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伊予市誌

3 大正期における交通

 陸上交通
 大正時代における主要道路はもとより国道五一号線であり、これに続く県道郡中街道は、原町村において土佐街道から分岐して南伊予村-郡中村を経て郡中町に達し、国道五一号線に接続していた。また、郡中町から三秋峠を経て西方の海岸を通り、長浜に至る道路(上灘線)も大正時代の中頃に改修された。
 このほかにも、村々では道路の改修が各地で行われ、交通・運輸の面で便利になっていった。なお、この時代に県道に設定されたもののうち、伊予市に関するものは左のとおりであった。
 一九二〇(大正九)年四月に原町-郡中線、郡中停車場線。一九二一(大正一〇)年五月に長浜-郡中線、郡中-三津浜線。一九二三(大正一二)年四月に南伊予-松山線、砥部-郡中線、小田-郡中線。
 大正時代、陸上交通上便利さを増したのは自動車の利用であった。これを全国的に見ても、一九一二(大正元)年には五二〇台となり、一九一四(大正三)年には一、〇〇〇台を超え、第一次世界大戦後の一九二一(大正一〇)年には、自家用・営業用を合わせて一万四、〇〇〇台を数えるに至った。県下では、一九一六(大正五)年初めて営業用自動車(二台)が出現し、一九二一(大正一〇)年には六九台、大正時代末期の一九二五(大正一四)年には、二五四台に増加していった。
 自動車の普及については、既に大正時代初期松山近郊で客馬車に代わってバスが営業されていたが、危険が多くて間もなく廃止された。バスの本格的な営業は一九一六(大正五)年からであって、同年九月八幡浜に伊予自動車株式会社が生まれ、八幡浜-郡中間(後に松山まで延長)の運転が開始され、郡中地方もその恩恵を受けることになった。一九二一(大正一〇)年頃からは、トラック輸送も徐々に行われるようになったが、荷馬車による輸送は依然として盛んであった。
 その後、各地に自動車会社が設立され、営業路線の争奪もくり返されたが、この内一九二三(大正一二)年には宇和島自動車会社が宇和島-松山間の運行を開始し、内子自動車会社も松山-大洲間を運行し、郡中にもその出張所が置かれた。車は最初、ほろをかけた小さいものであり、料金も高くて、あまり利用されなかった。

 鉄道
 鉄道は伊予鉄道郡中線が依然松山-郡中間を往来し、漸次利用者もふえていった。大正三年度の旅客数を見ると、郡中駅では、一四万三、九三五人、新川駅では、九八二人の乗降客があった。毎日午前五時ころから午後一〇時過ぎまで、四五分ごとに郡中・松山双方から発車した。また、松山駅では高浜線、森松線、横河原線と連絡していたから、松山及びその周辺地域への交通も至って便利であった。
 別に伊予鉄道株式会社では、喜多郡大瀬鉱山の鉱石を運ぶために資本金一五万円をもって一九一三(大正二)年伊予索道会社を設立し、第180図のような索道郡中駅や大平駅などが置かれた。これは、従来中山から郡中まで鉱石を日々数百台の馬車で運んでいたが道路の破損がひどく、また鉱山側もその運賃に苦しみ、索道架設を希望して井上要伊予鉄道社長に相談した結果できたものである。一九一四(大正三)年八月に開業され、郡中駅(下吾川に設置)-中山駅間九マイルを往来し、索道郡中駅をその基点とした。初代郡中駅長には、武智鼎(のち伊予鉄道社長)がなった。
 「伊予索道建設工事報告書」(工事担当者土居幸作)によると、本索道路線は伊予郡中村大字下吾川にある既設鉄道停車場の東隣を起点とし、同村大字米湊・北山崎村大字稲荷・南山崎村大字大平・佐礼谷村字日浦・中山村大字中山を経て同村出渕に至り、既設大瀬鉱山索道に連絡するもので、設計の概要は左のようなものであった。
 索道の種類「ロー」式架空単線 線路延長 四万六、二九一フィート五インチ(約一四キロメートル)
 路線の区画二(郡中日浦間・日浦出渕間)
  運転の速度 一分間三七五フィート(一一二・五メートル)
  運搬量 一時間下げ荷一二トン、同上げ荷二トン
 停車場は、郡中・大平・日浦(佐礼谷)・中山・出渕の五か所であった。郡中並びに出渕は普通荷物や鉱石の積み降しのため、鉱石倉庫を設けた。本索道の建設については、大正二年二月に架設許可を県庁に申請したが、なお完全を期して同年五月初めから六月末まで、全線精査実測を行った。工事用の索道用鋼索並びに諸機械類は、東京のジェームスモリソン商会を経て、イギリスのロンドンロープウェー株式会社から受けることにし、一九一三(大正二)年一〇月契約を結んだ。
 工事は翌三年二月五日に起工したが、ロンドンからの材料供給が遅れ、一時工事が渋滞した。四月からは工事が進ちょくし、五月に支柱を建て終わり、七月末に架線工事を終了した。それから各種の試運転を行い、良好の成績を得たので、同月二五日開業認可を得、翌二七日営業を開始することになった。本工事着手から竣工まで約六か月の日数を費やし、建設費は約二〇万円を要したという。
 なお、鉄道・自動車以外の陸上交通機関であった人力車・乗合馬車・荷馬車・牛車及び自転車などの郡中地方の具体的な統計資料を明らかにすることはできないが、人力車は乗合馬車の出現によって減少していったのに対して、荷車・馬車・牛車・自転車はいささかの衰えも見せなかった。特に自転車は大正時代、飛躍的に増加していった。

 海上交通
 土砂の堆積のため不便を感じていた郡中港も、明治時代の末期藤谷町長の時に港湾の大改築を施し、港口を深くし港内を広くして、船舶の出入りや停泊が便利になった。
 更に、一九一四(大正三)年にも護岸の延長や埋め立てを行い、従来と比べて面目を一新し、移出入の物産も増加し、機帆船の出入りもその数を増していった。翌一九一五(大正四)年五月には、郡中港は大阪商船の寄港地となり、宝安丸などの寄港に加えて定期船、不定期船の港として活気を呈した。
 大正時代末期の状況を見ると、大阪商船の門司・若松行きは、毎日午後七時前に郡中港を発し、大阪行きは、朝七時半前に郡中港を出航していた。三津-三机線においては、小型船宝安丸と坂豫丸とが毎日双方から定期に出航し、沿岸の各港を縫うようにして往復した。朝六時に三津浜を出る宝安丸は七時前に郡中に寄港し、上灘-豊田-長浜-櫛生-出海-磯崎-喜来津-伊方-大成を経て三机に着き、直ちに引き返して夕方五時ごろ郡中に寄って三津浜に帰航した。
 また、朝三机を出航した坂豫丸は一一時ごろ郡中に寄港して三津浜に着き、正午に三津浜を出て郡中-上灘-豊田その他各港を経て三机に帰るのであるから、郡中・上灘・豊田の各港とも毎日上り、下り二回ずつ寄港することになっていた。