二艘の蒸気船で東京、鹿児島間を航行するようになったので、運輸の便は大いに開け、当町交通史上の黄金時代となった。しかし、一九〇一(明治三四)年伊予汽船会社は、解散して地方との取引がなくなり、甚だ不便となってしまった。一九〇五(明治三八)年七月には、中山街道が改修せられ、次いで中山と当町間に乗合馬車が開通し、内子・大洲地方との交通が便利になった。一九〇七(明治四〇)年小型汽船が、三津浜三机間の航海を開始してから航海ごとに寄港し、地方交通が便利を見るようになった。一九〇八(明治四一)年八幡浜に阪予運輸会社を創設し、大阪宇和島間の航海を行い、その途中に寄港することとなり、やや運輸の便の回復を期待したが、わずか一か年で阪予会社が解散したので、再び大形汽船の寄港がと絶えてしまった。
 鉄道 伊予鉄道郡中線は当町を終点として、郡中駅は町のほぼ中央東側にある。土地は郡中村分に属している。当町の鉄道はその創業が一八九六(明治二九)年で、中途から伊予鉄道会社に合併せられたが、既に十有八年間この事業を続けてきた。現今日々鉄道に送られて交通する旅客、及び汽車に積まれて運ばれる商品貨物は実に多くて、明治四二年度における乗客数は一三万八、一一一人、貨物の数量は五、八八一トンに達している。船舶の大小と数は次の通りである。
 一八七一(明治四)年郵便局が設置せられ通信は大いに発達した。また、一八九一(明治二四)年電信が開通して、前の郵便局は郵便電信局となり、通信はますます迅速便利となった。電話はまだ通ぜず、ただ一九一〇(明治四三)年七月から警察間に開通している。
 馬車、人力車の便はもちろん、鉄道は松山において高浜、森松、横河原に連絡し、近時自転車の増加は道路の改修とともに進み、その急速進歩は著しく、海運もやや便利で小型汽船二艘日に四回寄港し、中型の帆船と大阪に不定期であるけれども航海し、地方への渡海船は日々盛んに輻輳をしている。また、第三等郵便局が設置されて通信には何らの不便を感じなくなる。
 道路 大洲から来ている国道は町を縦断し、松前・岡田を経て松山に至っており、森松への県道は上野・八倉を経て、森松で土佐街道と合している。この県道は近日中に改修する予定である。
 諸車 車は交通運輸を補助するもので、その種類は、乗用には人力車や自転車があり、運搬には荷車・牛車・荷馬車などがある。その大小・数・車輪の種類は左のとおりである。
 船舶 三津浜・三机間を航海する小蒸気船二艘あり、当町はその航路に当たり、日々往復四回寄港する。一は五六トン、一は七〇トンのもので、上りは正午と午後六時半、下りは午前七時半と午後二時の定期航海をしている。以上の船舶が明治四二年度における入港・出港は左のとおりである。
  汽船                西洋型帆船
   類別    艘数    トン数       類別  艘数  トン数
   出港 一、〇四五 二六四、六五〇  出港 一六五  八、二五〇
   入港 一、〇四五 二六四、六五〇  入港 一六五  八、二五〇
   合計 二、〇九〇 五二九、三〇〇  合計 三三〇 一六、五〇〇
       和船
  商船                漁船
   類別  艘数    石数        類別  艘数  石数
   出港   八五〇  五九、五〇〇  出港 一九〇 一三、三〇〇
   入港   八五〇  五九、五〇〇  入港 一九〇 一三、三〇〇
   合計 一、七〇〇 一一九、〇〇〇  合計 三八〇 二六、六〇〇

 港湾 湊町の南端西側にあって、岡文四郎の開削にかかるもので万安港と称し、広さは七、四四〇坪(二万四、五五二平方メートル)ある。元は汽船も出入することができるほどであったが、今は土砂のため港の口は浅く、昔の面影をとどめていない。現今の状況は左のとおりである。
一、土砂の被害 港内浚渫工事が不行届のため、自然に泥土を増し、港口は西南から砂を巻いてきて、常に船舶の出入りを妨げる。
一、港湾の修築 港湾の修築というほどの工事はしていないが、年々港口の土砂を浚渫し、わずかに和船の出入ができるようにしている。
一、工作物の設置 工作物の設置はない。
一、陸上の設備 陸上の設備はない。
 標識としては、港頭に私設の小燈合がある。これを認めることができる範囲は、一里(約三・九キロメートル)内外である。
 通信 通信機関としては大字灘町に第三等郵便電信局がある。該局は一八七一(明治四)年に郵便局が置かれ、その後一八九一(明治二四)年電信局も設けられて郵便電信局となったもので、その管轄区域は郡中町、郡中村、北伊予村、南伊予村、南山崎村、北山崎村、岡田村、松前村である。その状況を記してみると、明治四二年度に当局で扱った郵便物の数は、次のとおりである。

  配信三九七、六二〇  町内一九二、八八一  町外二〇四、七三九
  集信二七七、〇七四  町内一九五、六〇八  町外 八一、四六六

 電信もまた、近年大いに増加して明治四二年度に取り扱った数は、次のとおりである。

  国内 発進通数 六、三三三 着信通数 九、三四〇
  外国 発進通数   一一九 着信通数   二四一

 運送会社 運送会社は、郡中駅前に海運社及び高浜商船組郡中出張所がある。海運社は南予鉄道とともに起こり現在に至るもので、その取り扱う貨物の数は、平均一か月約六、〇〇〇位であるが、今から一五、六年前と比較すると、ほとんど二倍で漸次増加しつつある。高浜商船組郡中出張所は、今から四年前の一九〇七(明治四〇)年にできたもので、その取り扱う貨物の数は、平均一か月約六、〇〇〇個内外である(『郡中町郷土誌』)。

 鉄道
 一八七二(明治五)年九月、新橋―横浜間一七マイル余りの鉄道が開通し、やがて京阪神にも鉄道が敷設されることになった。国有鉄道は、その後、発展をかさねて行った。国有鉄道の普及するにつれて、やがて民間にも私設鉄道の機運が起こり、一八八七(明治二〇)年前後には、各地に相次いで民間鉄道が敷設され活況を呈することになった。
 愛媛県においても、一八八八(明治二一)年一〇月下旬、初めて伊予鉄道が松山-三津浜間七キロを走ってから、一八九二(明治二五)年五月には三津-高浜間、一八九三(明治二六)年五月松山-平井間、一八九六(明治二九)年一月には立花-森松間の開通を見ることになった。なお、前年の一八九五(明治二八)年八月には道後鉄道会社線三マイルも開通するなど、松山及びその周辺では私鉄の開通が見られた。
 伊予郡郡中町においても、日清戦争後の好況の波にのって軽便鉄道敷設の機運が興った。一八九四(明治二七)年地元の宮内治三郎・藤谷豊城ら有志の手によって南予鉄道会社が創立され、一八九六(明治二九)年七月四日開業され、郡中駅-藤原駅間の一一キロを往復することになった。地元並びに沿線各地の人々はその恩恵に浴し、地域の開発及び産業の発展に寄与するところが大きかった。しかし、南予鉄道もやがて資金難に陥り、大阪七九銀行頭取古畑寅造の援助を受けるようになった。
 当時、井上要らによって伊予鉄道・道後鉄道・南予鉄道三社の合併が進められていたが、その勧めに応じて一九〇〇(明治三三)年四月末、南予鉄道は伊予鉄道と合併し、同年五月より名称も伊予鉄道郡中線となり、装いも新たにして発足することになった。一九〇九(明治四二)年には新川海水浴場が開かれ、郡中町の藤谷豊城は井上要に要請して、新川に仮停車場を設けて夏分だけ停車することになった。第148表は旅客・貨物調査を示したものである。
 なお、南予鉄道の創始者の一人であり、郡中銀行の頭取であった宮内治三郎は、道路改修、新道開削、郡中郵便電信局開業に協力するなど大きな功績を残した。

 海上交通
 明治初年以降の郡中地方における海上交通は、郡中港(旧万安港)の占める割合は大きかった。当港は維新後も引き続いて商取引が行われていたが、依然として土砂の堆積が著しく、しかも維新後は、大洲藩の手を離れて灘町及び湊町の負担となったため、その維持には種々の配慮がなされた。町当局の負担はもとよりあるいは寄付金を募り、あるいは官庁のわずかな補助を受けるなど苦心が払われた。
 一八七九~一八八〇(明治一二~一三)年ころの港の移出入状況については、一八八一(明治一四)年八月に作られた「郡中港維持頼母子講」依頼の趣意書によると、「移出入物品の代価ヲ計算スルニ、一ヶ年金弐拾有余万円の巨額ニシテ地方経済ノ一証タリ。」とあって、これは明治二八年度一か年の移出入物品の金額一五万九、七二八円(移出一〇万四、六三〇円、移入五万五、〇九八円)と比べて、その商取引が不振というほどではなかった。
 次に郡中港の移出物品について、明治二八年度を例に取って見ると、主なものは、米・材木・綿・砂糖・酒などであり、移入物品には、石灰、生魚・種粕・石油などであった。また、貨物の移出先については、伊予郡・下浮穴郡・喜多郡東北部の物産を、主として大阪・神戸・広島・赤間関・九州並びに本県の宇和四郡の諸地方に移送しており、移入先については、前記各所のほか、香川・徳島・山陽筋の諸港、並びに越智郡・野間郡の諸地方であった。
 同年度の船舶出入数は、西洋型汽船が二八五隻、日本型五〇石以上が三六一隻、日本型五〇石積以下が五、一五二隻であり、汽船名は「伊豫丸」と「肱川丸」であった。
 また、同年にこれまで長浜へ本店を置いていた肱川汽船会社が郡中に本店を移し、名称も「伊豫汽船会社」と改め、資本金五〇万円をもって新たに設置せられた。第179図は同会社が建造した汽船である。
 当時、政府は日清戦争後における国運の発展と相まって、海運業の発展を助長するために一八九六(明治二九)年三月、航海奨励法及び造船奨励法を制定して保護政策を取ることになったのに応じて、伊予汽船会社でも伊豫丸などを造船した。蒸気船肱川丸(第一~第四)は、大阪-日向-細島間の航海を行い、第五肱川丸及び伊豫丸は東京-鹿児島間を航海することになり、各航海ごとに郡中に寄港した。
 ここに、海運の便は大いに開け、郡中町としては、海上交通黄金時代を迎えることになった。こうして町は暫時活況を呈したが、やがて日清戦争後の反動、不況の影響、船舶過剰の余波はたちまち地方の海運業界にも及んできた。伊予汽船会社も不況の影響を被った上、経営上の問題も多く、重役と株主間にも意見の衝突を起こし、更に船舶の破損なども重なって、一九〇一(明治三四)年伊予汽船会社は解散し当地方の海上交通は著しく不便を来すことになった。なお、この年伊予商業銀行の解散も重なったために、各地からの信用を失い商取引に多大の影響を与えた。
 一九〇七~一九〇八(明治四〇~四一)年当時は、日露戦争後の海運不況の時期であったが、一九〇七(明治四〇)年二月には小型汽船が三津浜-三机間の航海を開始してから、航海ごとに郡中港に寄港し、やや海運の便を見るようになった。更に翌一九〇八(明治四一)年には八幡浜に阪予運輸会社が創業され、大阪-宇和島間を就航して航海ごとに寄港するようになった。そして運輸の便を大いに期待したが、それもわずか一年位で阪予運輸会社は解散し、再び大型汽船の寄港は中止されてしまった。しかし、三津浜-三机間を航海する小型汽船(二隻)はそのまま継続され、郡中港には日々往復四回の寄港が見られた。なお、二隻のうち一隻は五六トン、一隻は七〇トンであり、上りは正午と午後六時半、下りは午前七時半と午後二時発の定期航海であった。

 運送業
 一八七二(明治五)年郡中・中山・内子などに旧伝馬所に代わって陸運会社が開設され、引き続いて人馬供給業務を営んでいたが、これについて種々の弊害が出て来たため、一八七五(明治八)年廃止になった。次いで内国通運会社がこれに取って代わり、全国の伝馬及び人馬供給業務を引き受けることになった。
 しかし、政府は一八七九(明治一二)年五月には、運送業務を自由営業としたために多くの運送業者が開業した。ただ、当時の郡中地方の運送業の実態は明らかではないが、かなり多くの業者が、営業していたものと考えられる。
 一八九六(明治二九)年南予鉄道の開業に伴い、郡中駅前に海運社が設置された。一八九七(明治三〇)年前後の海運社の取扱貨物個数は一か月約三、〇〇〇個であったが、これが明治時代末期になると六、〇〇〇個程度に増加している。その後、一九〇七(明治四〇)年には、高浜商船組郡中出張所が設けられた。これは、伊予鉄郡中線の松前駅、岡田駅または上灘、中山、砥部などとも連絡されて、かなり広範囲に運送業を営んでいた。その取扱貨物平均数は、海運社のそれとほぼ同じで一か月約六、〇〇〇個内外であった。
 更に明治時代末期には、大西回漕店が港に面して設置され、和船・荷客の扱い・海産物委託販売問屋として運送及び倉庫業務を行った。また、金井運送店も運輸業を営み、汽船・和船・荷客扱い・汽車積荷取扱所として運送業に従事するようになった。

 郵便事業と電信電話
 江戸時代の通信事業は専ら駅伝制により、官営の伝馬所と民営の飛脚問屋がこれに当たっていたが、明治維新後、政府は一八六八(明治元)年に駅逓規則を定めてこの事業に手をつけることになった。そして、一八七〇(明治三)年には、外国の例にならって官営の郵便制度が制定された。翌一八七一(明治四)年には、東京・大阪・京都の三都市に書状の集函及び郵便切手による新式郵便事業を開始した。この制度は同年八月、大阪以西へ延長され、政府は郵便賃銭表を配布して実施することになった。
 一八七一(明治四)年七月、松山府中町に郵便役所が置かれたが、その翌年の三月には、郡中灘町・松前・上灘・中山・砥部などに郵便取扱所が創設され、郵便取扱人及び切手売さばき人が置かれて手紙や葉書の集配が行われるようになった。
 当時は里程によって料金に相違があったが、一八七三(明治六)年からは全国的に均一料金制を実施することになった。一八七四(明治七)年には証券印紙取扱人を灘町に置くことを許可せられ、郡中郵便取扱所は郡中郵便役所と改称された。翌一八七五(明治八)年一月には、更に郡中郵便役所を郡中郵便局と称することになった。一八七七(明治一〇)年一月には、郡中郵便局で内国通常為替事務を開始し、一八七九(明治一二)年一月から貯金事務を開始することになった。一八八二(明治一五)年一二月には、郵便物を第一種から第四種に分けて郵便料金均一主義の徹底を図り、一八八三(明治一六)年七月一日からは振替為替事務を開始した。
 電信面では、一八八四(明治一七)年料金均一制が実施されたが、やがて電信線の西進に従い、郡中にも一八九一(明治二四)年一月、電信分局が灘町に設けられて郡中郵便電信局(三等級)となった。技術員二人で局長は宮内六郎右衛門であった。その管轄範囲(郵便局)は、郡中町・郡中村・北山崎村・南山崎村・南伊予村・北伊予村・松前村・岡田村に及んでいた。更に、同年一〇月一六日からは、欧文電信事務も行うことになった。これより先、同年七月一日には、外国通常為替事務が開かれ、続いて一八九二(明治二五)年五月一六日から内国電信為替事務が開始された。
 その後、電信事業は日清・日露両戦後の影響もあって発展していった。また、電話の普及は電信よりは遅れたが、一九一一(明治四四)年に初めて郡中地方に公衆電話が通じ、一九一二(大正元)年三月に郡中郵便電信局に電話交換業務取扱所が設けられた。なお、当時の電話加入数は四四戸であった。

鉄道

鉄道


船舶

船舶


諸車

諸車


第148表 郡中新川駅旅客貨物調査

第148表 郡中新川駅旅客貨物調査